2021-11-21 (Sun)✎
『路線の思い出』 第468回 名寄本線・中湧別駅跡 〔北海道〕
路線廃止後もしばらく
撤去されずにバスセンターとして
使われていた中湧別駅
※ 中湧別駅記念館のウェブ掲載写真より
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
名寄~遠軽・中湧別~湧別 143.0km 597 / 1246
廃止転換年月日 転換処置
’89・ 5・ 1 名士バス・北紋バス
廃止時列車本数
名寄~遠軽 下り7本・上り4本、名寄~興部 上り1本、名寄~紋別 上り3本
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 2往復
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 2往復
名寄本線のオホーツク沿岸区間では
唯一駅の遺構が鉄道公園として
保存公開されている中湧別駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
中湧別駅(なかゆうべつえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡上湧別町字中湧別中町(現・湧別町中湧別中町)にあったJR北海道・名寄本線の駅である。 名寄本線と湧網線が接続する交通の要衝であったが、湧網線(1987年3月20日)の廃止に続いて名寄本線自体も廃止となって、1989年5月1日に廃駅となった。
駅名は駅の所在する地名からで、地名は湧別川の中流に位置していた事から『湧別』に『中』を冠した。 1981年度の1日乗降客数は686人との事。
駅跡公園は雪があった方が
ワザとらしさが消えていい
廃止時点で単式ホームと島式ホームの複合型2面3線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム北側と島式ホーム南側を結んだ跨線橋で連絡していた。 駅舎側(西側)が上下共用の1番線、島式ホーム内側が名寄本線下りの2番線、外側が湧網線と湧別支線発着用の上下共用の3番線となっていた。 また、島式ホーム北側は切欠きとなっていたが側線扱いとなっていた。
3番線の外側に多数の側線を有し、その他にも、1番線の名寄方から分岐して駅舎北側の貨物ホームへの貨物側線を2線有していた。 名寄本線湧別支線と湧網線の合流地点にはシーサス・クロッシングが設置されていた。 職員配置駅となっており、駅舎はコンクリート造りの建屋で構内の北側に位置し、単式ホームから少し離れた場所に存在していた。
駅跡は貨物車掌車や除雪車両が
展示された『道の駅』内の
鉄道資料館となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
旧駅構内は1993年4月1日から上湧別町(2009年10月に湧別町に吸収合併され、町の役場所在地が中湧別駅近くとなった)によって『中湧別鉄道資料館』として整備され、更に資料館を包含する形で『道の駅・中湧別』となった。
道の駅に併設された
クアハウス『チューリップの湯』
※ ウィキペディア画像を拝借
その後の道の駅は『道の駅かみゆうべつ温泉チューリップの湯』としてリニューアルされ、鉄道資料館は『上湧別百年記念公園』内の『中湧別駅記念館』となった。 また、『湧別町文化センター・TOM』が併設された。
駅跡ホームに保存公開されている
排雪モーターカーと貨物車掌車群
駅跡であるが、駅舎は撤去されたものの、開業当時からの木造跨線橋及びレールとホームが保存・展示されている。 車輌は旧1番線と旧2番線上に横付けする形で除雪用モーターカー(車番無しで形状からTMC200CSと思われる)1両と、ヨ3500形車掌車の他4両が静態保存・展示されている。
また、ホーム上には、駅創業時からの駅名標も保存・展示されている。
車掌車内にはダイヤグラム、ダルマストーブなどの古い備品類が展示され、また『文化センター・TOM』内にも駅名標や制服・改札鋏など名寄本線関連の備品などが保存・展示されている。 ホームの湧別方には腕木式信号機が設置保存され、遠軽方には『国有鉄道 中湧別保線区之碑』という石碑が建立されている。
併設する町の文化センター内には
駅の現役時に使用された名所案内板
などの備品が保存展示されている
※ ウィキペディア画像を拝借
また、併設された『湧別町文化センター・TOM』は、文化ホールと公民館・図書館・漫画美術館・湧別町役場中湧別出張所等がある複合施設で、鉄道資料館の管理も行っている。 また、同センター内には『北海道北見バス・中湧別案内所』が設置されていたが、乗車券販売を受託していた網走バスが2010年10月1日に中湧別エリアから撤退した事から案内所自体が閉鎖となり、北海道北見バスの乗車券は文化センターTOM内の上湧別町商工会での取扱いとなった。
2007年4月1日より札幌行高速バス〔えんがる号〕が乗り入れていたが、2012年4月1日に遠軽以遠の運行が打ち切りとなって中湧別乗り入れが廃止となっている。
鉄道公園でそそる展示物は
駅創業時からと思われる
旧式の駅名標くらいだった
名寄本線では紋別に次ぐ路線の要衝で、湧網線と名寄本線の湧別支線の分岐駅であった中湧別駅。
湧網線からの乗り換え以外に
中湧別駅に降りる必要がなかった
湧網線の最初で最後の花形列車が
行きかったのは今日限りで
路線廃止となる最終日だった
さよなら列車を印象深く撮る
でも、路線が在りし頃に駅より外に出たのは、湧網線から名寄本線に乗り換える時に十数分の接続待ちがあって降りた1回だけで、後は湧網線の廃止によってこの駅に降りる最大の目的が消えて、また湧網線廃止後に乗車した湧別支線も遠軽始発の名寄本線上り列車に併結で、中湧別駅に降りる必要がなかったのである。
1日2往復の湧別支線の湧別駅は
当時は湧別町の役場所在地駅だった
湧別駅のスタンプも押したしィ
入場券も買ったしィ
現在の湧別駅跡は消防署だしィ
湧別支線の折り返し列車も遠軽行の併結となり、湧別からそのまま乗って遠軽に戻って石北本線の特急【オホーツク】に乗り継げは、札幌とはいかぬまでも滝川辺りまで戻る事ができて、そこから網走行の夜行急行【大雪】に乗って再び名寄本線の遠軽へ、しかも始発で名寄本線の『撮り鉄』アタックができたのである。
現役時代に降りたのは1回コッキリで
しかもその1回に撮った駅舎の写真は
旅人生最大の失敗旅で撮ったボツ写真を
白黒化するサルベージだった
クドクドと書いたが、とどのつまり中湧別に降りる必要が皆無となった訳である。 こうして、駅舎を撮った写真は、我が旅人生最大の失敗旅である『夏の初めての北海道旅』でのフイルム間違いのタングステンフイルムで撮った、青みが掛かってボツな写真のサルベージ以外にないのである。 ここで言える事は、例え旅人生最大の失敗写真であろうが捨てずに取っていたという、ワテの恐るべき『コス辛力』の勝利と言えよう。
氷点下20度以下の闇夜に
半分命懸けの『撮り鉄』をする
『情熱大陸バカ』だった若き日のワテ
光跡撮りの原点は
この1ショットだったかも
廃止前年の1988年に
ようやく流氷が接岸してくれた
:
廃止年の1989年は一切接岸
しなかったので最後の流氷列車風景に
ワテの生涯きっての『お宝写真』
名寄本線の流氷列車
:
もう我が国ではこの情景を
魅る事は叶わない
だが、流氷列車を撮り、山線区間で夜間撮影を決めて(決めたほどのデキか?)、湧別支線でも足跡を残してほぼ思い通りに撮れた名寄本線で唯一の取り残しがあったのが、この中湧別なのである。
それは、中湧別のチューリップ園での満開のチューリップと名寄本線列車のコラボであるが、この情景は名寄本線が廃止になる年の始めに初めて知った事で、知った時点でもはや手遅れだったのである。
まぁ、20そこそこのクソガキが沿線の歳時記を全て知り尽くすのも気色悪い話だが、それでも『ローカル線・命』で追っかけていたにも拘らず、『撮り鉄』情景として当然押さえておかねばならなかった『チューリップと名寄本線列車のコラボ』を見落としていたのは、かなり悔しい思いをしたのである。
まだ鉄道管理局の色合いが強かった
JR北海道・旭川支社発行の門外不出の機関誌
『JR北海道しんぶん』にも掲載されていた
中湧別チューリップ園と列車のコラボ
:
この『思い出お~い』特集号の機関紙
を持ってるのはワテ以外にいないのでは?
今では、経営移管したてのJR北海道が、北海道のユースホステルなどに宿泊する廃線目当ての『葬式鉄』に配布するべく配っていた『JR北海道しんぶん』の記事掲載写真に、この『チューリップと名寄本線列車のコラボ』があるのみだ。 ちなみに、この『JR北海道しんぶん』は宿などに向けた広告向けの機関誌で、世間一般には門外不出なモノだったらしいのである。
流氷列車や極寒の山線を撮る為に
ブリバリしてたので旭川鉄道管理局
というローカルエリアではあるが
ちょっとした有名人になってたワテ
まぁ、『北海道のユースホステルしんぶん』というユースホステルの機関紙でも、名寄本線の他に天北・標津・池北をひっくるめた『長大廃止4線』の特集記事を組んでいて、北海道へ『葬式鉄』を誘致していたのである。
凍てつく2月の山線区間で
駅舎に掲げられた温度計では
氷点下26度を示していた
撮影後のこの日の宿泊地はこの駅
:
マネすると1割位の確率で
逝っちゃうかも
真冬でも駅寝を厭わない『撮り鉄キチガイ4人衆』の周回遅れ(上位3名様は弟子を引き連れるなど、それはもうレジェンドだったが現在は御三方とも消息不明)な存在で、北海道の旭川鉄道管理局というローカルエリアではあったが、当時はそれなりに名が知れていたワテ(青いザックを担いでいたから『青ザック(の奴)』と呼ばれていたらしい)の自宅に、天北線沿線の郵便局会からの『さよなら天北線』タトウの購入依頼やら、ユースホステル協会から門外不出の『JR北海道しんぶん』が郵送されたのである。
まぁ、今のJR北海道の経営姿勢からは考えられない事だが、経営移管したてのJR北海道は『鉄』への旅の誘いなど、それなりに旅客の発掘をしていたのである。
そして、四半世紀という歳月が流れて、『オホーツク縦貫鉄道の夢』という企画を押し立てて、再び『ローカル線』に舞い戻ってきたのである。 だが、「舞い戻った」といっても、ターゲットとなるオホーツク沿岸のローカル線は全て廃止淘汰されて存在するのは廃線跡の遺構のみで、その遺構でさえもほとんどが撤去の憂き目に遭い、残ったものでも朽ち果てて原型を留めないモノがほとんどだった。
波止場町であった沙留駅の
跡地には団地が建てられていた
特に、目当てとなるオホーツク沿岸沿いの区間の駅跡は全て撤去されて原野に戻るか、住宅地やバスターミナルとなったり、放置されて荒地となって跡形もなくなっているのである。 それを実際に目にして確認するという、かつて必死になって追っかけていたモノが一切淘汰されてなくなっている現実を知らされる、心情的には重苦しい内容の旅でもあった。
路線廃止となってから
度々中湧別駅跡に訪れた理由は
鉄道公園ではなくクアハウスだった
※ 『湧別町・観光情報』より
その旅を含めて根室から稚内へは2度、網走からを含めると4度、名寄本線廃止後の中湧別駅跡を訪れている。
車掌車の形式なんか知らないし
この形は廃駅になりそうな駅の
駅舎としての認識しかないしィ
オホーツク沿岸に立ち寄ると必ず中湧別駅跡を訪れるのは、中湧別駅跡が鉄道公園となっていて鉄道資料館などの展示物が充実しているからではなく、『道の駅』となった駅跡に『チューリップの湯』というクアハウスがあるからである。 まぁ、鉄道資料館などの展示物は、一度見たら新鮮味がなくなるモノだしィ。
ワテにとっての車掌車とは
無人駅に置かれているギリギリ
テント駅寝可の駅舎なのですね
※ ウィキペディア画像を拝借
『上湧別百年記念公園』内の『中湧別駅記念館』となった駅前広場には、ホームと跨線橋が公開展示されていて、オホーツク沿岸区間(中湧別駅は内陸側に入った所に位置していたので、厳密には沿岸区間の駅には当てはまらないけど)では唯一鉄道の遺構が保存された駅なのだが、四半世紀の時が過ぎて醒めてしまった中年の目にはあまりそそる内容ではなかったよ。 ほとんど、旅途中の風呂場として立ち寄っていたよ。
構内踏切のワザとらしさが
駅跡鉄道公園である事を物語る
まぁ、駅跡は『道の駅』でもあるのだから、車(レンタカー)も駐車できるし、『道の駅』は車寝する場所としても使えるのである。 でも、町は細長く前後1kmほどで市街地は途切れて、店屋も『道の駅』に客を取られたのか、シャッターを下ろして店終い(閉店)しているのがほとんどで、買い出しにはそぐわない町のようだったのであるが・・。
クアハウスのカクテルライトに
照らされる雪の駅跡記念館
:
夜も街の施設として機能していたのは
道の駅のクアハウスだけだった
だから、都会ではまだ残業時間中な18時頃でも人通りは見当たらず、街中を行き交う車の通行もまばらで、深夜のような静けさが漂っていたよ。
このバナー下を見て対策を講じる
奇特な御仁もいるみたいですね
以前にブログ村のポイントで「不自然に
inポイントだけが高く毎日一定数延びているのに
outポイントがその半分の以下で
明らかに複数のデバイスを
使用した自押しだ」と指摘したら
即座に修正してoutポイントが
驚異の伸びを示してワテの
outポイントを上回っているよ
不正操作をしてるのがチョンバレ満開で
記事の内容は大して変わらないのに
1ヶ月てoutポイントが3倍の伸びを示して
しかもワテのoutポイントに張り合うように
ワテにoutポイントが加算されると
必ずその上を行くように
ヤッコさんのoutポイントが加算される
その執拗さはもはや神の領域ですね
同時にワテのinポイントがやけに増えて
ワテのブログが自押ししている
ように見せかけているしィ
試しに一度ヤッコさんのブログを見たけど
毎日最低1記事は上げているみたいだけど
その内容は「今日食ったデザート」や
上高地のトレッキングや山荘の食事内容など
クソつまらん内容で再び見る気は起きないしィ
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
湧網線は廃止となる1987年まで、名寄本線は同じく廃止となる1989年まで、1983年から1985年の受験年(この年も受験なんか放り投げて行こうとしましたけど、ブロックが固く行けませんでした)を除いて毎年訪れてました。
特に名寄本線は、流氷を追っていましたが、この頃より地球温暖化が叫ばれるほどの暖冬続きで、流氷が接岸したのは1988年のみで、4冬通って漸く流氷列車が撮れました。 この流氷列車のショットは、生涯の『お宝写真』となってますね。
湧網線は廃止となる1987年まで、名寄本線は同じく廃止となる1989年まで、1983年から1985年の受験年(この年も受験なんか放り投げて行こうとしましたけど、ブロックが固く行けませんでした)を除いて毎年訪れてました。
特に名寄本線は、流氷を追っていましたが、この頃より地球温暖化が叫ばれるほどの暖冬続きで、流氷が接岸したのは1988年のみで、4冬通って漸く流氷列車が撮れました。 この流氷列車のショットは、生涯の『お宝写真』となってますね。
湧別駅も沙留の流氷も今となってはですねぇ。。遙か遠い日の記憶の1ページとなっています。