2022-05-06 (Fri)✎
廃線鉄道 第80回 大隅線 その2 (鹿屋~垂水) 〔鹿児島県〕
鹿屋駅跡に隣接した場所に鹿屋駅の
往時を伝える鉄道記念館が建てられ
そこには大隅線を行き交った
気動車が静態保存されている
※『鹿屋市鉄道記念館・鹿屋驛』より
〔再掲〕※ 青文字が今回の記事対象区間
大隅線(おおすみせん)は、かつて鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志から同県国分市(現・霧島市)の国分までを結んでいた国鉄の鉄道路線(地方交通線)である。 国鉄再建法の施行によって1984年6月に第2次特定地方交通線に指定され、1987年3月14日に全線廃止となった。
かつては【大隅】・【佐多】という
急行(後に格下げられて快速)も
走っていた大隅線
※ ウィキペディア画像を拝借
当時の国分市と、大隅半島の主要都市である垂水市・鹿屋市・志布志市(当時は志布志町)を結ぶ路線であった。 廃止後は大隅半島の大部分が鉄道空白地帯となり、現在は鹿児島市を擁する薩摩半島側への鉄道でのアクセスが悪い状況にある。
大隅線の歴史は鹿屋市の
鉄道記念館にて伝えられている
※『鹿屋市鉄道記念館・鹿屋驛』より
大隅線の歴史は、1915年に軌間762mmの南隅軽便鉄道(なんぐうけいべんてつどう)が高須~高山を開業したのに始まる。 同鉄道は翌年に社名を大隅鉄道(おおすみてつどう)に改め、1923年までに古江~串良が全通した。
その後、日南線の一部と共に改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線に挙げられ、1935年に大隅鉄道が買収・国有化されて、軌間762mmのままで国有鉄道・古江線(ふるえせん)となった。
同年、国有鉄道が建設した古江東線(軌間1,067mm)が、志布志~東串良までを開業する。
その翌年には、古江西線(東線開業にともない改称)の串良に乗入れる。 古江西線の買収後は直ちに改軌工事が着手されたが、1938年に古江西線の改軌が完成するまでの串良は、異種軌間が併存する接続駅となっていた。
鹿屋駅のスイッチバック運行解消の為の
路線付替えと駅移転の経緯
※『鹿屋市鉄道記念館・鹿屋驛』より
同年の改軌工事完成に伴って、スイッチバック構造であった鹿屋は駅移転の上で直通可能な配線に改良され、志布志~古江が古江線と改称された。 以降の路線延伸は戦後となり、1961年に海潟まで開通、1968年9月には赤字83線に挙げられつつも、1972年に国分まで開業し全通を果たす。 路線の全通と同時に、路線名を大隅線に改めている。
垂水より先が開通して全通したのは
昭和40年台後半で時は既に
国鉄の慢性赤字が取り沙汰され
赤字路線の廃止へと流れが変わっていた
※『プラットホームの旅』より
だが、全線開業が昭和40年台後半と遅く、既に鹿屋近辺では路線バスなどの自動車交通が充実し、垂水では鹿児島港へ南海郵船(現在の垂水フェリー)が通じていて国分経由の遠回りの鉄道路線は需要が小さく、列車本数が少なく設定されるなど開通当初より利用が低迷し、第2次特定地方交通線の基準を上回る事ができずに、国鉄再建法による廃止対象路線に指定されてしまう。
大隅線の廃止を伝える民放TV番組
※ 南日本放送より
1984年の廃止承認後、1987年3月14日に全線廃止となってバス路線へ転換された。 なお、1972年における延長区間は、『バス転換された特定地方交通線』としては、北海道の白糠線延長区間(上茶路~北進)と僅か1日違いで最後の開業路線となった。
1987年3月14日の大隅線廃止後は、国鉄バス(後のJR九州バス)が代替線を運行するという異例の措置が取られたが、後に鹿児島交通(後に大隅交通ネットワークへ移管)に引き継がれた。 2006年になって、鹿児島交通グループが採算性が合わない事を理由に大隅地方におけるバス運行の撤退を表明した為に、関係自治体と県を交えた協議会が開催される事になった。
大隅線の予想路線図
:
ワラジヤの道路地図を
見ながら作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
区間(営業キロ):志布志~鹿屋~国分 98.3km、軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)
駅数:33(起終点駅含む)
〔志布志〕・菱田・大隅大崎・三文字・東串良・串良・下小原・大隅高山・論地・吾平・永野田・
大隅川西・鹿屋・大隅野里・大隅高須・荒平・古江・新城・諏訪・柊原(くぬぎばる)・浜平・
垂水・海潟温泉・大隅麓・大隅辺田・大隅二川・大隅境・大廻・大隅福山・敷根・銅田・金剛寺・〔国分〕
運行形態及び運行本数:快速〔大隅〕志布志~国分~西鹿児島 1往復(下りの志布志~鹿屋は普通列車)
快速〔佐多〕宮崎~志布志~鹿屋 1往復
※ いずれも急行からの格下げ列車
普通 志布志~鹿屋 上り10本・下り9本
鹿屋~古江 7往復
古江~垂水 上り6本・下り7本
垂水~国分 5往復
※ 志布志に向かうに従い本数が多くなり、県庁所在地の鹿児島方面への列車は少なかった。
これは、開通の遅かった古江~国分では、既に路線バスなどの交通が確立しており、また
鹿児島市内へは、垂水からフェリーで行くルートの方が近道であったからといわれている。
国鉄・大隅線 年表
1915年(大正 4年) 7月11日:南隅軽便鉄道によって高須~鹿屋が開業し、高須・鹿屋の各駅及び、
野里・田崎の各停留場を新設
1916年(大正 5年) 5月30日:南隅軽便鉄道が大隅鉄道に社名を変更
1920年(大正 9年)12月23日:鹿屋~高山を延伸開業し、川西・永野田・姶良・高山の各駅と、
下田崎・論地の各停留場を新設
1921年(大正10年) 8月11日:高山~串良を延伸開業し、下小原・串良の各駅を新設
1923年(大正12年)12月19日:古江~高須を延伸開業し、古江・荒平の各駅と船間停留場を新設
1927年(昭和 2年) 2月 :滝ノ観音停留場を新設
1933年(昭和 8年) 6月15日:金浜停留場を新設
1935年(昭和10年) 6月 1日:大隅鉄道を買収して国有化し、古江~串良 (31.5km) を古江線とする
また、高須・野里・川西・高山の各駅に『大隅』の旧国名を冠する
駅名改称が行われる
10月28日:志布志~東串良 (16.2km) が古江東線として新規開業開業
菱田・大隅大崎・東串良の各駅を新設
古江東線の新規開業と同時に、古江線が古江西線に改称される
1936年(昭和11年)10月23日:東串良~串良間(0.6km) を延伸開業し、古江西線の串良に乗入れ
またこの年に、志布志~串良に機械式ガソリンカーのキハニ5000
(志布志機関区・5両)が投入される
1937年(昭和12年) 4月19日:三文字を新設
鹿屋駅はスイッチバックの
解消の為の駅移転や
軽便鉄道ゲージから
国鉄の1067mmへの改軌など
大きな歴史のうねりがあった駅であった
1938年(昭和13年)10月10日:古江~串良 (31.0km) の改軌工事が完成し、古江東線と古江西線
がつながって、船名も東西合わせて古江線と改称される
下田崎・田崎・滝ノ観音・金浜・船間の各駅を廃止
鹿屋の駅移転(線路付け替えにより-0.5km)
1952年(昭和27年) 1月 1日:姶良を吾平に改称
垂水までの開業に漕ぎつけた時は
鉄道の斜陽化が始まる直前だった
1961年(昭和36年) 4月13日:古江~海潟 (17.0km) を延伸開業(旅客営業のみ)
新城・諏訪・柊原・浜平・垂水・海潟の各駅を新設
1972年(昭和47年) 1月 1日:鹿屋~古江 (15.8km) の貨物営業を廃止
9月 9日:海潟温泉~国分 (33.5km) を延伸開業(旅客営業のみ)し、全通
全通により、古江線を大隅線と改称する
大隅麓・大隅辺田・大隅二川・大隅境・大廻・大隅福山・敷根・
銅田・金剛寺の各駅を新設
海潟を移転し、海潟温泉に改称(改キロなし)
1982年(昭和57年)11月15日:志布志~鹿屋 (32.0km) の貨物営業を廃止
1984年(昭和59年) 6月22日:第2次特定地方交通線として廃止承認
1987年(昭和62年) 3月14日:志布志~国分の全線 (98.3km) を廃止し、バス路線へ転換
駅移転当時に建てられた
駅舎が使用されていた
※ ウィキペディア画像を拝借
鹿屋駅(かのやえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市共栄町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
鹿屋市の中心駅であったが、大隅線の廃止に伴って1987年3月14日に廃駅となった。 大隅線の中心的な存在の駅であり、廃止時点では1面2線の島式ホームを有する列車交換可能駅であった。 また、多くの側線を持っており、廃止時点まで駅長配置の直営駅であった。 駅舎よりも、線路の方が高い位置にあった。
開業当初はドン突きに駅が設置されて
スイッチバック運行を余儀なくされていたが
駅を移転してΩカーブ状に線路を付け替える事で
スイッチバック運行を解消した経緯がある
※ ウィキペディア画像を拝借
また、駅の北方で線路がほぼ180°カーブするΩ状の線路配置になっていた。 これは路線建設時の経緯により、それまで当駅がスイッチバック方式であった事を解消した為である。 1938年10月10日に改軌・移転するまでは現在の鹿屋市向江町付近に駅があり、高須方面と高山方面を直通運転する列車は、鹿屋駅で進行方向が変わっていた。
このスイッチバック運行を解消する為に、駅を移転した上で線路を付け替えた経緯がある。
大隅線の廃止後に、付け替え後の線路跡の多くが道路化されており、地図上で明瞭に識別可能である。
大隅線の廃止で
大隅半島最大の街・鹿屋は
鉄道空白地帯となった
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅は、1915年7月11日に南隅軽便鉄道(1916年に大隅鉄道に改称)の駅として開設された駅である。 南隅軽便鉄道はこの地方の中心都市であった鹿屋と海岸とを結び、航路に連絡する事で県都・鹿児島市や他の地方へつなげる事を目的とし、当初は古江との連絡を考えていたようである。
駅跡地に移転した市役所に
隣接して設けられた鉄道記念館
※ ウィキペディア画像を拝借
だが、工費の都合で高須と鹿屋の間を開通させている。 高須まで開業したこの時点では792 mm軌間の軽便鉄道で、他の鉄道との接続はしておらず孤立した鉄道路線であった。 また、この時点では、現在の鹿屋市向江町付近に駅が位置していた。
駅跡に移転した市役所の隣にある
鹿屋市鉄道記念館に展示された軌道自転車
※ ウィキペディア画像を拝借
その後さらに内陸方面へ延伸され、1920年12月23日に高山まで開通した。 この際に、鹿屋駅では折り返し運転をする構造となった。 大隅鉄道はその後も路線延伸を続け、古江から串良までの営業を行うようになったが、 鉄道敷設法に基づく国鉄の鉄道敷設予定線と重なったこともあって、1935年6月1日に国有化されて国鉄・古江線の駅となった。
鹿屋市鉄道記念館に
展示された鹿屋駅の運賃表
:
市の代表駅として
九州は元より国内主要都市への
運賃表も掲げられていた
※ ウィキペディア画像を拝借
国鉄は志布志駅から西に線路を伸ばして古江線との接続工事を進め、これに伴って一時的に古江西線と呼ばれた時期もあった。 1938年10月10日に、念願の大隅鉄道線だった区間の1,067 mm軌間への改軌工事を含めた改良が完成し、鹿屋駅は移転した上でΩ状の線路を繋いで折り返し運転を解消したのである。
鹿屋市鉄道記念館に静態保存された
国鉄型気動車キハ20系
:
大隅線はJRへの分割民営化の
半月前に路線廃止となったので
生涯国鉄の路線であった
※ ウィキペディア画像を拝借
1972年9月9日に全線が開通し、古江線が大隅線に改称されて当駅は大隅線の駅となった。
だが、大隅線は特定地方交通線に指定され、1987年3月14日に路線廃止となった。 それに伴って、当駅も廃駅となってその役目を終えている。
駅跡地には市役所が移転して
構内後は市役所の駐車場となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅跡地には鹿屋市役所が移転している。 また、隣接した場所に1988年9月28日に鹿屋市鉄道記念館が開館している。 木造平屋建ての記念館には国鉄キハ20系気動車や、駅名標などが保存されている。
また、同記念館は2016年9月30日に改装され、新たに『鹿屋驛』の愛称看板が取り付けられた他、2015年に閉館となった吾平駅跡にあった吾平町鉄道資料館の展示物も加わっている。
駅廃止後も駅舎が残されて
サイクリングロードの休憩所として
利用されている大隅野里駅
※ ウィキペディア画像を拝借
大隅野里駅(おおすみのざとえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市野里町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 現在の駅跡地には当時の駅舎が残され、フィットネスパース(サイクリングロード)の休憩所となっている。
鹿屋市の鉄道記念館に
保存されている大隅野里駅の駅名標
※ ウィキペディア画像を拝借
駅構造は、単式1面1線のホームと側線1本を有する棒線駅であった。 有人駅だった時期もあったが、1970年頃に無人化されて、以降は廃止時まで無人駅となっていた。 戦後まもなく建設されたコンクリートの駅舎があり、無人化後駅廃止時まで存在し、現在もフィットネスパース(サイクリングロード)の休憩所としてその場に残っている。
海上自衛隊鹿屋航空基地に隣接している駅であった。 この基地は第二次世界大戦前に日本海軍の航空基地として開設されたもので、戦時中はこの駅から基地内に全長約3 kmの専用線が引き込まれ、資材や弾薬の輸送を行っていた。 1945年3月19日には米軍の空襲を受けて、貨物線に停車中の弾薬を搭載した貨車が被弾・誘爆して駅舎が壊滅し、駅員4名と荷役に当たっていた海軍関係者が死亡している。
大隅線の前身・南隅計便鉄道が
最初に敷設した区間の
終点だった大隅高須駅
※『プラットホームの旅』より
大隅高須駅(おおすみたかすえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市高須町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 委託駅であった。 駅構造は、単式ホーム1面1線と側線1本を有する駅であったが、かつては島式1面2線のホームを有する列車交換が可能な駅で、駅舎とホームが離れていた。 また、1967年6月の時刻表で、当駅での列車交換が実施されているダイヤが記載されている事から、当時は交換設備があったと考えられる。
ホームの駅舎側は
明らかに線路が撤去されて
埋められた形跡がある
なお、鹿屋市が旧高須トンネルの高須駅側坑口に設置した大隅線の説明板では、トンネル坑口に近接して置かれた片面ホームと、トンネルから出た単線がY字分岐に変更可能な配線がされた改軌後の写真が掲示されている。 駅跡は公民館になっており、記念碑が建立されている。 高須駅跡構内への入り口には消防の倉庫があり、構内跡は公園となっている。
廃止後は隣接する神社の
参拝者休憩所として利用されていたが
※ ウィキペディア画像を拝借
荒平駅(あらひらえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市天神町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 無人駅で、単式ホーム1面1線と側線1本を有する駅であった。 有人駅時代にはホームの垂水方先端に木造の駅舎が存在していたが、無人化後に取り壊されて、その跡にコンクリート製の待合所が建てられた。 ホームからは海を臨む事ができた。
県の市街地整備計画が上がって
その弊害として駅舎は撤去された
:
でも駅舎撤去後の方が
景観が悪くなったチグハグさだ
※ ウィキペディア画像を拝借
1987年の大隅線の廃線による駅廃止後も、隣接する荒平天神(菅原神社)の休憩所としてホーム・待合所等が残存して使用されていたが、2013年初頭に鹿児島県が実施する『魅力ある観光地づくり事業』に伴う景観整備計画に先立って撤去された。
鹿屋市の鉄道記念館で
保存されている古江駅の駅名標
※ ウィキペディア画像を拝借
古江駅(ふるええき)は、かつて鹿児島県鹿屋市古江町612番地に千鳥状に配置された2面2線の相対式ホームと側線1本を有する、列車交換が可能な駅であった。 委託駅であった。
古江駅に掲げられていた運賃表
:
鹿屋市の鉄道記念館で保存
※ ウィキペディア画像を拝借
古江線と呼ばれていた創成期の大隅線建設の原点が、古江にある港と大隅半島の中心都市で航空基地のある鹿屋市の中心部である鹿屋駅とを結ぶ事にあったので、戦前・戦時中は軍需物資の中継駅として賑わいを見せていた。
駅舎は鉄道記念公園の
施設として残されている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅跡は、古江鉄道記念公園となって駅舎が残っている。 また、古江駅跡の碑が建てられている。
駅構内であった場所は、空き地となっている。
交通公園となった新城駅跡
※ 垂水市のウェブサイト『垂水日和』より
新城駅(しんじょうえき)は、かつて鹿児島県垂水市新城にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 無人駅で、1面1線の単式ホームを有する停留所構造の駅であった。 駅舎はなく、ホームとその上の待合所のみの駅であった。 駅跡地は公園となっている。
戦後に入って延伸された区間の駅は
全て利用に耐えない粗末な造りだった
※『プラットホームの旅』より
諏訪駅(すわえき)は、かつて鹿児島県垂水市新城にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 隣の新城駅と同様に、1面1線の単式ホームを有する停留所構造の駅であった。 開業当初からの無人駅で駅舎はなく、ホームとその上の待合所のみの駅であった。 駅跡地は鉄道記念公園になっている。 なお、周辺はほとんど区画整理されている為に線路跡が消滅している。
雨風も凌げそうにない
粗末な待合所のみの停留所・柊原
※『プラットホームの旅』より
柊原駅(くぬぎばるえき)は、かつて鹿児島県垂水市柊原にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
駅へと至る道がこの有り様では
新城駅や諏訪駅と同様に、単式ホーム1面1線を有する停留所構造の駅であった。 開業当初からの無人駅で駅舎はなく、ホームとその上の待合所のみの駅であった。
築堤上に設けられた駅には
駅舎もトイレも駐輪場も無かった
※『プラットホームの旅』より
浜平駅(はまひらえき)は、かつて鹿児島県垂水市浜平にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。
大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
庇だけの待合所があるだけの
粗末な駅だった
新城駅や諏訪駅などと同様に、単式ホーム1面1線を有する停留所構造の駅であった。 開業当初からの無人駅で駅舎はなく、ホームとその上の待合所のみの駅であった。
『さようなら大隅線』の横断幕が
掲げられた路線廃止間際の垂水駅
※『プラットホームの旅』より
垂水駅(たるみずえき)は、かつて鹿児島県垂水市田神32番地にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 委託駅であった。
島式ホームで列車交換が可能な駅で
当駅始発着列車も設定されていた
島式1面2線のホームを有する列車交換が可能な駅であった。 垂水市の中心駅ながら、素朴な木造の駅舎を持っていた。
円安が進行中で1ドル130円を突破したようだ
コレで輸入品を中心に価格が上がり
生活に直撃したという声をよく耳にする
だがワテにはあまり影響はない
なぜならワテが食費に使うのは
1日3食で1500円ほどと固定しており
例え日常の食料品か値上げしたとしても
20~30円でどうって事ないからである
それに基本的に輸入品ってのは品質が
悪い上にアフターサービスも悪く
売り手の態度も悪いので極力買わない
ようにしているからワテに関しては
ほとんど影響はないのですね
それに間食しない(ワテの数少ない誉められる点)
ので嗜好品にはあまり手を出す事もなく
食費が著しく増える事もないのだ
ガソリンは確かに高いが最近の移動は
どこに行くのも専ら鉄道で
車にはあまり乗らない(月に2~3回
しか乗ってないや)ので
そんなにガソリンを入れる事ないしィ
まぁブログのネタ展開でも判る通り
ワテは鉄道好きだしィ
それに鉄道は寝る事もできて楽だしィ
到着の時間も計算できるしィ
それに車の運転シンドイしィ
円安よりミンス政権の時の1ドル70円台の
円高の方がキツかった記憶があるよ
あの時はモノが売れずに会社が潰れたり
人員削減で失業者が溢れて一人一人に
モノを買う力がない状態だったしィ
それに定価は全て隠されて『オーブン価格』
という胡散臭い販売法が横行したしィ
コレは何も問わずに買うと定価は元より
定価以上の値段を吹っ掛けられたのである
あの時と比べたら円安の方がずっとマシである
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