風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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『路線の思い出』   第476回  興浜南線・元沢木仮乗降場

『路線の思い出』  第476回  興浜南線・元沢木仮乗降場 〔北海道〕

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車両1両分の板張りホームだった
元沢木仮乗降場
周囲は小さな波止場を形成していて
民家は割とあった

《路線データ》
     営業区間と営業キロ               輸送密度 / 営業係数(’83)
     興部~雄武 19.9km                  203   /   1734

     廃止年月日          転換処置          廃止時運行本数
      ’85/ 7/15            北紋バス              6往復

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簡易の駅名標と
全列車が停車していた時刻表

元沢木仮乗降場(もとさわきかりじょうこうじょう)は、かつて北海道紋別郡雄武町字沢木にあった、国鉄・興浜南線の仮乗降場である。 興浜南線の廃線に伴って、1985年7月15日に廃駅となった。
局設定の乗降場であるが、全列車が停車していた。

廃止時点で1面1線の単式ホームを有する駅で、ホームは鉄の骨組みに板を張りつめただけの簡易なもので、線路の北側(雄武方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。
無人駅となっており、板張りホーム出口から踏切のある道路を挟んだ位置に、電灯の設置されていない掘っ建て小屋同然の待合室があった。

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波止場へ向かう道路の踏切の袂には
電灯はないが隣の正駅・栄丘より
立派な待合室(掘っ建て小屋レベルだが)があった

駅周辺は小さな波止場集落を形成していて、隣の正規駅である栄丘より駅の周辺家屋は多かった。
駅跡は跡形もなく撤去され、国道からホームのあった場所に入る道路の入口には、日ノ出岬来訪を歓迎するアーチ門が建てられている。



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恐らく興浜北線と共に
最も復活して欲しいと
思う路線の興浜南線

今回取り上げる興浜南線であるが、恐らく廃止されたローカル線ではトップクラスの人気を抱く路線であろう。 それは何といっても、流氷を見ながらゆく車窓風景であろうと思う。 ワテも「流氷を見ながら行く列車が撮りたい」と思い続けたが、思いとは裏腹に『撮りそびれ感』を大いに抱く路線であるのだ。
なぜなら、筆者がこの路線に抱く夢を追い求める前に路線廃止となり、再び出会う事が叶わぬ『過去』となってしまったからだ。
 
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ワテ自身でも
「願わくばもう一度乗りたい路線」の
五指に入る興浜南線

それは、この興浜南線がオホーツク沿岸路線の中で最も魅力的な路線であったが、同時にこの路線の営業成績も当時の『国鉄再建法』の廃止対象路線に真っ先に指定される程の閑散線区で、ワテが半ば義務教育である高校を出て(経済的に)自由気ままに旅に出られるようになる迄に廃止されてしまったからである。

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サルベージして何とか掲載が適った
『ファースト北海道旅』での
興浜南線の撮り鉄写真
興浜南線は最初の北海道旅でも訪れているが
この時は痛恨のフイルム間違いで
青みが掛かって全ボツとなったよ

だから、今も時折机の上で、この『オホーツク縦貫鉄道』に乗っての車窓の旅や『撮り鉄』の夢を馳せる時がある。 そう・・、この記事を書いているこの時も、『オホーツク縦貫鉄道』の卓上の旅を妄想しているのだ。 今回は、自身で唯一と言っていい興浜南線での貴重な撮影体験記や、路線廃止後久しくして訪れた時の事を記そうと思う。

興浜南線の各駅の位置は、起点の興部から次の沢木までが全路線延長の半分近くを占めていて、車を持たず当該路線に乗って訪れる小僧の身の上では、この区間での撮影は駅から距離が離れ過ぎてほぼ不可能なのである。 従って、撮影可能区間は沢木から終点の雄武の間となる。 そして、その区間で最も流氷の望めるのが、言うまでもなく沢木から元沢木仮乗降場の区間であるので、必然的に撮影地はこの区間となるのだ。

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昔の鉄道は夜行列車があって
長期間有効で急行・特急乗り放題の
魔法の切符・北海道周遊券があったから
鉄道旅の夢が膨らんだよ

興浜南線の始発列車には、前夜に当時運行されていた網走行の夜行急行【大雪】に乗り、遠軽で名寄本線の始発に乗り換える事ができたなら乗車が適う。 要するに、「寝過ごさねばOK」って事である。
このように、厳しい行動を強いられる『鉄乗り・撮り鉄』の中では、比較的恵まれた条件であった。

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興部駅にあった
「さよなら興浜南線」のスタンプ
このスタンプは名寄本線廃止時まで
興部駅に置かれていた
ぢ・つ・わ・・興浜南線が廃止になってから
押したモノだったりして・・

 ・・今は駅の敷地跡がそのまま『道の駅』となっている興部駅からの興浜南線は、予想に反して紋別方向へ逆戻りする。 それは、興部の駅のある興部町の中心が海岸縁から1km位内陸側にあった為である。

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興部を出てしばらくすると
列車はオホーツクの海際に出て
車窓には流氷が広がる

前面にオホーツクの海が見えると、紋別へ向かうべく南下する名寄本線と別れて180度反対方向・・、オホーツク海沿いに北上していく。 始めは少し海際から距離を取った湿地帯をゆくが、徐々に海際に寄り添ってきて、やがて小さな波止場のある沢木に着く。 興浜南線の車窓はこれよりクライマックスの情景を魅せるが、ワテは『撮り鉄』なのでここで下りた。

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『ファースト旅』でのボツ写真を
白黒化してアラが出ないように縮小して
それでも出た黒い斑点はカットして
何とかサルベージできた沢木駅駅舎

沢木駅の駅舎は無人駅舎建て替えのモデルケースのようなカプセルハウス型の駅舎で、当時はかなりモダンな造りであった。 そしてその駅舎内には、誰でも利用可能の石油ストーブが据えてあった。
今の採算性中心の世知辛い世の中では、考えられない設備である。 これで、この路線を『撮り鉄』するにあたっての『基地』が暖房付で確保できたのである。

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オホーツク海に漂う流氷

この日の朝方は天気が上々で、念願の海に漂う流氷を撮りに行くべく、元沢木側に繰り出す。
でも、小高い丘をめぐる路線は海岸段丘の地形にヘツるように敷設されていて、かなり足場は狭い・・というか『ない』のである。 もう、雪の斜面をよじ登って、転げ落ちぬように踏ん張るしかなかったのである(そんなに大した傾斜でもなかったが・・)。
 
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流氷は波打ち際寄りのみで
沖は青い海だったが
素晴らしい情景が広がっていた

でも、そこからは『漂う流氷と興浜南線の鉄路』という、憧れ止まぬ情景が広がっていたのである。
やがて時刻がきて、ようやくずっと抱いていた憧れたる『鉄道情景』をゲットする事が叶ったのである。

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我が生涯のお宝写真となる
1枚をゲット

朝の1往復が終わると昼過ぎまで列車の運行はないので、海に点在する流氷や対峙する《日ノ出岬》に建つ烽火台跡の櫓などを眺めつつ、沢木駅の『基地』に戻る。 でも、昼過ぎまでの長い時間を基地で暖を取りながら呆けているのも何なので、先程眺めた《日ノ出岬》へ行ってみる事にする。

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あの生涯のお宝写真を撮った
場所から眺めた
あの岬に行ってみよう

ここから、冬は道が雪に埋もれて誰も立ち寄らない絶景の場所・日ノ出岬の烽火台跡園地まで歩いていく。 その距離は2km足らずだが、誰も立ち寄らぬ故に完全に雪で埋もれていて、ラッセル歩きを強いられた。 若いあの頃でなければ、たぶん音を上げて途中で引き返していただろうね。

ズボズホと雪にハマりながら、深くハマった足を引き上げる為に銀箱(カメラバック)で雪を圧雪したりしながら40~50分かかって、岬の烽火台跡までやってくる。 でも、岬は今の様に観光地として売り出すはるか前の事で、何の造作も加えられず、史跡である松前藩の烽火台跡を説明する案内板もなく、ただ鉄製の中2階構造の展望櫓があるのみだった。

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岬にいるうちに小吹雪となり
残念ながら白飛びしたれど
天気が良ければ生涯のお宝が
2枚になっていただろうね
※ 白飛び修正済

ここから対岸の位置となる海岸縁の土手に、しがみつくように興浜南線の線路が通っていて、流氷があったなら絶好の撮影スポットとなる。 だが、沢木駅を出る頃には晴れていた天気が岬に着く頃には崩れ出し、展望櫓の上からの興浜南線は吹雪模様の白飛びの情景だった。

この情景にガッカリした小僧だったワテは、小僧の稚拙な考えでこの岬に見切りをつけて、1本撮っただけで引き上げてしまったよ。 でも、晴れていれば、恐らく・・そして『撮り鉄』が上手く撮れたらの話であるが、ホームページの『日本百景』やこのブログなど、ワテの製作するあらゆるメディアのトップを飾る『一番星』な写真となっただろうね。

基地の沢木駅に戻る頃には小吹雪は止み、後は15時半の列車で戻るだけだが、『情熱大陸バカ』が迸る落ち着きのないタワケ(筆者)は、駅舎内で暖を取りつつじっとしてればいいものを、当時気を引いていた乗降場を訪ねるべく、次の元沢木まで荷物一式を担いで移動する。 

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雪を食らうズワイガニに
捕食されかけたよ

その沢木駅を出た直後に、案の定『オチャメ』な目に遭遇する。 それは『ズワイガニ』に襲われたのである。 もう、思いっきり雪をぶっかけられた。 思わず伏せた身体の半分が埋もれる程に・・。

でも、沢木駅の出発が、もう少し早かったらヤバかった。 なぜなら、今日の撮影地や元沢木への移動は、全て線路を伝っていた(良い子はマネしないように)のだから・・。 朝撮った撮影場所で《ズワイガニ》に遭遇したら、雪の土手以外に逃げ場はなく、ぶっかけられる雪で全身雪に埋もれて生き埋めになったかも・・ね。

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流氷と雄武の街

そんな半分生き埋めな目に遭いながらも、『情熱大陸バカ』の迸りは断たれる事はなく、雪を浴びてボロボロになりながらも元沢木へ向けて進んでいく。 朝の1本を撮った岬の展望櫓を望む土手から緩やかに下ると、沢木駅からちょうど3km先にある元沢木の板張りホームが見えてくる。

この元沢木は仮乗降場であるが、隣の正規駅の栄丘より集落もあり、波止場も形成していて利用客も栄丘より多そうだ。 列車も6往復の全列車が停車し、栄丘と扱いは変わらない。 駅待合室も、栄丘より構造のしっかりしたコンクリートブロック造だったよ。 でも、ホームから離れていた分だけ利用される機会を逸して、雪が噴き込んで中は荒廃していたけど・・。

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定刻になっても列車が来なかった時は
この薄暗い待合室の中で
「(ストーブのある)沢木駅でおとなしく
してれば良かった」とも思ったよ

元沢木で板バリホームや雪に埋もれた待合室を撮りながら、15時半の帰りの列車を待つ。
空からは再び雪が降り出し、やがて本降りとなってくる。 見る見るうちにレールは雪で埋まり、列車到着時刻の15時半になっても列車はやってこない。 「これは少しヤバいな」と思って「ヘルプしに国道に出ようか」と思った矢先、15分遅れで列車がやってきた。 到着した列車の車掌さんが「寒いっしょ お待ちどうさま」と声を掛けてくれて、最後の最後に心が温かくなったのを憶えている。

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あれから35年の月日が経ち
気が着けばもうアラフィフになっていたよ

あれから・・、ワテが今でも夢を馳せる『オホーツク縦貫鉄道』が廃止淘汰されて約30年の時が経ち、再度この地を『オホーツク縦貫鉄道』を探しに訪れた時、あの岬から望む景色が一変していた事に愕然としたよ。 なぜなら、興浜南線の廃線はともかくとして、今はこの岬自体が観光地化されていて無粋な施設が建ち並ぶ興ざめな光景に変貌しているのであるから・・。

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このガラス張りの展望台も
思ったより観光客が来なかったのか
早々と閉鎖されていたような
冬の荒波にさらされたその姿は
侘しさだけが残る
『無常』の理を現す光景だったよ

岬にはガラス張りの展望館が建てられ、その付近はオートキャンプ場となりバンガローが建てかけられ、国道より人を呼び込むべくの舗装道路が岬大地の上まで敷設されているのである。 もちろん、この舗装道路の終点は、岬大地のスペースに大きく設けられた駐車場である。 また、興浜南線が伝っていた海岸段丘の上には巨大なホテルが建ち、その周囲は展望道路が張りめぐらされ、あの時に魅せられた感動の情景は廃止された路線と共に「過去のもの」となっていたのであった。 

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興浜南線の通っていた
丘の上に建つ巨大ホテル
世の中は便利になっていくと同時に
大切なモノをポロポロと
落としているような気がした
※『楽天トラベル』より

温泉ホテルで風呂に浸かりながら眺めるオホーツク沿岸の情景は手軽であり、また一つの旅の形である。 
旅という事柄にサービスを求めるのなら、それも悪くはないだろう。 だがそこには、あの時にワテが抱いた感動はないのである。 わざわざ、遠くからその風景を目当てに赴く衝動も湧き上がってはこないのである。 この情景の変化を目にして愕然とした自分がいた事を決して忘れないだろうし、忘れてはいけない・・とも思うのである。

でも、「あの頃の情景は遠い昔の事だ」とかなり大きくガッカリしたけど、その一変して便利なホテルとなった内風呂に浸かって、観光地化の御利益をちゃっかりと享受してるワテ。


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先日ワテが住んでる大阪でも
日の感染者数が1万を超えたという
だが感覚が鈍化して
前ほど気にならなくなってきている

正直言うとコレは東京五輪で
感染爆発を招いた奴らの
思うツボだと思うよ

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奴らは東京五輪で感染爆破を招いた時も
騒ぎ立てる奴はパヨクに乗せられた
オツムの弱い奴だとか
武漢ウイルスを一般の感染と同じ扱いに下げろ!
いちいち騒ぎ立てるな!とか言ってたしィ

そして挙句の果てには
「東京五輪前後の感染爆発は
感染者が多数いる日本人の
若年層が広めたモノだ」と
チョン丸出しの責任逃れをしていたしィ

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そして日本人にのみ制限と規制をかけて
更に状況を悪化させたが
東京五輪に参加した外人・スタッフが
ほぼ全て帰国した開催4か月後には
全国の感染者数が百数十人まで落ちたのである

だがシナ五輪の準備と強化に
再び強化スタッフ名目で外人共が日本に来ると
今度はオミクロン株で日に5万超の
感染爆発を見る事となった

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これでも東京五輪及び今回の感染爆発の
原因を日本人のせいにして
移動制限や店の開店時短などの
国内経済圧迫策を取り
外人の入国には一切の制限を加えない

こうしてまた同じ感染爆発の
火に油を注いだのである
利権の為だけに東京五輪を開催して
日本人を殺し経済をズタズタにした
罪を隠し覆す為に

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これでシナ五輪が終わって一旦収まっても
仏五輪でまた同じ目に遭うよ
もう感染爆発を招く感染源は外人で

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五輪のドサクサで警備が薄くなった時に
シナ工作員が新たに開発した
新種株を巻き散らしているのだから

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防ぐ手立てはただ一つ
東京五輪開催を断罪して
開催を煽った首謀者を処罰し
世界の力を結集して元凶のシナを
完膚なきまでに滅ぼすしかないよ








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