2011-09-21 (Wed)✎
『私の訪ねた路線』 第54回 信楽線 〔滋賀県〕
ローカル色満点の気動車がゆく
信楽駅付近にて
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
貴生川~信楽 14.8km 2085 / 554
移管年月日 転換処置 移管時運行本数
’87/ 7/13 信楽高原鉄道 9往復
《路線史》
貴生川より信楽を経て京都府の加茂へと結ぶべく建設された路線である。 だが、信楽より先の延伸工事はされず、信楽~加茂は近年までバス路線が設定されていたようである。
沿線は焼き物の里でタヌキの置物で有名な信楽を始め、聖武天皇ゆかりの『紫香楽宮跡』などの史跡があり、また県都の大津とも隣接していて当時は人口が増加するなど、ロケーション的には他の特定地方交通線よりは恵まれた環境であった。 しかし、大津へ向かうには貴生川・草津と二度の乗換を必要とするこの線は利用が振るわず、国鉄再建法では第一次の廃止対象路線として指定される。
だが、基準期間内の輸送密度が廃止回避の基準値である2000人キロ/kmまであと僅かであった為、沿線住民による利用促進運動が繰り広げられた結果、1982年に輸送密度が2084と2000を突破し、転換会議の凍結に持ち込む事に成功した。
しかし、他の存続路線がこぞって第三セクター化を選択した事に加え、これを凌いでもまた次の諮問があれば再び廃止対象候補となる事は確実であった為、多の特定地方線の存続線区同様に第三セクター運営に移管する事を決定し、1987年7月に運営移管された。
この路線の最大の出来事と言えば、1991年5月の列車衝突事故であろう。 JRの臨時快速列車との正面衝突により、42人が死亡する大事故を引き起こしてしまった。 これによって7ヶ月近く全面運休し、賠償金の行方などからこのまま廃止も噂された。 特殊自動閉塞方式の信号機器の誤操作が今回の事故の主原因とされた為、事故後は古典的ではあるが確実な通票閉塞(いわゆるタブレット方式)に変更する処置が取られたという。
沿線は焼き物の里でタヌキの置物で有名な信楽を始め、聖武天皇ゆかりの『紫香楽宮跡』などの史跡があり、また県都の大津とも隣接していて当時は人口が増加するなど、ロケーション的には他の特定地方交通線よりは恵まれた環境であった。 しかし、大津へ向かうには貴生川・草津と二度の乗換を必要とするこの線は利用が振るわず、国鉄再建法では第一次の廃止対象路線として指定される。
だが、基準期間内の輸送密度が廃止回避の基準値である2000人キロ/kmまであと僅かであった為、沿線住民による利用促進運動が繰り広げられた結果、1982年に輸送密度が2084と2000を突破し、転換会議の凍結に持ち込む事に成功した。
しかし、他の存続路線がこぞって第三セクター化を選択した事に加え、これを凌いでもまた次の諮問があれば再び廃止対象候補となる事は確実であった為、多の特定地方線の存続線区同様に第三セクター運営に移管する事を決定し、1987年7月に運営移管された。
この路線の最大の出来事と言えば、1991年5月の列車衝突事故であろう。 JRの臨時快速列車との正面衝突により、42人が死亡する大事故を引き起こしてしまった。 これによって7ヶ月近く全面運休し、賠償金の行方などからこのまま廃止も噂された。 特殊自動閉塞方式の信号機器の誤操作が今回の事故の主原因とされた為、事故後は古典的ではあるが確実な通票閉塞(いわゆるタブレット方式)に変更する処置が取られたという。
信楽線はイベント列車が
よく運行されていた
:
この日も“マイテ”とかいう
旧型客車が行き来していた
また、この事故を契機にJRとの乗り入れ運行を自粛する所が増え、またこの正面衝突で原型を留めぬ程に完全に破壊された軽量化車輌の問題点も指摘されるようになり、この事故を機にレールバスと呼ばれる車輌は淘汰される方向に向かっていった。
最後に、この路線の今後の展望についてだが、滋賀県と大阪都心の連絡を密にする考えから、近江鉄道とこの信楽高原鉄道の路線改良をした上で、元あった信楽線の建設計画通りに京都府の加茂に向けて延伸し、片町線(学研都市線)と直結しよう・・という構想が、滋賀県と関連自治体などから持ち上がっているとの事である。 だが、具体的な成果はまだ見えていないようである。
マーガレットのお花畑越しに
勅旨~信楽
《乗車記》
まともに乗車したのは、遥か30年近くも前のチュウイチの時なので、車窓で見た景色の次元は全く違うと思うが、それはご愛嬌という事で。 筆者がチュウイチ当時の貴生川駅舎は、今見れば駅好きがヨダレを垂らすような素晴らしい木造駅舎であった。 屋根瓦に木造モルタル、駅前は小じんまりとしたロータリーといった典型的な田舎駅であった。
その貴生川駅の切欠ホームの0番線より信楽線は発車する。 貴生川を出ると、程なく右に90度カーブして小山の中に分け入っていく。 次の雲井まで10kmあまり。 全路線の7割強をこの区間だけで消費する。
地形状では、水口町と甲南町(現在は合併により、いずれも甲賀市)との町境の水口町側を縫うように走り、寄り添ってきた国道307号線が現れると山野から抜け出して、ポツリポツリと集落が見え始める。
やがて、国道に紫香楽宮跡の案内板が見え始めると、程なく雲井に着く。 無人駅だが木造の駅舎を持ち、待合所はかなり広い。 また、線路は撤去されたとはいえ、貨物ホームの跡が残り、創世期は荷受のあった有人駅であった事が伺える。
田植えの風景と
雲井~勅旨
雲井を出ると、広大な田園地帯が広がる。 田園と集落の戸建住宅を見ながらゆくと、程なく勅旨に着く。
この勅旨駅は、如何にも紫香楽宮があった事示すような駅名だ。 だが、畏まった駅名とは裏腹に駅舎はなく、庇のある待合所が乗っかるだけのコンクリートホーム1面の棒線駅である。
次は、終点の信楽だ。 信楽の町中に入ると、町名産の信楽焼のタヌキの置物がそこらかしこに置かれているのが目に入ってくるだろう。 そして、木造プレハブの田舎町の憩いの場のような駅舎を持つ信楽駅に入線する。 信楽駅の改札から外に出ると、どぶろくを背負った信楽焼の大狸がお出迎えをしてくれる事だろう。
建替え前の信楽駅は
田舎の素朴な駅舎であった
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No title * by ひゅーまん
おはようございます。信楽から加茂までは予定線だったんですね。それで国鉄バスが走っていたのが理解できました。私が行った際は横の売店は閉まっていました。賑やかな感じがします。
No title * by 風来梨
ひゅーまんさん、こんばんは。
昔の信楽線は味がありましたね。 タヌキの置物も絵になる情景の所でした。 まぁ、当時は幼すぎたので、そこまで構図を構成する事はできなかったですが・・。
昔の信楽線は味がありましたね。 タヌキの置物も絵になる情景の所でした。 まぁ、当時は幼すぎたので、そこまで構図を構成する事はできなかったですが・・。
No title * by オータ
こんばんは。
事故が起きてケチがついてしまった感がありますね。
信楽といえば焼き物の町。真岡同様鉄道も頑張って欲しいです。
事故が起きてケチがついてしまった感がありますね。
信楽といえば焼き物の町。真岡同様鉄道も頑張って欲しいです。
No title * by 風来梨
こんばんは。
この事故をキッカケに、古典的ですが確実性のあるタブレットが見直されたのですよね。 機械と人の力・・、永遠の追い駆っ子だと思います。
この事故をキッカケに、古典的ですが確実性のあるタブレットが見直されたのですよね。 機械と人の力・・、永遠の追い駆っ子だと思います。
No title * by Rev.Ren'oh
これまた懐かしいシーンです。
信楽線は実家から近かったこともあり、小中学生の頃、何度か乗りました。
こちらにもトラバさせて下さいませ…♪♪
信楽線は実家から近かったこともあり、小中学生の頃、何度か乗りました。
こちらにもトラバさせて下さいませ…♪♪
No title * by 風来梨
Ren'ohさん、おはようございます。
トラックバックありがとうございます。
国鉄時代は、のどかなローカル線でした。
1日の本数もそこそこあって、関西圏なら休日の撮影と乗車を絡めた1DAYハイクもできました。 歴史のある街なので、散策もいいかもです。 今の信楽駅は少し情緒を失いましたけど、まぁ仕方がないことですね。
トラックバックありがとうございます。
国鉄時代は、のどかなローカル線でした。
1日の本数もそこそこあって、関西圏なら休日の撮影と乗車を絡めた1DAYハイクもできました。 歴史のある街なので、散策もいいかもです。 今の信楽駅は少し情緒を失いましたけど、まぁ仕方がないことですね。