2022-02-15 (Tue)✎
この記事を書き始めた時はあと50となっていたので、恐らくまもなく突破するだろう。
まぁ、記事を書いた途端にアクセスが途切れて、宙ぶらりんの恥をかくって事はあるまい。
前回も述べた通りこのブログは、普通の神経のブログ主なら閉鎖も考える程に閲覧者交流がほとんどないブログだが、ワテにとってはこの方がいいと思っている。
物臭さだがコメが入るとマジ答えするワテからして、1つの記事で10以上のコメがあると、その返信で時間を取られて記事を書く時間が削られるからである。 また、ワテの性格として、「誰も祝う事のないワテだけのanniversaryをひとりでニヤついている」ってシチュエーションの方が性に合ってるしィ。
渚滑線在りし時の
滝ノ上の街には活気があった
渚滑線 しょこつせん
かつて、北海道紋別市(網走支庁管内)の渚滑で名寄本線から分岐し、紋別郡滝上町の北見滝ノ上までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、1985年4月1日に路線廃止となっている。
この凍る川を
筏で原木輸送してたのかな?
渚滑線は、渚滑川の水運(原木などを筏で渡していた)に頼っていた沿線の資源輸送と開発を目的に軽便鉄道法により計画され、1923年に全線が開業した典型的な北海道開拓目的の鉄道路線である。
滝ノ上町の町名の由来は
「この滝の上で町が開けているから」だって
その滝ノ上町のイチ押しは
春の丘をピンクに染める
シバザクラの絨毯だろう
※ 滝ノ上町のウェブサイトより
当初は北見滝ノ上からサックル(西興部方面)への路線も計画されていたが、石北線の上川駅と接続する予定線計画へと変更(改正鉄道敷設法別表第139号)され、サックル方面への路線延伸はなくなった。
だが、石北線の上川~遠軽間の着工により、上川~北見滝ノ上の路線建設の意義が薄れたと見なされて、北見滝ノ上以降の延伸は全く着手されなかった。
鉄道が水運を滅ぼしたように
トラックが鉄道貨物を滅ぼし
更に現在はシンカンセンが
鉄道そのものを滅ぼしていく
戦前の開拓期は大いに栄えたが、戦後の高度経済成長期に入り道路が整備されていくと、原木などの資源輸送は陸送(トラック)に切り替えられていった。 即ち、鉄道が水運に引導を渡したが如く、鉄道はトラック輸送に引導を渡されたのである。 1978年には、全線の貨物輸送が廃止となっている。
貨物の廃止で、開拓路線は先のない閑散路線へと転落していく。
ワテがローカル線を追っかけていた頃は
ローカル線が廃止となる事が
諮問されていたその時で
小僧ながら「必ず撮ってモノにする」
という使命感に燃えてたよ
1980年に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、1985年4月1日に全線廃止となり、北紋バスのバス路線へ転換された。 路線廃止後は、上川と紋別を結ぶ国道273号のサミットである浮島トンネルが当路線の廃止年に開通するなと整備されて、旧渚滑線沿いを並行する国道273号線が、札幌や旭川から紋別への最短かつ主要ルートとなっている。
在りし日の北見滝ノ上駅舎
:
現在の駅跡は保存されて
渚滑線の資料が展示された
鉄道記念館となっている
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
渚滑~北見滝ノ上 34.3km 303 / 1742
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85/ 4/ 1 北紋バス 渚滑~北見滝ノ上 下り7本・上り6本
渚滑~上渚滑 下り1本(休日運休)
あの時撮った白糠線の写真は
ワテの生涯の宝物となった
白糠線 しらぬかせん
かつて、北海道白糠郡白糠町の根室本線・白糠から分岐し、同町二股地区の北進までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、その廃止指定線の第1号として、1983年10月23日に路線廃止となっている。 当路線は1964年の開業と比較的新しく、また1972年延伸開業の上茶路~北進の延伸区間は1983年までの11年間と短命路線であった。
原野に設置されたこの駅は
僅か11年の短命駅であった
白糠町の北端にある二股への鉄道を敷設する構想は第二次世界大戦前からあって、釧網本線の弟子屈(現在の摩周)から二股を経由して池北線(第三セクターの北海道ちほく高原鉄道・2006年4月21日に廃止)の足寄までを結ぶ『釧勝線』が提案されていた。
大戦後は白糠から二股を経由して足寄へ結ぶ白糠線構想が持ち上がり、1951年に白糠町を中心に足寄村・西足寄町と連携して中央省庁への路線敷設の請願がなされた。 その甲斐があって1952年に現地での測量が行われ、翌1953年8月1日に改正鉄道敷設法が改正された事により、第1条別表第147号の2に掲げる予定線として『釧路国白糠ヨリ十勝国足寄ニ至ル鉄道』と規定されて、白糠から池北線の足寄までが予定線となった。
さらに足寄から新得までの北十勝線(未成線)と併せて根室本線のバイパス路線を形成する予定であった。 この他に当路線の螺湾から分岐して、上足寄を経由し相生線の北見相生へ至る『阿寒線』という構想も存在した。
白糠駅に置かれていた
北進駅のスタンブ
何故にこれほど路線敷設構想が膨らんだかというと、敷設が予定される路線の沿線には公有・民有合わせて64,000ヘクタールに及ぶ森林資源と、約3億2000万トンに及ぶ高品質の石炭(炭田)があったからで、炭鉱最盛期には年間の石炭産出50万トンを目標に5か所で採炭が行われ、居住人口も23,000人に達していた時代があった。
かつては石炭積み出しの
中心駅だった上茶路駅
第二次世界大戦後から相次いで石炭産業を手掛ける財閥が現地に入り、縫別の三菱鉱業・上茶路・右股の雄別炭礦・二股の明治鉱業・茶路の共同石炭などの鉱業権が設定され、一部は実際に採掘を開始していた。 更に、足寄奥地にある日本特殊鉱業阿寒鉱業所では、年間2万トンの硫黄の生産を行っていた。
だが、これらの資源はトラックでの搬出を強いられていたため輸送費がかさみ、増産が困難という問題を抱えていたのである。
森林資源については、足寄から螺湾・上足寄を経由して鳥取までを結ぶ森林鉄道が開通し、馬車や河川流送などで運ばれていたが、歴然たる輸送力不足の状況であった。 こうした森林・石炭資源の開発が白糠線の大きな目的であった。 また、北見・北十勝地方で生産される農産物を釧路港へ輸送する経路を短絡する事や、足寄から螺湾にかけて計画されていた開拓地の輸送を担う事も期待されていた。
上茶路で委託販売していた
白糠線の乗車券
こうして1964年10月7日に、白糠~上茶路の先行区間が開業した。 折りしも、雄別炭鉱の上茶路炭鉱が本格操業に入る時期であった為に、同炭鉱からの石炭輸送は白糠線が活用され、出炭量年間10数万トンのほとんどが白糠線による輸送であった。
炭鉱の操業で23000人に
膨れ上がった人口も
炭鉱閉山後は元の
長閑な酪農地帯に戻っていた
当時の白糠線には石炭貨車を長く連ねた石炭輸送列車が走り、上茶路地区はわずか9戸の農家のみであったのが一挙に250戸600人に増え、商店・学校・郵便局・駅・役場支所などが立ち並ぶ街へと成長した。
だが、当初予定されていた木材の河川水運から鉄道輸送への転換は実現する事なく、道路整備と共にトラックによる運送に転換していった。
一方、1968年には上茶路駅以北釧路二股までの区間で路盤工事に着手、翌1969年には軌道敷設工事が開始されていた。 この工事は日本鉄道建設公団の手により1970年に完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱が1970年2月に閉山となり、石炭輸送が消失していた。 また、当時は『赤字83線』のローカル線廃止取組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、完成した線路が2年間に渡って放置されていた。
原野にある終着駅に進入する
1日3往復の2番列車
国鉄北海道総局では1970年11月11日、上茶路~北進(1970年10月30日完成)に列車を運行した場合、営業係数は2291になる見通しを初めて公表した。 開業した場合の想定では、1日3往復させる計画で1日の利用客は56人、年間の赤字額は998万円と試算した。 既に開業していた白糠~上茶路と合わせた全線の営業係数では1260となり「雄別炭砿上茶路砿業所が閉山された今、赤字経営に拍車をかけるだけで、それほどの重要性は持たない」とした。
赤字83線の取組みが頓挫した1972年7月7日に田中角栄内閣が成立し、北海道出身の議員が運輸大臣に就任した。 その直後の7月12日に白糠町長が運輸省を訪問して運輸大臣に釧路二股までの開業の要請をした所、話が急速に進んで7月14日には開業認可が下りる事になった。
延伸の期待を込めて駅名は
『北進』と名付けられたが
実態は原野の中に設けられた
ホームだけの駅だった
開業に際して、延長区間に2駅設置された奥茶路と終点である釧路二股に関しては更なる延伸への期待を込めて、延伸区間の開業時にそれぞれ『下北進』及び『北進』と変更され、1972年9月8日に北進駅までが開業して全通となった。 だが、開業前の同区間にはマイクロバスが1往復していたが、乗客は30人足らずで需要がない事は明白であった。
そして路線廃止となり線路が剝がされて
元あった原野に回帰していた
『赤字83線』によって、北海道では1972年6月に札沼線の一部区間(新十津川~石狩沼田)が廃止されていた事から、同線沿線関係者による「白糠線より利用者の多い札沼線を千切っておいて、片方で廃止予定線を延長する事はおかしい」とのコメントが全国紙に掲載されている。
北進駅ホームの側にあった待合室
:
鉱山が閉山した後の何もない所に
本気で線路を敷設しようとしていたのである
残された北進~足寄についても現地調査と地図上での比較検討が行われ、1965年1月から線路選定が行われていた。 路線敷設は、二股から左股・稲牛・中足寄を通って足寄へ至るルウクシュチャロ川・稲牛川沿いの経路と、右股・螺湾・中足寄を通って足寄へ至るコイカタホロカチョロ川・螺湾川沿いの経路の2案が比較検討され、1966年1月に後者の経路に決定されている。 これは、「螺湾と北見相生を結ぶ『阿寒線』構想を考慮した事」だと推定されている。
1967年8月に工事実施計画が承認され、白糠町と足寄町の境界には延長5,200メートルの釧勝トンネルが計画されていた。 1969年7月からは路盤工事も開始されていたが、当時は既に沿線の炭鉱閉山に伴って人口が激減していたのである。 根室本線のバイパス路線構想であった『北十勝線』も頓挫し、白糠線は新線延長はおろか既開業線の存続すらも危うい状況に陥っていたのである。 その結果、北進延長を果たした1972年に、以北への延長工事の中止が決定したのである。
炭鉱閉山後は全ての居住者が離村して
何もなく人もいない所だったが
溢れるほどの大自然はあった
過疎化に加えて自家用車の普及もあり、白糠線利用者数は1969年度の年間15万2000人をピークに年々低下の一途をたどるようになった。 1978年には白糠~上茶路の貨物輸送も廃止され、常に廃止対象路線にリストアップされていた。 それでも、当時の白糠町など沿線自治体は、足寄までの全線開通を願って廃止反対の立場を掲げ、また上茶路坑跡地の炭鉱住宅を生かした『青少年旅行村』施策により、夏場は避暑地として賑わい臨時列車を出した程であった。
1980年に国鉄再建法が成立すると、特定地方交通線の選定基準であった1977~1979年度の輸送密度が123人/日しかなかった白糠線は、1981年に第1次特定地方交通線に指定される。 この時点での白糠線は、営業係数2,872(100円稼ぐのに2,872円かかる)という大赤字路線で、白糠町も特定地方交通線の廃止基準が決まった時点で「もう助からないと腹に決めた」と思ったという。
黒ダイヤの夢の跡は
国道以外は全てダートの
無人原野であった
当初は白糠町も廃止反対の立場であったが、その理由は「未成線である」という1点のみであった。
また、同様の廃止問題を抱えていた自治体も、それまで取っていた『廃止反対』の統一行動から「各線区ごとに事情を勘案して検討」という方向性に切り替えていった。
白糠線は全線が白糠町内であり、複数の自治体を走る他線に比べ地元自治体からの了承取り付けは容易であった事、ほぼ並行して国道392号が通っており、しかも集落は線路沿いよりも国道沿いにあった事などの条件もあり、1982年8月31日に白糠町議会でバス転換の方針を固め、5回の協議を経た1983年3月には全会一致でバス転換に関する合意が成立した。
さよなら列車は撮れなかったけど
さよならキップはゲットできた
なお、白糠線の建設当時に農地を提供した住民からは「たった10年余りで廃止になること」への不信感は強かったが、毎年赤字ワースト上位で新聞に載る路線だけに「鉄道とはこんなものだ」という諦めの気持ちも強かった為に強硬な反対運動はなかったとみられている。 「路線廃止は死活問題」という地元住民の声は全くなく、それどころか「廃止になるので一度乗っておこう」という沿線住民が多かったとの事である。
廃止線のトップを切って
廃止されたこの線の最終日は
10両編成の臨時列車が運行されるなど
1日だけ炭鉱往時の活況を取り戻していたよ
:
廃止末期の『葬式鉄』の押しかけで
輸送密度が123から218に上がったというしィ
こうして、白糠線は1983年10月22日限りで、特定地方交通線の先陣を切って廃止された。
最終日は定期列車に増結が行われたほか、臨時列車も2往復運行され、そのうち1往復は10両編成という長大編成であった。 開業から19年、上茶路~北進は延伸開業してわずか11年の短命であった。
白糠線の代替バスは、自家用バスによる有償乗合輸送で行われることになった。 民間バス事業者ではなく町営バスとなった理由は、民間バス事業者では運賃や便数について住民の了承が得られる保証がない上に、「いずれバスも廃止になる」という住民の不安を払拭する為とされた。
現在はこの縫別駅の裏手に
道東自動車道の白糠ICが設けられている
:
だがこの自動車道も
料金が取れる程に通行量が無く
無料開放区間となっている
廃線から32年後の2015年に道東自動車道の浦幌IC~白糠ICが開通し、縫別駅跡地近くに白糠ICが設置されて、足寄町の南側にある本別町から白糠線未成区間に近いルートで十勝と釧路の両地域間を結ぶ交通網が整備されている。 その道東自動車道は、2016年に白糠ICから釧路市西部の阿寒ICまでが延伸され、道央と道東を結ぶ道内幹線交通の一部となっている。
自然の力はやがて
コンクリートさえ貫いて
元あった原野の姿に
回帰していくのだろうね
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
白糠~北進 33.1km 123 / 3077
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’83/10/23 白糠町営バス 3往復
紀州と阿波を結ぶ航路と
共にあった小松島線
小松島線 こまつしません
かつて、徳島県小松島市の中田から同市内の小松島までを結んでいた国鉄の路線である。
国鉄路線としては最も営業キロが短い路線として知られていたが、1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、1985年3月14日に路線廃止となっている。
日本一短い線区として
全国区だった小松島線
小松島線は、四国の玄関口を担っていた高松港に対抗して、和歌山・大阪・神戸と徳島を直接結ぶ航路の価値をより高める為に、深度が浅く大型船の入港が難しかった徳島港に代わって整備された小松島港と徳島間を鉄道で結び、利用増を目指して阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)が建設した鉄道路線である。
1913年の開業時から国が借上げて、小松島軽便線(こまつしまけいべんせん)として営業を開始する。 1916年に途中の中田を起点にして阿南鉄道(現・牟岐線)が開業し、その翌年に小松島軽便線が正式に買収・国有化され、1922年に徳島~小松島が小松島線となった。
機関区を備えていて
神殿のような立派な駅だった小松島駅
※『国鉄・小松島線』より
1926年には小松島に検車区が新設され、1927年には徳島機関庫に代わって小松島機関庫が設置されている。 これは、国策上小松島が重要になっていた為に、機能を集中させるのが得策だった為と考えられる。
1935年には徳島~高松の高徳線が開通し、1936年には操車の都合で徳島に小松島機関区徳島支区が設置された。 徳島港も改良工事が進められた結果、徳島~本州間の航送ルートが多様化する事となる。
小松島港も競争力を向上させる目的で、小松島港利用旅客の乗り換え利便性を向上させる為に、1940年に小松島駅構内の小松島港乗船場に近い場所に小松島港仮乗降場を開設している。
急行【よしの川】
(徳島~小松島港は快速)
も乗り入れていた
1961年に徳島~中田が分離されて牟岐線に統合され、それ以来は当線が『国鉄最短の鉄道路線』となった。 また、同時に小松島機関区が廃止となり、徳島支区は新設の徳島気動車区に吸収された。
晩年に至るまでは急行【よしの川】など徳島本線直通の優等列車が発着し、紀和航路を介して関西地区~四国の連絡路線の役割を果たした。 また、小松島駅構内には、小松島客貨車区および徳島気動車区の支区が設置され、徳島地区の交通の中枢となっていた。
だが、当線の主要な役割であった船客輸送は徳島港の改良整備が進んだ事から、共同汽船などの運航事業者が発着港を小松島港から徳島港にシフトさせるようになり、とりわけ鉄道利用を期待できる高速船は徳島市内中心部へのアクセスが便利な徳島港のみの就航となった為に乗客は減少の一途をたどるようになる。
この状況を受けた国鉄は、1968年制定の『赤字83線』に合わせての当路線の廃止の方針を打ち出すようになる。 その一つが「徳島県が廃止の同意を受け入れた際には、日本鉄道建設公団A線の阿佐東線(現・阿佐海岸鉄道・阿佐東線)のほとんど完成状態である海部~宍喰を国鉄牟岐線として開業させる」という交換条件を出すなとしたが、結果的に同意は得られなかった。 結局。1980年施行の国鉄再建法により、翌1981年に第1次特定地方交通線に指定され、1985年に路線廃止となってバス転換となった。
和歌山~小松島を結んでいた
南海フェリーも徳島港に乗り換えて
小松島港には立ち寄らなくなった
※ ウィキペディア画像を拝借
当線廃止後も引き続いて小松島港を発着していた南海フェリーも、1999年に徳島港へ発着港を移し、現在小松島港を発着するフェリー並びに旅客航路は皆無である。 結果的に、小松島線は小松島港の船客輸送を目的として建設され、同港における船客輸送の衰退と運命を共にした形であった。
定期線が港に着いた時だけ
活況を呈していた小松島港仮乗降場
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
中田~小松島港(臨)1.9km 1034 / 1682
廃止年月日 転換処置
’85/ 3/14 小松島交通バス
廃止時運行本数
中田~小松島港(臨) 下り9本〔内 3本快速〕、上り10本〔内 4本快速〕
中田~小松島 1往復
この第二弾で、写真ストックのある第三セクター存続路線を除く第一次廃止線の残り全てを掲載しようとしたけど、これを継続すると掲載写真が50枚超となり、新しく買い替えたパソコンと言えどもフリーズしかねないので、第三弾に分割する事に決めますた。
第一弾の掲載写真44枚でも、保存に要する時間が長くなって『フリーズ』の予兆がアリアリだったしィ。 という訳で、作者の都合によりこのanniversaryは第三弾まで引っ張ります。 それで書くヒマないので、今週は全ての連載は中断ね・・、スンマセン。
製作途中の今確認したら、30万アクセスを超えてますねぇ。 従って、次の第三弾は『後夜祭』という事で。←作者のタワケの脳ミソ以外に、何が祭りなんだか・・
北海道シンカンセンの札幌延伸にしろ
西九州シンカンセンにしろ
開通させた所で更なる赤字を
生み出す轍となるだけだ
それは在来線との共存ができない位の
利用者しか見込めないからだ
そして乗客にとって
20分から30分早くなるより
乗り換えナシの方がずっと楽なのである
考えてみたら判るだろう
シンカンセンを使うような
長距離移動者の大概は
旅行ケースなどの大荷物持ちだ
乗り換えの負担を強いるって事は
自由席利用者なんか特に
大荷物を抱えて座席を確保しに
行かねばならないのだ
恐らくは極安値で乗り換えナシの
長距離夜行バスにまた
乗客を奪われるだろうね
不景気のご時世は
30分早く着くより安値だよ
夜行バスの移動は身体にキツい
から持っていたが
この乗り換えと料金の積み上げで
夜行バスになびく利用者は増えるだろうね
そしてシンカンセンの北海道延伸
どう足掻いたって飛行機には勝てないのだ
しかも道南の主要観光地の全てを
手放そうとしている
鉄道がなくなると
廃止された線区の利用者だけでなく
札幌や首都圏など都市からの
観光客の利用も潰えるのだから
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