2022-06-25 (Sat)✎
廃線鉄道 第84回 飯田線・西豊川支線 〔愛知県〕
西豊川駅跡
線路に沿った空き地が駅舎跡地だろう
※ ウィキペディア画像を拝借
飯田線・西豊川支線(いいだせん・にしとよかわしせん)は、国鉄(現 JR東海)飯田線の中で唯一あった支線である。 飯田線の南部を保有していた豊川鉄道によって敷設された路線である。 路線敷設の目的は、1939年12月に開設された豊川市内に開設された豊川海軍工廠(海軍直属の軍需工場)への物資・従業員の輸送用であったが、路線の開通は僅か2.4kmの路線にも拘らず、工廠の開設から2年半も遅れた1942年5月12日の事であった。
開通と同時に、西豊川も営業を開始している。 前述に記したように当支線開業当時は、現在の飯田線南部は豊川鉄道という私鉄が保有・運営しており、豊川から伸ばされた西豊川支線と終点の西豊川も同社が運営に当たっていた。
西豊川支線は軍需工場への
専用線を含めて電化していた
※『豊川史跡(豊川市のウェブサイト)』より
西豊川は、旅客と貨物をともにあつかう一般駅であった。 西豊川駅は海軍工廠の敷地から外れた場所に位置していたが、工廠内まで工廠の専用線(幹線2km・側線1.6km)が敷設されていた。 西豊川支線が電化されていた関係で、この工廠専用線も一部区間が電化され、専用線内まで電車が直通していた。
一般客の利用は西豊川までしか認められていなかったが、工員や工廠関係者はそのまま電車で工廠内に設置された北東門乗降場までの乗車が可能であった。 1943年8月1日に豊川鉄道の全線が国有化された事から、西豊川も国鉄の運営へと移行して国鉄・飯田線の西豊川支線となる。
その2年後の1945年10月に戦争終結に伴って工廠は閉鎖されるが、工廠閉鎖後も西豊川は引き続き営業していた。 しかし、利用客(乗車人員)が1日平均100人程度と極僅かとなった為に、1956年9月15日付で営業廃止となった。
日本車両製造(株)の正門
:
現在の豊川工廠跡地は
日本車両製造(株)の
豊川製作所となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
支線の廃止と共に駅も廃止され、西豊川支線は国鉄の路線としては廃止となったものの、線路は残されて工廠跡地に設けられた国鉄・豊川分工場(車両工場)への引込み線となり、1963年の分工場閉鎖後は日本車両製造に払い下げられ、同社豊川製作所の専用線として現在まで存続している。
国鉄飯田線・西豊川支線の路線図
:
日本車両の豊川製作所の専用線として
現在も残っているので
地図に路線標記があるよ
《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):豊川~西豊川 2.4 km
軌間:1067mm、電化区間:全線電化(直流1500V)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅数:2駅〔豊川〕・西豊川・〔北東門乗降場〕
※ 旧日本海軍の豊川海軍工廠が操業していた頃は、西豊川より海軍工廠内にも専用線が敷設
されていて、工員や工廠関係者に限り北東門乗降場まで乗車する事ができた。
この乗降所は、米軍の空襲での工廠の壊滅と運命を共にした。 空襲の日付は8月7日と
終戦の僅か8日前だった。
現在も専用線として残る
西豊川支線の線路
※『マピオン(地図)』より
国鉄飯田線・西豊川支線 年表
1939年(昭和14年)12月15日:日本海軍・豊川海軍工廠の操業開始
航空機の機銃や弾丸の製造を行う軍需工場で、当時は東洋随一の
規模であった
第二次世界大戦後の工廠跡地は名古屋大学の研究施設や企業の工
場敷地、国鉄の車両工場として使用され、名古屋大学の研究施設
撤収後は豊川市が『豊川海軍工廠平和公園』として公園整備して
いる
1942年(昭和17年) 5月12日: 飯田線の南部の路線敷設していた豊川鉄道によって豊川~西豊川
2.4kmが開業し、旅客・貨物取扱駅として西豊川設置
工廠開設から2年半も遅れていた
また、西豊川から先の工廠敷地内には専用線が敷設され、工員と
工廠関係者iに限り、工廠内に設けられた北東門乗降場まで乗車
する事ができた
1943年(昭和18年) 8月 1日: 豊川鉄道線保有の全線が国有化されて国鉄飯田線の一部に組み
込まれ、豊川~西豊川の当路線も国鉄飯田線の西豊川支線となる
豊川海軍工廠は終戦の8日前に
米軍の空襲を受けて壊滅した
※ 中日新聞より
1945年(昭和20年) 8月 7日: 終戦直前に米軍の空襲を受け、豊川海軍工廠が壊滅する
空襲の8日後に終戦となる
10月 5日:空襲の直後に終戦を迎え、工廠は再建される事なく閉鎖となる
工廠の閉鎖に伴って工廠内に設置された北東門乗降場は廃止と
なった(列車運行は米軍の空襲のあった8月7日で休止)が、西豊川
までの営業区間は引き続き営業
1956年(昭和31年) 9月15日:戦後の工廠跡地周辺の市街地化が進まず、西豊川の利用客も1日
平均で100人前後と振るわず、営業廃止となる
だが、廃止後の線路はそのまま残されて、工廠跡地に設けられた
国鉄・豊川分工場(車両工場)への引込み線として継続使用される
1963年(昭和38年) :国鉄・豊川分工場閉鎖
1964年(昭和39年) 4月 :西豊川支線と旧工廠専用線を含む国鉄・豊川分工場への引き込み
線全線が日本車両製造(株)に払い下げられ、日本車両・豊川
製作所専用線となり、現在も使用中
2018年(平成30年) 8月 9日:豊川市が跡地の一角を整備して、豊川海軍工廠平和公園を開園
する
西豊川駅舎
※ 東愛知新聞より
西豊川駅(にしとよかわえき)は、かつて愛知県豊川市にあった国鉄・飯田線〔西豊川支線〕の駅である。 飯田線の豊川駅から伸びる西豊川支線の終着駅で、旧海軍の軍需工場への工員・物資輸送に供する為に路線と共に1942年5月12日に開業したが、終戦直前に米軍の空襲に遭って工場は壊滅した。 終戦後も一般駅として営業が継続されたが、軍需工場跡地周辺の為に市街化が進まずに営業成績も振るわず、1956年9月15日に支線と共に廃止となった。
西豊川駅が属した西豊川支線は上記で述べた通り、豊川市内に開設された豊川海軍工廠への物資・従業員の輸送用に敷設された路線である。 路線の開通は1939年12月の工廠開設から2年半遅れた1942年5月12日で、同時に当駅も営業を開始している。 当駅は旅客と貨物を共に扱う一般駅であった。
昔は軍事機密として一般者は
立入禁止だったが
今は一般者・一般車両も通れる
旧海軍工廠敷地内の踏切
※『豊川史跡(豊川市のウェブサイト)』より
当駅は海軍工廠の敷地から外れた場所に位置していたが、工廠内まで工廠の専用線(幹線2km・側線1.6km)が敷設され、専用線内まで電車が直通していた。 一般客の利用は西豊川までしか認められていなかったが、工員や工廠関係者はそのまま電車で工廠内に設置された北東門乗降場までの乗車が可能であった。
終戦直前に米軍の空襲に遭って工廠は壊滅し、そのまま終戦を迎えて閉鎖となるが、工廠閉鎖後も当駅は引き続き営業していた。 しかし、利用客(乗車人員)が1日平均100人程度と振るわず1956年9月15日に支線と共に廃止となった。
沿線は支線の廃止後に市街地
整備されて今は団地も建っている
※ 東愛知新聞より
だが、西豊川支線廃止後も線路は残され、工廠跡地に設けられた国鉄浜松工場・豊川分工場への引込み線となり、1963年の分工場閉鎖後の翌年に日本車輌製造に払い下げられ、同社の豊川製作所専用線として現在も存続している。
ワテの住む地域の最寄りの
鉄道路線である近鉄が
「コロナ感染拡大などによる
昨今の鉄道利用離れ」が理由の
経営困難状況に陥っているとして
来春の運賃の大幅値上げを
運輸省に申請したらしい
何でも平均17%の
大幅値上げとの事である
最近は数年続いて伊賀の工場に
出向(つまり伊賀工場に丁稚奉公)を
命じられるワテは出向期間中は
大いなる近鉄の利用者となるのである
その出向期間は3~4ヶ月で
その期間中は休日になる度に
欠かさず大阪に帰っているのである
なぜなら仕事を終えたなら
あんな何もないクソしょうもない所に
1分1秒たりとも居たくないからである
だから近鉄の大幅値上げは
近鉄の大いなる利用者である
ワテにとってかなり痛い事であるが
昨今の公共交通の状況を鑑みると
「致し方ない」とも思えるのである
そして近鉄を含む公共交通事業者を
現在の状況に追い込んだというか
トドメを刺した東京五輪開催による
感染爆発災禍を招いた奴らへの
憎しみと恨みが更に増大したよ
東京五輪開催によって
感染爆発を引き起こした事で
公共交通・飲食業・旅行業者を経営困難に追い込み
知床観光船事故も経営困難に陥った
事業者によるムリな運営が事故を呼んだのだ
東京五輪を煽って日本を貶めた奴らは
日本国及び国民全ての仇敵なのだ
そんな奴らが選挙に出て
「日本を良くする」と宣ってる
だが反日パヨクと同様なのだ
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