2021-12-05 (Sun)✎
廃線鉄道 第72回 一畑電気鉄道・立久恵線 〔島根県〕
エンジンを取り外して客車化した
国鉄車両を譲り受けエンジンを
再装着して使用していた
※『リメンバーしまね』より
一畑電気鉄道・立久恵線(いちはたでんきてつどう・たちくえせん)は、かつて出雲市の出雲市駅と島根県簸川郡佐田町(現:出雲市)にあった出雲須佐駅との間を神戸川(かんどがわ)沿いに結んでいた鉄道路線である。 後述でも述べるが、路線を運営していた一畑電気鉄道は社名を『電気鉄道』としているが、この立久恵線は廃線時まで非電化路線であった。
1964年夏の豪雨災害で
路盤が流失する被害に遭い
そのまま路線廃止となった
※『リメンバーしまね』より
1964年に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨(昭和39年7月山陰北陸豪雨)で路盤が流失する被害を受けて全線不通となったが、経営状況が思わしくなかった事から復旧される事なく、翌年の1965年2月18日に全線廃止となった。 なお、路線名称は、沿線の景勝地である立久恵峡に由来している。
昭和初期の鉄道敷設の夢であった
陰陽連絡鉄道の今は
三次と江津を結んだ三江線が廃止となり
路線建設当初は島根と広島を結ぶ陰陽連絡鉄道を目指して、「出雲大社と宮島の厳島神社を結ぶという意味を込めて」設立した会社の社名に『大社宮島鉄道』という壮大な名をつけていた。 その計画の骨子は、出雲~三次間91.7kmに鉄道を敷設するもので、三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していた為で、それと連絡して広島市内につなげようとするものである。
それで、1919年1月に路線敷設の申請を出願したが、地方鉄道にしては長大である事が要因となって長らく認可されなかった。 また不認可の理由に、当時の第2党で政敵である憲政派の鉄道であった事で認可されなかったという経緯もあった。 そこで地元の人たちは、松江出身の大物政治家・若槻礼次郎(大正末期から昭和初期に内閣総理大臣に就任)に早急に認可されるように託す。 若槻の働きかけによって、1924年にようやく免許状が下付された。
かつては広島~松江に
急行列車が運行されていた
:
その木次線も陰陽連絡の任を解かれ
経営り足を引っ張る閑散路線として
路線廃止の危機に瀕している
免許が下付された翌年に、資本金800万円で『大社宮島鉄道株式会社』を設立し、本社を東京有楽町に置く。 東京に本社を構えた事で有望な投資先として東洋経済に取り上げられ、中国地方の財界人がこぞって投資して大株主となり、資金的な問題はクリアされたように見えた。
陰陽連絡の夢が潰えた時
この路線の命運は
決まっていたのかも
※『一畑電気鉄道・立久恵線』より
ところが、昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設によって陰陽連絡鉄道が完成された事が理由となって、出雲今市(現:出雲市)~出雲須佐の18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐~三次の73.0kmの免許は、工事取り掛かりの期限を過ぎて失効となるに至る。 これを受けて、社名を『出雲鉄道』に改称した。
一畑電気鉄道の全保有路線図
赤線が現有路線で点線が廃止となった路線
※ ウィキペディア画像を拝借
戦後は、出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収合併される。 吸収合併で保有全線で電化路線を運営している『一畑電気鉄道』の傘下路線となった為に、社名が『電気鉄道』となったにも関わらず当路線は電化される事もなく、一畑電気鉄道唯一の非電化路線として運行を続けていた。
豪雨災害の被災区間は
道路転用されずに放置されたようだ
※『リメンバーしまね』より
しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨(昭和39年7月山陰北陸豪雨)で路盤が流失するなど大きな被害を受けて不通となり、そのまま復旧される事なく翌年に廃線へと追い込まれていった。 過疎化やモータリゼーションの進展が原因で、復旧する必要がないと判断されるほどに経営状態が悪化していた事が伺える。
『大社宮島鉄道』という壮大な社名に見る、陰陽連絡鉄道としての夢は諸事情により成就できなかったが、1954年1月20日に建設省(現 国土交通省)の道路施行計画で、『大社宮島鉄道』の予定経路に沿って、出雲市と三次市を結ぶ主要地方道が認定されている。
これは島根県道・広島県道11号《出雲三次線》であるが、島根県飯石郡飯南町野萱以南は国道54号と重用しており、実質上は広島県と出雲市を結ぶ路線とは言い難いものであった。 しかし、1993年4月1日に島根県道・広島県道11号《出雲三次線》の全線が、1993年4月に松江市と尾道市を結ぶ国道184号に組み入れられ、ようやく出雲市は陰陽連絡交通路を有するに至った。
三次駅ロータリーに
到着する高速バス
:
現在の陰陽連絡の任務は
伯備線を除いたほぼ全てが
高速バスに取って代わられた
この道路は、改正鉄道敷設法別表第91号『広島県福山ヨリ府中、三次、島根県来島ヲ経テ出雲今市ニ至ル鉄道及来島附近ヨリ分岐シテ木次ニ至ル鉄道』のルート上にあり、鉄道線の先行として国鉄バスの雲芸本線が1934年から出雲今市駅(現 出雲市)~備後十日市駅(現 三次)を結んでいた。
この国鉄バス路線は1989年以降は高速道路経由となり、中国JRバス発足後の1989年より、一畑バスと共同運行の〔みこと号〕となっている。 鉄道による出雲市から広島市中心部への陰陽連絡線計画は、半世紀と数年の時を経てバス路線として成就したのであった。
一畑電気鉄道・立久恵線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線区間と営業キロ:出雲市~出雲須佐 18.7km、軌間:1,067mm
駅数:11駅(起終点駅を含む)
出雲市(旧:出雲今市)・古志町・馬木不動前・朝山・桜・所原・殿森・立久恵峡・乙立・
向名(むかいみょう)・出雲須佐
※ 交換可能駅(停車場の位置づけ)出雲市・朝山・所原・乙立・出雲須佐
それ以外の6駅は停留場の位置づけだった
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)
運行形態:運行本数は区間運行なしの1日12往復で、所要時間は全線で41~66分であった。
輸送実績:旅客 642000人 (1759人/日)〔1962年〕
貨物 31686トン(86.8トン/日)〔1941年 ※ 最大時〕
16686トン(51.2トン/日)〔1962年〕
出雲市で覇者を待つ気動車
※『一畑電気鉄道・立久恵線』より
一畑電気鉄道・立久恵線 年表
1924年(大正13年) 5月14日 : 雲芸鉄道に対し鉄道免許状下付(簸川郡今市町~双三郡十日市原村)
1926年(大正15年) 5月10日 : 大社宮島鉄道に改称(届出)して会社設立。 本社を東京に置く
1932年(昭和 7年)12月 2日 : 瓦斯倫動力併用認可
12月12日 : 出雲今市~出雲須佐 18.7kmが開通する
1933年(昭和 8年) 4月 1日 : 向名が開業
10月15日 : 桜が開業
1938年(昭和13年) 2月 3日 : 出雲須佐~三次 73.0kmの免許が失効
6月 9日 : 陰陽連絡鉄道構想を断念した事を契機に出雲鉄道に社名を変更
資本金800万円を2,105,250円へ減少
1954年(昭和29年) 4月 1日 : 経営難から一畑電気鉄道に吸収合併され、同社の立久恵線となる
1955年(昭和30年) 3月24日 : 殿森が開業
1957年(昭和32年) 4月 1日 : 起点の出雲今市が出雲市に改称
1964年(昭和39年) 7月18日 : この日の深夜から翌日にかけて島根県東部を梅雨末期の集中豪雨が
襲い、朝山~桜の朝山トンネル南側の路盤が流失、これによって
7月19日から全線で不通となる
1965年(昭和40年) 2月18日 : 路盤流失部分の復旧が行わないまま、全線廃止となる
現在も入れ替え用機関車として
同型機が現存するロッド式の
DB21型ディーゼル機関車
※『レイルラボ』より
車両
ディーゼル機関車
DB20形 (DB201)
石炭コスト高騰と蒸気機関車の老朽化から、無煙化を図るため導入された1952年汽車会社製で軸配置Bのロッド式二軸車。 150馬力のDMH17ディーゼルエンジンを1台装備している。 戦後にこれまで蒸気機関車専門の汽車会社がディーゼル機関車を製造した初年の車両の為、製造当初は故障頻発により性能は不安定で蒸気機関車の運用継続を余儀なくされたが、1954年頃に性能が安定化した事でようやく所期の目的を実現した。
廃線後は北松江線(本線)に転属して雲州平田駅の構内入れ換え用となったが、1965年4月に廃車となりブローカーに売却されたものの買い手は付かず解体された。
カハニ1型と同型の
三岐鉄道の2軸ガソリンカー
※『三岐鉄道・車両大図鑑』より
気動車
カハニ1形(カハニ1~カハニ3)
カハニ1・カハニ2は、開業に備えて日本車輌で製造されたボギー車のガソリンカーである。
前面非貫通3枚窓の半鋼製車体を持つ荷物合造車。 エンジンは85馬力のガソリンエンジンを装備。
カハニ3は1935年に日本車輌で製造された増備車だが、前2両に比べ車体が短く、側扉が1個少ない(カハニ1・カハニ2は荷物扉と客用扉2扉、カハニ3は荷物扉と客用扉1扉)、前面窓が2枚という相違がある。
また、カハニ3の動力台車は偏心台車を使用している。 1941年にカハニ1が、1942年にカハニ2が木炭ガス発生装置取り付け改造を受け木炭代燃車となった。カハニ1・カハニ3は1945年頃以降客車代用となったが、カハニ1が1949年4月・カハニ3が1951年8月に正式に客車となり、それぞれハニ10・ハニ11に改番さている。 カハニ2は1949年12月にキハ1形(2代)キハニ1となり、1956年にエンジンがDMF13B形ディーゼルエンジンに換装され、木炭ガス代燃装置は撤去された。 立久恵線廃線後の経緯は以下の通り。
ハニ10(旧カハニ1)
日ノ丸自動車に譲渡され法勝寺電鉄線フニ100となり、1967年の同線廃線まで使用された後解体。
キハニ1(旧カハニ2)
キハ2・キハ5と共に有田鉄道へ譲渡されたものの、同社で使用されないまま1968年に解体。
ハニ11(旧カハニ3)→ 1965年4月に廃車、解体。
キハ1形の3号機は
事故廃車となったようである
※『一畑電気鉄道・立久恵線』より
キハ1形(初代、キハ4・キハ5)
1941年に神中鉄道(現 相鉄ホールディングスで、現在の相模鉄道線)キハ1形のキハ3・キハ5を譲受して、カハニ1形の続番でキハ4・キハ5としたものである。 元は二軸のガソリンカーだったが、導入翌年の1942年に客車化されてハフ10形ハフ10・ハフ11となった。 戦後はカハニ1形の客車化もあって利用頻度が減少していた事もあり、老朽化の為に1951年4月にハフ11・1953年12月にハフ10が廃車となった。
地方私鉄の種車となった
キハ40000形気動車
※ ウィキペディア画像を拝借
キハ1形(2代目、キハ2・キハ3)
戦後の動力車不足を補う為、1949年12月に国鉄からキハ40000形を譲受したものである。
譲受当時は両車ともエンジンが撤去されて倉庫代用となっており、入線に際して一緒に譲受した100馬力のGMF13形ガソリンエンジンを装備する工事を受けている。 その後はキハ2が1953年6月にエンジンを100馬力のDMF13形ディーゼルエンジンに換装され、キハ3も1955年3月にその出力強化形のDMF13B形ディーゼルエンジン(110馬力)に換装された。
キハ3は1961年2月の土砂崩れで堆積した土砂に乗り上げて転覆する事故を起こしてそのまま廃車となったが、キハ2は廃線翌年の1965年に有田鉄道へ譲渡され、同社キハ201となった。なお、キハ1については上記カハニ1形を参照。
前面4枚窓の元国鉄キハ04を譲り受け
エンジンを再装着した車両もあった
※ 写真はウィキペディアより
宇品線をゆくキハ04
キハ5形(キハ5)
キハ3の事故廃車代替のため1961年8月に国鉄から譲受したキハ04形のキハ04 29で、元は1933年田中車輛製のキハ41328である。入線に際してキハ3のエンジンを転用している。廃線後は有田鉄道へ譲渡されキハ202となった。
立久恵線廃止後に日の丸自動車・法勝寺鉄道線に
譲渡されて2度の路線廃止を経験した
英国バーミンガム製の舶来客車ハフ21形
※ ウィキペディア画像を拝借
客車
ハ1形(ハ1)
開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車である。 キハ1形(キハ4・キハ5)の客車化による代替と老朽化、また長尺物運搬時に行っていた鉄道省からの貨車借受解消のため、1942年7月に長物車チ200形チ200に改造されて貨車となった。
ハフ20形(ハフ21)
ハ1とともに鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車で、元はイギリス・バーミンガム車両工場製のハフ4720形ハフ4734。 1941年11月に伯陽電鉄(後の日ノ丸自動車法勝寺電鉄線)に譲渡され、同社フ50となり廃線時まで使用された後、鳥取県米子市の元町商店街パティオ広場に保存されている。
塗装・標記は法勝寺電鉄線廃線時の状態を基に再塗装したものとなっている。
立久恵線廃止後は北松江線で
引き続き工事用として
使用されたト60・ト61
※ ウィキペディア画像を拝借
貨車
ト30形(ト31~ト35)
開業に備え鉄道省から払い下げを受けた木造の無蓋車。 1948~55年にかけて全車廃車。
ト50形(ト51~ト65)
ト51~ト62はト30形では不足する事が判明したため、省線直通対応車として日本車輌で製造された10t積み木造無蓋車。 立久恵線廃線後はト51・ト52・ト57・ト60・ト61は北松江線に転属し、そのうちト60・ト61は2011年まで工事用に使用された。 廃車後のト60は栃木県真岡市の真岡駅に併設されたSLキューロク館で保存されている。 ト63~ト65は老朽化したト30形の代替車両として、国鉄から払い下げを受けた木造無蓋車である。 1953年頃に全車廃車となっている。
ワ1形(ワ1~ワ3)
ワ1は開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた10t積み木造有蓋車である。 1955年8月全車廃車。
ワ2・ワ3は1949年4月にト63・ト64と共に、国鉄から払い下げを受けた木造有蓋車である。
1955年8月頃に全車廃車。
ワフ1形(ワフ21)
開業時にワ1とともに鉄道省から払い下げを受けた6t積み木造の有蓋緩急車。 1953年6月廃車。
チ200形(チ200)
上記客車ハ1を1942年7月に貨車化し、9t積みの長物車に改造したもの。
立久恵線の廃線跡を転用した
国道184号線であるが
立久恵線自体が山岳路線だったので
このように上下の通路が
分かれている所が数多くある
※ ウィキペディア画像を拝借
路線跡地の現状
朝山~桜の立岩トンネル(内部は素掘り)
出雲市乙立町の国道184号上り線となっている。 地形的事情からトンネルが上下線の2つに分かれている。 山側が下り線・川側が上り線として使用されているが、上り線が線路跡である。
出雲市佐田町反辺(たんべ)の明谷・呑水両トンネルと落石避け。 その部分だけ国道184号が神戸川左岸に渡る為に、右岸の遺構が破壊されずに済んだ。 廃線後に出雲市・電鉄出雲市両駅付近が高架化された事、市街地化が進んだ事、国道184号の改良に路盤が使用された事、路線廃止から半世紀以上経過している事などから、遺構はほとんど残っていない。
ガンダム・マクロスネタの続き4回目は
予告通りマクロスサイドの続編であるが
マクロスの方は初代のキャラが
出てくる続編が一つもない
要するに初代のキャラが引き続いて
物語の筋を担う続編が一切ないのである
それは初代に沿った続編の製作が
不能となる不運が重なってのモノである
一つは初代マクロスの主人公の声優が
自殺した事やヒロインの声を当てた
声優がアニメ声優としてではなく
歌手としての自立を求めて
続編に携わる事を拒否した為である
これで初代のキャラは移民艦ごと
失踪という限りなくブラックなオチで
物語の記憶上でしか出演しない
偉大な英雄に奉り上げられたのである
それに加えて作画が不安定だった初代と
渾身を込めた力作で当時のアニメ映画では
随一のデキと言われた劇場版との
整合性が取れなくなってしまったのである
それはTV版はゼントラディーと監察軍で
その監察軍は一切出なかったのに対し
劇場版は男(ゼントラディー)と
女(メルトランディー)の争いで
続編として初代キャラを出すシナリオを
組む事自体が不能となったのだ
即ち初代のTV版と劇場版では
設定自体から別物となってしまったのである
だから初期にはTV版通りの設定と
劇場版の設定の男と女の争いという
異なった設定の続編がバッティングする
シナリオ崩壊の状態が見受けられたよ
だからマクロスの続編は
歌自体が敵となるマクロスプラスや
プロトデビルンなど新たなる敵の出現など
かなり苦心していたみたいだ
:
次もマクロス続編のネタの続きおば・・
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