風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第76回 岩泉線 その1

廃線鉄道  第76回  岩泉線 その1 〔岩手県〕

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まだ春浅い不毛の峠を越えて

岩泉線(いわいずみせん)は、かつて岩手県宮古市の茂市と同県下閉伊郡岩泉町にある岩泉を結んでいたJR東日本の鉄道路線である。

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茂市駅の手製スタンプ

第二次世界大戦中に、耐火煉瓦の原料となる耐火粘土の輸送を目的に建設された路線で、山田線の茂市から分岐していた。 国鉄時代末期に特定地方交通線の第2次廃止対象線区に選定されたが、並行する道路(主に国道340号線)が整備されていなかった為に、代替道路未整備を理由に名松線と共に廃止対象から除外されていた。

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土砂崩れに乗り上げる脱線事故が発生し
これ以降不通となった岩泉線は
復旧される事なく路線廃止となった
※ 岩泉町のウェブサイトより

2010年7月31日に発生した土砂崩れによって脱線事故が発生し、以来全線で運休になっていたが、2012年3月30日に運営元のJR東日本によって「鉄道での復旧を断念してバスによって輸送を継続したい」という方針が示され、2013年11月8日に廃止届が提出される。 廃止届提出から約5ヶ月後の2014年4月1日に路線廃止となった。

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押角付近をゆく岩泉線列車

  全通までの経緯
岩泉線は、1922年に公布された改正鉄道敷設法に掲げられた予定線『岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野付近ニ至ル鉄道及落合付近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道』に準拠して計画された路線である。
この予定線は、袰野(岩泉より少し海岸寄りの集落)で、三陸海岸沿いに走る別の予定線『岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道』に接続する路線敷設計画であった。

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太平洋戦争の軍事物資として
耐火粘土の徴用がなければ
こんな山間路線の建設は
着手されなかっただろう

この予定線は直ちに建設に着手される見込みはなかったが、第二次世界大戦に入ると、小本川上流で耐火煉瓦の原料となる耐火粘土が採掘された事から、これを輸送する路線として山田線茂市から浅内に至る鉄道路線が着工される事となった。

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岩手和井内には小集落があり
通学生の為に岩手和井内折り返しの
区間列車が設定されていた

この路線は小本線と称し、まず1942年6月25日に茂市~岩手和井内までの区間が開業する。 
次いで岩手和井内~押角の区間も1944年7月20日に開業したが、この時点では岩手和井内以遠は貨物輸送のみであった。 その先も浅内までの延長工事が進められていたが、第二次世界大戦中の開通は間に合わず、耐火粘土は索道によって押角まで運ばれていた。 また、木材輸送も行われていた。

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宇津野駅跡地
こんな何もない所にも
駅が設置された時があった
※『旧岩泉線・宇津野駅』より

終戦後も工事は継続され、押角トンネルが貫通した出口に宇津野駅を設け、1947年11月25日に押角から宇津野までの区間も開業する。 これと同時に岩手和井内から宇津野までの旅客営業も開始している。
宇津野までの延伸で工事はいったん中断されるが、国鉄が1952年から着工を開始した24線区の新線建設の中に小本線の宇津野~浅内までの区間も含まれており、1957年5月16日に浅内までが開業する。
浅内までの開業で、宇津野は不要となって廃止されている。

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耐火粘土貨物の取扱駅であった
浅内まで開通した事で
路線建設の目的は達成していたが

ここで計画されていた区間は完成した事になったが、岩泉町は「町の中心まで鉄道が来ないと意味がない」として、猛烈な建設運動を展開したという。 この結果、1961年5月には浅内から小本(現在は三陸鉄道の岩泉小本)までの区間が調査線に指定され、1962年3月には工事線に格上げ指定された。

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岩泉までの延伸は山間の町に住む
住人の請願によるものだった

その後の1968年1月に、日本鉄道建設公団によって浅内~岩泉までの区間が着工となり、1972年2月6日に岩泉までの区間が開業し、既存区間が全通する。 全通と同時に路線名称が岩泉線に改称されている。
延伸区間は旅客扱い(手荷物・小荷物扱いを含む)のみで、貨物営業はそれまでと同様に浅内までであった。

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沿線最大の観光地である
龍泉洞への観光需要などで
一時的に観光客が増加したが
※ 楽天トラベルより

岩泉までの延伸が行われた後は、観光客の増加により利用者数は一時期増加したものの、1975年以降の輸送実績は毎年低落傾向となっていた。

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山間をゆく閑散路線は
廃止対象路線に指定された

  特定地方交通線に選定
1980年に国鉄再建法が成立すると、沿線自治体や住民は岩泉線の存続や小本までの区間の早期着工を求める運動を行ったが、岩泉線の輸送密度が特定地方交通線の選定基準であった1977~79年の平均数値で667人/日しかなかった為に、1982年に第2次特定地方交通線に選定される。 また、同年11月15日には茂市~浅内の貨物営業も廃止となった。

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国道340号線の旧押角トンネル
沿線のサミットである押角峠は
狭隘区間が続く通行が困難な峠道だった
※ ウィキペディア画像を拝借

この廃止対象路線の選定を受けて岩手県や新里村・岩泉町の沿線自治体では、並行道路である国道340号がバス代替道路として適当かを検証する為に、国鉄バスをチャーターして試走する事になった。
沿線住民の団体は更にバス4台をチャーターしてこの検証に加わり、1982年12月24日に行われた試走は、バス5台と数台の乗用車で構成された大掛かりなものとなった。

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冬の峠道の脇に
押角駅を示す看板がポツリ
※ ウィキペディア画像を拝借

当時の国道340号は、押角峠の前後15kmで幅4m以下の未改良区間が続いており、この試走ではトラックとのすれ違いに苦労したという。 この結果を元に地元自治体は「バス転換はできない」と主張したが、国鉄側は「代替道路として十分対応できると再確認した」と主張し、意見が対立する事となった。

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国道340号線の押角峠越が難路で
事故発生の危険が高かった事から
当初は県や沿線自治体が岩泉線の
廃止に強固な反対を唱えていた

この存廃問題の対応として、岩手県は1983年3月15日付で運輸大臣宛に岩泉線廃止反対の意見書を提出する。 その後、運輸省でも国道340号の現地調査を行った結果、1984年6月には岩泉線を含む6路線については廃止承認を保留とし、1985年8月には岩泉線と名松線については承認先送りとする事を決定・通知する。 この決定に伴って、国鉄も岩泉線の廃止承認申請を取り下げる事になった。 これで取り敢えずは、岩泉線が存続される事が決まった。

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並走道路の峠越区間の未整備が理由で
ひとまず存続される事となったが

岩泉線の存廃問題は取り敢えず収まったものの、1986年のダイヤ改正で運行本数が削減され、この減便によって新里村内での通学手段が奪われる事となった為、その代替として岩手県北自動車が同年3月3日より、茂市~和井内に路線バスの運行を開始する。 また、1992年のダイヤ改正による更なる減便で日中に運行される列車がなくなった際には、岩泉町の市街地と岩手大川を結ぶ路線バスの運行が、岩泉自動車運輸によって開始されている。

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過疎どころが無人の峠地帯をゆく
閑散路線に新たな需要はなかった

  再び存廃問題が浮上
存続が決まった岩泉線ではあったが、減便を繰り返す悪循環によって利用者数の減少に歯止めがかからず、また1995年時点での岩泉線の沿線人口は2万人程度で、この時期の岩泉線の1日の利用者数は僅か186人と「鉄道の輸送人員とは思えない数字」とも評される始末で、1994年に調査された1日1kmあたりの平均輸送密度は94人/日にまで落ち込んでいた。

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茂市で接続する山田線も
バスに旅客を奪われて
減便を繰り返し県都・盛岡への
往来ができない状態だった

また、この時点で、岩泉から県都の盛岡まではJRバス東北と岩手県交通の共同運行による『早坂高原線』が2時間27分で結んでおり、岩泉~宮古でもJRバス陸中海岸線と三陸鉄道を乗り継げば1時間圏内であり、岩泉町内で岩泉線の恩恵があるのは岩手大川近辺の地区のみであった。

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岩泉線を廃止にしたくて
しょうがないJR東日本は
からめ手で廃止を迫ってきた

1995年になって、JR東日本盛岡支社が沿線自治体に、『岩泉線の今後を考える勉強会』の開催を申し入れる。 JR側は一方的に廃止とは述べていなかったが、沿線自治体はこれを『廃止通告』と受け止め、更に山田線の存廃問題に関わってくる事を警戒し、『宮古広域圏鉄道対策協議会』を設立した上で、JR東日本に対してダイヤ改善やスピードアップなどの要望書を提出する。

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この悪路にバスを通すのは
さすがにムリがあった

1996年には、『勉強会』の席上でJR東日本から第三セクターへの転換提案などが提議され、翌1997年にはこの各種の提案に基づいて、沿線住民の団体が大型観光バスをチャーターして国道340号を走行し、「安全性に問題あり」と表明した。

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輸送密度46人・・
これ以下は北海道の美幸線の24人
留萌本欄の末端区間の39人しか知らない

その後も輸送人員は減少し、2009年度の輸送密度は46人/日にまで落ち込んでいた。 これはJR東日本の在来線全67線は元より、JRグループ全路線はおろか、私鉄・第三セクター鉄道を含めた全鉄道路線の中でも最下位となる数字であった。

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龍泉洞から小本へ抜ける
バス路線もあった

なお、岩泉~小本(現在は三陸鉄道の岩泉小本)の陸中海岸線は、2003年4月1日にJRバス東北岩泉営業所と同時に廃止され、岩泉自動車運輸が運行を担当するコミュニティバス『岩泉町民バス』へ移管されている。

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脱線事故で不通となってからは
復旧される事なく路線廃止となった
※ 岩手日報より

  災害による不通から廃止へ
2010年7月31日に、押角~岩手大川の茂市起点23.965km地点で土砂崩れに列車が乗り上げて脱線する事故が発生する。 この事故後に路線復旧の手が着けられる事なく、岩泉線は長期に渡って運休となり、以降は2年近く放置される。

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事故以来運休が続いた岩泉線に
2012年の春に最後通牒が通告された
※ ウィキペディア画像を拝借

事故から2年近く経過した2012年3月30日に、JR東日本から「岩泉線の復旧を断念し、バスによって輸送を継続したい」という方針が発表された。 この廃止諮問に対して「復旧費用が圧縮できる」とする岩手県側と、「あくまでも廃止・バス転換」とするJR側との隔たりが大きく協議は難航する。 2013年9月5日にJR東日本が協議を打ち切る形で廃止を正式通達したが、自治体側は依然として存続を要求していた。

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この峠道の改良が岩泉線廃止への
最大の近道と悟ったJR東日本は
鉄道トンネルの無償提供を承諾して
廃止へと流れ出したのだった

その4日後の9月9日に、JR東日本が国道340号押角峠の道路改良に協力する事を提案する。 
この提案を受けた岩手県が、押角峠の道路改良の検討を始める。 この段階では「岩泉線の存廃問題は切り離して考える」としていたが、後に岩手県が『岩泉線の廃線が避けられない場合、押角峠の道路改良に岩泉線の押角トンネルを利用する手法』を提示し、2013年11月中に宮古市・岩泉町がこの提示を受け入れる方向で最終調整が進められる。

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国道340号の道路改良には
岩泉線の押角トンネルが
供される事となった

岩泉線の押角トンネルを車道に差し替えて、道路幅を拡幅する方針が確定的となった2013年11月7日に、岩泉線を廃止する事でJR東日本・岩手県・宮古市・岩泉町が合意し、翌8日に国土交通省に廃止届が提出された。 2013年12月19日に意見聴取が行われた結果、廃止日を2014年4月1日に繰り上げる事が認められ、廃止日を繰り上げる届出が2014年1月8日に国土交通省へ提出された。

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廃線跡となって
その構造の美しさに気づく

1987年4月のJR東日本発足以降における同社管内での路線廃止は、第三セクター鉄道へ転換された路線を除けば1997年10月1日の信越本線・横川~軽井沢以来2例目で、同一線区の全線での廃止は同社発足以来初めてとなった。なお、事故災害により列車の運行不能だった為に、廃止セレモニーは行われなかった。

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茂市駅で待機する岩泉線代行バス
※ ユキサキナビより

災害によって岩泉線が不通になった時から列車代行バスが運行されていて、当時岩泉町に本社があった東日本交通が運行を受託していた。 廃止後は同社による路線バス(茂市岩泉線)に転換ている。

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岩泉線の路線図

《路線データ》
路線区間(営業キロ):茂市~岩泉 38.4 km、軌間:1,067 mm
複線区間:ナシ(全線単線)、電化区間:ナシ(全線非電化)、閉塞方式:スタフ閉塞式、
交換可能駅:なし(全線で1閉塞)
  ※ 1986年3月の無人化及び交換設備撤去まで、岩手和井内と浅内に交換設備があった。
駅数:9(起終点駅含む)
〔茂市〕・岩手刈谷・中里・岩手和井内・押角・岩手大川・浅内・二升石・岩泉
  ※ 1947年11月25日~1957年5月16日に、押角~岩手大川の間に宇津野駅があった。
    これは押角トンネル前までの延伸開通時に終着駅として設置されたもので、設置当時
    は貨物扱いのみであったが、程なく旅客も扱われる。 その後、1957年5月16日の浅内
    延伸時に駅廃止となった。
最高速度:85 km/h、運転指令所:盛岡支社・盛岡総合指令室(運転取扱は茂市駅)

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区間列車は早朝6時台の
1番列車であった

  岩泉線 年表
1942年(昭和17年)  6月25日:小本線として、茂市~岩手和井内 10.0 km 開業
                岩手刈屋・岩手和井内の2駅新設
1944年(昭和19年)  7月20日:岩手和井内~押角 5.8 km 延伸開業及び、貨物駅として押角開業
                なお、この延伸区間の当初は貨物営業のみだった
1947年(昭和22年)11月25日:押角~宇津野 4.5 km 延伸開業及び、宇津野1駅新設と押角の
                旅客営業開始
1957年(昭和32年)  5月16日:宇津野~浅内 10.9 km 延伸開業及び、岩手大川・浅内の2駅新設
                同区間の延伸開業に伴い、宇津野廃止
1966年(昭和41年)10月  1日:中里1駅新設
1972年(昭和47年)  2月  6日:浅内~岩泉 7.4 km 延伸開業及び、二升石・岩泉の2駅新設
                なお、この延伸区間は旅客営業のみであった
                また、この延伸で既存区間の全線が開業となり、路線名を岩泉線
                と改称する
1982年(昭和57年)11月15日:茂市~浅内の貨物営業廃止
           11月22日:特定地方交通線の第2次廃止対象線区に選定
1984年(昭和59年)  6月22日:運輸大臣が廃止承認を保留
1985年(昭和60年)  8月  2日:代替道路未整備を理由に、岩泉線が廃止対象から除外される
1986年(昭和61年)  3月  3日:岩手和井内・浅内2駅の無人化に伴って交換設備が撤去され、
                茂市~岩泉の岩泉線全線がスタフ閉塞による1閉塞化される
1987年(昭和62年)  4月  1日:国鉄が分割民営化され、JR東日本に承継される
2010年(平成22年)  7月31日:押角~岩手大川で土砂崩れが発生し、列車が乗り上げて脱線する
                事故が発生し、以降は全線で不通となる
           8月  2日:災害による脱線事故により不通となった岩泉線全区間で代行バス
                による 代行輸送開始(8月16日までは押角と二升石は通過)
2012年(平成24年)  3月30日:JR東日本が鉄道路線を廃止し、バス輸送へ転換する方針を発表
2013年(平成25年)  9月  5日:JR東日本が沿線自治体に、正式に岩泉線の路線廃止を伝達
           11月  7日:岩泉線の路線廃止でJR東日本と沿線自治体が合意
           11月  8日:JR東日本が国土交通省に廃止届を提出
2014年(平成26年)  1月  8日:廃止日繰り上げを届出
           4月  1日:茂市~岩泉 38.4km 全線が路線廃止となる

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岩泉駅に掲げられていた時刻表
時刻表示のデカさは
運行本数の少なさを誤魔化す為か?

  運行形態
開業当時は1日5往復が運行されており、すべて混合列車であった。 終戦直後に1往復が運休となり、更に1947年3月には1日3往復に減便されていたが、1952年には1日5往復に戻されている。

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減便に次ぐ減便で
この列車の後は夕方まで列車がない

1961年2月より気動車が導入されて、二年後の1963年2月には全ての旅客列車が気動車化されている。 また、所要時間が、1時間半から50分前後に短縮されている。 旅客列車の気動車化と同時に、貨物列車が2往復設定されていた。 その後しばらくはこの状態が続いたが、貨物列車は次第に運休が多くなり、1976年以降は1往復に減便され、1982年11月15日に廃止となった。

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茂市で接続する山田線も
県都・盛岡への列車が朝夕4本のみと
全くやる気がない運行形態だった

1982年11月15日ダイヤ改正では、岩泉線から山田線経由で盛岡方面への連絡が全く考慮されないダイヤとなり、沿線住民の不評を買ったという。 なお、設定時期は不明であるが、下り岩泉行き列車の一部を岩手和井内で切り離して、折り返しの山田線の津軽石行きの上り列車が1本設定されていた。

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忘れていた事を思い出す
ように列車がやってくる

1986年3月のダイヤ改正では、効率化を図る目的で全線を走る列車は3往復に減便となり、岩手和井内で折り返す列車が1往復設定された。 また、このダイヤ改正と同時に。駅の無人化と途中2駅(岩手和井内・浅内)の交換設備の廃止撤去が行われて全線が1閉塞になった為、増便が不可能になった。
その後、日中に臨時列車が1本設定(火曜日を除く)され、1988年には定期列車に昇格したが、1992年3月のダイヤ改正で再び削減されて3往復に戻っている。

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復旧の試算で110億円
かかる事が判明して
復旧は不可能と断じられた
※ 四国新聞より

2010年7月31日に土砂崩れによる脱線事故が発生して全線運休となったが、同年8月2日から1日4往復の代行バスが運行開始された。 当初の代行バスは押角と二升石を通過していたが、8月17日に最寄り国道上に仮設の停留所が設置されて、以降停車となっている。 また、一部のバス便が宮古駅発着となった。

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岩泉線代行バスの広報チラシ
※ マイナビニュースより

  代行バスは以下の通り設定されている。
宮古駅前~茂市駅前~岩手和井内駅前~岩泉駅前:朝上り1本、夕1往復
茂市駅前~岩手和井内駅前~岩泉駅前:朝下り2本、夕1往復
岩手和井内駅前 → 茂市駅前:朝上り1本

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押角峠の狭隘区間を通る代行バスは
当然マイクロバスが充てられている
※ 岩泉町の代行バス案内より

2014年4月1日の岩泉線廃止日より運行された東日本交通の代替路線バスは、茂市駅前と岩泉病院を結び、茂市駅前発の岩泉病院行きが1日4本、岩泉病院発の茂市駅前行きが1日3本、和井内駅前発の茂市駅前行きが1本運行され、旧宇津野駅前停留所と浅内駅前の間はフリー乗降区間が設定されている。

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末期は『日本一の閑散路線』
にまで落ちた岩泉線

  輸送実績
宇津野駅まで開業していた1955年度の輸送状況は、旅客輸送量が約51万7千人(1日平均1416人)・貨物輸送量は約14万4千トン(1日平均394.5トン)となっていた。 また、最大の旅客輸送量を記録したのは岩泉まで全通した後の1975年度で、約61万7千人(1日平均1690人)であった。 その後は減少の一途をたどり、国鉄分割民営化から少し後の1989年度が11万8千人(1日平均323人)だったものが、1995年には8万9千人(1日平均244人)にまで落ち込んでいる。

貨物輸送量が最も多かったのは1960年度で、約18万トン(1日平均493トン)の輸送量があったが、貨物輸送が廃止される前年の1981年度は1万7千トン(1日平均45.6トン)であった。

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こんな無人地帯を
通る路線に乗客は望めまい

  輸送密度
2000年以降の輸送密度は散々たるもので、2000年初頭の一日平均の利用客70人台から、災害によって運休となり代行バスとなっていた2012年は19人/日まで落ち込んでいた。 なお、最も輸送量が少なかった北海道の美幸線が廃止になって以来、私鉄や第三セクター路線を含めた全国の鉄道路線で、最も輸送密度が少ない線区が岩泉線だと知れ渡るようになったのは、災害事故による不通の前年である2009年度に46人/日の数値が公表された時である。

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岩泉線には旧国鉄塗装の
キハ52も入線していた
※ 盛岡駅にて

  使用車両
開業当時は客車と貨車を同時に連結した混合列車で、宮古機関区のC58形蒸気機関車が使用されていたと考えられている。 1961年2月から気動車が導入されており、1983年時点で運行列車の全てかエンジン2基搭載のキハ52形が使用されていた。 その後の1990年代には、キハ52形単行又はキハ58系も含めた2両編成で運行されていた。

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旧国鉄型車両の置き換えとして
水郡線から移籍した
『ヨモギトッピング』が充てられた
※ 山田線・上米内にて

旧国鉄型車両の置き換えが進んだ2007年には、水郡線から転用されたキハ110系に置き換えられている。
なお、使用車両にかかわらず、花輪線や山田線と同様にワンマン運転は実施されていなかった。

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中里~岩手和井内の1区間は
岩泉線の線路を利用した
観光レールバイクが開業している
※『岩泉線レールバイク』より

  廃線跡の状況
岩泉線廃止後の茂市~岩手和井内の鉄道施設・用地は宮古市に、浅内~岩泉は岩泉町に、押角~岩手大川に所在していた押角トンネルは岩手県に無償譲渡された。 岩泉駅の駅舎は、岩泉商工会とJRバス東北が引き続き利用している。 中里~岩手和井内は、2016年6月より観光施設としてレールバイクの営業を開始している。 押角トンネルは道路用に拡幅され、2020年12月13日に国道340号のトンネルとして開通している

   ※ 乗車記及び駅一覧は『第77回 岩泉線 その2』にて


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