風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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『ネームトレイン』 第7回  (近鉄)名伊特急

『ネームトレイン』 第7回  (近鉄)名伊特急

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ワテのカメラデビューの年にデビーした
2階建てのビスタ・カーは
今もバリバリの現役で
半分ヘタったワテより丈夫だ

  (近鉄)名伊特急 ・・ 近鉄が運行する特急系統の1つで、名古屋と伊勢志摩を結ぶ特急列車
名伊(めいい)特急は名古屋と伊勢志摩を結ぶ系統で、近鉄名古屋~津・松阪・宇治山田・五十鈴川・鳥羽・賢島の区間で運行されている。 阪伊特急と同じく、甲乙両タイプが設定されている。
一部の乙特急は、伊勢中川で阪伊乙特急と連絡して名阪間のフリークエンシーを高めているほかにも、一部列車は津で名阪甲特急に接続し、大阪と白子・近鉄四日市・桑名との連絡も図っている。

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中京圏の伊勢湾岸都市を結び
観光・ビジネスに貢献する近鉄名伊特急
※ ウィキペディア画像を拝借

日中は毎時2本運行されるが、ビジネス利用が多い朝の上りや夕方の下りには本数が多い。
その為、近鉄特急の中では本数が最も多い系統である。 近鉄名古屋より桑名・近鉄四日市・白子の利用であれば、運行区間が重複する名阪乙特急も本数に加わって、1時間に3本・20分ヘッドの運行とな。
更に、三重県の県庁所在地駅の津には名阪甲特急も停車するので、1時間4本・15分ヘッドとなる。

前述でも記したように名阪・阪伊同様甲特急と乙特急の2タイプがあるが、阪伊特急同様2000年代以降甲特急の設定は極端に減り、現在では土休日に1往復が走るのみである。 だが、2013年に、甲特急と同様に停車駅の少ない【しまかぜ】が新設されている。

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23000形『伊勢志摩ライナー』
昔の近鉄特急の代表格は
二階建てのビスタカーだが
今は前面展望や特別内装車両を連結する
観光向け車両が代表格となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

甲特急と一部の乙特急は23000系【伊勢志摩ライナー】で運転される。 1993年のデビュー当時も甲特急の大半を同列車が担ったが、その後の運用変遷で伊勢志摩ライナーやビスタカーが乙特急、一般車が甲特急に充当されるような時代も続いた。

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名阪特急の間合いで
運用されるアーバンライナー
※ ウィキペディア画像を拝借

現在では甲特急そのものが減少して、甲特急には伊勢志摩方面への使用車両の代表格である【伊勢志摩ライナー】が充当されている。 また、乙特急は一部が名阪系統の間合いで、【アーバンライナー】が充当となっており、80000系【ひのとり】導入後はアーバンライナーが増加している。

運行パターンは阪伊特急と同様に、志摩線直通の列車と宇治山田又は鳥羽止まりの列車が交互に設定され、後者で志摩線に向かう場合は志摩線直通の阪伊特急が連絡する場合もある。 上り列車も概ね同様の運行体系であるが、一部列車が五十鈴川を始発化するなどの違いがある。 また下りの場合、志摩線直通列車は名古屋発19時台の運行で終了となり、以降は宇治山田や鳥羽止まりとなり、志摩線へは普通列車の接続となる。 深夜になるにつれて運行区間が短くなり、最終は津止まりである。

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近鉄特急の運行マップ
※ ウィキペディア画像を拝借

名伊特急が初めて運行されたのは1960年1月の事であるが、名古屋と伊勢を結ぶべくの運行自体は、名古屋線が狭軌であった1948年7月から開始されている。 これは会社の合併吸収で成り立った近鉄の歴史に関わる事で、阪伊の路線敷設が標準軌(1435mm)の大軌・参宮急行であるのに対し、名古屋~伊勢中川が狭軌(1067mm)の三重電で、軌間の相違から伊勢中川で阪伊特急に乗り換え接続の処置が取られていた。 

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左前面部分にトイレが設置され
片目の特急と言われた
名車2200系の特急【すずか】
※『鉄道ファン・1979年4月号』より

詳細を言えば、分割運転されていた名阪特急の名古屋線側(名古屋~伊勢中川)と、宇治山田まで延長された大阪線側の名阪特急を伊勢中川で接続させる事で、名古屋と伊勢を連絡したものである。

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名古屋~伊勢中川の狭軌区間の特急車両は
「災い転じて福と成す」の実話として有名な
伊勢湾台風の被災を契機にした
名古屋線の改軌で直通運行が可能になるまで
伊賀線に投入されていたこの車両だった

伊勢湾台風での被害に伴う復旧に際して名古屋線は標準軌に改軌され、1959年12月の改軌工事完成時より、分割運転していた名阪特急は統合されて名阪間の直通運転となり、名阪特急に接続する形で伊勢中川~宇治山田を結ぶ短区間特急が運行された。

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伊勢中川の名阪連絡線を通る名阪特急
名阪特急はスイッチバックとなる
伊勢中川の手前で連絡線を通り
ショートカットしている
※ ウィキペディア画像を拝借

その1ヶ月後の翌1960年1月に、名阪甲特急の伊勢中川無停車化によって伊勢連絡がなくなった事による代替として、名古屋~宇治山田に乙特急5往復が新たに設定されたのである。 その後、1965年10月には甲特急も設定されている(宇治山田行きのみ伊勢市停車、名古屋行きはノンストップ運行だった)。

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観光特急【しまかぜ】
東海道新幹線の開通により
名阪間の都市間輸送より
伊勢志摩への観光輸送が重要視され
観光向け車両も投入された
※ ウィキペディア画像を拝借

当初は5往復のみの運行だったが、1964年10月の東海道新幹線によって名阪特急の需要が低下し、逆に名古屋で東海道新幹線に接している事から、新幹線利用客の伊勢志摩方面への観光誘導という需要が生まれ、名伊特急が重要視されるようになった。 また、中部経済圏の発展と共にビジネス需要の増加もあって増発が重ねられた。

だが、名伊間の圧倒的シェアを占めた名伊特急も、JRとなって運行を開始した快速〔みえ〕というライバルの出現や、モータリゼーションの進展、伊勢志摩観光の低調もあって2000年代までは輸送量は低下傾向となり、阪伊と同様に平日の甲特急の運転が取りやめとなっている。

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池ノ浦の干潟に
つながれたボートを前景に
快速〔みえ〕を撮ってみた
でも参宮線は未だに
未乗線区だったりする

 快速〔みえ〕と名伊特急
名古屋~鳥羽では、近鉄に並行するJR・伊勢鉄道に快速列車〔みえ〕号が設定されている。 
2003年10月のJRダイヤ改正で、名伊特急が設定されない毎時35分に名古屋を発車する運行バターンが確立されている。

なお、近鉄では名阪乙特急が近鉄名古屋駅を毎時30分に発車し、近鉄名古屋~津の間で競合するが、JRの〔みえ〕は単線区間で列車交換を行なう為、津へは乙特急が先着する。 また、名古屋~津の運行頻度も、近鉄特急が名阪特急と合わせて1時間あたり4本と多い。 そして、利用客における知名度や認知度も、比較にならない程の差がある。

だが、料金面では、近鉄特急が全席指定で特急料金が必要であるのに対して、JRの〔みえ〕は指定席を除いて料金不要で、また伊勢鉄道線経由の運賃合算分を考慮に入れても近鉄特急より安くなる。
最大の料金差である名古屋~松阪で、JRが930円も安くなる。 だが、快速〔みえ〕は2両で内1両指定席車両と輸送量が小さく、単線区間を経由するなどラッシュ時の増便対応が不能となっている。

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特急同士のすれ違い
伊勢中川以遠は
普通より特急の方が本数が多い
※ ウィキペディア画像を拝借

《列車データ》
運行区間:近鉄名古屋~松阪・宇治山田・五十鈴川・鳥羽・賢島(最終は津止まり)
     144.8km(賢島まで)
運行期間:1960年1月~現在(但し、名古屋線が狭軌だった1948年7月より、軌間の異なる伊勢
              中川乗り換えで名伊連絡をしていた)
運行本数:日中は宇治山田・五十鈴川・鳥羽止まりと志摩線・賢島直通が交互に毎時1本づつで、
     朝夕のラッシュ時や深夜には松阪行などが増便される。
停車駅:甲特急(現在は土休日1往復のみ)近鉄名古屋・津駅・伊勢市・宇治山田・鳥羽・志摩
                     磯部・鵜方・賢島
    乙特急 近鉄名古屋・桑名・近鉄四日市・白子・津・(久居)・伊勢中川・松阪・伊勢市・
        宇治山田・五十鈴川・鳥羽・志摩磯部・鵜方・賢島
     ※ 久居は朝の上りと夕方から夜間にかけての下りのみ停車
使用車両:汎用特急車両(22000系や30000系ビスタ・カーなど)を軸に、23000系【伊勢志摩
     ライナー】や21000系【アーバンライナー】が投入されている。 土休日に1往復のみ
     の甲特急は、23000系の限定運用である。 名古屋線内の特急停車駅のホーム長は最大
     8両までの対応となっている為、最大編成両数は8両となっている。
所要時間近鉄名古屋~津 (66.5km) 45分~52分 (表定速度76.7~88.6km/h)
     近鉄名古屋~宇治山田 (107.1km) 76分~88分(表定速度73.0~84.6km/h)
     近鉄名古屋~賢島 (144.8km):122分~132分(表定速度71.2~65.8km/h)
乗車経験:何度もアリ
撮影経験:9歳の時に鳥羽駅でアリ

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少し流れているけど
三島でブルートレインを撮るまで
コレが小僧だったワテの№1写真だった

 《撮影にまつわる思い出》
ワテは基本的に在来線を食い潰す『ガン細胞化』しているシンカンセンは嫌いで、名古屋~大阪はつとめて近鉄特急に乗る事にしている。 そして、ワテの住む大阪市の南側は、新大阪で東海道本線と大阪で環状線の2度の乗り換えを擁するのである。

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シンカンセンっていつ見ても
ブサイクで撮る気が湧かないわ
※ ウィキペディア画像を拝借

自由席が16両編成の最果てにあるという指定席予約客優遇のシンカンセン商法がワテの肌に合わない上に、現に所要時間も近鉄特急に比べると、乗り換え時間と乗降時の名古屋と新大阪で500m近い距離を歩かねばならぬ事(これだけでも名古屋・新大阪でそれぞれ10分近くかかる)から、名古屋から大阪市内の南側にある自宅まで20分の差しか出ないのである。 そして、料金差は1500円以上・・。

しかも、シンカンセンホームの中ほどにある指定席を取ると、料金差は2000円以上となる。 
もちろん、ホーム最果てにある自由席利用だと、【こだま】以外はほぼ座れないのである。 
そして、【こだま】利用だと近鉄特急より遅かったりするのである。 コレは、名古屋~大阪でシンカンセンは「まず使えない」という答えがでるだろう。 現に、名古屋以遠の利用以外はシンカンセンを利用しないわ・・。

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山から下りた後は荷物を
担いでの移動は極力避けたいし
「座りたい」ワテには
名古屋~大阪は近鉄特急一択だ
※ ウィキペディア画像を拝借

ヤマからの帰りも、テント一式20㎏を担いで立ち席は御免だろう。 だから、北アの玄関口である松本方面からの帰りは、特急【しなの】から名古屋で近鉄特急に乗り換えて『安くて座れる(近鉄特急は全車指定席)』パターンが、ワテの中で確定しているな・・。 現に、名阪間に区切ってのシェアも、昔の2対98から3対7にまでなっていると言うしィ。 大阪南部に住む者ならば、近鉄の方が快適で断然お得だよ。

あぁ・・、またシンカンセンを愚痴ってしまったけど、撮影の思い出に移ろうか・・。 名伊特急を撮ったのは、遥か昔の齢9歳の時に、3番目の母親(ワテの歳のせいもあってこの母親が最も母親だった)につれられた最初で最後(かもしれない)の家族旅行(但し親父は家に帰ってこず不参加)の時である。

この時は3番目の母親の都合(スナックのママだった)でこの家族旅行が流れそうになった時は、泣き喚いてゴネたのを憶えている。 そう言えば、中学の時に引っ越しで転校しなければならない事にゴネて、1週間家出もしたっけなぁ。 それで、中学の越境を勝ち取ったけど。 思えば、幼少時代からワリと『薄幸』だったのねェ、ワテって。 よくグレずに『アウトローなロクデナシ』だけで収まったよねェ、感心感心・・。

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薄幸!?な幼少の境遇から
『甲斐性ナシのロクデナシ』に育ったワテが
これ以降に鳥羽に行くのは
いつも料金不要の快速急行だったよ

のっけから重い話題となったが、この家族旅行は楽しかったし、鳥羽の水族館やイルカショーなど、生涯唯一の本当の家族旅行だったと思うよ。 そして、何より楽しみにしてたのが、鳥羽駅で大好きな近鉄特急を撮る事である。

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この時使ってたカメラは
ブログ村バナーでも使っている
コノカメラです
今は動かなくなったが
整備すると10万近くの価格が着く
プレミアモノとなっている

この時所持してたカメラは、先祖伝来っていうか家に転がっていた東京光学の『TOPCON 35L』という昭和35年式(形式名からもそうだと思う)のアンティクカメラで、レンズ一体式なのに重さ1㎏近くとF-1のボディに匹敵する重さで、今のカメラの倍の重さがあり、すざましい事に絞り・シャッタースピードの撮影条件は全てマニュルで、もちろんピントもマニュアルだがピント合わせグラスもなく、かろうじて中央に黄色いピント合致指標があるだけだった。

もちろん、ファインダーの中にはこの中央の黄色いピント合致指標以外に何もないのに、何故かASA(今はISO)感度合わせがあった。 フイルムカウンターはダイヤル合わせ式で、撮るごとに1目盛りずつ減っていくアナログの権化で、極め付きは何と巻き上げが奇跡の2回巻き上げだった。

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おかげで参宮線の
グリーン付きの客車も撮れたよ

こんな大人の玄人カメラマンでも扱えないようなシロモノを、齢9歳の細腕で構えていたのだ。
それで、大好きな近鉄の鶴橋や今里駅国鉄大阪駅のハシゴをしていたのである。 だからが、腕っぷしが細く腕力は全くない(『残念』で喉の身の一部を切除して更に力がなくなった)のに、写真では手ブレが少ないのよね~。 夜のバルブ撮影や滝でスローシャッターを撮る以外は、『3ナイ運動』を遵守して全て三脚なしの手持ちなんだけど。

それに、ヤマでの鎖場通過とか、岩のよじ登りとか、20㎏担いで四捨五入して0.1トンとなった身体を腕力で強引によじ登ったり・・と、普段は非力なのに「やる気になった」時だけ腕力が増大する都合のいい身体になったよ。

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名伊特急と判別できる列車は
大手ブレモノだしィ

まぁ、掲載写真は、退色補正をカマしても黄色い変色が残る1970年台後半の40年以上モノだし、撮ったのが9歳でカメラが大人でも扱えないアンティクカメラで、しかも「最初(にして最後)」の家族旅行でハシャいでいたので『ブレ・ボケ・流れ・逆光黒潰れ』と、通常なら掲載できるレベルの写真ではありません・・、悪しからず。

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フイルム写真と近鉄ビスタ・カー
昭和から平成の歴史を語る
偉大な『我が国の宝物』だ

でも、フイルムの力は偉大だ。 ほぼ半世紀前に近づいた写真でも、原板となるネガを持っていれば再現できるのだから。 前記事の『30万アクセスanniversary』のリバ-サル(ポジフイルム)だと、40年近くのモノが退色補正ナシで再現できるのだから・・。 コリは、経営が苦しい近鉄のせいで、この鳥羽の家族旅行の時にデビューした3代目ビスタ・カーが、未だに現役で特急料金取って走っているのと同じく『レジェンド』だと思うよ。


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昔も今も一部の奴だけが利益を得る
行動や施策は必ずその領内
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東京五輪の開催がその最たるモノで
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となる競技場を建てたゼネコン建築屋や
強化名目に国民の税金を湯水のように使い
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その為に日本は感染爆発という
大被害に遭って万単位の
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感染拡大中の状況で開催された東京五輪
東京五輪によって多くの日本の国民が
死に至り感染爆発の原因が
東京五輪である事が明白な事実となっている


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この結果に焦った開催を煽った奴らは
事もあろうか保身と責任逃れの為に
感染者を多く出した日本人の若者層を
「外出規制に従わぬ為に起こした
感染原因である」と罪を擦りつけたのである

そしてその舌の根も乾かぬ内に
シナ五輪にも参加して強化名目に
コーチやその家族など感染源そのものの
外人の入国の規制をザルにして
再び感染爆発を呼び起こす

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昔と同じと冒頭で書いたが
昔は悪政に対して一揆や暴動で
為政者を倒す事があった
だが今は飼い慣らされて
無抵抗で従順な飼い犬と化しているよ









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