2022-01-12 (Wed)✎
廃線鉄道 第73回 京都市電 〔京都府〕
京都河原町通りで離合する
京都市電の路面電車
※ ウィキペディア画像を拝借
京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。
1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年には京都市自体も市営路線を開設する。 京都市交通局開設後は京都電気鉄道の路線の併合を進め、1918年には京都電気鉄道が敷設した路線を全て併合して全面市営化する。
最盛期には碁盤目状の京都市内を文字通り完全網羅するに至ったが、1970年代に入るとモータリーゼションの波に押されて利用客が減少の一途をたどり、また市電が車の走行を阻害する問題も持ち上がって、1978年9月30日限りで全廃となった。
梅小路公園に静態保存された
前照灯1灯の900型電車
※ ウィキペディア画像を拝借
1895年に、民間企業である京都電気鉄道によって第1期区間が開業する。 この路線開業は、日本最初の一般営業用の電車となった。 京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われた事が挙げられる。
京都は東京への首都移転に伴って、古来より都として栄えた地位を失う懸念から、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画される。 この琵琶湖疏水の水力が発電に使えると判ると、世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに蹴上に水力発電所を建設した。 だが、電力を得ても当時はまだ電灯ん設備が普及しておらず、また産業用動力としても需要が伸びず、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となったのである。
最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。 岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでの事であったが、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。
京都市電と言えばこのスタイルだね
:
幼い頃に手を引かれて
この路面電車を見た記憶が
あるようなないような・・
※ ウィキペディア画像を拝借
その後、1912年に京都市によって4路線7.7kmを開業させたのを皮切りに、京都市独自で路線建設を推し進め、それと競合する事になった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行を理由に1918年に京都市に買収されている。
京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。 乗客も増え1963年には一日平均60万人超の利用があった。 だが、その後は自動車の普及によって乗客の減少が続き、経営が困難となって順次廃止されていく。
当時、モータリゼーションの進展や地下鉄の敷設こそが進歩の象徴・大都市の条件とする風潮があり、路面電車を時代遅れとするネガティブ・キャンペーンが展開されて立場を失いつつあった。
また、定時性を確保し乗客離れを食い止めるべく、1960年代に解禁された自動車の併用軌道乗り入れを再び全面禁止すべきという声もあったが、市は一部の路線(外周線の18.3kmにつき1975年4月から)を除いて、軌道乗り入れ禁止を実施しなかった。 また、実施された区間においても、禁止が徹底されていたとはいえない面があった。
この事で定時性が保てない→運行ダイヤを停留所に提示できない→乗客離れが進むといった悪循環に陥っていく。 併用軌道乗り入れ禁止ができなかった事が一因で廃止に追い込まれたケースは、金沢・川崎・岐阜など数多い事例がある。
梅小路公園に保存された2000型電車
:
最新鋭車両が投入された時は
既に京都市電は斜陽の坂を
転がり落ちていく最中だった
※ ウィキペディア画像を拝借
1969年に、京都市の新たな交通計画(十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網)が可決され、外周線を除く市電の撤去が定められた。 この背景には、累積赤字で京都市交通局が財政再建団体に指定され、政府・自治省からの利子補填などの支援・監督を受けるに当たり、赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められるという事情もあった。
市民による存続運動(廃止反対を求める署名は27万人に達したという)も行われたが、京都市は拒否して1976年に市電の全面撤去へと計画を変更する。 その後、地下鉄開業に備えて1978年に軌道路線は全面廃止となり、『日本で最初に開業した電車』は83年の歴史に幕を下ろした。 なお、地下鉄路線網は1969年当時の計画から40年以上が経過した2010年になっても計画が完遂しておらず、交通局の赤字体質も改善されてはいない。
廃止反対に多くの署名が集まった京都市電
その惜しむ心は廃止後に解体されずに
他の路面電車線に譲渡され第二の仕事先でも
『京都市電スタイル』で活躍している
※ ウィキペディア画像を拝借
市電全盛期には市営バスはこれを補完する役割を担い、御前通や七本松通など裏通りを走る路線も数多く見られたが、かつての市電路線網がバス転換化されると人口のドーナツ化現象もあって、それらの矮小路線はほとんど廃止されている。
伏見・稲荷線を除くと、京都市街の碁盤の目状の街路に沿った形で路線が建設され、路線名は通りの名、電停は東は東大路・西は西大路・南は九条・北は北大路までの範囲にある各通りが交差する場所に設けられた。
その電停名は、縦横の通りの名を組み合わせたものが多かった。 だが、祇園や百万遍などの例外もある。 また、京都らしく寺社の名を冠した電停も多かった。 すぐ近くにある場合は『前』、比較的距離がある場合は『道』の一字を加えていた。 これらは現在においても、その多くが市営バスの停留所名に引き継がれている。
こうした路線の特徴を生かして、各線で完結するのではなく循環系統が多数設定され、乗換が必要な区間をできるだけ少なくする工夫がなされていた。 また、平日朝のラッシュに対応するべく、2両編成の連結運転や急行運転も行われていた。
なお、市電が敷設されて以降、『市内の四周を巡る市電の路線に囲まれた範囲内が洛中』という認識が市民の間に広がった事も、京都における市民と市電の関係を見る上で興味深い。 当然ながら、市電が姿を消した現在の京都では、こうした共通認識がほとんど失われている。
京都市交通局が発行している
京都市電路線図
《路線データ》
路線距離(営業キロ):68.8km、軌間:1,435mm、複線区間:全線
駅数:163駅(うち、急行停車駅100箇所)
電化区間:全線電化(直流600V)、
専用軌道区間:京都駅前電停、七条千本のアンダーパス、伏見線の一部、稲荷線のほぼ全線
狭軌路線(1961年8月1日廃止)
路線距離(営業キロ):6.3km、軌間:1,067mm、複線区間:全線
駅数:21駅(うち、標準軌路線との重複駅6箇所)
電化区間:全線電化(直流600V)
専用軌道区間:堀川中立売の鉄橋上
三線軌条区間
京都電気鉄道は狭軌で、一方の京都市が自ら建設した路線は標準軌であった。 京都市交通局は、京都電気鉄道が軌道を敷設した道路には敷設せぬよう都市計画を定め、都市計画によって拡張した道路に路線を建設した為に両路線が重複する事は少なかったが、それでも一部には重複する区間が生じて、三線軌条が敷設されている。
三線軌条区間は下の通りである。
四条堀川~四条西洞院(1912年~1961年)四条線・堀川線
烏丸丸太町~寺町丸太町(1913年~1926年)丸太町線・中立売線
烏丸丸太町~烏丸下立売(1913年~1926年)烏丸線・中立売線
七条東洞院~七条河原町(1913年~1927年)七条線・木屋町線
唯一撮ってた京都市電
阪堺電鉄の車庫だけど
路線一覧
京都電気鉄道によって敷設された路線
路線名 | 区間 | 開業年月日 | 廃止年月日 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
伏見線 | 京都駅前~中書島 | 1895年2月1日 | 1970年4月1日 | 京都市による買収後、 広軌化 | |
鴨東線 | 岡崎~木屋町二条 | 1895年4月1日 | 1926年9月1日 | 京都市による広軌化に伴い廃止 | |
蹴上~岡崎 | 1895年4月1日 | 1965年7月10日 | 京都市による買収後、 広軌化 | ||
木屋町線 | 京都駅前~木屋町二条 | 1895年4月1日 | 1927年4月6日 | 京都市による買収後、 河原町線の開業に伴い廃止 | |
間の町線 | 七条間の町~新寺町上珠数屋町 | 1895年4月1日 | 1901年1月21日 | 七条内浜経由に変更され廃止 | |
東洞院線 | (塩小路東洞院~七条東洞院) | 1895年4月1日 | 1929年1月16日 | 河原町塩小路経由に変更され廃止 | |
高倉線 | 塩小路高倉~七条高倉 | 1901年8月23日 | 1929年1月16日 | 河原町塩小路経由に変更され廃止 | |
中立売線 | 木屋町二条~堀川中立売 | 1895年7月1日 | 1926年7月15日 | ||
堀川線 | 京都駅前~北野 | 1895年9月24日 | 1961年8月1日 | 京都市による買収後も、 廃止時まで狭軌のまま | |
出町線 | 寺町丸太町~青竜町 | 1901年3月11日 | 1924年10月1日 | 京都市による買収後、 河原町線の延伸開業に伴い廃止 | |
城南線 | 堀川押小路~二条駅前 | 1902年2月10日 | 1912年5月30日 | 御池線の開業に伴い廃止 | |
稲荷線 | 勧進橋~稲荷 | 1904年8月4日 | 1970年4月1日 | 京都市による買収後、広軌化 | |
御池線 | 堀川御池~二条駅前 | 1912年5月30日 | 1919年1月18日 | 京都市による買収後、廃止 |
京都市によって敷設された路線
路線名 | 区間 | 開業年月日 | 廃止年月日 |
---|---|---|---|
蹴上線 | 東山仁王門~岡崎*1 | 1926年8月7日 | 1965年7月10日 |
今出川線 | 銀閣寺道~北野白梅町 | 1912年11月21日 | 1976年4月1日 |
丸太町線 | 円町~熊野神社前 | 1912年6月11日 | 1976年4月1日 |
四条線 | 四条大宮~祇園 | 1912年6月11日 | 1972年1月23日 |
七条線 | 東山七条~西大路七条 | 1912年11月21日 | 1978年10月1日 |
東山線 | 高野~東福寺 | 1912年12月25日 | 1978年10月1日 |
烏丸線 | 京都駅前~烏丸車庫前 | 1912年6月11日 | 1977年10月1日 |
大宮線 | 壬生車庫前~九条大宮 | 1912年9月12日 | 1972年1月23日 |
千本線 | 壬生車庫前~千本北大路 | 1912年6月11日 | 1972年1月23日 |
白川線 | 銀閣寺道~天王町 | 1954年3月1日 | 1976年4月1日 |
北大路線 | 高野~千本北大路 | 1923年10月21日 | 1978年10月1日 |
河原町線 | 洛北高校前~塩小路高倉 | 1924年10月1日 | 1978年10月1日 |
西大路線 | 千本北大路~西大路九条 | 1928年11月5日 | 1978年10月1日 |
九条線 | 東福寺~西大路九条 | 1933年8月5日 | 1978年10月1日 |
梅津線*2 | 西大路四条~梅津 | 1945年2月2日 | 1958年12月1日 |
無軌条線*3 | 四条大宮~西大路四条 | 1932年4月1日 | 1969年10月1日 |
トロリーバス・梅津線 | 西大路四条~松尾橋 | 1958年12月1日 | 1969年10月1日 |
- 京都電気鉄道路線(岡崎~蹴上)買収後に路線延長
- トロリーバスへの転換に伴い廃止
- 後にトロリーバス・梅津線に統合
今日限りでお別れ・・
営業最終日のサヨナラ花電車
※ ウィキペディア画像を拝借
京都市電 年表(一部割愛)
1893年(明治26年) 2月 1日:内国勧業博覧会の開催に合わせた旅客輸送を目的とする電気鉄道敷設
事業を行う為の民営企業として、資本金30万円で京都電気鉄道株式
会社が設立され、翌3月には電気鉄道事業の認可が下附される
その後特許や命令書が引き続いて下附されている
7月29日:疏水運河西側~南禅寺橋及び、丸太町通~下立売通東堀川の2区間に
電気鉄道敷設の特許、並びに命令書が下附される
1895年(明治28年) 2月 1日:伏見線 七条停車場(七条停車場・踏切南)~下油掛(後の京橋)開業
路線は1067mmの狭軌路線で、日本初の電気鉄道事業の営業開始
その後の路線拡張は路線一覧の表を参照の事
1918年(大正 7年) 7月 1日:京都市が京都電気鉄道株式会社を買収し、京都電気鉄道全線を京都市
電の路線として編入
1919年(大正 8年) 1月17日:狭軌であった御池線・堀川御池~二条城が廃止
これ以後は、旧京都電気鉄道狭軌線付替え及び軌隔拡張(狭軌から
標準軌化への改軌)が進む
1920年(大正 9年) 7月 7日:京都市電気軌道事務所を京都市電気局に改組
1952年(昭和27年)10月 1日:地方公営企業法の施行に伴い、京都市交通局が公営企業として新発足
1961年(昭和36年) 8月 1日:旧京都電気鉄道の路線として開業した狭軌路線のうち、最後まで
広軌化されなかった堀川線 京都駅前~北野6.3kmが廃止となり、
市営バスに転換される 同時に北野車庫廃止
堀川線の廃止で京都市電から狭軌路線は完全消滅する
1962年(昭和37年) 3月27日:市電、及びトロリーバスで平日朝の午前7時から午前9時の間で急行
運転開始
1965年(昭和40年)12月 1日:併用軌道への自動車の乗り入れを全面的に開放
1969年(昭和44年)10月 1日:トロリーバスを廃止し、市営バスに転換
京都市電の消えゆく足跡
※ 京都市電ギャラリーより
1970年(昭和45年) 4月 1日:旧京都電気鉄道伏見線として開業し、日本初の路面電車として営業
運転が開始された伏見線の塩小路高倉~中書島と、稲荷線の勧進橋
~稲荷が廃止となり、両区間とも市営バスに転換される
1971年(昭和46年) 3月18日:東京都電・大塚駅前~本所一丁目 他7線区の廃止に伴い、京都市電
が日本最大規模の路線網を持つ路面電車となる
1972年(昭和47年) 1月23日:四条線・四条大宮~祇園、大宮線・四条大宮~九条大宮、千本線・
四条大宮~千本北大路を廃止し、市営バスに転換
この路線廃止に伴い壬生車庫廃止
1975年(昭和50年) 3月30日:全車ワンマンカー化実施
4月15日:外周線(東山線・北大路線・西大路線・九条線の総称)のうち、
18.3kmの区間で併用軌道での自動車通行禁止を実施
1976年(昭和51年) 4月 1日:今出川線・銀閣寺道~白梅町、丸太町線・天王町~円町、白川線・
銀閣寺道~天王町を廃止し、市営バスに転換。 この路線廃止に
伴い錦林車庫廃止
この路線廃止で日本最大の路面電車の地位は西鉄・北九州線となる
1977年(昭和52年)10月 1日:河原町線・七条河原町~洛北高校前、七条線・七条河原町~西大路
七条、烏丸線・京都駅前~七条烏丸を廃止し、市営バスに転換
この路線廃止に伴い九条車庫廃止
1978年(昭和53年)10月 1日:河原町線・京都駅前~七条河原町、七条線・七条河原町~東山七条、
東山線・東福寺~高野、北大路線・高野~千本北大路、西大路線・
千本北大路~西大路九条、九条線・西大路九条~東福寺を廃止し、
市営バスに転換 この路線廃止に伴い烏丸車庫廃止
この路線廃止によって京都市電全線が廃止となる
京都のコンピューター専門学校に
安全地帯のオブジェ付きで
静態保存される京都市電電車
※ ウィキペディア画像を拝借
輸送実績
最盛期は1963年で、年間輸送人員は2億2188万6564人(1日当たり607908.4人)
廃止を控えた末期の1977年は、2115万6149人(1日当たり57962人)と1/10以下に落ち込んでいた。
京都郊外の岡崎公園で
案内所として使用される
京都市電静態保存車両
※ ウィキペディア画像を拝借
車庫・営業所
車庫は、広軌線では壬生・烏丸・九条・錦林の4か所に設けられていた他、狭軌線用の車庫として北野車庫が設けられていた。 また、京都駅八条口には操車場があった。 かつては三哲(現在の下京区総合庁舎)に狭軌線の車庫があった他、四条御前と梅津に無軌条線(トロリーバス) の車庫が設けられていた。
入庫する際には乗客に『電車乗継券』が渡された。
現在の北野車庫跡地は京都こども文化会館、烏丸車庫跡地は地下鉄北大路駅及び大規模商業施設、他は市営バスの車庫や操車場となっている。
路線廃止後広島電鉄に譲渡されて
京都市電塗装のまま運行され
広島でも『京都市電スタイル』で
人気を集めた元京都市電1900形
※ ウィキペディア画像を拝借
車両
1937年から製造された600形によって『京都市電スタイル』(半流線型の前頭部、緑とクリームのツートンカラー、正面窓上の前照灯)が確立され、その後の車両にも受け継がれていった。 この車両・塗装の影響は大きく、他の路面電車にも似たものが見受けられた。
京都市電は六大都市の中で唯一PCCカー(アメリカで開発された高性能路面電車)を製造しなかったが、1958年から製造された700形は、近代化された軽量車体で(一部は間接制御を装備)弾性車輪を履き、それらに匹敵する車両であった。
1960年代になると他の都市同様、京都市電もワンマン運転に対応した改造を行う事となる。
最初に改造された2600形は、その前に製造された2000形に準じたスタイルで、ラッシュ時には連結運転可能な仕様になっていたが、その後に改造された1600形・1800形・1900形は簡易な改造に留まった。
ワンマン化改造を行わなかった車両は、1974年の烏丸線廃止と同時に運用からはずされた。
但し、労働組合との間での条件交渉が妥結しなかった為、その後約1年間はワンマン化改造された車両の一部に、車掌を乗務させる措置が取られた。
最後の狭軌線の堀川線
廃止時まで使用され
その後鳥丸車庫で保存展示
されていたN27型電車
:
現在はリチウム電池改造を受けて
梅小路公園で動態保存
※ ウィキペディア画像を拝借
狭軌1形
1961年 に廃止された堀川線(北野線)の車両。 1955年までは広軌1形との重複を避けるため車体番号に『N』をつけて区別されていた。 京電の買収当時はN1号~N133号の133両を引き継いだが、直後に33両を売却している。 以後次第に数を減らしたが、最後の狭軌路線の堀川線廃止前年でも28両が残っていた。
この28両は1955年に改番を行い、1~28に番号が付け直されている(すでに広軌1形が全廃された後だった為、それまで番号の前に付いていた『N』は省略された)堀川線廃止の年の3月末に6両が廃車となり、最後まで残ったのは22両だった。
ワテは旅において予約とは
旅を制限するモノだと思っている
たぶんコレはワテが
ヤマに登るからだろうけど
ヤマから立てた予定の時分通りに
下界に降り着くのは至難の技なのである
それは雨が降れば確実に遅くなるし
大雨ともなれば行動不能で待機となるのだ
そして待機などで予約通りに事を
運べなくてもキャンセルや
変更の連絡の取りようがない
それはヤマでは携帯などの通信機器が
用を足さないからである
とどのつまり無断キャンセルとなる訳だ
そして指定や予約をする事で
旅1日の行動が大いに縛られるのだ
自由を求めて旅に出るのに
列車に乗る時間や向かう方向
宿へ入る時間から食事を取る時間まで
事細かく決められるのである
昔は金がなくて野宿を生業とした
だが今は金に特段不自由はない
高級ホテルでなければ
旅の全日程で宿泊する位の金は持っている
でもそんな旅はつまらないし
第一それは『旅』でなく『旅行』である
ワテは『旅』がしたいのだ
だから駅寝や野宿を生業とした
『旅』をしてるのだ
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
京都市電は、幼い頃に親に手を引かれて見た事があるような無いような。 それと、鉄道ファン(鉄道雑誌です)の写真コンテストの金賞の入選作でいいのがあって、「こんなの撮りたいなぁ」と憧れたのがありますね。
地下鉄って、京都の街の特性には合わないみたいですね。 東西線は他の私鉄やJRと被りまくりだし。 鳥丸線が奈良まで乗り入れてるので多少使える感じですね。
京都市電は、幼い頃に親に手を引かれて見た事があるような無いような。 それと、鉄道ファン(鉄道雑誌です)の写真コンテストの金賞の入選作でいいのがあって、「こんなの撮りたいなぁ」と憧れたのがありますね。
地下鉄って、京都の街の特性には合わないみたいですね。 東西線は他の私鉄やJRと被りまくりだし。 鳥丸線が奈良まで乗り入れてるので多少使える感じですね。
数年前まで近くの橋に市電時代の架線柱が残っていたのですが、橋の架け替えと同時に撤去されてしまいました。
現在走っている京都地下鉄東西線は、財政破綻するかもしれない京都市の元凶にもなっています。
その他、なんでこんなところに多額の税金を使ってしまうんだというところがたくさんあります。
変わってないですねぇ。