風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第83回  京阪・京津線(軌道区間)

廃線鉄道  第83回  京阪・京津線(軌道区間) 〔京都府〕

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京津線の路面軌道区間は
路面設置の停留所に対応する
乗降ステップの付いた
80系のみが停車できた
※ ウィキペディア画像を拝借

京阪・京津線(けいはん・けいしんせん)は現在時点で、京都府京都市山科区の御陵駅から滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅までを結ぶ京阪電気鉄道の軌道路線である。 石山坂本線と合わせて大津線と総称される。

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廃止区間の大半が
『三条通』に敷かれた軌道線だった
※『毎日新聞』より

以前は、京阪本線の京阪・三条駅(地下に所在)の階上に京津線の《京津三条駅》が設けられ、独立路線として石山坂本線との接続駅である《浜大津駅》とを結んでいた。 蹴上~日ノ岡の『東山越え』の勾配区間以外のほとんどが、『三条通り』(京都府道37号及び143号線)上に軌道が敷かれた軌道線であった。

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地下鉄東西線開業後は
比較的新しく導入された車両は
全て石山・坂本線に移籍となった
※ ウィキペディア画像を拝借

だが、1997年10月12日に京都市営地下鉄の東西線が開業した事によって、京津山上~御陵が完全にこの地下鉄と平行する事になり、なおかつ開業区間に設置された駅に京津線と接続が可能な御陵駅が含まれた事から、旧京阪・御陵駅の手前より地下トンネルを掘って地下鉄への接続線を設けて、御陵より京津三条側は京都市営地下鉄・東西線へと乗り入れる事となった。

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京都市営地下鉄・東西線開業後は
京津線の全列車が4両編成化の上で
地下鉄東西線に乗り入れる事になり
京津線の路面軌道区間は路線廃止となった
※ ウィキペディア画像を拝借

この事により、御陵より京津三条側は京都市営地下鉄・東西線に代替される事により区間廃止となっている。 廃止日は、京都市営地下鉄・東西線の開業日である1997年10月12日である。 なお、「4両編成の電車が直角に近い角度で通過するカーブ区間」で有名となった『逢坂山越え』は、浜大津の一つ手前の上栄町と大谷の間の逢坂山トンネル坑口付近にあり、当廃止区間とは別の現存区間である。

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準急列車は高床式車両が
充てがわれていた
※ ウィキペディア画像を拝借

かつては京津三条より浜大津を経て、石山坂本線石山寺駅直通の準急と急行が運行されていた事もあったが、晩年は浜大津行きの準急のみが運行されていた。 なお、この準急も地下鉄東西線開業により軌道区間が廃止となった時点で廃止となっている。

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廃止区間の駅は
乗降ステップの付いた
80系のみが客扱いができた
※『レイルラボ』より

運行パターンは、昼間時は京津三条~浜大津を運行する準急と四宮止めの普通がそれぞれ15分間隔、朝夕ラッシュ時はそれぞれ6~10分間隔に増発されていた。 なお、準急用車両には高床車両が充てがわれ、路面軌条用のステップを備えた80系が普通運用に就いていた。 また、東山三条~日ノ岡の路面設置停留所は準急用高床車両では乗降が不能な為、準急は京津三条~御陵は全て通過し、御陵以降は浜大津まで各駅に停車する運行形態であった。

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1960年代の高度成長期には
琵琶湖観光に向けて大阪より
直通特急【びわこ号】も運転されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

1960年代までは、60型【びわこ号】や200型・260型などを使用した臨時特急も運転されていた事があった。 なお。停車駅は京津線内はノンストップであった。

一時期の間、京都市電の東山線と東山三条で線路がつながっていたが、旅客列車の直通はなかった。
御陵は京都市営地下鉄東西線との共同駅として地下化された。 軌条区間内の停留所であった東山三条と蹴上は、それぞれ現在の地下鉄東西線の東山・蹴上とほぼ同位置にあった。 廃止された日ノ岡と地上にあった京阪の旧御陵のほぼ中間に、現在の地下鉄東西線・御陵がある。

東山三条~日ノ岡の各駅は無人の路面停留所で券売機が設置できなかった為、これらの駅では乗車券の購入ができない事から、車内で乗車券を購入するシステムとなっていた。

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京阪・京津線廃止区間の予想路線図
地図上の『三条通』を
なぞっただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):京津三条~御陵 3.9 km
軌間:1435mm、電化区間:全線電化(直流1500V)、複線区間:全線、閉塞方式:自動閉塞式
駅数:6駅 京津三条・東山三条・蹴上・九条山・日ノ岡・御陵
 ※ 京津三条と御陵を除く駅は路面軌道用の対応ホームで、路面軌道用車両以外は停車不能であった
 ※ 京津三条は京阪本線の三条駅の地上にあった
 ※ 東山三条・蹴上の停留所のあった位置の地下に、地下鉄東西線の対応駅が設置されている
 ※ 『東山越え』の勾配区間にあった九条山・日ノ岡の停留所に対する代替駅は設置されなかった
 ※ 地下鉄東西線の代替駅の御陵は、日ノ岡停留所と旧御陵駅のちょうど中間地点に設けられた

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京津線塗装は人気があって
しばしば復刻塗装の
イベント列車が運行された
※『鉄道ファン』より

   京阪・京津線(廃止区間に限る) 年表
1906年(明治39年)   3月19日:旧東海道に沿って京都市中心部と大津市中心部とを直結する電気
                 鉄道の敷設を目的に、京津電気軌道株式会社が京都市下京区三条通
                 大橋町117番地先~大津市御蔵町の軌道敷設を内務省に出願
                 また,ほぼ同時期に京都電気鉄道株式会社(後の京都市電)他1社
                 も、同区間に軌道敷設を内務省に出願して3社の競合となる
1907年(明治40年)  1月24日: 3社競合による調停が図られた上での軌道条例に基づき、内務省
                 から京津電気軌道株式会社に対して三条大橋~浜大津10.0kmの
                 軌道敷設特許状、並びに命令書が下付
1912年(大正元年)  8月15日: 上関寺(現在の大谷~上栄町にあった停留所で、1971年8月15日
                廃止)付近における東海道本線を跨ぐ跨線橋の建設工事の遅れか
                ら、三条大橋~上関寺仮乗降場と上関寺~札ノ辻(現在の上栄町~
                浜大津にあった停留所で1946年10月1日廃止)の区間がそれぞれ
                個別に開業する。 両区間の間は、約100mの徒歩連絡だった
            12月13日:三条大橋~三条0.6kmの軌道敷設特許状、並びに命令書が下付
            12月14日:東海道本線を跨ぐ跨線橋の建設工事が竣工し、上関寺仮乗降場~
                上関寺の約100mが開業し、三条大橋~札ノ辻10.0kmが一体化
                し、直通運転を開始する
                同区間を10分毎に30分で結ぶ運行であった
1919年(大正  8年)  5月29日:三条大橋~三条が単線開業
1923年(大正12年)  2月20日:三条大橋~三条が複線開業
1924年(大正13年)  8月30日:京津電気軌道株式会社と京阪電気鉄道株式会社との間で、合併に
                関する仮条約が締結される
           9月27日:京阪電気鉄道株式会社の臨時株主総会において、京津電気軌道株式
                 会社を合併吸収する事が決議される
1925年(大正14年)  2月 1日:前年9月の決議に基づき、京津電気軌道株式会社が京阪電気鉄道株式
                 会社と合併し、同社の京津線となる
           5月 5日:札ノ辻~浜大津が延伸開業し、全線開通
1927年(昭和  2年) 9月21日:御陵駅舎を新築移転
1934年(昭和  9年) 3月19日:日本初の連接車60型3編成竣工し、【びわこ号】と命名
            4月  2日:三条・三条大橋経由の京阪本線と京津線の直通運転が開始
                 天満橋~浜大津で特急【びわこ号】の運転が開始され、同区間が
               最速72分で結ばれる
1940年(昭和15年)2月頃   :京阪線京津線の【びわこ号】による直通運転が停止される
                 以降は臨時運転化
1949年(昭和24年)11月25日:三条大橋を京阪本線の三条に統合
           11月30日:統合された三条の駅舎が竣工

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京津線の主力車両となった
80系のデビュー年は1961年だった
※ ウィキペディア画像を拝借

1961年(昭和36年)  8月12日:抑速回生と発電ブレーキ併用の高性能車80型営業運転開始
1969年(昭和44年)11月  6日:三条構内の京阪本線との連絡線路を撤去
1970年(昭和45年)  8月23日:電車の集電装置をスライダー式ポールからパンタグラフに変更
1981年(昭和56年)  1月  9日:浜大津での京津線と石山坂本線との連絡線を廃止し、浜大津経由の
                三条~石山寺の直通運転を廃止
1987年(昭和62年)  4月  1日:京津線の三条を京津三条へ改称
           5月24日:京阪本線の東福寺~三条の地下化により、京阪本線の三条が地下化
                され、京津三条が地上に取り残される
1992年(平成  4年)  5月  1日:建設中の京都市営地下鉄東西線への直通運転開始に伴う大津線の
                電圧の1500V昇圧に対応した700形営業運転開始
1994年(平成  6年)12月29日:600形の建設中の京都市営地下鉄東西線への直通運転開始に伴う
                大津線の電圧の1500V昇圧準備工事を完了
1995年(平成  7年)  11月     :終電~始発間の深夜に石山坂本線の架線電圧を600Vから1500
                Vに昇圧し、800系の試運転開始(翌1997年7月まで)
                また、同時期に駅の4両編成対応化工事や御陵府道東踏切付近で
                下り線側から京都市営地下鉄東西線へ接続する新線への単線渡り線
                と架線を設置

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京津線の路面軌道区間の最終日に
準急電車として運行された260系
※ ウィキペディア画像を拝借

1997年(平成  9年)10月11日:80形81-82号車による京津三条~四宮の普通と京津三条~浜大津
                の準急を京津三条~御陵のさよなら列車として運行
           10月12日:京津三条~御陵3.9km廃止
                京津三条・東山三条・蹴上・九条山・日ノ岡の停留所を廃止
                御陵駅を西へ約300m移設して、京都市営地下鉄東西線との共同駅
                として地下化し、御陵府道東踏切付近~御陵を地下新線に切り換え
                架線電圧が600Vから1500Vに昇圧された事により京阪の全ての
                鉄軌道線(鋼索線除く)の架線電圧が1500Vとなる
                京都市営地下鉄・東西線の京都市役所前駅まで直通運転開始
                準急が廃止されて京津線内の優等列車は全廃となり、普通列車のみ
                となる



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昔は京阪本線の三条駅も地上駅で
京阪本線とは対面乗り換えであった
※ ウィキペディア画像を拝借

京津三条駅(けいしんさんじょうえき)は、かつて京都府京都市東山区三条大橋東詰にあった京阪電気鉄道の駅で、かつては京津線の起点であった。 1987年に京阪三条駅との分離が実施されて、京津三条駅と命名された独立駅となっていた。

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京都市営地下鉄開業日に路線廃止となり
しばらくは駅跡が放置されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線の開通により、京津線の京津三条~御陵が廃線となり、当駅も廃止となっている。

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ホームの構造は櫛型構造の3面2線で
真ん中のホームが乗り場
両端のホームが降車場だった
※ ウィキペディア画像を拝借

平面図が『E』の形をした3面2線の櫛形ホームで、真ん中のホームが乗車専用ホームだった。 
ホームには5~8番の線番が付され、京阪本線側の5番線が準急用の降車ホーム、真ん中の内寄り6番線が準急の乗車ホーム、7番線が四宮止まりの普通の乗車ホーム、8番線が同降車ホームと振り分けられていた。 

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駅の端から
『三条通』方向を望む
※ ウィキペディア画像を拝借

1987年の京阪本線の地下化に伴って、京津線のホームが京津三条駅として分離されてからは、5~8番線が1~4番線に変更されている。 また、地上に取り残された当駅と地下駅となった本線との乗り継ぎにあたっては、上下移動を伴っていた事から接続時間にある程度の余裕を持たせるよう微調整が行われていた。

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廃止後空き地となった駅跡
奥に京津線のホーム跡が残っている
※ ウィキペディア画像を拝借



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東山三条の路面停留所に
可動ステップを出して停車する
京津線の普通専用車両の80系電車
※ ウィキペディア画像を拝借

東山三条駅(ひがしやまさんじょうえき)は、かつて京都府京都市東山区にあった京阪電気鉄道・京津線の停留場である。 1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線開業に伴い、京津線の京津三条~御陵と共に廃止された。

『三条通』上の併用軌道に設けられた停留場で、乗降用ステップを装備した車両しか客扱いができない為に普通列車のみが停車し、急行(1981年廃止)や準急は通過していた。 南北に走る東山通の東側に、対向式のホームがあった。 1996年度の平均乗車人員は2710人との事である。

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京都市電の路面電車があった頃は
東山三条で京都市電の東山線と
平面交差していた
※ ウィキペディア画像を拝借

1978年9月までは東山通を通る京都市電の東山線と平面交差しており、市電の東山三条停留場との乗換駅でもあった。 第二次世界大戦中にはこの東山線との間に連絡線が設けられ、戦中戦後の時期は市電側から屎尿輸送の貨物電車が京津線に乗り入れていた。 その後は下水道整備により家庭トイレの水洗化が進み、不要となったこの連絡線は撤去されている。

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現在の東山三条の停留所跡付近
面影はほとんど残っていない
※ ウィキペディア画像を拝借

三条駅を介して京阪線と大津線とに跨る運賃は、それぞれを合算した額が基本だったが、当駅だけは例外で、京阪線系統の駅から三条駅までの運賃に少し上乗せしたような額が適用されていた。



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クロス横断歩道の
手前に設けられた蹴上停留場
※ ウィキペディア画像を拝借

蹴上駅(けあげえき)は、かつて京都府京都市東山区蹴上にあった京阪電気鉄道・京津線の停留場で、1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線開業に伴い、京津線の京津三条~御陵間と共に廃止された。

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路面上に設置された
停留所に停車中の80系電車
※ ウィキペディア画像を拝借

『三条通』上の併用軌道に設けられた停留場で、乗降用ステップを装備した車両しか客扱いができない為に普通列車のみ停車し、急行(1981年廃止)・準急は通過していた。 1995年の1日平均乗降人員は5795人(乗車人員はこの半分ほどで、東山三条と同じ位であったと推測できる)との事。

第二次世界大戦中までは、少し離れた仁王門通上に京都市電蹴上線(1965年7月廃止)の蹴上停留場があった。 付近の道路には桜並木が植えられており、京津線では有名な撮影スポットであった。



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九度山駅は高床の車両でも
停車できたが廃止区間最小の
利用者数の為に準急も通過していた
※『おけいはんネット』より

九条山駅(くじょうやまえき)は、かつて京都府京都市山科区にあった京阪電気鉄道・京津線の停留場で、1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線開業に伴い、京津線の京津三条~御陵間と共に廃止された。

京津線廃線区間の停留場としては唯一、専用軌道上にホームがあった。 その為に京津線の現存駅と同様に高床ホームであり、ステップを用いずに乗降できたが、ステップなしの車両で運行される準急や急行も利用者数が少なかった為に通過していた。

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駅に立てかけられた
駅廃止と最終日夜間のひと足早い
運行取り止めを告知する立て看板
※ ウィキペディア画像を拝借

また、1995年の1日平均乗降人員は813人(乗車人員はこの半分ほどであったと推測できる)と乗降客数が廃止区間では最低で、そのような事情もあって東西線開業に際しては、当停留場の代替駅は設置されなかった。

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九度山駅に進入する京津線列車
※ ウィキペディア画像を拝借

蹴上~九条山では東山を越える66.7‰の急勾配があったが、九条山はその峠のサミット付近に設けられており、京津線の駅では最も標高が高かった。 『三条通』に面した所に相対式ホームが設けられているだけの無人駅で、峠付近という事もあって周辺人口は多くなかった。

駅西側には渡り線があり、緊急時の折り返しに用いられていた。 また廃止後には、解体車両の留置場とされていた事もあった。 廃線後のこの区間の線路跡地は『三条通』の拡幅に供されており、北行き車線の一部となっている。 『三条通』には京阪バスが走っており、跡地の近くにある九条山バス停からは、三条京阪・四条河原町方面、御陵・山科駅・大宅方面のいずれの方面にも向かう事ができる。



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日ノ岡停留所に
進入する京津線列車
※ ウィキペディア画像を拝借

日ノ岡駅(ひのおかえき)は、かつて京都府京都市山科区にあった京阪電気鉄道・京津線の停留場で、1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線開業に伴い、京津線の京津三条~御陵間と共に廃止された。

『三条通』の併用軌道にある停留場で、乗降用ステップを装備した車両しか客扱いができない為に普通列車のみ停車し、急行(1981年廃止)・準急は通過していた。 停留場を渡った三条通南側には、待合用にベンチと日よけ用の屋根が整備されていた。 現在は植え込みと形を変えていて、その面影はない。
1996年の平均乗車人員は1227人との事である。

また、東西線開業に際しては、地下鉄との共同駅となった御陵駅が300mほど当停留所寄りに設けられた為、当停留場は御陵駅に吸収された形となり、代替駅は御陵駅(地下の新駅)となっている。



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列車待ちの乗客が並ぶ
御陵駅の三条方面ゆきホーム
※『おけいはんネット』より

御陵駅(みささぎえき)は、京都府京都市山科区御陵原西町にある京都市交通局(京都市営地下鉄)と京阪電気鉄道(京阪)の駅である。 かつては京津線の中間駅だったが、1997年10月12日の京都市営地下鉄東西線開業による京津線の部分廃止により現在の形となった。

1997年10月11日の地下鉄東西線開通前までは、京津線の御陵は地上に設置された京阪電気鉄道単独の停留場であった。 京津線の部分廃止及び地下鉄東西線への乗り入れ開始に伴って廃止となった。
廃止時まで、停車する電車はいずれも2両編成の普通列車と準急の2種であり、急行も1981年に廃止されるまで停車していた。 準急は当駅~京津三条はノンストップで運転されていた。

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上下ホームがちどり状に
配置された旧御陵駅
※ ウィキペディア画像を拝借

地形の問題もありホームは完全な対面式ではなく、踏切を挟んで線路の北側と南側とでちどり状(対角線上)に設置されていた。 線路の北側のホーム(京阪山科・浜大津行き)は踏切から京阪山科・四宮駅寄りに、線路の南側のホーム(京津三条行き)は踏切から京津三条駅寄りにあった。 また、それぞれのホーム入口には券売機が1台設置されていた。 現在は駅施設は全て撤去され、駅跡付近から旧御陵府道踏切までの区間は、遊歩道として整備されている。

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現在は日ノ岡寄りに300m移転して
地下鉄と京阪の
共同使用駅(地下駅)となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

また、位置としては現在の新駅より300mほど浜大津寄りにあり、蹴上との間に日ノ岡停留場が設置されていた。 だが、地下鉄東西線開通後の乗り入れの為に地下鉄へ接続する渡り線路のスパンが必要となり、旧御陵駅を廃止して日ノ岡寄りに300m移転した所に地下の新駅を設け、京阪と地下鉄の共同駅として使用開始している。 新駅が日ノ岡寄りに移転した為に、現在の御陵は旧日ノ岡を統合した解釈で、旧日ノ岡停留所の代替駅もこの御陵・新駅となっている。


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欠けても業務を全うする事はできない
言わばどんな業種であれ事を
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あり丁寧に言うと商売の根本である
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