2021-11-20 (Sat)✎
廃線鉄道 第71回 大分交通・耶馬渓線 〔大分県〕
1971年10月に路線の
3/4に迫る区間の廃止で
終着駅となった野路駅に停車する
キハ601『やまばと』
※『失われた鉄道』より
大分交通・耶馬渓線(おおいたこうつう・やばけいせん)は、かつて大分県中津市の中津から同県下毛郡山国町(現・中津市)の守実温泉に至る、大分交通が運行していた鉄道路線である。 地元では『耶鉄』と称されていた。
1913年に耶馬渓鉄道として開業した路線で、戦時企業統制によって大分交通の路線となった。
山国川に沿って延びるこの路線は、沿線に青の洞門・羅漢寺・守実温泉などの観光地を控えていた観光路線の性格も帯びていた。
のどかな里や渓谷をめぐる
観光路線の性格を帯びていた
大分交通・耶馬渓線
1913年の開業時は軌間762mmであったが、軌間の違いから国鉄との輸送連携に支障を生じる為に、1067mmへの改軌が開業後の重要課題となっていたが、日露戦争後のポーツマス条約で戦勝賠償金を取れなかった事から大正不況期に突入して、そのあおりを受けてで延期されていた。
しかし、1927年6月に軌間拡幅工事に着手する事を決定し、日本興業銀行から90万円を借り入れる。
改軌工事は1928年5月に着工し、1929年8月に完成した。 改軌後に使用する車両は鉄道省から払下げを受ける事となり、同年8月24日から1067mm軌間で運行を開始した。
改軌による車両不足は
国鉄(旧鉄道省)から気動車を譲り受け
動力燃料費削減にエンジンを下ろして
客車化した上で使用していた
※ ウィキペディア画像を拝借
だが、この時は昭和初期の金融恐慌の最中で収入は予想に反して伸び悩み、改軌工事で借り受けた資金の金利が年に6万3千円に膨らんで耶馬渓鉄道は経営危機に陥ってしまう。 耶馬渓鉄道は社長以下の役員報酬削減と人員削減を打ち出したが、従業員から反発をまねく事となって現場は混乱し、地元紙は連日この騒動を報道する騒ぎとなった。 大株主であった中津町(現 中津市)の町長らが調停に乗り出し、社長の専務降格で事を収める。
だが、その後も経営不振が続き、1931年の減資に続いて1935年に融資先の日本興業銀行より役員が送り込まれ社長に就任し、日本勧業銀行の管理下におかれた。 銀行管理下に置かれた同年(1935年)にガソリンカーを導入して燃料費を削減するなど、銀行の指導の下で合理化の推進と経費削減を強制づける強力な経営再建策が執り行われた。
昭和金融恐慌による経営不振も
徹底した合理化と路線の
観光路線化で乗り切った
その一方で観光開発にも力を入れ、耶馬渓町鴫良の温泉掘鑿や深耶馬山彦旅館の買収、鴫良梅林の造成などを手掛け、ガソリンカーに女性ガイドを乗車させて沿線の観光案内を行えなど観光利用の誘致に努め、社員は北九州の会社や工場・役所をまわりを行って観光地『耶馬渓』を宣伝していった。 こうした努力の甲斐があって、1938年上期には4年ぶりの復配となった。
路線の中心駅だった大貞公園駅
さらに、その後の戦時景気による輸送量の増加とガソリン規制による乗合自動車(路線バス)の衰退により業績は向上していく。 1942年からは、軍需工場として神戸製鋼・中津工場(1944年3月操業開始)の建設工事が本格し、工場への引込線も建設された。 周辺には住宅や寮が建設され、工場の操業が開始となった1944年には乗客数300万人をマークした。
路線の中心駅・大貞公園に
停車中のキハ104『せきれい』
:
この駅から軍需工場に指定された
神戸製鋼所・中津工場への貨物輸送が
この鉄道のV字回復の要因となったが
この工場の閉鎖によって路線廃止への
坂を転がり落ちていった
運営会社の動向であるが、1938年上期に復配となった事で、日本勧業銀行から出向して就任していた社長が『お役御免』となって1938年8月に辞任すると、10月に九州電気軌道の社長が同社社長に就任する。 これは、交通事業調整委員会から私鉄統合の要請を受けた事情からであった。
戦時企業統合により
西鉄グループの傘下に入り
大分交通・耶馬渓線となった
その後、1941年8月には、門司鉄道局で九州電気軌道に対して小倉電気軌道を統合するよう進める議題の会議の席上で、福博電車・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道・耶馬渓鉄道・別府大分電鉄の福岡・大分の県を跨いだ五社の併合を至急実施するよう通達を受ける。
つまり、この会議での当初の構想は、後に西日本鉄道(西鉄)となる福岡県の鉄道だけでなく、大分県の鉄道も併せて統合しようとするものであった。 しかし、結果的には県別に統合される事となり、大分県では1945年4月に大分交通が発足した。 西鉄は全株式の21.4%を保有し、融資銀行と同等の権限を有する大株主となった。
沿線の過疎化と道路整備から
路線の3/4近くが廃止となり
終着駅となった野路に到着する
キハ104『せきれい』
戦後に入ってもしばらくは経営は順調に推移したが、1970年代に入りると沿線の過疎化による利用者の減少と道路整備が進んだ事で経営状態が傾き始める。 その事で1971年10月に路線延長の3/4に迫る野路~守美温泉が廃止となり、耶馬渓線自体が耶馬渓の観光路線としての地位から離れる事となる。
国鉄(現 JR九州)大分駅の
高架化に伴う負担を要求された事が
路線廃止の引き金に
更に国鉄中津駅の高架化(1977年完成)に伴う費用の応分の負担を要求された事から、残る区間の廃止とバス転換の方針が打ち出され、1975年10月1日に全線が廃止された。 全廃時の営業係数は250余りであった。
この鉄道線の廃止に伴って大分交通は鉄道事業から撤退し、大分県内の私鉄事業者はケーブルカーなどの特殊鉄道を除いて消滅し、同県内の鉄道は国鉄線(現 JR九州)のみとなった。
大分交通・耶馬渓線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線区間と営業キロ:中津~守実温泉 36.1km(1971年9月末まで)
中津~野路 10.4km(1971年9月末から1975年9月末の全線廃止時まで)
軌間:1,067mm(開業時は762mmで1929年に全線改軌)
駅数:19駅(起終点駅含む)
中津・八幡前・大貞公園・上ノ原・諌山・真坂・野路・洞門・羅漢寺・冠石野・耶馬渓平田・津民・
耶鉄柿坂・下郷・江淵・中摩・白地・宇曽・守美温泉
※ 戦前に中津と八幡前の間に古城があったが、1944年に駅廃止となっている
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)、閉塞方式:タブレット閉塞式
運行形態:1971年の野路~守美温泉が廃止となる以前の時点
中津~守実温泉 下り6本・上り8本
中津~耶鉄柿坂 2往復
中津~洞門 2往復
の運行があった。 その他にも、平日には中津~大貞公園の区間運転も行われていた。
輸送実績:旅客 2635599人(7220.1人/日)〔1945年〕
958000人(2624.6人/日)〔1970年〕
貨物 126711トン(347.1トン/日)〔1943年〕
16650トン(347.1トン/日)〔1966年〕
※ 1966年4月に旧神戸製鋼を引き継いだ中津鋼板が工場を閉鎖し、貨物の取り扱いがなくなる。
中津駅のすぐ東にあった
大分交通・耶馬渓線の車庫
大分交通・耶馬渓線 年表
1911年(明治44年) 7月28日:耶馬渓鉄道に対し鉄道免許状下付(豊田~津民)
1913年(大正 2年)12月26日:耶馬渓鉄道が中津~樋田(後の洞門)を開業
軌間762mm
1914年(大正 3年)12月11日:樋田~柿坂(後の深耶馬・耶鉄柿坂)が開業
1920年(大正 9年)12月16日:諫山が開業
1922年(大正11年) 5月30日:鉄道免許状下付(下毛郡城井村~同郡三郷村)
1924年(大正13年) 6月16日:柿坂~守実(後の守実温泉)が開業し全通
1929年(昭和 4年) 8月24日:全線の軌間を762mmから1,067mmに改軌
1944年(昭和19年) 3月 1日:大貞公園が約800mほど上ノ原寄りに移転し、同駅から分岐する
神戸製鋼所中津工場(後の中津鋼板)への引き込み線運用開始
10月25日:中津~大貞公園にあった古城を廃止し、同駅間に八幡前を設置
1945年(昭和20年) 4月20日:別府大分電鉄・国東鉄道・耶馬渓鉄道・宇佐参宮鉄道・
豊州鉄道(元の日出生鉄道)・別杵自動車が合併し、大分交通発足
当線は大分交通耶馬渓線(中津支社)となる
1961年(昭和36年) 2月15日:江渕が開業
1966年(昭和41年) 4月 :中津鋼板が工場閉鎖したのと同時に引き込み線の使用休止
1971年(昭和46年)10月 1日:野路~守実温泉 (25.7km) が廃止
1975年(昭和50年)10月 1日:中津~野路 (10.4km) が廃止
キハ601『やまびこ』
:
保有気動車には各車両ごとに
愛称がつけられていた
※『大分交通耶馬渓線(1964年)』より
車両
1967年時点で、蒸気機関車2両・ディーゼル機関車3両・ディーゼルカー13両・客車19両・貨車16両を保有していた。 1965~66年に廃止された自社の宇佐参宮線・国東線より車両を転入している。
国鉄のキハ04に似た前面4枚窓の
キハ102『かわせみ』
※『ローカル線のアルバム』より
元から耶馬渓線所属だった車両
キハ101~104
順に『やまばと』・『かわせみ』・『ひよどり』・『せきれい』の愛称がつけられていた。
1935年及び1937年日本車輌製造製のボギー車で、国鉄キハ04形に似たスタイルだった。
耶馬渓鉄道からの引き継ぎ車で、元ガソリンカーである。 キハ101は代用燃料化改造歴があった。
丸みを帯びた流線形で
鉄道マニアに人気の高かった
キハ105『せせらぎ』
キハ105『せせらぎ』 →(元北九州鉄道ジハ61→国鉄キハ40341)
路線廃止後に紀州鉄道に譲渡され
同鉄道の看板車両となった
キハ603『かじか』
キハ601『やまびこ』・603『かじか』
1956年及び1960年日本車輌製造及び新潟鐵工所製のボギー車。 国鉄のキハ10形がベースだが、非貫通2枚窓の前面に全長が18 m化されたもの。 だが、総括制御の省略や、枕ばねをコイルばねとした日本車両製の偏心台車の装着など、国鉄のキハ10形とは異なる点も多い。
D31・32 ディーゼル機関車は
国鉄の入替え用機関車DD11と
同じ型の機関車だった
※ ウィキペディア画像を拝借
D31・32 ディーゼル機関車
1954年汽車製造製で国鉄DD11形と同性能。 D32は1966年に旭川通運へ売却された。
宇佐参宮線より転入
ホハフ502 → 元キハ502『みやばと』(元佐久鉄道キホハ58→国鉄キハ40306)
ホハフ503 → 元キハ503『かみばと』(元北九州鉄道ジハ21→国鉄キハ40321)
ホハフ101~104 ボギー客車
国東線より転入
D33・34 ディーゼル機関車
1954年日立製作所製でD31・32と同型車で、国鉄DD11形と同性能。
キハ50『ちどり』 → 元北九州鉄道ジハ51→国鉄キハ40331
国東線の廃止による
耶馬渓線転属直後と思われ
まだ愛称も掲げられていない
キハ602とキハ604
キハ602『しおかぜ』・604『なぎさ』
1956年及び1960年の日本車輌製造及び新潟鐵工所製で、キハ601・603の同型車。
ホハフ21 → 元キハ21『しらさぎ』 1935年日本車輌製造製のボギー車
ホハフ30 → 元キハ30『かもめ』(元佐久鉄道キホハ57→国鉄キハ40305・20)
ホハフ31 → 元キハ20『はましぎ』
ホハフ32 → 元キハ501『さざなみ』(元和歌山鉄道キハ501)
※ ホハフ30~32は、いずれもボギー車。
ハニフ12 → 片ボギー客車で元国東鉄道キハ12
保存・譲渡車両
キハ102『かわせみ』・キハ104『せきれい』・キハ601『やまびこ』・キハ602『しおかぜ』・
ハニフ22 → 中津市万田の民宿兼レストラン『汽車ポッポ』で保存。
九州鉄道時代の姿に復元されて
九州鉄道記念館に保存されたハフ25
※ ウィキペディア画像を拝借
ハフ25 → 北九州市門司区の九州鉄道記念館で九州鉄道時代の姿に復元し保存。
復元保存の改装が施された時に、車番がチブ37に改番されている。
元々は『汽車ポッポ』で保存されていたが、同館開館時に寄贈された。
路線廃止後紀州鉄道に譲渡され
同鉄道の看板車両として親しまれた
幸運な車両のキハ603『かじか』
キハ603『かじか』
紀州鉄道に譲渡。 2009年10月に定期運行を終え、翌11月にさよなら運転を実施し、2011年頃に片側の運転台を譲渡時に近い形に復元された上で2012年除籍となった。
除籍後は廃車解体が予定されていたが、2017年に紀伊御坊駅近傍の本町商店街が町のシンボルにすべくの保存を申し入れ、駅近くのガソリンスタンド跡地(現『ほんまち広場603』)にレールを敷いて静態保存され、同年12月に公開開始されている。 公開された車内は半分が交流スペース、残りがテナント2店となっている。
以下の車両は解体された。
ハフ27
旧本耶馬渓町の青公園で保存されていたが、1998年に解体された。
キハ604『なぎさ』
紀州鉄道に譲渡。 2010年解体、部品取り用になった。
D32
旭川通運に譲渡され、後に解体。
ホハ1
名古屋鉄道が明治村で保存するべく引き取ったが、保存が断念され解体された。 台車のみ明治村で保存。
有形登録文化財となっている
旧耶馬渓鉄道の耶馬渓平田駅ホーム
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡
1982年に、ほぼ全線が『大分県道411号中津山国自転車道線』(メイプル耶馬サイクリングロード)として整備されている。 そのうちの約22kmが、自転車専用道である。
中津駅付近は平成初頭まで線路跡が手付かずのまま残されていたが、その後区画整理事業が実施され跡形もなく消え去った。 国道213号線交差部分~大貞公園付近も『大分県道675号臼木沖代線』の拡幅に飲み込まれ跡形もない。
桜の名所だった大貞公園の駅跡は
桜並木が植えられているとの事だ
※『大分交通・耶馬渓線』より
大貞公園~野路の手前までの区間は、県道の東側の歩道部分が耶鉄跡である。 大貞公園駅跡付近は桜が植えられ、春には美しい桜並木となる。 また、野路駅手前で国道212号線を乗り越えていた鉄橋がサイクリングロードとして現存しており、さらに野路駅跡はホームが残っている。 付近の踏切跡の道路にも『踏切あり』の道路標識が残されており、ここに鉄道が存在した証となっている。
野路駅からの線路跡は、本格的にサイクリングロードとして転用されている。 ただし、樋田集落~青の洞門対岸の線路跡は、国道212号のバイパスとして転用されて跡形もない。 その先の津民~耶鉄柿坂では、半径160 mの曲線上にある橋梁としてよく取り上げられる沿線随一の名所『第2山国川橋梁』がサイクリングロードとして転用されている。
沿線の観光地・耶馬渓の渓流を
カーブしながら渡っていた
沿線有数の景勝地第2山国川橋梁
:
この橋梁もサイクリングロードとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借
『第2山国川橋梁』は、2012年7月の九州北部豪雨でほぼ半分が橋脚も含めて破損流失したが、2014年6月1日に復旧されている。 この付近では、耶鉄時代のトンネルもサイクリングロードとしてそのまま残されている。
柿坂付近は再び国道212号に飲み込まれ跡形もない。 柿坂には耶馬溪サイクリングターミナルがあり、自転車のレンタルや宿泊も可能である。 柿坂より先も国道にも飲み込まれているが、中摩~白地付近は国道より離れ、線路跡の面影をよく残している。
二号厚ヶ瀬トンネル
サイクリングロード化された
このトンネルも
有形文化財登録を受けている
終点の守実温泉駅跡はかつての終着駅としての面影は全くなく、山国町商工会館・大交北部バスの折返場として使用されている。 なお、旧耶馬渓鉄道の『一号厚ヶ瀬トンネル』及び『二号厚ヶ瀬トンネル』と『平田駅ホーム』が、登録有形文化財に指定されている。
セミリタイア後の世界を桃源郷の
ように思っているみたいだが
裏付けのないセミリタイアは厳しいよ
恐らく早まらずに定年まで
我慢してればよかったと
後悔する事だろうね
それはセミリタイアとは
仕事の受注が全くない独立開業と
一緒ですべての費用は自身で
工面しなきゃならないからだ
無収入な上で国民健康保険ですら
年間40万近くだよ・・払えるの?
もうセミリタイアに踏み出した途端
金・かね・カネのオンパレードとなるよ
その裏付けが最近始めたばかりの株投資って
年間の収入がいくらになるのか考えてみなよ
月3万の投資で年の投資額が36万
これでは上手くいって年間の収入が2~3万だよ
退職金も今の御時世では減る事はあっても増える事はないよ
そんなので暮らせるの?
1年持たずに一家離散の『首に縄』モノだよ
でも日頃に「死にたい」と抜かしている
奴ほど窮地になったら必ず
福祉(ナマポ)を頼るんだよね
何ら裏付けもなく「仕事がしたくない」という
自らの甘えで自爆してナマポに頼られると
その財源である税金を払ってる
ワテら労働者からしたら
「ナメてんのか!」の一言でしかないよ
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