風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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30万アクセス突破(コメは1記事で1以下)anniversary

FC2に移転して2年と10ヶ月、Yahoo!ブログからだと11年と2ヶ月・・。 この記事を書き始めた時点で残り300と、遂に30万アクセスを突破しそうな勢いです。 でも、凄い人気ブログかと言えば全くそうではなかったりしまっす。

それは、Yahoo!から移転しての記事が500余りに対して、この間のコメの総数は1000以下。 
コメの約半数がワテの返信コメである事を考えれば、1記事1コメ以下の普通のブログ主の感覚ならブログをやめたくなる『ロムオンリー』なブログだったりするのである。 要するに、『素通りブログ』だったりするのだ。 それに拍手も、まだ富士山どころか日本アルプスにも至らない2600台・・。
だが、こうなる原因はすべて把握すみだ。

それは「天皇がチョンの背乗りである」とか、「東京五輪が国民17000人を殺害した日本における武漢ウイルスの感染爆発の主原因で、開催を推進した首謀者は国民殺しの国家反逆罪として処罰すべき」とか、「東京五輪開催の首謀者共は感染爆発の罪を感染者が多かった日本人の若者層に擦りつけているが、真犯人は東京五輪に参加した外人とそのスタッフで、その証拠は外国由来の感染株が日本人同士で蔓延する事は有り得ない」と、真実ながらも濃い過ぎて拒絶される事をバナー下に書き連ねているからだろうね。

でも、記事の内容はハチャメチャさが受けてるのか、希少性が受けているのか・・で、それが「アクセス数だけは」人気ブログとなってるのだろうね、このブログ・・。 それでは、今回のanniversaryは、希少性抜群のこの内容で『まぐろ(アクセス)の一本釣』をしようかと。 それと、今回は『あいうえお』の逆順から・・という事で。



r421 (1)
撮影にシクって記憶を奥底に
しまい込んだ矢部線で
辛うじて「見れる写真」は
去り際に撮ったこの1枚のみ

  矢部線 やべせん
かつて、福岡県筑後市の羽犬塚と八女郡黒木町(現:八女市)の黒木とを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、1985年4月1日に路線廃止となっている。 なお、路線名の『矢部』は、建設予定線の終点とされた八女郡矢部村(現:八女市)から来ている。

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矢部線で唯一上手くいったのは
起点の羽犬塚駅スタンプのみ

当路線は改正鉄道敷設法別表第111号の2に規定する予定線「福岡県羽犬塚ヨリ矢部ニ至ル鉄道」の一部で、太平洋戦争末期に鉄材供出の為に鉄道路線の多くが不要不急路線として休止となる中で、沿線に軍事施設や関連工場が多かった事から建設工事が続行され、終戦後の1945年12月に羽犬塚~黒木までが開業となった。 これは太平洋戦争が終結してから僅か4か月、日本の鉄道路線では終戦後初めて開通した路線であるとの事だ。

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九州に実家のある友人を持っていて
そいつからもらった黒木の駅舎写真
もう永らく会ってないけど・・

当路線は路線名称となった矢部村は元より、大分県日田郡中津江村(現:日田市)の鯛生を経て宮原線の肥後小国までの延伸計画があったが、終戦後は路線延伸の需要が高まる事はなく黒木より先への延伸は成らなかった。

r421-2 (6)
『撮り鉄』もシクったなら
スタンプもシクって
高校時代の友人に
押してもらったモノを拝借

《路線データ》
       営業区間と営業キロ         輸送密度 / 営業係数 (’83)
      羽犬塚~黒木 19.7km         694  /  892

        廃止時運行本数      廃止年月日        転換処置 
          6往復        ’85/ 4/ 1         堀川バス



r410-3 (3)
やっぱり情熱を持って
この線を追っかけていた時は
写真もいいモノが撮れてますね

  宮原線 みやのはるせん
かつて、大分県玖珠郡九重町の恵良から熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、1984年12月1日に路線廃止となっている。

r410 (6)
チラチラと舞う雪の中
「どこからともなく列車がやってくる」
という情景を魅せていた

なお、線名の宮原(みやのはる)は、終点の肥後小国駅があった阿蘇郡小国町の大字(おおあざ)名であるが、地元居住の者でさえ『みやのはる』とは読めずに「みやはらせん」と呼ばれていたとの事である。

miyahara (1)
明日なきローカル線の
たたずまいを魅せていた
途中駅の町田駅

改正鉄道敷設法別表第113号に規定する予定線の一部で、佐賀県の佐賀から福岡県瀬高を通り、熊本県隈府(現在の菊池)を経て大分県の森(豊後森)に至るという壮大な路線計画であった。 この路線計画を元に、佐賀~瀬高が佐賀線・瀬高~南関が東肥鉄道・大分県側は当路線が開業したが、既にその全てが廃止となっている。 

r410-3 (4)
翌朝こういうのを撮るべく
宮原線の廃止が近づいてきた晩秋に
5度の麻生釣駅寝を試みた

r410 (3)
5度駅寝したその駅は
駅というより山小屋だった

宮原線は1937年6月27日に恵良~宝泉寺が開業したが、太平洋戦争の激化に伴って不要不急線として延伸工事は中止されている。 また、1943年9月1日には既に開業した区間(恵良~宝泉寺)も不要不急線として休止され、休止区間のレールは戦時中の鉄材供出に充てられた。 

r410-2 (1)
『ローカル線の光と影』

終戦後の1948年に再敷設されて復活し、1954年に大分・熊本県境を越えて肥後小国まで延伸されて全通した。 この路線延伸で農林資源の開発や観光路線として期待されたが、盲腸線である上に人口が希薄な県境の高原地帯を走る路線であった為に利用は振るわなかった。

miyahara (2)
優雅な姿を魅せる湧蓋山と
アートな造形の眼鏡橋と

路線往時は第一次廃止線に指定される程の閑散路線であったが、路線廃止後には脚光を浴びる事となる。 それは、宮原線に廣平・菅追・堀田・汐井川・堂山・北里・幸野川と7本の美しい造形のコンクリートアーチ橋があって、これらが2004年2月に国の登録有形文化財に登録されたからである。

r410 (5)
美しいアーチ橋を魅せる
廣平橋梁をゆくキハ53
この橋梁は2004年に
国の登録有形文化財の指定を受けた・・との事
廃止になってからその遺構を惜しむ
それは人の業なのか

なお、これら7本の橋梁は竹筋コンクリート造とされ、幸野川橋梁については建設時に竹筋を目撃したとの証言があるとの事である。

r410-3 (5)
いい事した翌朝のリッツは美味かった

《路線データ》
        営業区間と営業キロ          輸送密度(’79) / 営業係数(’83)   
      恵良~肥後小国 26.6km           109  /   1860 
          廃止年月日                転換処置         
          ’84/12/ 1                    大分交通バス
廃止時運行本数
          豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
          豊後森~宝泉寺 下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)



manji (3)
閉山で廃墟となった
炭鉱住宅と同じ命運を辿る
明日無き運炭路線・万字線

  万字線 まんじせん
かつて、北海道岩見沢市の志文より室蘭本線から分岐し、空知郡栗沢町(現在の岩見沢市栗沢町)の万字炭山までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年に施行された国鉄再建法によって第1次特定地方交通線に指定され、1985年4月1日に路線廃止となっている。

manji (5)
唯一の『生』ある場所が駅だった

manji (6)
廃止直前は駅の石炭積み出し施設が
棄てられて廃墟となっていた

万字線は、線名の由来である万字炭鉱(『万字』の由来は炭鉱経営者の家紋『卍』から)から産出される石炭の積み出しの為に、軽便鉄道法を準用した万字軽便線(まんじけいべんせん)として1914年に開業した路線である。 万字線の開通は沿線の開発を促進し、美流渡炭鉱や朝日炭鉱など多くの炭鉱が操業を開始するなど、石炭輸送で大いに活況を呈する事となった。

manji (1)
列車が到着しても乗り込む乗客はなく
閉山の重苦しい雰囲気だけが漂っていた

しかし、第二次世界大戦以降のエネルギー革命によって、主要エネルギーが石炭から石油に転換されると、炭鉱産業は斜陽化して沿線の炭鉱が相次いで閉山となる。 万字線自体も沿線炭鉱の閉山によって次第に寂れ、1978年には貨物営業が廃止となる。 その2年後の1980年に国鉄再建法が成立すると、第1次特定地方交通線に指定されて1985年4月に廃止された。

manji (4)
雪に埋もれた炭鉱住宅から
生活臭は全く感じられなかった

全ての旅客列車は、志文駅の隣にある室蘭本線の岩見沢駅を起点として運転されていた。 沿線の上志文駅すぐそばに『萩の山市民スキー場』があって、冬季は同スキー場へアクセスの為に〔上志文スキー号〕が札幌~上志文で運行されていた。

manji (2)
ホームから駅舎まで100m離れるなど
ヤード兼用の広い駅だった
万字炭山駅は雪に埋もれていた

《路線データ》
      営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)  
    志文~万字炭山 23.8km             158  /  2807         
 
      廃止時運行本数        廃止年月日        転換処置
        5往復          ’85/ 4/ 1       北海道中央バス



bikou (4)
開業区間は人口希薄地帯の
先行開業だったから
『日本一の赤字線』に陥ってしまった

  美幸線 びこうせん
かつて、美深町の宗谷本線美深を起点とし、同町内の仁宇布に至る国鉄の路線である。 路線敷設計画では、美深より仁宇布を経てオホーツク海沿岸にある宗谷支庁(現在は宗谷総合振興局)第二の町である枝幸郡枝幸町の興浜北線・北見枝幸に至る予定で、仁宇布から枝幸方にかけて一部工事が行われたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年9月17日に路線廃止となっている。

bikou (9)
美幸線乗車証明書
その経緯はリンク先を見てね

路線名は予定線の起終点から採られており、『美』は起点の美深、『幸』は終点の北見枝幸である。
なお、この路線名は、「美しく幸を呼ぶ路線」として人気があった。 だが、路線は人影稀な人口稀薄地帯をゆく路線で、警報機のある踏切は宗谷本線と共用のものを除けば道道49号(美深雄武線)を跨ぐ1箇所のみであった。

bikou (3)
沿線での集落は仁宇布のみと
わが国でも有数の人口稀薄地帯だった

北海道北部開発の拠点であった枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された鉄道路線で、1953年に鉄道敷設法別表第144号の2「天塩国美深ヨリ北見国枝幸ニ至ル鉄道」として追加された計画路線である。
延伸の最終目的地の枝幸へは興浜北線が浜頓別で天北線に接続、予定線の興浜線が雄武で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川や札幌に出るには遠回りとなる事から、長年に渡って路線敷設の請願が続けられていた。

bikou (6)
小集落があった仁宇布までが
先行して開業となったが

この強い請願を受けて1964年に第1期線である美深~仁宇布が部分開業し、以遠も日本鉄道建設公団によって建設が進められていた。 なお、美深~仁宇布には1935年から殖民軌道の美深町営軌道があったが、美幸線開業に先立つ1962年に廃止されている。

延伸計画の上がっていた北見枝幸までは、経路となる歌登町(現在は枝幸町)に路線を保有し、中頓別町の天北線・小頓別に通じていた歌登町営軌道を用地供出の為に1970年に廃止するなどして1976年に全線開通予定であったが、1979年に完成間近で工事は凍結されて延伸開業する事は叶わなかった。

bikou (1)
『終』と記された車止めが
先が無い事を物語る

この路線延伸計画は、ほぼ路盤が完成していた北見枝幸~歌登を先行開業させるという話もあったが、興浜線や越美南線(現長良川鉄道)と越美北線のように、分断されたままになってしまうことを危惧した地元住民が一括開業にこだわった事で開業は見送られた。

先行開業した区間の輸送量は極めて少なく、同じ北海道の深名線や白糠線、そして九州の添田線などと共に、国鉄全路線の中でも最悪レベルの赤字線であった。 1974年度の営業係数は3,859、即ち100円の収入を得るのに3,859円の費用を要する状態であった。

bikou (5)
人口稀薄地帯を走り
輸送密度24人/日と驚異の数字を
叩き出していた美幸線

沿線自治体である美深町の長谷部秀見町長が、この『日本一の赤字線』を逆手に取った美幸線の宣伝活動を東京銀座で行った事もあって日本一の赤字路線からは脱却したものの、経営環境自体に改善は見られなかった。 廃止前年の1984年度の営業係数は4,731・輸送密度は24人/日であった。

1979年には日本鉄道建設公団が「順調にいけば、1982年度には全線開業」の目処を明らかにした事が報じられ、1981年に第1次特定地方交通線として指定された後も、同じく特定地方交通線となった興浜線と合わせて第三セクター化した上での全線開業による存続(いわゆる『オホーツク縦貫鉄道構想』)を目指したが、コンサルタントによる収支見込みで黒字に転換する可能性はないと断じられた。

また、国鉄当局によって、対策協議会開始から2年以内に調わない際に認められる廃止申請とバス転換の強行を示唆されて、全線開通と鉄道による存続を断念して路線バスに転換された。 この時の転換交付金は、開業区間の21.2km分6億3,600万円(1kmあたり3,000万円)とされ、美深町・歌登町・枝幸町に交付された。

bikou (8)
冬季『冬眠中』で雪に埋もれていた
旧仁宇布駅の『トロッコ王国美深』

路線廃止後、仁宇布駅構内を含むおおよそ5kmについて線路が残される事となって、そのまま10年ほど放置されていたが、1996年に『旧美幸線を活用する会』が組織され、その翌年には任意団体『トロッコ王国美深の会』(現在はNPO法人『トロッコ王国美深』)が設立された。この団体によって、1998年7月より線路が残された区間でエンジン付の保線用軌道自転車の運転体験ができる『トロッコ王国美深』の運営が開始されている。

bikou (7)
七夕の開通から
『天ノ川』と名付けられた
旧美幸線・第2大曲トンネル

未成区間にある第二大曲トンネルは北海道道120号美深中頓別線の『天の川トンネル』として転用され、1995年7月7日に開通した。 なお、トンネル名は七夕に開通した事からきている。

bikou (2)
在りし日の仁宇布駅舎

レンタサイクルや宿案内など
かなりの“営業努力”をしていたようだ

《路線データ》
         営業区間と営業キロ            輸送密度 / 営業係数(’84)
        美深~仁宇布 21.2km            24  /  4731            
       廃止年月日          転換処置          廃止時運行本数
       ’85/ 9/17             名士バス              4往復



niccyu (1)
線路が撤去されて
芝生となった憩いの場に立ち
今の山の思いとかつての
路線の在りし時を偲ぶ

  日中線 にっちゅうせん
かつて、福島県喜多方市の喜多方から同県耶麻郡熱塩加納村(現・喜多方市)の熱塩までを結んでいた国の路線である。 1980年の国鉄再建法施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年9月17日に路線廃止となっている。 路線名は、終点である熱塩駅の北方にある日中温泉に由来する。

niccyu (6)
こういうのが撮りたくて訪れたのに
この前に人だかりや三脚部隊があって
撮る気が失せてしまったのである
※ 写真集『廃止ローカル線40線』より

改正鉄道敷設法別表第26号に規定する予定線「山形縣米澤ヨリ福島縣喜多方ニ至ル鐡道」の一部で、日光線・野岩線・会津線と結んで東北地方南部を縦貫する野岩羽線構想の一翼を担う計画路線であった。

niccyu (4)
こんなのが撮りたかったけど
朝夕で僅か3本では
限りなく撮影不能だった
※ ウィキペディア画像を拝借

1938年に福島県側の喜多方~熱塩が開業したものの、典型的な閑散ローカル線であり、廃止時点で1日3往復の客車列車が朝夕(朝1往復、夕方2往復)に運行されるのみで、「日中は走らぬ日中線」と揶揄されていた。 それらの列車は主に地元高校生の通学に使われ、温泉街まで駅より数km離れた熱塩温泉への宿泊客・湯治客の利用は少なかった。

niccyu (2)
往時は葬式鉄がタカって
撮れなかった『アリバイ写真』が
撮り放題だったよ

また、熱塩加納村にあった与内畑鉱山の石膏、加納鉱山の銀・銅鉱石の貨物輸送があったが、1972年に廃鉱となると貨物収入も減少し、貨物営業が廃止された1983年の時点では郵便・新聞などの生活物資貨物が細々とあるだけであった。

niccyu (3)
お色直しを受けて再びモダンな
洋風トンガリ屋根の駅舎となった
熱塩駅跡の日中線記念館

駅舎の荒廃ぶりが話題に上る事のあった終着の熱塩駅であるが、廃止3年後の1987年より修復整備を受け、『日中線記念館』として保存されている。 また、廃線跡の喜多方駅寄りは、サイクリングロード『日中線記念自転車歩行者道』として整備されている。 鉄道敷設の目的であった会津若松と米沢は、国道121号線の高規格バイパス道『大峠道路』として整備されている。

niccyu (5)
末期は幽霊屋敷さながらの
荒廃ぶりだった熱塩駅舎
※ 鉄道ジャーナル`83年4月号より

《路線データ》
       営業区間と営業キロ           輸送密度(’79) / 営業係数(’83)    
      喜多方~熱塩 11.6km                167  /  1606   

        廃止年月日        転換処置         廃止時運行本数
        ’84/ 4/ 1      会津乗合自動車バス          3往復



tuma (1)
「純朴な風景とローカル線」という
生涯の宝物を撮る事ができたよ

   妻線 つません
かつて、宮崎県宮崎郡佐土原町(現・宮崎市)の佐土原から同県西都市の杉安までを結んでいた国鉄の路線である。 1980年の国鉄再建法施行を受けて、施行翌年の9月18日に第1次特定地方交通線に指定されて路線廃止が承認され、1984年12月1日に路線廃止となっている。

鉄道史においては、妻線が宮崎駅に最初に乗り入れた鉄道路線である。 その宮崎駅への乗り入れは、現在の吉都線を経由して都城方面から官設鉄道(宮崎線)が延伸される予定であったが、工事が遅れて1913年に先に妻方面への宮崎県営鉄道が開業を果たしたものである。

tuma (4)
妻線のあった西都市には
古代・邪馬台国との関連が取り沙汰される
謎の古墳群・西都原古墳群がある

宮崎駅へは1916年10月に宮崎線が到達し、県営鉄道も1917年9月に買収・国有化されて妻軽便線(つまけいべんせん・1922年に妻線に改称)となった。 1920年9月には、宮崎本線(現 日豊本線)の高鍋延長に伴って広瀬駅(現 佐土原駅)を移転して分岐駅とし、宮崎~広瀬を妻軽便線から分離して宮崎本線に編入した。 その2年後の1922年8月に、残る妻~杉安が開業して全通となった。

戦争激化に伴い、1944年に末端部の妻~杉安が不要不急線として休止となったが、1947年に復活している。 結局実用化はされなかったが、貨物輸送の合理化のために試作された気動貨車キワ90形の試用線区となるなど典型的なローカル線であり、1968年にも『赤字83線』の一つとして廃止を勧告され、1980年の国鉄再建法の施行により第1次特定地方交通線に指定、1984年12月に廃止された。

tuma (5)
路線廃止後は「将来の復活に備えて」
という取り決めで路盤が撤去されずに
サイクリングロードに転用されている
※ ウィキペディア画像を拝借

しかし、地元の鉄道への愛着は深く、廃止時の協定(協定内容は廃止後20年間の路盤保存)によって将来の復活に備えてほぼ全線にわたり路盤が撤去されずに残されて、自転車歩行者専用道路として利用されていた。 だが、現在は西佐土原駅付近が一般的な二車線の市道として整備され、東九州自動車道の西都IC(旧黒生野駅付近)から西都市街地の南端付近の間は国道219号が『園元バイパス』として整備されて廃線跡の面影はない。 また、佐土原~西佐土原の廃線跡は、圃場整備により完全に消滅している。

tuma (3)
在りし日の杉安駅舎
現存すれば駅舎マニアの『聖地』と
なったであろう妻線の木造駅舎

また、改正鉄道敷設法別表第122号では、終点の杉安から湯前線湯前への予定線が計画されていたが、着工されないまま1944年に省営バス(国鉄バス)日肥線が開設されている。 一時は路線が人吉に拡大されるなど隆盛を見せたが、1998年にJR九州バスが撤退し、現在は西米良村営バスと宮崎交通バスの接続による運行が細々継続されている。

tuma (2)
妻駅への朝の通学輸送を
終えた4両編成の列車は
終点の杉安で4時間近くの
昼寝タイムを取っていた

《路線データ》
         営業区間と営業キロ          輸送密度 / 営業係数(’83)
         佐土原~杉安 19.3km             869  /   684  

         廃止年月日       転換処置       廃止時運行本数
         ’84/12/ 1        宮崎交通バス         6往復



soeda (4)
車内で眠りこけて
車窓をほとんど見てない路線の
記憶はこの失敗写真1枚のみ

   添田線 そえだせん
かつて、福岡県田川郡香春町の香春駅から同郡添田町の添田駅までを結んでいた国鉄の路線である。
北海道の美幸線と並び称された赤字ローカル線の横綱格で、1980年の国鉄再建法施行を受けて、施行翌年の9月に第1次特定地方交通線に指定されて1985年4月1日に路線廃止となっている。 国鉄再建法により1981年に第1次廃止対象候補40線区の内の一つに選定されたが、行き止まり路線(いわゆる盲腸線)でなかったのは、この添田線のみであった。

soeda (2)
添田線の線路を剥がされた直後の添田駅
※ 『懐かしい駅の風景』より

香春~添田は当路線を通ると日田彦山線経由より約4km短い為、当線の往時には香春で日田彦山線下りの添田以遠行きの列車からの接続を受けて発車した当線の列車が、添田には日田彦山線より先に着く(逆方向でも同様)といった現象がしばしば見られた。

soeda (3)
元は日田彦山線の一部だったが
独立路線となった事で
路線の命運が決まった

路線自体の元々は日田線(現在の日田彦山線)で、1960年に香春~添田が田川市の市街地経由とするべく運転系統を変更した事により、市街地を通らない当路線は添田線として分離されたものである。
もともとは、石灰石や石炭を輸送する為に小倉鉄道が建設した鉄道路線であったが、1943年に戦時買収されて鉄道省・添田線(初代)となった。

soeda (1)
黒ダイヤと呼ばれた
石炭輸送で栄えた頃に建てられた
初代の添田駅は立派な駅舎だった

添田線(初代)は、戦後に城野付近および香春付近のルート変更並びに延伸が行われて日田線に改称された。 だが、沿線の中心都市である田川市の市街地(伊田・後藤寺)を経由しなかった事から、実際の運転系統に合わせて1960年に田川線の一部を編入すると共に、本路線を添田線として分離して、現在に見られる日田彦山線の線形が完成した。

添田線が前述の通り、日田線の田川市の中心市街地を経由しない閑散区間を分離して成立した路線だった事もあって、完全に旅客・貨物の流れから外れて営業係数(100円の収入を得るのにかかる費用を表す数値)ワーストワンを北海道の美幸線・深名線・白糠線などと争う常連線区となり、1978年度は3,855でワーストワンとなっている。

soeda (5)
筑豊の路線の敷設目的は石炭輸送で
沿線のどの駅にも側線を
敷けるスペースがあった
※ 『添田線・伊原駅』より

《路線データ》
      営業区間と営業キロ              輸送密度 / 営業係数(’83)
      香春~添田 12.1km                224  /  2448    

       廃止時運行本数        廃止年月日         転換処置
          6往復             ’85/ 4/ 1          西鉄バス



「好きなモノ事は手抜きをしたくない」という事は、誰しも思う事だろう。 ワテにとって、ヤマとフイルム写真(デジタル写真は全く持って当てはまらない)と廃止ローカル線は、その「手抜きを許さない」モノ事なのである。

だから、かつてのパソコンの容量が小さい頃は、パソコンがフリーズして記事が消滅した事が度々あったよ。 そしてパソコンの性能が良くなった今も、あの時の「大半が書き上がった記事」がパソコンのフリーズで消滅して『最初からやり直し』の記憶が着きまとうよ。 だから防御策として、記事の文章が書き上がったり写真の掲載枚数15枚以上となると、2~3枚で下書き保存して記事のフリーズ消滅に備えているよ。

ワテは、基本的にコンピューター技術は信用していない。 それは、壮大な時間と労苦は伴うだろうが、全てのモノ事において人智はコンピューターに勝ると思っているからだ。 それは写真や絵など、表現する力や芸術性を問うモノとなればなるほどその差は大きいと思う。

だが、『楽』な作業性や時間、そして「とりあえず」という都合を優先すると簡単に優劣が逆転してしまうし、電子技術は一度『楽』を覚えると麻薬のように脱却できずに、表現力や解析能力など大切な自らの能力をポロポロと落としていく事となる。

そうならぬ為・・、自らの能力を失わない為、自分でできる事は極力パソコンの力を使わない事にしている。 まぁ、それは、時間の兼ね合いが大いに関わる事なのだが・・。 そして、ヤマに登る事を思い浮かべる。 それはヤマの頂上へは、必ず自らの足で登らねばならないからだ。 この心持ちを抱いていたから、ワテは度重なる『オチャメ』を切り抜ける事ができたのだと思う。


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北海道シンカンセンの札幌延伸開業で
並行する函館本線の小樽~長万部を
廃止する事がJR北海道より発表された

これに対して余市町を除く
沿線自治体は小樽市を含めて
概ね廃止バス転換を
受け入れる構えである

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一方この秋に開業の長崎シンカンセンでは
幹線格である長崎本線の肥前山口~諫早が
県主導の第三セクターへ
切り捨てられる事が確定している

閑散区間となってしまった
函館本線の山線区間で
第三セクター引き受けの
挙手を上げる自治体はなく
恐らく路線廃止となるだろう

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函館本線の廃止によって
廃止予定区間でシンカンセンの設置駅である
倶知安と新小樽以外は
路線バスのみの対応となるようである

これで観光地・ニセコは
鉄道のない観光地と
なる事が確定となった

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一方の長崎本線も乗り換え別料金となり
シンカンセンを利用するにしても
特急料金の二重取りと
乗り換え負担のダブルパンチとなる

そもそも在来線と共存できない区間に
シンカンセンを通しても
赤字が増えるだけだろ?
しかも利用客も料金と乗り換えの
2重の負担増となる

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シンカンセンが延伸される毎に
在来線が食い潰されていく
シンカンセンはもはや鉄道全体に
とってのガン細胞と化しているね






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