2022-05-21 (Sat)✎
廃線鉄道 第81回 大隅線 その3 (垂水~国分) 〔鹿児島県〕
国分駅の大隅線専用ホーム
0番線に停車中のキハ20系単行気動車
※『レスポンス』より
〔再掲〕※ 青文字が今回の記事対象区間
大隅線(おおすみせん)は、かつて鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志から同県国分市(現・霧島市)の国分までを結んでいた国鉄の鉄道路線(地方交通線)である。 国鉄再建法の施行によって1984年6月に第2次特定地方交通線に指定され、1987年3月14日に全線廃止となった。
大隅線列車の行先サボ
当時の国分市と、大隅半島の主要都市である垂水市・鹿屋市・志布志市(当時は志布志町)を結ぶ路線であった。 廃止後は大隅半島の大部分が鉄道空白地帯となり、現在は鹿児島市を擁する薩摩半島側への鉄道でのアクセスが悪い状況にある。
大隅線の歴史は、1915年に軌間762mmの南隅軽便鉄道(なんぐうけいべんてつどう)が高須~高山を開業したのに始まる。 同鉄道は翌年に社名を大隅鉄道(おおすみてつどう)に改め、1923年までに古江~串良が全通した。
今回取り上げる区間では
ほぼ全区間で車窓から桜島が望めた
その後、日南線の一部と共に改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線に挙げられ、1935年に大隅鉄道が買収・国有化されて、軌間762mmのままで国有鉄道・古江線(ふるえせん)となった。
快速〔佐多〕のサボ
大隅線には優等列車も走っていた
※『列車名館』より
同年、国有鉄道が建設した古江東線(軌間1,067mm)が、志布志~東串良までを開業する。
その翌年には、古江西線(東線開業にともない改称)の串良に乗入れる。 古江西線の買収後は直ちに改軌工事が着手されたが、1938年に古江西線の改軌が完成するまでの串良は、異種軌間が併存する接続駅となっていた。 同年の改軌工事完成に伴って、スイッチバック構造であった鹿屋は駅移転の上で直通可能な配線に改良され、志布志~古江が古江線と改称された。
噴煙たなびく桜島と流れる雲
以降の路線延伸は戦後となり、1961年に海潟まで開通、1968年9月には赤字83線に挙げられつつも、1972年に国分まで開業し全通を果たす。 路線の全通と同時に、路線名を大隅線に改めている。
1972年に開通した区間は
交通網が完成していて需要が見込めず
粗末な設備の駅での開業だった
※『プラットホームの旅』より
だが、全線開業が昭和40年台後半と遅く、既に鹿屋近辺では路線バスなどの自動車交通が充実し、垂水では鹿児島港へ南海郵船(現在の垂水フェリー)が通じていて国分経由の遠回りの鉄道路線は需要が小さく、列車本数が少なく設定されるなど開通当初より利用が低迷し、第2次特定地方交通線の基準を上回る事ができずに、国鉄再建法による廃止対象路線に指定されてしまう。
大隅線を走る快速〔佐多〕
※ ウィキペディア画像を拝借
1984年の廃止承認後、1987年3月14日に全線廃止となってバス路線へ転換された。 なお、1972年における延長区間は、『バス転換された特定地方交通線』としては、北海道の白糠線延長区間(上茶路~北進)と僅か1日違いで最後の開業路線となった。
西郷隆盛最後の地・城山より望む桜島
※『鹿児島の旅』より
1987年3月14日の大隅線廃止後は、国鉄バス(後のJR九州バス)が代替線を運行するという異例の措置が取られたが、後に鹿児島交通(後に大隅交通ネットワークへ移管)に引き継がれた。 2006年になって、鹿児島交通グループが採算性が合わない事を理由に大隅地方におけるバス運行の撤退を表明した為に、関係自治体と県を交えた協議会が開催される事になった。
大隅境駅での列車交換
※『大隅線の思い出』より
《路線データ》
区間(営業キロ):志布志~鹿屋~国分 98.3km、軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)
駅数:33(起終点駅含む)
〔志布志〕・菱田・大隅大崎・三文字・東串良・串良・下小原・大隅高山・論地・吾平・永野田・
大隅川西・鹿屋・大隅野里・大隅高須・荒平・古江・新城・諏訪・柊原(くぬぎばる)・浜平・
垂水・海潟温泉・大隅麓・大隅辺田・大隅二川・大隅境・大廻・大隅福山・敷根・銅田・金剛寺・〔国分〕
運行形態及び運行本数:快速〔大隅〕志布志~国分~西鹿児島 1往復(下りの志布志~鹿屋は普通列車)
快速〔佐多〕宮崎~志布志~鹿屋 1往復
※ いずれも急行からの格下げ列車
普通 志布志~鹿屋 上り10本・下り9本
鹿屋~古江 7往復
古江~垂水 上り6本・下り7本
垂水~国分 5往復
志布志に向かうに従い本数が多くなり、県庁所在地の鹿児島方面への列車は少なかった。
これは、開通の遅かった古江~国分では、既に路線バスなどの交通が確立しており、また鹿児島市内へは、垂水からフェリーで行くルートの方が近道であったからといわれている。
※ 廃線跡の状況及び志布志~大隅川西の各駅は『大隅線 その1』に、国鉄大隅線の年表
及び鹿屋~垂水の各駅は『大隅線 その2』に掲載。
フォトショップで露光修正して
難とか見れるレベルにしたが
元は逆光で真っ黒の黒潰れ
《乗車記 及び 撮影記》
大隅線は一応全線乗車したのだが、撮影地にした大隅麓を去って列車に乗った途端に疲れから終点の志布志まで寝落ちしてしまって、乗った列車の室内灯が淡い光のグローブ灯のキハ20の初期型だった事しか記憶にない。
乗車した大隅線の列車は
キハ20の初期型で室内灯はレトロで
薄暗い光のグローブ灯だった
※『鉄道ピクトリアル 82年3月号』より
撮影地として降り立った大隅麓では、桜島の噴火による火山灰の飛来との競争だった。 それは、撮影場所にした桜島の展望場所が線路より500mほど登ったシラス台地の高台で、一度桜島が爆発すると海からの風で火山灰がシラス台地方へ漂ってきて降り注ぐのである。
「桜島バックに撮れる」と
安易に撮影場所に選んだ大隅麓であったが
列車のない午前中は大人しかった桜島が
古語の列車撮影の時間になると火を噴いたよ
そして、『乗り鉄&撮り鉄』旅の小僧で、着替えなど持っておらずの『着たきりスズメ』で、しかも訪れたのが九州とはいえ冬だったので、着ていたダウンジャケットを脱ぐ事は凍えるって事だったのである。
桜島が爆発すると2~3分で
火山灰が漂ってきて降り注ぐので
全速力で坂を駆け下りて
桜島を背にしたこのゴールマウスに逃げ込んだよ
だから、桜島が爆発して噴煙を上げると、全速力で駅の『ゴールマウス』(掲載写真のようにホーム上にハンドボールのゴールマウスのように半囲いの待合所があるだけ)に駆け込んで、火山灰から避難しなければならなかったのだ。 撮影ごとに繰り出す毎に桜島が爆発したので、坂道ダッシュを3発こなしたよ。
これはワンゲロ(所属していたワンダーフォーゲル部の事で、活動がキチガイじみていた事から軽蔑の意を込めて『ワン“ゲロ”』と呼ばれていた)現役時代で、500m坂道ダッシュもこなせた若さと体力があったので何とかなったが、今ならたぶん心臓発作を起こして死線を彷徨ってるよ・・マジで。
快速〔大隅〕が線路に積もった火山灰を
巻き上げながらやってきたのにたじろいて
絶好のシャッターチャンスを逃してしまったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
その他、下車直後に時刻表を持たずに『撮り鉄旅』をしている弊害から、快速〔大隅〕が火山灰を巻き上げて疾走する絶好のシャッターチャンスを見逃して撮れなかった事である。 そして、桜島で撮った『撮り鉄』写真も逆光黒潰れで、4枚中3枚が見るに堪えないデキだったしィ。
一番マシなのがキハ55がツートンで
黒潰れの浅かったコレで
タラコ塗装のキハ20は
見事に黒く沈んで
識別判読さえ難しくなったよ
やはり下調べナシに、「桜島と撮りたい」という思惑だけでは上手くいかないのは自明の理であろう。 16の幼い小僧にはコレが理解できずに、「天気さえ良ければいいのが撮れる」といった根拠のない自信のみだったのである。 この幼さゆえの脇の甘さが、30年以上たった今に「大隅線はロクに撮る事が出来なかった」と、大いに悔いる事となったのである。
桜島を望む絶景の地に
あった海潟温泉駅
※『海潟温泉駅』より
海潟温泉駅(かいがたおんせんえき)は、かつて鹿児島県垂水市海潟にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
駅構造は棒線ホームの停留所だった
海潟温泉の駅名標
駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく単式ホームと、その上の待合所のみの駅であった。 駅設置当初は、路線の延伸過程での終着駅であった事で駅舎もあって駅員も配置されていた。
築堤上に駅があって
階段で昇り降りしていた
1972年9月の国分までの延伸によって、大隅線が全通となった時に駅は移転して現在の位置となり、その3年後の1975年に無人化されて、その後の駅施設は全て撤去されて停留所規格の無人駅となっていた。
築堤上の高い位置にあった為、ホームへ上がるには階段を昇らなければならなかった。
コンクリート板バリで囲いのみの
ゴールマウス駅だった大隅麓駅
※『プラットホームの旅』より
大隅麓駅(おおすみふもとえき)は、かつて鹿児島県垂水市牛根麓にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
築堤上にあった大隅麓駅
※『プラットホームの旅』より
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。
数年前まで朽ちるまま
放置されていた大隅麓の駅跡
※『国鉄大隅線・大隅麓駅跡』より
駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。 なお、駅舎がなく、無人駅であるという駅が終点の国分まで続く。 駅跡は数年前まではほぼ完全な状態で残っていたが、現在は全て撤去されたようである。
垂水より先の最後に開通した区間は
もはや大隅線への期待はなく
ひと駅を除いて設置された全駅が
駅舎ナシの棒線駅だった
※『プラットホームの旅』より
大隅辺田駅(おおすみへたえき)は、かつて鹿児島県垂水市牛根麓にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
築堤上にあった駅の下は
広い砂利敷の空き地だった
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。
同じ規格の棒線・駅舎ナシ駅の大隅二川
:
ここまで離れると
桜島からの火山灰も
少なくなっているようだ
※『プラットホームの旅』より
大隅二川駅(おおすみふたがわえき)は、かつて鹿児島県垂水市二川にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
垂水市の表記がイタズラで消された
大隅二川駅の駅名標
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。 駅跡周辺には、ハマチの養殖場やビワの果樹園が多い。
駅下が舗装されてるだけ
マシなのかも
※『プラットホームの旅』より
大隅境駅(おおすみさかいえき)は、かつて鹿児島県垂水市牛根境にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
大隅境駅の駅名標
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であったが1面2線の島式ホームを有する列車交換が可能な駅で、当駅折り返しの列車も存在するなど最後に開通した海潟温泉~国分の区間で唯一の列車交換可能駅であった。
だが、駅舎はなく、ホームとその上の待合所のみであった。 当駅の両端はトンネルで挟まれていた。
駅跡は小公園となっていた
※『ブログ爪』より
駅跡には記念碑が建てられている。 駅の両端にあったトンネルの内で、国分側のトンネルの坑口は完全に埋められている。 なお、志布志側のトンネルは今でも残っている。
最後に開通した区間は
全線通じて築堤上に敷かれていた
※『プラットホームの旅』より
大廻駅(おおめぐりえき)は、かつて鹿児島県姶良郡福山町福山(現在の霧島市福山町福山)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
大廻駅の駅名標
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。
ハンドボールのゴールマウスか
はたまたゴミ捨て小屋か
駅跡地は農道に転用され、その跡形はほとんど残っていない。 医療福祉センターが建っている付近が当駅の跡である。
街の中心駅だったにしては
あまりにも粗末な駅だった
※『プラットホームの旅』より
大隅福山駅(おおすみふくやまえき)は、かつて鹿児島県姶良郡福山町福山(現在の霧島市福山町福山)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
大隅福山駅から先の駅名標は
どの駅も錆びてボロボロだった
旧・福山町の中心駅であったが、全通した時に設置された駅同様に単式ホームのみで駅舎のない停留所規格の駅だった。
留置線なのか分岐を外された
側線が残っていた
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 前述の通り、駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。
駅跡は鉄道記念公園となっていた
※『鹿児島の旅』より
駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。 駅の跡地には、鉄道記念公園が設置されている。
同じ様なゴールマウス駅が続く
※『プラットホームの旅』より
敷根駅(しきねえき)は、かつて鹿児島県国分市敷根(現在の霧島市国分敷根)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
敷根駅の駅名標
:
なんでここまで
錆々になるのだろう
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。
駅跡は一般道として収用されて
跡形は全く残っていない
※ ウィキペディア画像を拝借
駅跡は一般道として収用され、跡形は全く残ってない。 付近にはホームセンターがあり、『霧島市・国分ふれあいバス』(コミュニティバス)の赤川停留所が設置され、火曜・木曜日に運行されているとの事。
駅だけを見ると同じような
駅が続いて面白みに欠ける
※『プラットホームの旅』より
銅田駅(どうたえき)は、かつて鹿児島県国分市上井(現在の霧島市国分上井)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 旧・国分市の市街地に入って、各駅間の距離がかなり詰まっていた。
もしかしたら錆びた鉄板の上に
白ペンキで駅名を記したのかな?
駅跡が鉄道記念公園となって
設置された駅名標は
往時の錆々駅名標を真似て
青い鉄板に白抜き文字となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。
ホーム上はどの駅もほぼ同じ
駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。 築堤の上に駅があった。
駅跡は鉄道公園と銘打った
児童公園となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅のあった築堤は、崩されて一般道として収用されて跡形は全くないが、当駅の跡地には鉄道記念公園が設置されており、車掌車ヨ8000型・駅名標・踏切警報機が保存されている。
駅跡公園に置かれた貨物車掌車
※ ウィキペディア画像を拝借
駅跡付近には『霧島市・国分ふれあいバス』(コミュニティバス)の南公園停留所が設置されていて、朝と夕方のみ運行されているとの事。
ここも大隅線の駅だけが
取り残されていた
※『プラットホームの旅』より
金剛寺駅(こんごうじえき)は、かつて鹿児島県国分市中央2丁目(現在の霧島市国分中央2丁目)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
旧・国分市内の市街地に入り、各駅間の距離がかなり詰まっていた。
この駅名標の惨状には
島津の殿様も嘆いておられたと思う
古江線(この延伸と共に大隅線に路線名が改称されている)の海潟温泉~国分の延伸開業と同時に開業した駅で、駅設置当初から無人駅であった。 駅構造は単式1面1線のホームで、棒線構造の停留所規格の駅であった。 駅舎はなく、プラットホームと、その上の待合所のみの駅であった。
駅跡地は一般道用地に収用されている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅周辺にある金剛寺跡には
薩摩藩の藩祖・島津義久公の墓所がある
※『鹿児島の旅』より
駅跡地は一般道として収用され、跡形は全く残っておらず、石碑なども建立されていない。
周辺には駅名の元になった寺・金剛寺の跡があり、島津藩の藩祖・島津義久の墓がある。
また、西郷隆盛最後に地である国分・城山公園も近い。
大隅線最終日の横幕が
掲げられた国分駅
※『プラットホームの旅』より
国分駅(こくぶえき)は、鹿児島県霧島市国分中央三丁目にあるJR九州・日豊本線の駅である。
1929年以前は隣の隼人駅が国分駅を名乗っていたが、1929年に当駅が開設して国分駅と名乗る事になった。 当駅から国鉄大隅線が分岐していたが、JRに経営移管される直前の1987年3月14日に路線廃止となっている。 2020年度の1日平均乗車人員は2,451人で、鹿児島県内のJR九州の駅としては鹿児島中央駅に続いて第2位との事。
大隅線の発着ホームであった『0番線』跡
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅が運転系統の境界駅となっていて、鹿児島中央からの普通列車の大半及び、特急【きりしま】の一部が当駅で折返す。 この事により、当駅より宮崎方面へ向かう普通列車の本数は9往復と激減する。
また、ワンマン運転を行う普通列車においては、当駅より鹿児島中央駅まで車内精算を行わない都市型ワンマン方式となり、ホーム側全てのドアが開く。
近代的な建物となった現在の国分駅
※ ウィキペディア画像を拝借
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを有する駅で、この他に側線が敷かれており、鉄筋コンクリート造の駅本屋を持つ。 また、駅本屋側の単式ホームには、かつて大隅線の列車が発着していた切欠きホーム0番線の跡が残っている。 改札口は東口にしかないが、自由通路を利用して西口駅前広場へ渡る事ができる。
『0番ホーム』で発車を待つ
在りし日の大隅線列車
※『レスポンス』より
JR九州サービスサポートが駅業務を受託する業務委託駅で、みどりの窓口が設置されている。
改札業務は、始発から終電の同駅終着まで行っている。 当駅より鹿児島中央寄りの区間でIC乗車カード『SUGOCA』の利用が可能である。 但し、普通の乗車券・定期券対応の自動改札機はなく、ICカードの読み取り機が設置されているのみである。
プーチンがウクライナ侵攻に踏みきったのは
プーチンが余命幾日もないから
というのが定説になりつつある
コレは「さも有りなん」だよね
幾ら何でも自軍の戦闘可能期間が
8月いっぱいまでで9月に入ると
冬季が近づく恐れから国全体が
戦える状況にないって
いう事など解りきってるだろう
そのリミットを3ヶ月後に控えた
今現在での戦果は
製鉄所一つ落としただけだしィ
また損害が傭兵中心だけど戦死者が
16000を超える(ちなみにウクライナ軍は
2800程という)といつ軍にクーデターが
勃発してもいい位の敗戦状況だ
それに戦車・装甲車などの物的損害も
2000輛を越えているという
フリゲート鑑も沈められるなと
全く戦闘勝利の要素が見当たらない
ちなみにロシアの戦死者が多いのは
戦車を破壊された事によって
乗務員全員か死亡したケースが多いからという
つまり戦車1輛の破壊で
4~5人の戦死者が出るからとの事だ
ロシアにとっての唯一の救いは
コレから3ヶ月間雪のない夏って事だけだ
だが経済制裁の効果は今から2ヶ月後
辺りから急激に押し寄せるよ
要するに「気がついたらジ・エンド」って事だ
北海道より遥かに緯度が高い
ロシアの冬は11月に入るとやって来る
経済制裁の効果と合わさって
凍死・飢え死者の山がロシアを襲うだろう
そうなるとプーチンの首一つで収まる訳がない
ロシアの国自体が瓦解するだろう
ロシアの民は生き残って
この冬を皆で越えたければ
今プーチンを倒すしかないだろうね
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