2022-02-17 (Thu)✎
第二弾で明らかに掲載写真がオーバーしてパソコンがフリーズしかねないので、第二弾を分割して『第三弾・後夜祭』とする事にしますた。 が・・、第二弾を書き終えた時点で、もう125も超えていたよ。
それに第一弾も力作なので「1日は新着記事として留めたい」という事で、第三弾公開の時は『後夜祭』と呼べない状況となってるだろうね。
でも、ワテには武器がある。 それは、『ユニークスキル・ハジシラズ』又は『コウガンムチ』というものだ。 閲覧者が違和感を持とうが、不快に思おうが気にも留めない鋼の『ユニークスキル』である。
まぁ、バナー下を書いてる時点で、この『ユニークスキル』を使いまくりなんだけど・・ね。
恐らく復活して欲しい路線の
ナンバー1がこの興浜北線だろうね
興浜北線 こうひんほくせん
かつて、北海道枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅で天北線から分岐し、オホーツク海沿岸を南下して枝幸郡枝幸町の北見枝幸に至る国鉄の路線で、浜頓別を終点とする興浜線の北側の先行部分として開業した路線で、南側部分の興浜南線より遅れる事10ヶ月の1936年7月10日に開業している。
興浜北線は北見神威岬の灯台下を
車輪を軋ませながら通過していた
当線の先行開業後も、興浜線(興部~浜頓別)全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定されて延伸工事は凍結となり、既存区間も興浜南線より半月早い1985年7月1日に路線廃止となっている。
その岬は崖が海に落ちる
断崖雪壁の難所で
荒れる冬の海の情景そのものだった
改正鉄道敷設法別表第145号に規定する予定線の一部で、本来は興浜南線と結んで興部~浜頓別のオホーツク海沿岸を縦貫する鉄道(興浜線)となる計画であった。 1936年に北見枝幸までが開業したが、太平洋戦争末期の1944年に不要不急線として全線が休止、全線路が撤去された(樺太の鉄道用に利用される予定であったが輸送前に終戦を迎えた)。
在りし時の北見枝幸駅
※ 『旅と鉄道』'83年春の号より
終戦の翌9月に枝幸村から政府への復旧陳情が行われるとすぐに許可が下り、全道から工事作業者を募集して、工事着手から僅か2ヶ月の12月5日に復活させた。 両線間の未成区間の一部で建設工事も行われていたが、沿線の開拓計画の頓挫などから建設は進まなかった。
「もっと上手く撮れてれば」の
悔いは尽きないが
乗って足跡を残せただけでも
十分過ぎる程に幸運だったのだろうね
結局、1980年に施行された国鉄再建法によって接続する予定であった興浜南線と共に第1次特定地方交通線に指定され、未成区間の延伸工事が凍結されると共に、両線とも1985年7月に全線廃止(当線の廃止は、興浜南線の廃止より2週間早く断行された)。 稜線の廃止により、一部で完成していた未成区間の路盤等も放棄された。
名も無き野花が切ないまでの
時の無常観を漂わせていた
:
駅跡を訪れて最も『無常感』を
感じたのがこの斜内駅跡だった
更に、両線が接続していた天北線と名寄本線も第2次の特定地方交通線に指定され、JR北海道に承継された後の1989年5月に両線とも全線廃止となっている。 また、北見枝幸からは、宗谷本線の美深を起点とする美幸線が接続する計画もあった。
生涯の『お宝写真』を撮ったのを
思い出してジーンとなったよ
その思い出の岩の上に立ち
撮った時を思い出して
同じようにシャッターを押してみる
この延伸工事も、開業済みの仁宇布から先で一部路盤やスノーシェッドなどの延伸工事が行われ、一部の区間では路盤がほぼ完成していて『レールを敷けば開業』の状況まで漕ぎつけたが、美幸線の既存区間自体が『日本一の赤字線』となるほど経営環境が悪かった為に北見枝幸までの全線開通は叶わず、美幸線も当線と同様に第1次特定地方交通線に指定されて1985年9月17日に廃止されている。
路線廃止から30年経って再訪した冬
貫通トンネルの完成で
断崖絶壁をめぐる道路も棄てられて
あの時の鉄路と同じく捨て去られしモノが
奏でる鎮魂歌を響かせていた
廃止協議の過程で、北見枝幸~雄武を完成させて天北線・名寄本線・湧網線などと一体化させる『オホーツク縦貫鉄道構想』も立案されたが、開業しても毎年数億円単位の赤字が発生する事が判明し、結局は断念されている。
吹雪をついて撮った写真が
興浜北線の最後の写真となった
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
浜頓別~北見枝幸 30.4km 111 / 2201
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85/ 7/ 1 宗谷バス 6往復
恐らく興浜北線と共に最も
復活して欲しいと思う路線・興浜南線
興浜南線 こうひんなんせん
かつて、北海道紋別郡興部町の興部で名寄本線から分岐し、同郡雄武町の雄武までを結んでいた国鉄の路線で、 浜頓別駅を終点とする興浜線の先行部分として開業した路線である。 当線の先行開業後も、興浜線(興部~浜頓別)全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定されて延伸工事は凍結となり、既存区間も1985年7月15日に路線廃止となっている。
興浜南線きっての景勝地が
流氷の名所・日ノ出岬だ
名寄線開通により鉄道が敷設された興部村とその北側の雄武村は幾多の恩恵を受けたが、興部と雄武の間には道路が整っておらず、融雪期や多雨期の水産・農産物輸送に支障が出ていた。その折の1922年4月に公布された鉄道敷設法に、興部より幌内・枝幸を経て浜頓別に至る路線(興浜線)が含まれていて、鉄道敷設請願が実った形に期待を寄せられた。
日ノ出岬の展望櫓は
殺風景なガラス細工に建て替えられていて
冬季は「誰も来ないから閉鎖」だった
:
この光景に「時の無常」を強く感じたよ
だが、政府の予算不成立などによって着工は遅延する一方の状況に、公設を待たずに私設鉄道を作る機運が高まるほどになっていた。 その工事着手は1933年春までずれ込み、1935年9月15日にようやく沿線の漁場や山林開発を目的とした興浜南線・興部~雄武が開通した。
今は『道の駅・おうむ』となっている
:
利用者のほとんどが
農協スーバーの買い物客だけど
館内に興浜南線の資料展示コーナーがあるよ
※ ウィキペディア画像を拝借
先行部分開業後も雄武~枝幸の未成区間の開通を目指して積極的な陳情を行ったが、太平洋戦争の拡大により同区間の着工は棚上げされ、興浜南線自体も1944年10月5日に不要不急線に指定されて、同年11月1日より営業休止となって省営自動車による代替輸送が行われた。
オホーツク海の海岸段丘をゆく
興浜南線の列車
この休止により剥がされた線路などの鉄材は樺太の軍用施設に転用される予定であったが、運ばれる前に終戦を迎えた事からいち早く復旧に着手し、終戦から4ヶ月足らずの1945年12月5日に路線が復活した。
興浜南線が最も活況を呈していた時に
設置された元沢木仮乗降場
再開後は通学生や鮮魚商で活況を見せ、1955年12月には新たに仮乗降場2ヶ所(元沢木と雄武共栄)が設置され、運行の手間のかかる蒸気機関車牽引列車に代えて機動性に富んだレールバスの運行を開始した。
更に、1966年3月には大型気動車が導入され、若干ではあるがスピードアップも適った。
興浜南線の最盛期には
海の幸満載の貨物列車が行き交っていた
このように、投入車両の刷新が行われた昭和30年代前半までが興浜南線の最盛期で、同年代中盤より客貨量共に徐々に減少し始め、1959年3月より線内各駅を興部駅の管理とするなどの合理化も進められた。 黒字とはならなかったが営業係数は125~200前後であった事から、1960年4月に雄武~北見枝幸の着工が決定し、延伸工事が進められた。
興浜南線で撮れた唯一の
『マトモ』なデキにして
ワテの生涯における
『お宝写真』の一枚となったコレ
昭和40年代に入ると、過疎やモータリゼーションの進行により営業成績が急激に悪化する事となる。 1960年の年間輸送人員は42万4千人程であったが、1970年は29万8千人に減少し、以降も減少の一途であった。 また、貨物取扱量も最盛期の半分以下に落ち込んでいた。 これを受けて、雄武~北見枝幸の未成区間の工事は1977年度をもって中止となった。
例え廃止を控えたローカル線でも
除雪作業は滞る事なく行われていた
各地で鉄道路線の赤字問題が取り上げられる中、1981年9月11日に稚内から興浜南線などオホーツク海沿いの鉄路を経て釧路へ至る『オホーツク本線敷設構想』を沿線自治体で立ち上げる。 これは興浜線の工事再開や需要喚起を狙っての事であったが、この1週間後となる9月18日に接続する予定であった興浜北線と共に、国鉄再建法による第1次廃止対象路線に選定されたのである。
中興部駅で偶然もらったお宝グッズ
:
興浜南線廃止後にこの証明書写真を見て
「ここで撮れてればなぁ」と悔やんだよ
この第1次廃止対象路線指定により、興浜南線の沿線自治体である興部町と雄武町は興浜線の工事再開やオホーツク本線どころではなくなり、興浜南線の存続運動に注力する事となる。 だが、1982年度の営業係数は1,734にまで悪化するなど万策尽き、廃止を認めざるを得ない状況となる。 1984年2月に貨物取扱が廃止となり、1985年7月14日の当路線の廃止をもって、半世紀に渡る興浜線建設の歴史の幕が閉じられた。
雄武駅は枝幸行のバスに乗り換えや
『撮り鉄』の撮影本数確保の為に
すぐに折り返したので
往時の思い出はあまり無かったりして
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
興部~雄武 19.9km 203 / 1734
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85・ 7・15 北紋バス 6往復
神岡線は山峡の人口稀薄地帯にあった
そんな人口稀薄地帯に鉄道を通した理由は
神岡鉱山からの貨物輸送だった
神岡線 かみおかせん
富山県富山市の猪谷駅から岐阜県飛騨市の奥飛騨温泉口駅に至る神岡鉄道が運営していた鉄道路線で、国鉄の特定地方交通線であった神岡線を1984年より引き継いだ第三セクター路線運営の路線である。
2006年12月1日に全線が廃止されている。
神岡鉱山施設を横目に
神岡線列車が行き交う
当路線は神岡鉱山から産出される亜鉛鉱石の輸送が目的の鉄道であり、改正鉄道敷設法別表にも制定時から『富山県猪谷ヨリ岐阜県船津ニ至ル鉄道』として掲げられている。 鉱山へは1922年に軌間762mm(後に610mm)の神岡軌道(専用鉄道、後に地方鉄道)が、高原川を挟んだ対岸から通じていたが、本路線の開業とともに1967年に廃止されている。
路線の半分以上が
トンネルや橋梁だった神岡線
高原川沿いの急峻な山間を走る為、全線の64%がトンネルまたは橋梁という山岳路線で、車窓からは風光明媚な景観を魅せていた。 だが、これは裏を返せば沿線は山峡の人口稀薄地帯という事で、鉄道の存在意義は鉱山から産出される貨物の輸送であった。
1984年10月に国鉄神岡線は
神岡鉱山の親会社である
三井金属鉱業が筆頭株主となった
第三セクター鉄道に経営移管された
1984年に国鉄から神岡鉄道へ第三セクター鉄道として転換された後も、神岡鉱山からの硫酸輸送を行ってきたが、神岡鉱山を運営する神岡鉱業がトラック輸送に切り替えた為に、2004年10月15日限りで硫酸輸送は終了に追い込まれ、同年12月末で貨物営業も休止された。
だがその筆頭株主の三井金属鉱業が
トラックへの貨物輸送切り替えという
神岡鉄道を廃止に追い込む決定を下したのだ
この貨物取り扱いが無くなった事で、収入の7割以上を占め経営の柱であった貨物輸送がなくなり、転換交付金も底をつく見込みである事などから、2005年6月29日に神岡鉄道は神岡線を2006年末限りで廃止する方針を決め、2005年8月2日の臨時株主総会で2006年12月1日廃止が正式決定された。
神岡鉄道の廃止直後は
変な目論見を抱いた企業が
神岡鉄道の経営移譲に向けて
水面下で動いていたという
この間、フランスの公共交通会社『コネックス』(現・ヴェオリア・トランスポール)や東京都の旅行代理店『トラベルプランニングオフィス』などが飛騨市に経営移譲を申し入れる動きがあったものの、『コネックス』との交渉は立ち消え状態になり、『トラベルプランニングオフィス』も株主代表訴訟を提起するなど三井金属鉱業に対して強く経営移譲を求めていたが、後日取り下げている。
路線廃止後の2006年9月に飛騨市の定例市議会で、当時の市長より神岡鉄道廃止後に鉄路を不定期の観光鉄道として存続させる道を模索する意向の表明が出され、同年11月29日に三井金属鉱業との間で存続に向けて15億円の寄付(再開後の経営に失敗した場合に必要となる線路撤去費などへの備えなど)と、軌道の無償譲渡を受ける事で大筋合意した。
だが、「観光鉄道として存続させる」表明をした市長が2008年の市長選でこれを批判する候補に敗れ、三井金属鉱業からの15億の寄付金は鉄道施設の撤去に使われる方針となり、観光鉄道の開業は困難な見通しとなった。
その一方で、地元の住民グループは廃線の線路上で軌道自転車を運行する『レールマウンテンバイク』の運行を考案し、2007年から飛騨市観光協会に飛騨市も協力する形で廃線跡のうち、2.9kmで実験運行を開始する。 実験運行で好評を博した事から営業日数が徐々に増やされて、2012年からはシーズンを通しての運行となり、運営はNPO法人の『神岡・町づくりネットワーク』に移管された。
神岡線が『初めてのローカル線
撮り鉄』だったりする
廃線跡活用を主張する候補が市長選に破れて、一度は限りなく廃線跡の活用が困難になったが、2016年の選挙で市長が代わると再び廃線跡を活用した施策に積極的となり、旧神岡鉱山前駅に保存中の車両(KM-101)を旧奥飛騨温泉口駅に移設する事や、その際に廃止以来10年ぶりに自力運行を実施する事が発表され、実際に2017年4月8日に奥飛騨温泉口へ回送運行されている。 その後もシーズン中は奥飛騨温泉口駅で展示され、冬に入る頃には再び自力走行により旧神岡鉱山前駅の車庫に戻るパターンが確立されている。
軌道のみならず、鉄道車両についても観光用の活用に向けて整備が進められ、2020年10月に廃線および構想から14年の歳月を経て、ついに動態保存による観光鉄道が実現している。 奥飛騨温泉口~神岡大橋では、普通自動車運転免許証の所持で、公式サイトから予約を行う事で、実際の神岡鉄道の運転士の指導を受けながら車両の運転体験を行事とができる観光事業が開設された。 翌2021年には、運転体験可能な区間が旧神岡鉱山前まで延長されている。
神岡駅(神岡鉄道への経営移管後は
奥飛騨温泉口に駅名改称)に停車中のキハ52
《路線データ》
〔国鉄・神岡線〕
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
猪谷~神岡 20.3km 256 / 522
移管年月日 転換処置
’84/10/ 1 神岡鉄道
移管時運行本数
猪谷~神岡 6往復〔土曜 7往復〕
〔第三セクター・神岡鉄道〕
営業区間と営業キロ 廃止年月日 廃止転換処置
猪谷~奥飛騨温泉口 19.9km. ’06・12・1 濃飛乗合自動車バス
富山地方鉄道バス
移管先廃止時運行本数
猪谷~神岡(奥飛騨温泉口)6往復
神岡(奥飛騨温泉口~神岡口(神岡鉱山前)3往復
列車は終着の北見相生に向けて
雪を蹴ってスパートをかけた
相生線 あいおいせん
かつて、北海道網走郡美幌町の美幌で石北本線から分岐し、同郡津別町の北見相生までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定(指定日時は1981年9月)され、1985年4月1日に路線廃止となっている。
壮大な路線延伸構想があった事は
駅スタンプの図柄で知るのみである
元々は釧路~美幌を結ぶ『釧美線』(せんびせん)として計画された路線で、1911~12年にかけて阿寒郡飽別村民らによる『釧路美幌間鉄道速成の件』という請願が出され、当路線に当たる区間の着工が決定の運びとなる。
北見相生駅に停車中の相生線列車
:
駅裏手の広大なヤード跡は
現在は『道の駅・あいおい』となっている
それから10年経った1922年に施行された改正鉄道敷設法別表第148号で、当路線は『釧路國釧路ヨリ北見國相生ニ至ル鐵道』と規定され、国の財政事情で中断されはしたが、1924年に美幌~津別、翌年に北見相生までの全線が開業した。
相生線全通と共に開業した北見相生駅
:
現在は『道の駅・あいおい』内の
鉄道資料館となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
先行開業の北見相生より釧路までの区間は1912年に実地測量まで完了していたものの、1931年に本路線計画にほぼ並行する釧網線が全線開通した事で路線建設の意義が薄れ、釧路までの区間の着工は放棄されている。 戦後に入った1968年頃には、北見相生駅から阿寒湖を経由し白糠線までを結ぶ『阿寒線』の建設運動が、地元自治体を中心に行われたが実現しなかった。
典型的な開拓路線だった相生線は
北海道の開拓が終わると
その存在意義を失ってしまった
その後は、元来は典型的な北海道の開拓路線という事で、時が経つと共に路線自体の存在意義が薄れてゆき、貨客共にトラッくや路線バス・マイカーなどの自動車に奪われ、1980年に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定されて、1985年4月に路線廃止となった。 なお、『釧美線』の釧路側では、1923年に北海炭礦鉄道(後の雄別炭礦鉄道)が雄別炭山まで開通させていたが、炭鉱の閉山に伴って1970年に廃止されている。
この路線を思い返す度に
「もう一度コレを撮りたい」と思うワテがいる
:
ワテの珠玉の『一番星』写真だ
代替バスは鉄道と同じ美幌向けの路線(北見~美幌~津別:北見バス)と、人の流れに沿った北見向けの路線(北見~津別~相生:津別町営バス)が運行されていたが、2012年10月に津別町営バスが事業終了し、津別~相生は予約制(後に一部便は予約不要となる)の混乗スクールバス(津別まちバス)へ移行している。 また、かつては、阿寒バスが釧路~阿寒湖畔~美幌で路線バスを運行していた。
路線の中心駅・津別以外は
総じてこんな車窓風景だった相生線
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
美幌~北見相生 36.8km 257 / 2105
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85/ 4/ 1 北見バス・津別町営 6往復
津別町営(後に撤退して混乗スクールバス化)
このanniversaryシリーズは内容は濃いし、35年以上前に廃止された第1次廃止路線が題材という事で、掲載写真の希少性も抜群だろうけど、3回やるとウザく思われるだろうね。 それに、今ブログで鉄道写真を題材にしてる連中は、35年以上も前に廃止された路線など全く知らないだろうし・・ね。
でも、コイツらが撮った写真も、月日を経ていずれはワテの写真と同じ境遇となるよ。 でも、ただ一つにして致命的に違う事は、「デジタルでは35年間写真を保ち続ける事ができない」という欠陥を孕んでいる事だろうね。
要するに、今撮っている写真は恐らく10年と持たずに消失してしまう事だろう。 考えてみれば、これはモノ凄い恐怖だと思うよ。 なぜなら、自分の歴史を示す映像のアイテムのほとんどが、10年のスパンで消失してしまうのだから・・。 あり丁寧に言えば、「結婚式の時に幼少の頃の写真が無い」って事なんだわ。
この前にワテが
「コンピューター技術は信用していない」
と言った理由は
確かに演算の正確さは
コンピューターを疑う余地はないだろう
だがそれを扱う人間自体のミスに
対して防御不能だからである
それはコンピューター・スキルには関係なく
人間全てに『ケアレスミス』が存在し
それは人間そのものが
コンピューターの持つ機能の全て
どころかその半分も習得してないからである
『ケアレスミス』・・それはタイプミスから
誤字脱字・プログラムエラーから
ソフトの選択ミスや操作ミスまで
あらゆる事が想定されるのだ
そしてピリオドやスペースの1文字の違いで
プログラムが暴走したり動かなくなったり
パソコンが破損したりする
またフとした事からの断線や過電流でも
パソコンが破損して使い物にならなくなり
破損せずともパソコンがフリーズすると
全ての事が最初からやり直しとなり得るのだ
またパスワードもパソコンと
関われば関わる程に
多種多様に用意せねばならなくなり
このパスワードは作業継続の
大いなる障害となり得るのだ
一例を挙げると一見さん利用のモノ事でさえ
身元の登録とパスワード申請が要求される
そう・・もう二度と同じ宿を使う事は
ないというのに逐一身元情報を
要求されてはたまったものではないのだ
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