2022-04-16 (Sat)✎
廃線鉄道 第79回 大隅線 その1 (志布志~鹿屋) 〔鹿児島県〕
大隅高山駅で数人の乗客を降ろす
キハ20系単行気動車
※『プラットホームの旅』より
大隅線(おおすみせん)は、かつて鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志から同県国分市(現・霧島市)の国分までを結んでいた国鉄の鉄道路線(地方交通線)である。 国鉄再建法の施行によって1984年6月に第2次特定地方交通線に指定され、1987年3月14日に全線廃止となった。
桜島近辺や大隅半島の中心地・鹿屋は
大隅線の廃止で
鉄道空白地帯となっている
当時の国分市と、大隅半島の主要都市である垂水市・鹿屋市・志布志市(当時は志布志町)を結ぶ路線であった。 廃止後は大隅半島の大部分が鉄道空白地帯となり、現在は鹿児島市を擁する薩摩半島側への鉄道でのアクセスが悪い状況にある。
大隅線の歴史は、1915年に軌間762mmの南隅軽便鉄道(なんぐうけいべんてつどう)が高須~高山を開業したのに始まる。 同鉄道は翌年に社名を大隅鉄道(おおすみてつどう)に改め、1923年までに古江~串良が全通した。
その後、日南線の一部と共に改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線に挙げられ、1935年に大隅鉄道が買収・国有化されて、軌間762mmのままで国有鉄道・古江線(ふるえせん)となった。
懐かしい鉄道駅の雰囲気を
醸し出していた三文字駅舎
※『ブラットホームの旅』より
同年、国有鉄道が建設した古江東線(軌間1,067mm)が、志布志~東串良までを開業する。
その翌年には、古江西線(東線開業にともない改称)の串良に乗入れる。 古江西線の買収後は直ちに改軌工事が着手されたが、1938年に古江西線の改軌が完成するまでの串良は、異種軌間が併存する接続駅となっていた。 同年の改軌工事完成に伴って、スイッチバック構造であった鹿屋は駅移転の上で直通可能な配線に改良され、志布志~古江が古江線と改称された。
以降の路線延伸は戦後となり、1961年に海潟まで開通、1968年9月には赤字83線に挙げられつつも、1972年に国分まで開業し全通を果たす。 路線の全通と同時に、路線名を大隅線に改めている。
最後の区間の垂水~国分が開通して
全通した時は既に路線バスや
県都・鹿児島への交通が
整備されてジリ貧状態であった
※『レスポンス』より
だが、全線開業が昭和40年台後半と遅く、既に鹿屋近辺では路線バスなどの自動車交通が充実し、垂水では鹿児島港へ南海郵船(現在の垂水フェリー)が通じていて国分経由の遠回りの鉄道路線は需要が小さく、列車本数が少なく設定されるなど開通当初より利用が低迷し、第2次特定地方交通線の基準を上回る事ができずに、国鉄再建法による廃止対象路線に指定されてしまう。
菱田川橋梁を渡る大隅線列車
※『大隅に鉄道があった頃』より
1984年の廃止承認後、1987年3月14日に全線廃止となってバス路線へ転換された。 なお、1972年における延長区間は、『バス転換された特定地方交通線』としては、北海道の白糠線延長区間(上茶路~北進)と僅か1日違いで最後の開業路線となった。
1987年3月14日の大隅線廃止後は、国鉄バス(後のJR九州バス)が代替線を運行するという異例の措置が取られたが、後に鹿児島交通(後に大隅交通ネットワークへ移管)に引き継がれた。 2006年になって、鹿児島交通グループが採算性が合わない事を理由に大隅地方におけるバス運行の撤退を表明した為に、関係自治体と県を交えた協議会が開催される事になった。
大隅線の予想路線図
:
ワラジヤの道路地図を
見ながら作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
区間(営業キロ):志布志~鹿屋~国分 98.3km、軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)
駅数:33(起終点駅含む)
〔志布志〕・菱田・大隅大崎・三文字・東串良・串良・下小原・大隅高山・論地・吾平・永野田・
大隅川西・鹿屋・大隅野里・大隅高須・荒平・古江・新城・諏訪・柊原(くぬぎばる)・浜平・
垂水・海潟温泉・大隅麓・大隅辺田・大隅二川・大隅境・大廻・大隅福山・敷根・銅田・金剛寺・〔国分〕
運行形態及び運行本数:快速〔大隅〕志布志~国分~西鹿児島 1往復(下りの志布志~鹿屋は普通列車)
快速〔佐多〕宮崎~志布志~鹿屋 1往復
※ いずれも急行からの格下げ列車
普通 志布志~鹿屋 上り10本・下り9本
鹿屋~古江 7往復
古江~垂水 上り6本・下り7本
垂水~国分 5往復
※ 志布志に向かうに従い本数が多くなり、県庁所在地の鹿児島方面への列車は少なかった。
これは、開通の遅かった古江~国分では、既に路線バスなどの交通が確立しており、また
鹿児島市内へは、垂水からフェリーで行くルートの方が近道であったからといわれている。
一部区間は『フィットネスパース』と
名付けられたサイクリング
ロードとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡
線路跡はほとんどが道路化されたり、遊歩道や農道になっていて、道路化された部分でも距離標や勾配標などがそのままになっている箇所も多く、廃線跡の中では比較的廃線跡の遺構が残っている。
廃線跡の概要は、撤去されたトンネルの一部や橋梁の一部、圃場整備によって田圃になった論地~吾平の一部と、大隅高須~古江のフィットネスパース未完成部分などを除いて、全線に渡って線路跡をたどる事ができる。 大隅高須の鹿屋方にあるトンネル、古江南方のトンネル、大隅麓の国分方で、垂水市牛根地区の『道の駅・たるみず』北方付近のトンネルについては、フィットネスパースやサイクリングロードの一部として整備の上で利用されている。
シラス台地の上に敷設された線路から
噴煙を上げる桜島を望めた
風光明媚な路線・大隅線
国道220号線の鹿屋市古江地区から霧島市福山地区にかけては、沿道の山手側の山裾のやや高い位置に、路盤や橋梁・トンネルが断続的に続いているのを見る事ができる。
綺麗に整備されたが
大隅線と志布志線が廃止となり
活況を失って寂しい駅となった志布志駅
※ ウィキペディア画像を拝借
志布志駅(しぶしえき)は、鹿児島県志布志市志布志町志布志にあるJR九州・日南線の駅で、同線の終着駅である。 現在は単式ホーム1面1線と側線4本を有する駅で、夜間に列車が1本留置される。
夜21時半過ぎに到着した列車が翌朝5時台の始発になる運用である。 2015年の1日平均乗車人員は7人との事である。
大隅線や志布志線が
あった頃の志布志駅
※ ウィキペディア画像を拝借
かつての国鉄時代には大隅線(1987年3月14日廃止)と志布志線(同年3月28日廃止)が乗り入れていて、ホームも単式と島式複合の2面3線を有していた。 また、駅構内には転車台を備えた機関区があり、数多くの側線が並んでいた。
かつての映画は影もなく消えて
突端式のホーム1面となった志布志駅
※ ウィキペディア画像を拝借
現駅舎は3代目の駅舎で、単式1面1線の突端型ホームは志布志線・大隅線が廃止された後の1990年に、日南線専用として建設されたものである。 駅舎は終着駅らしくホームと直角に建てられている。
また、駅舎移転からしばらくした1992年に無人駅化されている。 2022年の組織改正により、日南線が宮崎支社管轄となった為に、大隅夏井駅と共に鹿児島県内で宮崎支社が管轄する駅となっている。
駅舎が垂直方向に建てられて
突端駅構造となった志布志駅
※『志布志駅』より
なお、現駅のホームは旧駅構内の貨物取扱い用引込み線を利用して建設された為に、現駅舎は旧駅舎(2代目駅舎)のあった場所から約70m北東の場所に移設となり、建物自体の向きも線路と垂直になるように建て替えられた。 また、これらの駅舎改装によって、日南線は起点側(大隅夏井方面)へ約40m短くなった。
駅前はバスターミナルとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅前のバスターミナルは、3か所に分散していたバス停を集約する目的で志布志市が整備したもので、2018年4月15日より運用が開始された。 工事費は約6,100万円であった。
かつては機関区のある鉄道の要衝
だった頃の志布志駅構内配線図
※『志布志駅』より
上述の通り旧志布志駅は、機関区・車掌区・保線区が置かれて転車台も備えていた。 キヨスクもあり、弁当も売っていた。 駅舎のあったホームが1番線、上架橋を渡ると2番線・3番線の両面ホームがあり、さらにその向こう(海側)は広大な貨物操車場であった。 1番線・2番線は志布志線・日南線共通の上下線として使われ、3番線が大隅線が使用していた。
この駅の状況に廃れいく
鉄道の状況が垣間見える
※『トリップアドバイサー』より
山側から降りてくる広い通りの『駅前通り』が商業施設『サンポートしぶしアピア』前の大通りと交わる交差点の位置に、旧駅舎とホームがあった。 なお、『サンポートしぶしアピア』は、志布志線と大隅線が平行して走っていた軌道敷きの跡地に建てられたモノである。
かつては貨物の転車が行われていた
側線は今は使用されているのだろうか
※ ウィキペディア画像を拝借
駅の正面に建てられた『サンポートしぶしアピア』には、日用品店・ゲームセンター・ネットカフェなどが入居している。 以前は2階が映画館であったが、現在は多目的ホールの他、競艇の場外発売場『オラレ志布志』が入居している。 駅左側には森に囲まれた大きな緑地公園がある。
旧機関区の線路は全て撤去されて
広大な草むらとなっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
また、旧志布志機関区の跡地の一部には『志布志鉄道記念公園』が整備されており、C58型機関車・貨物車掌車・キハ52型気動車が保存されている。 以前は志布志運動公園横に展示してあったが、この公園の整備とともに、2000年ごろに現位置に移動した。 2008年辺りからは、有志による車体整備も行われている。
駅舎内はほぼ通路と同じスペース
しかなく実質は駅ではなく
志布志市の観光案内所だ
※ ウィキペディア画像を拝借
2009年8月8日に駅舎内のスペースをJRから市が無償で借り受けて、『志布志市総合観光案内所』がオープンした。 観光案内所では、無料で自転車が借りられる。
廃屋のような駅舎の菱田駅
※『プラットホームの旅』より
菱田駅(ひしだえき)は、かつて鹿児島県曽於郡有明町野井倉(現・志布志市有明町)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
対向ホーム跡が放置されていた
志布志方面から菱田川を渡ってすぐの所に存在した。 元々は相対式ホーム2面2線を有した列車交換が可能な駅だったが、廃止時は単式ホーム1面1線と棒線駅化しており、無人駅となっていた。
また、使われなくなった対向ホームが残っていた。 有人駅時代からの木造駅舎があった。
駅長配置の有人駅だけあって
整った佇まいの大隅大崎駅
※『プラットホームの旅』より
大隅大崎駅(おおすみおおさきえき)は、かつて鹿児島県曽於郡大崎町仮宿にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
相対式ホームと構内踏切と
タブレット受けといったローカル駅の
アイテムがすべて揃っていた
※『プラットホームの旅』より
駅跡は倉庫になっているようだ
※ ウィキペディア画像を拝借
大崎町の中心駅で、駅長が配属される直営駅であった。 千鳥状に配置された相対式ホーム2面2線を有する列車交換が可能な駅であった。 また、駅舎の菱田寄りに、貨物用の側線と切り欠きホームがあった。 駅は緩やかな勾配の途中にあった。
貨物用の突端型切欠きホームもあった
妻面に入口があった三文字駅舎
※『プラットホームの旅』より
三文字駅(さんもじえき)は、かつて鹿児島県曽於郡大崎町仮宿にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 1984年の荷物取扱い廃止時に、業務委託が解除されて無人駅となっていた。
駅跡は駐車場と道路になっている
※ ウィキペディア画像を拝借
大隅大崎駅とは1kmほどしか離れていなかった。 単式ホーム1面1線の棒線駅構造で列車交換不能駅であった。 妻面に出入り口を有する駅舎があった。
無人化された駅の典型的な佇まい
※『プラットホームの旅』より
東串良駅(ひがしくしらえき)は、かつて鹿児島県肝属郡東串良町池之原にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
駅跡は車掌車が静態保存された
鉄道公園となっていたが
車掌車も撤去されて
動輪1つとなっていた
※ 上下ともウィキペディア画像を拝借
東串良町の中心駅であった。 かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換が可能な駅だったが、1985年の駅無人化に伴って交換設備も撤去されて、島式ホームの片面使用による1面1線の棒線駅となった。
また、数本の側線もあったが、貨物ホームと共に本線と分断されて放置されていた。
無人化で荒れていた駅構内
開業時は軌間が違う路線の
接続駅だったが末期は
廃屋然とした無人駅となっていた
※『プラットホームの旅』より
串良駅(くしらえき)は、かつて鹿児島県肝属郡串良町岡崎(現在の鹿屋市串良町岡崎)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
地元の軽便鉄道会社である大隅鉄道が鹿屋側から延伸してきた際に、その終点として1921年8月11日に開業した駅である。 当時は762 mm軌間の鉄道であった。 また貨物営業のない旅客駅であった。
その後の大隅鉄道の経営難に加え、孤立した路線で運営していた鉄道を国鉄につなげる必要がある事などから、国鉄による鉄道買収を要請する運動が行われ、1935年6月1日に軽便鉄道のままで国鉄に買収され、国鉄古江線の終点駅となった。
路線の要衝だった駅が
廃れていく様を見たような気がした
線路撤去の仕方だった
※『プラットホームの旅』より
志布志線の志布志とつなぐ路線は国鉄によって建設が進められ、1936年10月23日に古江東線として開通した。 古江東線は国鉄標準の1,067 mm軌間で建設された為、元々鹿屋側から串良まで延びていた762ゲージの大隅鉄道とは軌間が異なり、当駅で乗換が必須となっていた。 その後、大隅鉄道が建設した区間の改軌工事が進められ、1938年10月10日に改軌工事が完成して、列車の直通運行ができるようになった。
第二次世界大戦後の1948年4月10日に駅舎の改築を行い、軽便鉄道規格であった停車場有効長の延長を行うと共に、側線を設置して貨物営業も行う一般駅となった。 しかし、貨物営業は長く続かず、1962年には貨物営業が廃止となって再び旅客駅に戻った。 1987年3月14日に大隅線の廃止に伴い、廃駅となった。
こんな線路の撤去
の仕方は始めてみたよ
かつては島式ホーム1面2線を有していた列車交換可能駅であったが、島式ホームの駅舎側の線路は撤去されて、片面使用の1面1線を有する棒線駅となっていた。 有人駅時代の木造駅舎があったが、1985年に業務委託契約が解除されて無人駅となっている。
隣の東串良駅との間は600mしか離れておらず、列車に乗り遅れても走って追いかければ間に合ったというエピソードが知られている。
駅跡は気動車が静態保存
された鉄道公園だったが
※『串良鉄道記念公園・鹿屋市』より
1988年に国鉄清算事業団から跡地の払い下げを受けて、1989年に町が串良鉄道記念公園を開設した。
当時の町長が碑文を書いた『大隅線のあゆみ』という記念碑を設置し、プラットホームや踏切、ディーゼルカーなどが展示された。 だが、2003年にプラットホーム・踏切・ディーゼルカーは撤去されて跡地は駐車場となるなど、鉄道記念公園は規模が大幅に縮小されて、鉄道をモチーフにした遊具を置いた児童遊園となっている。
全てが撤去されて
今は鉄道公園でさえなくなった
※ ウィキペディア画像を拝借
プレハブの待合室のみの
駅だった下小原駅
※『ブラットホームの旅』より
下小原駅(しもおばるえき)は、かつて鹿児島県肝属郡串良町下小原(現在の鹿屋市)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
まだ囲いがあるだけマシ
1面1線の単式ホームを有する停留所規格の棒線駅で、昭和30年代に無人駅化されている。
ホーム上に簡易なプレハブの待合室を備えていた。 駅跡地は下小原鉄道記念公園となっているが、空き地に車輪が1つと記念碑が置かれているだけである。
駅跡は動輪一つの
鉄道公園となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
鉄筋コンクリート造で
宇宙ロケット産業の機材を
取り扱った駅だった大隅高山駅
※『プラットホームの旅』より
大隅高山駅(おおすみこうやまえき)は、かつて鹿児島県肝属郡高山町(現在の肝付町)前田にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
貨物を取り扱っていた時は
この駅が線内随一の重要な駅だった
※『プラットホームの旅』より
島式ホーム1面2線と側線数本を有する列車交換が可能な駅で、委託駅であった。 駅舎は3代目で、鉄筋造りの立派なものであった。 駅舎が残されており、高山鉄道記念公園となっている。 かつて線路が敷かれていたあたりは児童遊園となっており、腕木式信号機や転轍てこなどが残っている。
駅構内跡は児童公園の芝生となった
※ ウィキペディア画像を拝借
地元の私鉄である大隅鉄道により、鹿屋方面から延長されて1920年12月23日に終着駅として開業した駅である。 当初は762 mm軌間の軽便鉄道であった。 1921年8月11日に串良駅まで延長されて中間駅となった。
大隅鉄道は、1935年6月1日に鉄道省により買収され国鉄古江線となった。 また、1936年10月23日には、古江線を改称して古江西線とした。 大隅鉄道から引き継いだ駅舎は腐食などの問題が多かった事から、この年に国鉄が駅舎と貨物上屋を新築した。 更に翌年には駅長官舎を完成させている。
その後、762mmから国鉄が使用する1,067 mm軌間への改軌工事が進められ、1938年10月10日に完成し、古江東線と古江西線が合わさって古江線となる。
駅跡は鉄道公園となっているが
実質は駅舎のみの児童公園だ
※ ウィキペディア画像を拝借
軽便鉄道規格で建設された為に有効長が短かった停車場を延長する工事は、第二次世界大戦中から戦後まもなくにかけて順次実施された。 また、営林局や豚の枝肉工場などの専用線が開設されて、貨物の取り扱いが行われていた。 例として1960年の貨物発送量は14,229 t・到着量は9,228 tで、発送はパルプ・木炭・たばこなど、到着は肥料・セメント・小麦粉などの物品であった。
また、1963年に隣接する内之浦町(その後平成の大合併により高山町と合併し肝付町となる)に内之浦宇宙空間観測所が開設されてロケットの打ち上げが行われるようになると、ロケット関連機材を大隅高山駅まで鉄道で輸送するよう貨物需要が加わったのである。 この年から大隅高山駅の到着貨物には、鉄道貨物では滅多に見られない『ロケット機械』という品目が出ていた。
現役自体は鉄筋コンクリートの
殺風景な佇まいだったようだ
1965年2月から駅舎の改築が行われ、鉄筋コンクリート平屋建て215 平方メートルの3代目駅舎が完成した。 当時としては、この地区ではまだ珍しかった水洗便所を備えていた。 また、1969年までにかけて、順次駅前広場と駅前通の拡張工事を実施している。
廃線から30年以上経って
駅舎が残っているだけでも凄いかも
※ ウィキペディア画像を拝借
しかし、1971年になると、この駅での貨物営業は廃止されている。 これに伴い、ロケット機材の取り扱いは志布志へ移転している。 その後、国分まで路線が全通した事に伴って、路線名が古江線から大隅線に改称された。 だが、大隅線自体の利用は振るわず、1987年3月14日に大隅線全線が廃止となって当駅も廃駅となった。
下小原と同様の
プレハブ待合室があった論地駅
※『プラットホームの旅』より
論地駅(ろんじえき)は、かつて鹿児島県肝属郡高山町(現在の肝付町)後田にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。
何もない所に当初は
駅員が4人も配置されたそうだ
※『プラットホームの旅』より
1面1線の単式ホームを有する停留所規格の棒線駅で、無人駅であった。 駅舎は無くホーム上に下小原と同様の簡易なプレハブの待合室を備えていた。
大隅鉄道により開設された駅で、当初は762 mm軌間の軽便鉄道の駅であった。 1935年に国有化され、1938年に1,067 mm軌間へ改軌された。 第二次世界大戦末期に一旦営業が休止されたが、戦後再開された。 再開当初は駅員が4人配置されていたが、利用客が少ない為に2年後には2人に減らされ、さらに1955年には無人化されている。
社宅のような建物だった吾平駅舎
※『プラットホームの旅』より
吾平駅(あいらえき)は、かつて鹿児島県肝属郡吾平町麓(現:鹿屋市吾平町麓)にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 1面2線の島式ホームと側線1本を有する列車交換が可能な駅であった。 駅長配置の直営駅であった。
交換設備を有する
駅長配置の直営駅だった
※『プラットホームの旅』より
大隅線廃止後の駅跡は鉄道公園として整備され、キハ20気動車とと車掌車が保存されている。
また、隣接して吾平町鉄道資料館が設置されて大隅線の歴史を今に伝えていたが、鹿屋市の経費削減方針によって2015年9月30日をもって閉館となった。
駅跡の鉄道公園には
路線を行き交った気動車が
静態保存されているが
保存状態が悪く錆が浮き始めている
※ ウィキペディア画像を拝借
吾平鉄道資料館内にあった資料等については、鹿屋市鉄道記念館のリニューアルに合わせて移設収蔵され、2016年9月30日から公開されている。 なお吾平町鉄道資料館の建物については、鹿屋市の地域包括ケアシステムの構築において中核的な役割を果たす鹿屋市地域包括支援センターに改修され、2016年4月1日から開設されている。
行政の経費削減策で
閉館となった鉄道資料館
※ ウィキペディア画像を拝借
庇だけの待合所の
最も粗末な駅だった永野田駅
※『プラットホームの旅』より
永野田駅(ながのだえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市永野田町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 無人駅で駅舎のない停留所規格の駅で、1面1線の単式ホームとその上の待合所のみの駅であった。 駅跡地は、現在フィットネスパース(自転車歩行者専用道路)の入口となっている。
隣駅より少しマシだが
庇だけの待合所の駅だった大隅川西駅
※『プラットホームの旅』より
大隅川西駅(おおすみかわにしえき)は、かつて鹿児島県鹿屋市川西町にあった国鉄・大隅線の駅(廃駅)である。 大隅線の廃止に伴い、1987年3月14日に廃駅となった。 無人駅で駅舎のない停留所規格の駅で、1面1線の単式ホームとその上の待合所のみの駅であった。
駅跡はサイクリングロードの
途中となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
・・鹿屋駅以降は『廃線鉄道 第80回 大隅線 その2』にて
「僕も初めは(起業なんて)
出来っこないと思ってました」
コレがFIERをするべく
片手間の生活資金稼ぎの
起業を煽るサイトの文句である
もう以前あった肉牛の会員権詐欺商法の
「やれば絶対に儲かる」そのままの詐欺ですなぁ
こんな詐欺そのままの文句に騙されて
自爆するなんてあるある詐欺に
引っ掛かる高齢者以上の強者だよ
確かに起業するだけなら登記費用など
30万円ほど出せば個人会社は設立できる
だが起業した会社を運営するなら
仕事を取る=受注を途切れる事なく
受け続ける事が必須となるのだ
それに取った仕事を受注先の要望通りに
するには経費がいるのである
ITのシステムメンテのような知的商品で
あってもランテストや動作確認の検査行程で
必ず業務用パソコンが必要となるだろう
こんな業務用パソコンは一式で
100万以上の資本投下が必要となるだろう
そんな費用はどうすんの?
それに加えて仕事を取る『営業』と
起業したら義務となる『経理』そして
顧客とのトラブルに対する『クレーム処理』
を一人でこなすか人を雇わねばならないのだ
起業せずに『フリーランス』と称した
モグリと言う手もあるがそもそも企業が
自社の重要機密データを含んだコンピューター
のメンテをモグリなんかに依頼すると思う
なら頭がオメデタ過ぎるよ
それに起業しても確定した受注がある
事を示さない限り金融機関も金を貸して
はくれない=起業した途端に
資金繰りに行き詰まるのである
よしんば金を借りれたとしても翌月から
そのローンの支払いが待ってるのである
500万10年金利3%としても月に5万の返済だ
毎月この返済額+経費+自身の収入分で月に
100万近くを受注し続けないと破綻するだろう
恐らく休む事すらままならず過労死
一直線の目に遭うのは必至で会社勤め
だった頃の倍は苦しいだろうね
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