2022-06-01 (Wed)✎
廃線鉄道 第82回 長門鉄道 〔山口県〕
流線形気動車・国鉄型キハ07系
(元キハ42000形)を
国鉄から譲り受けて主力車両としていた
※ ウィキペディア画像を拝借
長門鉄道(ながとてつどう)は、かつて国鉄・山陽本線の小月より分岐して、西市までの18.2kmを結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。 地域開発と木材搬出を目的とした鉄道で、1918年10月に地元有志の尽力によって、小月~西市の全線が開業しする。
加悦SL広場に保存されていた
長門鉄道の101号機関車
※ 山口新聞
最終的には長門市仙崎まで路線を延ばし、陰陽を連絡する事も視野に入れていたが、資金不足の為に西市までの開業にとどまる。 また、戦時中の交通統制によって1942年に山陽電気軌道に統合されたが、終戦後の1949年に山陽電気軌道より事業譲渡を受けて、創業時と同じ『長門鉄道』で復活している。
『長門ポッポ』と呼ばれた
長門鉄道の蒸気機関車
※ 毎日新聞より
だが、木材輸送の為に敷設された鉄道であるにも関わらず、木材資源を直接積み込むべくの山岳地への路線敷設ができずに業績は低迷した。 その不振打開のためにバス運行を開始したが、これがかえって鉄道の収支を悪化させ、モータリゼーション到来前に終焉を迎えてしまう。 結局は、1956年5月1日に小月~西市の全区間が廃止・自社運行のバス転換となり、そのままバス会社として存続している。
現在はサンデン交通に合併吸収されて
完全なバス事業者となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
企業自体は1942~49年の間に戦時体制に基づく交通統制の為に、下関市における路面電車を運営していた山陽電気軌道に統合されていた事があったが、1956年に鉄道路線を全廃した後もバス会社となって1975年まで残り、山陽電気軌道から社名を改めたサンデン交通に再合併されている。
加悦SL広場に展示されていた
時の『長門ポッポ』
西市からの木材輸送を目的に建設された路線である為に、鉄道省線(国鉄)との貨車の直通を考慮し、軌間は1067mmを採用していた。 最盛期は年間100万人近くの旅客利用があったが、戦後混乱期を脱した1950年代前期に入ると、急激に発達したバス輸送への利用移転が顕著になって旅客減少が始まった事から、いち早く転換しされて1956年5月1日に路線廃止となった。
長門鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
区間(営業キロ):小月~西市 18.2km、軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)、動力:蒸気・内燃
駅数:11駅(起終点駅含む)
〔小月〕・長門上市・上小月・下大野・上大野・田部・岡枝・辻堂・西中山・石町・阿座上・西市
※ 1919年11月1日に阿座上・上小月停留所廃止
1928年4月に阿座上が復活
なお、駅以外の場所でも乗降を行った事があるとの事
※ 車庫と工場は小月、給炭水設備は西市にあった
運行本数:旅客および混合列車9往復、所要:小月~西市で約50分
接続路線:小月で国鉄・山陽本線に接続していた
輸送・収支実績:旅客輸送は最盛期の1945年で、年間986939人(1日あたり2704人)
貨物輸送は最盛期の19年で年間55667トン(1日あたり152.5トン)
戦後は国鉄から譲り受けた
キハ07型が主力車両となっていた
※ 毎日新聞より
長門鉄道 年表
1913年(大正 2年) 8月15日:長門軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(豊浦郡小月村~同郡西市村)
1914年(大正 3年) 8月 3日:長門軽便鉄道として会社設立し、程なく商号を長門鉄道に変更
1918年(大正 7年)10月 7日:小月~西市の全線開業
開業後は内燃気動車導入による
無煙化も図られていた
※ 毎日新聞より
1928年(昭和 3年) 2月 1日:瓦斯倫動力併用認可により、旅客列車にガソリン動車併用開始
4月25日:阿座上開業
サンデン交通の社紋
1942年(昭和17年)11月 1日:鉄道省通達に基づく交通統制によって、山陽電気軌道に統合
1949年(昭和24年) 2月11日:山陽電気軌道より事業譲渡認可
3月28日:長門鉄道会社設立
4月 1日:山陽電気軌道より事業譲渡を受けて、分離独立
1956年(昭和31年) 5月 1日:鉄道事業を廃止
1960年(昭和35年) :社名を長鉄バスに改称
1975年(昭和50年) 6月 :サンデン交通(かつての山陽電気軌道)に再統合
貨客金剛列車を牽引する
101号蒸気機関車
※ 毎日新聞より
使用車両
開業当時は蒸気機関車2両(101, 102。鉄道省1045形と同形)、客車4両、貨車7両保有
※ 技師長が長州鉄道と兼務だった為に、同形の車両を採用した。
※ 蒸気機関車はポーター社製(全長6.5m・幅2.3m・高さ3m・重量15t)のもので、
『長門ポッポ』と呼ばれていた。
101号は1947年に、東洋レーヨン滋賀工場に譲渡されている。
大正末年には、蒸気機関車3両・客車5両・貨車27両の保有となっていた。 山陽電気軌道より分離時には、蒸気機関車8両・ガソリン動車3両・客車5両・貨車50両を保有していた。 廃止時には、蒸気機関車2両・ディーゼル機関車(高田機工製1954年竣工届)1両・ディーゼル動車3両・客車1両・貨車14両を保有していた。
地元有志の尽力で
地元の道の駅で保存展示
される事となった101号機関車
※ 山口新聞より
保存車両
蒸気機関車のうちの101号は、1947年に東洋レーヨン滋賀工場に譲渡されて使用された後、宝塚ファミリーランドを経て、 京都府与謝野町の加悦SL広場で常設展示されていた。
現在は旧西市駅の近くにある
『道の駅・蛍街道西ノ市』で
静態保存されている
※『山口タウン情報誌・トライアングル』より
だが、加悦SL広場の閉園に伴って、下関市の地元有志らが設立した『長門ポッポを守る会』に無償譲渡され、2021年に山口県下関市豊田町にある『道の駅・蛍街道西ノ市』に陸送され、展示される事になった。
逸話にある揉め事の原因となった
自社製小型ガソリンカー
※『同志社大学鉄道同好会・OB会』より
逸話
1956年の長門鉄道線廃止に際して、同線の新旧車両が余剰となる事から、山口県内の近隣小私鉄同士での付き合いがあった防石鉄道・船木鉄道の職員らが長門鉄道を訪れ、善後策を協議していた。
そこに、当時の西日本でも気動車保有最多の有力私鉄であった滋賀県の江若鉄道の担当者が、余剰車買い付けの目的で来訪していた。 ところが、その際の江若の担当者が大手風を吹かせた傲慢な振る舞いに、山口県の小私鉄各社の社員たちを大いに立腹させたとの事である。
江若鉄道は。当時の長門鉄道車でも最大でピカ一と言える存在だった元国鉄キハ42000形42017号の払い下げ再生ガソリンカー・キハ11を、長門鉄道自社発注の小型ガソリンカー・キコハ1共々購入する事になった。
これに対し、長門・防石・船木の3社社員は江若への腹いせの為に、江若側に小型ガソリンカー・キハ11を引き渡しする直前に集まり、エンジンを在庫したスペアの中でも最悪の廃物にすりかえる交換作業をやってのけ、素知らぬ顔で江若に引き渡して3社で祝杯を挙げたというドロドロな逸話が伝えられている。
右も左も政治・体制思想者は
日本人の敵だね
口では日本人の味方のような事を
宣ってるがやってる事は日本の破壊である
その違いは左がシナやチョン本国からの
工作員として送られた工作組織員で
常套手段は国会など政治中枢に
入って組織的に日本を潰しにかかるのに対し
右は政治結社やヤクザのような
組織を組んで暴力的に
事を成そうとする
そして右も左もどの政党にも
所属し党内で派閥を組んで
日本の破壊活動に及んでいる
最近目立っているのは保守政党と
目されている与党・自民党に
左思想の議員が増えた事で
露骨にチョンや北チョンの支援を
口にし出した事である
だが東京五輪の開催で感染爆発をもたらし
国民の多くを死に至らしめ
経済をズタズタにした時点で
自民党がこの国を貶めるチョン・シナへの
隷属化思想を抱く事がバレている
そしてネットとかで活動してる奴も
口では『愛国』といいながら
東京五輪の日本人殺害行為を
「カンドーした」とホザいた時点で
日本人の仇敵が仮面を被った姿だと判る
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