2022-02-20 (Sun)✎
廃線鉄道 第75回 京急大師線(一部廃止区間) 〔神奈川県〕
川崎市電に譲渡前の
川崎市電との並走
:
塩浜操車場(現 川崎貨物駅)の
建設に伴う用地収用で1964年に
京急大師線共々運行休止され
後の1970年に正式廃止となった
※ 『地方私鉄・1960年代の回想』より
大師線(だいしせん)は、京急川崎と小島新田を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。
全線が神奈川県川崎市川崎区内にある。 当路線は、関東私鉄大手の一翼を担う京浜急行電鉄の発祥路線で、交通安全で有名な川崎大師への参詣路線として、後に京浜急行電鉄の母体となる大師電気鉄道の手により1899年1月21日に六郷橋~大師(現在は川崎大師)までの2kmが開業した。 開業時は、単線で折り返しのみの1閉塞路線だった。
また、六郷河畔(現在の多摩川)久根崎に建設された発電所によって、自社で給電していた。
当初の開業が僅か2kmとなったのは、起点となる川崎界隈で人力車夫の猛反対があった事や人家密集地域であった為に川崎から路線を敷設する事ができずに、途中の六郷橋からの開業となった為である。
開業当時は車両数が5両、最高時速13km/h、従業員数17人、列車運行時間は午前7時~午後8時までという極めて小規模な参拝鉄道であったが、開業から7ヶ月経過した8月29日には複線化工事に着手し、3ヶ月の工事で11月29日には複線化工事を完了して、複線化されている。 また、開業から3年後の1902年9月には念願の川崎への乗り入れを果たし、10月17日に川崎大師の平間寺境内にて開業式を挙行している。
いち時期は大東急の傘下となった
京急大師線も末端区間は市電に譲渡され
譲渡された区間もろとも国鉄の貨物駅
建設の用地提供の為に路線廃止となった
そして、1942年5月に戦時交通統制令によって東京急行電鉄に合併・併合されて、いわゆる『大東急』時代になると、川崎大師より産業道路まで延伸し、その後も小刻みな延伸を続けて、終戦年(1945年)の初頭には桜本までの全線が開通した。
終戦後の『大東急』の解体(1948年)によって京急に分離された後は、参拝路線から埋め立ての進む京浜工業地帯の足となった。 一時は周辺の工場への引き込み線もあり、大師線を通っての国鉄の貨物輸送が折り込まれ、標準軌の京急の軌間の間に狭軌幅となるように1本のレールを敷いたいわゆる三線区間もあった。
川崎市電への譲渡後も残されて
1500Vへの昇圧も行われた
小島新田~塩浜の区間は
国鉄貨物駅建設の用地提供の為に廃止となった
※『京急大師線と川崎市電(1964年)』より
その後、大師線の路線近代化を図るべく1500Vへの昇圧工事が行われ、1951年3月16日に昇圧工事が完了し、この大師線の昇圧をもって京浜急行が保有する全路線の1500V昇圧が完了する。 だが、大師線の末端区間である塩浜~桜本の昇圧は見送られ、600Vのまま塩浜~桜本は川崎市電に譲渡される事となった。 なお、3月16日は大師線への川崎市電乗り入れ開始日であり、正式な譲渡期日は1952年1月1日付となっている。
なお、川崎市電に譲渡された塩浜~桜本は、196年3月25日に譲渡区間の大半にあたる池上新田(桜本の塩浜寄りの次の停留所)~塩浜が運行休止(正式廃止は1967年8月1日)となり、その2年後の1969年4月1日には川崎市電自体が全線廃止となっている。
川崎貨物駅建設に伴う用地提供の為に
小島新田~塩浜も路線廃止となり
小島新田駅も川崎貨物駅の
敷地外まで300mの移転となった
※ ウィキペディア画像を拝借
また、廃止となった小島新田~塩浜の残り区間であるが、川崎区域の主要操車場であった浜川崎(貨)駅の貨物受け入れ態勢が限界に達した事により、1964年に国鉄は新たに川崎貨物駅(当時は塩浜操駅と呼ばれていた)を建設して開設させた。 その貨物駅用地として供出が求められた大師線の小島新田~塩浜及び川崎市電の池上新田~塩浜の運行が休止となり、小島新田も開設された貨物駅の西側に移転する事となった。
その後の1967年に川崎市電への譲渡区間(旧大師線区間)が廃止となり、前述の通りその2年後の1969年4月には川崎市電全線が路線廃止となっている。 また、1970年11月20日に大師線の最後の廃止区間である小島新田~塩浜も正式廃止となった。 この操車場建設による分断によって、現在の路線状況が確定したのである。
京急大師線と川崎市電への
譲渡区間の予想路線図
※太線部分が京急大師線関連区間
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離(営業キロ):小島新田~桜本 3.5 km、軌間:1,435 mm、
電化区間:大師線開業当初は直流600V、その後大師線の1500V昇圧により塩浜までは1500Vで
塩浜~桜本は川崎市電への譲渡前提の為に昇圧は見送られて600Vのままだった
複線区間:全線開業当初は、1952年(実質は1951年3月16日)の川崎市電譲渡区間を含めて、
廃止区間の全線で複線であったが、1948年に塩浜~桜本が単線化されている
駅数:21駅〔小島新田〕・旧小島新田・塩浜・入江崎・桜本
※ 旧小島新田は、川崎貨物駅建設に伴う用地提供の為、旧駅を含む路線の廃止及び
現在の位置(300m北西)に駅移転となった
※ 塩浜~桜本は1952年1月1日に川崎市電に譲渡され、その後の国鉄貨物線の塩浜操車場
(現 川崎貨物駅)の開業に伴う線路提供の為に譲渡区間の大半が1964年に先行休止
(正式の廃止は1967年)となっている。 なお、1969年の川崎市電の全線廃止に伴い、
譲渡区間も全線廃止となった。
塩浜駅で川崎市電と並ぶ大師線電車
※『京急大師線と川崎市電(1964年)』より
京急大師線・一部廃止区間の年表
1899年(明治32年) 1月21日:大師電気鉄道(京急の前身)により川崎(後の六郷橋)~大師
(現在の川崎大師)が開業する
川崎・池端・大師の3駅設置
4月25日:大師電気鉄道が京浜電気鉄道に社名変更
11月29日:全線が複線化
1904年(明治37年) 3月 1日:全線が1372 mmに改軌
1925年(大正14年)11月 :大師が川崎大師に改称
1933年(昭和 8年) 4月 1日:全線が1435 mmに再改軌
1942年(昭和17年) 5月 1日:京浜電気鉄道が東京急行電鉄に合併(いわゆる大東急)し、
東急の路線(東急品川線の一部)となる
1943年(昭和18年) 6月 1日:軌道法に基づく軌道線から、地方鉄道法に基づく地方鉄道線に変更
1944年(昭和19年) 6月 1日:川崎大師~産業道路(現在の大師橋)が開業(軌道法に基づく
軌道線)し、東門前・産業道路の2駅設置
10月 1日:産業道路~入江崎が開業(軌道法に基づく軌道線)し、小島新田
・塩浜・入江崎の3駅設置
1945年(昭和20年) 1月 7日:入江崎~桜本が開業(軌道法に基づく軌道線)し、大師線全通と
なる 桜本1駅設置
1948年(昭和23年) 6月 1日:大東急解体に伴って、東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離される
月日不明 :塩浜~桜本が単線化
1951年(昭和26年) 3月 :1500Vへの昇圧を控え、昇圧が見送られた塩浜~桜本が休止
3月16日:京浜川崎~塩浜の架線電圧が1500Vに昇圧され、塩浜~桜本を
除いて京浜急行電鉄全線で架線電圧が統一となる
これと同時に600Vのままの塩浜~桜本の区間に川崎市電が乗り
入れ開始
1952年(昭和27年) 1月 1日:塩浜~桜本を川崎市へ譲渡し、同区間は川崎市電の一部となる
1964年(昭和39年) 3月25日:小島新田~塩浜が塩浜操駅(現在の川崎貨物駅)建設の為に休止
となり、これに伴って小島新田が京浜川崎寄りに300m移転
同日に川崎市に譲渡された桜本~塩浜の大部分も運行休止
1967年(昭和42年) 8月 1日:休止中だった川崎市電譲渡区間の大部分が正式に廃止となる
1969年(昭和44年) 4月 1日:川崎市電の全線廃止に伴い、譲渡区間も全線廃止となる
1970年(昭和45年)11月20日:小島新田~塩浜が正式に廃止となり、現在の路線が確定する
永らく駅構内のみの
単線折り返しの駅だった
移転後の小島新田駅
※ ウィキペディア画像を拝借
小島新田駅(こじましんでんえき)は、神奈川県川崎市川崎区田町二丁目にある、京浜急行電鉄大師線の駅で、現在は同線の終点となっている。 旅客駅としては、神奈川県の最東端に位置する。
2010年に駅敷地を味の素工場の
専用側線跡地にセットバックして
漸く終着駅として相応しい
島式1面2線の駅となった
※ ウィキペディア画像を拝借
島式ホーム1面2線を有する駅で、1964年3月25日に川崎貨物駅建設に伴う用地提供により京急川崎寄り(北西方向300m)に移設された。 駅移転以来は当駅構内のみ単線となっていたが、2010年3月にホームを西方に40m移設して1面2線化されている。 用地の一部に味の素工場側線跡地を使用している。
旧小島新田駅
:
川崎貨物駅建設の用地提供により
路線廃止となって駅も移転となった
※『京急大師線と川崎市電(1964年)』より
駅名の由来は、この地域はかつて多摩川の河口で、江戸時代後期に小島六郎左衛門と池上七左衛門が干拓し新田開発を行い、その功績を称えて北側を『小島新田』・南側を『北池上新田』と呼ばれた事に由来する。 周辺の地主には、その子孫である小島姓が多い。
2020年度の1日平均乗降人員は18,800人であり、大師線の中では最も乗降客が多い駅である。これは当駅前に、付近の工場などへ向かう従業員の送迎バスが発着する為である。
塩浜駅に進入する大師線電車
塩浜駅(しおはまえき)は、かつて神奈川県川崎市川崎区に存在した、京浜急行電鉄大師線の駅および川崎市電の停留所である。 1970年に正式に廃止された。 現在の川崎貨物駅の海側、国道132号夜光交差点西南角に存在した。 現在は川崎市バス塩浜停留所がある。 跡地は重機会社が所在している。
1944年10月1日に、相対式ホーム2面2線の駅として開業する。 下り線は貨物列車を運行するため三線軌条となっており、終電後に運行されていた。 塩浜~桜本の京急路線が川崎市電へ譲渡された後、京急は下り線側のホームと線路を撤去して上り線のみの運用を行い、下り線の跡地に改めて川崎市電が安全地帯と線路を設置した。
京急の駅舎は、上り線ホーム側に置かれていた。 なお、京急と川崎市電の軌間は同じ1435mmであったが、線路は分断されていた。 但し、貨物専用の線路(軌間1067mm)はそのまま存置され、川崎市電はそのまま三線軌条となって、貨物列車は京急から川崎市電を経由し国鉄線へ乗り入れていた(京急側と川崎市電側とでは三線軌条の敷設状況が異なっていた)。
入江崎
※ 国土交通省提供の上空航空写真より
入江崎駅(いりえざきえき)は、かつて神奈川県川崎市川崎区塩浜三丁目にあった川崎市電の停留所である。 当初は京急大師線の鉄道駅として開業したが、1952年に当駅を含む塩浜~桜本が京急から川崎市電に譲渡され、以降は市電の停留所として営業していた。
桜本駅
※ 国土交通省提供の上空航空写真より
桜本駅(さくらもとえき)は、かつて神奈川県川崎市川崎区にあった川崎市電の停留所である。
元々は京急大師線の鉄道駅でもあり、同線と川崎市電の接続駅であったが、1951年に大師線の塩浜~当駅が川崎市電に買収され、以降は川崎市電単独の停留所となった。
産業道路脇に敷設された専用軌道上にある相対式ホーム2面2線の駅て、川崎市電に譲渡後は電停扱いとなった。 上り線は三線軌条だったが、川崎貨物駅(開業当初は塩浜操駅)が開業した1964年3月25日以降は池上新田~浜町三丁目間の上り線の線路敷を国鉄に譲渡して単線化して三線軌条を解消している。
単線化以降は、廃止になるまでは1面1線となっていた。 ホーム(安全地帯)は産業道路の歩道に接していた。
駅跡は神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)および首都高速神奈川1号横羽線の脇にあたり、現在は緑地帯となっている。 付近には川崎市バスの桜本停留所がある。
「コンピューター技術は信用していない」と
この前に言った最大の理由は
扱う人間自体がコンピューターに
追いついていない事に加えて
人間が時にその技術を悪用するからである
そしてその悪用する人間は
つとめて「自分のPCスキルに自信を持った」
自惚れまくった奴が多く
これらは『犯罪予備軍』と言ってもいいだろう
だがこんな限りなく内向的な
技術・スキルは四六時中部屋に籠って
PCiに向かっていなければ
会得できない技術・スキルで
こういった技術は会得できても
人間関係の構築や
世の中の空気を読むとかの
人との付き合いの術や
PCを使わず自らの頭で分析する事や
想像力・計算力・表現力などの
人としてもつ能力を
使用せずに大いに枯渇させるのである
でもプライドだけは一丁前で
PC技術を持たない者を
大いに見下しているので
いつも「(オレは能力があるのに)周りが
無能ばかりでやる気をなくすのだ」
とか同僚をディスる暴言を吐いたり
「コイツは自滅思考でもあるのか?」
というようなとんでもない事を繰り返す
「それを実行すれば周囲に恨まれて
孤立して立ちいかなくなるよ」という事を
周囲に対しての自らの怒りだけを原動力に
回避する裏付けもナシに繰り返す
例えば仕事を辞めたがってるこのオッサン
敵対する上司や会社や上司に媚びるなど
自らの考えと反する同僚に対して
「ワクチンではなく生きの良いウィルスを注射して
やれば良い」などと完全アウトな暴言吐いてるしィ
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