風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第70回 大沼電鉄

廃線鉄道  第70回  大沼電鉄 〔北海道〕

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地元の方が個人で15インチゲージの
動態軌道を製作公開している
※ 『鹿部電鉄前面展望』(ユーチューブ)より

大沼電鉄(おおぬまでんてつ)は、かつて北海道(渡島支庁(現在の渡島総合振興局))亀田郡七飯村(現在の同郡七飯町)と茅部郡鹿部村(現在の同郡鹿部町)の間を結んでいた軌道路線である。

1929年1月に、国鉄・函館本線の大沼駅(現在の大沼公園駅)と大沼温泉や鹿部村を連絡する目的で敷設されたが、敗色濃厚となり資材供出に迫られた終戦直前の1945年に不要不急線に指定され、同年6月1日の函館本線(砂原支線)の開通と同時に廃止となった。

戦後数年が経って世情が落ち着きつつあった1948年1月16日に、国鉄・函館本線(砂原支線)の銚子口駅で砂原支線と接続する形で一部の区間が地方鉄道として復活したが、これも1952年12月25日に廃止となった。 つまり、終戦直前に国策によって一度廃止となって、一部が復活したが、沿線の道路の整備などによって僅か数年で再び廃止となるなど、数奇な歴史を持つ路線であった。

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木造2軸電車 デ11
(元 愛知電気鉄道16)の同型機
車両検査・故障時の備えに
他社よりの車両譲渡で対応していた
木造2軸電車 デ11(元 愛知電気鉄道16)
※ ウィキペディア画像を拝借

鹿部村は漁業の町であると共に、間欠泉で知られる湯の里でもある。 その鹿部村の水産物の輸送と鹿部温泉への観光客の誘致の為に、鹿部村と函館本線を鉄道で結ぼうとしたのが当路線の建設目的であった。 1922年12月27日に軌道特許状が下付されて、1924年4月3日に動力を馬力(馬車鉄道)とした渡島軌道が設立されたが、資金が集まらず着工の目処が立たなかった。

そこで路線の特許の引き継ぎを受ける形で、大沼電鉄の手により1928年5月6日に起工式が行われ、以降は電化開業路線としての工事が着々と進められた。 当初は同年の12月に開業を予定していたが、雪の影響で工事が遅れて開業は翌年に持ち越しとなった。 そして、1929年1月5日に大沼~新本別が開通し、同月31日には新本別~鹿部が開通して全線開業となった。

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開業してから半年も経たない
1929年6月17日に駒ヶ岳が
爆発大噴火を引き起こして
沿線地域に甚大な被害を及ぼした

だが、開業から半年もたたない1929年6月17日に駒ヶ岳の噴火が発生する。 この噴火による溶岩流で周囲の山村に多大な被害を及ぼし、最も被害を受けた鹿部村では全戸542戸のうち全焼が335戸に至ったのである。 大沼電鉄では噴火後も避難民の輸送など一部運行を続けたが、函館水電発電所の焼失により停電して運行不能となって全線不通となった。

なお、駒ヶ岳の噴火による大沼電鉄の被害は、留ノ沢~鹿部が大量の降灰により埋没し、留ノ沢にあった変電所が焼失した他、留ノ沢~鹿部の電線が切断し通電不能となった。 また、鹿部停留所が大破したという。

被災地域の孤立化を防ぐ為に急ピッチで行われた復旧作業によって、1週間後の6月24日に大沼~留ノ沢が、動力は馬匹ではあったが仮復旧して運行再開となった。 また、約1か月後の7月20日には上磯のセメント工場のガソリン機関車を借り受けて大沼~鹿部を運行する。 だが、この機関車は保有する電車車両を連結する事ができず、札幌の馬車鉄道の客車を借用していた。 なお、電車による全線復旧は8月25日であった。

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噴火から大方100年経った今も
駒ヶ岳は馬ノ背(標高900m地点)
より先は進入禁止だ

駒ヶ岳大噴火後の大沼公園では溶岩流の見物客が増えるなど、観光地としての注目を集めていた。
鹿部村でも国からの支援を受けて復興へ動き出し、大沼電鉄も大沼~鹿部の利用者に運賃を割引したり、旅館経営者に鹿部駅付近の土地を5年間無料借与するなど鹿部村復興に協力する。

また、1930年になると観光客の誘致の為、鹿部村に温泉プールを完成させて旅客輸送増に貢献した。
ただ、貨物輸送については自動車の影響が見え始めており、値下げ競争に陥り始めていた。 
この後、1933年に鹿部~尾札部の延長を計画したり(却下された)、1937年には乗合自動車(路線バス)の運転を始めたりした。

鉄道省は函館本線の輸送力増強の為に駒ヶ岳東周り(赤井川経由)を新線の経路と決め、一部が並行する事となった大沼電鉄は不要不急路線として廃止される事となり、1945年5月31日で運転を終了し、6月1日からは砂原線が開業する事となった。

廃止後の軌条などの資材と車両は、富山地方鉄道高岡軌道線(現在の万葉線高岡軌道線)の開業に備えて同社に譲渡される事となったが、同線の建設工事の遅れや空襲によって青函連絡船の機能が停止した為に発送できず、終戦により中止となった。

大沼電鉄の廃止とほぼ同時期に国鉄・函館本線の砂原支線は開通したが、同線の鹿部駅が鹿部市街地から7km離れている事や、同線が冬期間運休してしまう事などから、鹿部村他周辺2村が大沼電鉄の復活を陳情する。 これを受けて大沼電鉄は事業再開を申請し、1946年11月8日に認可となった。

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一度は函館本線と路線が被る
不要不急路線として全線廃止と
なったが終戦後に国鉄(現JR)
銚子口駅から部分復活した
だが陸路の整備により復活後
僅か4年で再び路線廃止に

幸い車両及び資材は発送されず置かれたままだったので、新銚子口駅付近を除く旧路盤を再利用して工事は順調に行われ、1948年1月16日に新銚子口~鹿部温泉が開通した。 開通1か月の旅客数は当初の予想を上回り、同年9月10日に国鉄からの直通輸送が始まった貨物輸送も順調で上々な滑り出しであった。

しかし、1950年に川汲山道(現在の川汲峠)が開通して、陸路で函館に直通できる事となって状況が変わる。 同年6月に函館バスが川汲山道を通るバス路線の営業を開始した事によって旅客数が減少し、トラック業者も川汲山道を利用する事となって貨物も打撃を受けた。

1951年5月に始めた大沼遊覧船も成果が上がらず、更にこの時期の人件費の高騰も経営を圧迫する。
同年6月に五稜郭~戸井の国鉄戸井線の払下げや敷設免許の申請を行うなど、再建策を計画したが翌年には取り下げている。 1952年に入ると、貨客共に減少して経営難に瀕した会社は、鉄道線を廃止して観光事業及びバス・トラックによる運輸業へ転換する事を発表した。

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開業時の車両以外は全て譲渡車両だった
名鉄や富山地鉄の木造2軸車両のお下がりだった
開業後半年足らずで駒ヶ岳の大噴火に見舞われ
不要不急路線として一度は廃止されて戦後に復活するも
陸路の整備で僅か4年で再び廃止となり
経営転換した路線バスも業績不振で会社解散に追い込まれる
数奇な運命を呈した鉄道路線だった
※ ウィキペディア画像を拝借

これに対して鹿部村は廃止反対を唱えて大沼電鉄と交渉し、鉄道買収案も出たが価格面で折り合わず、ついに1952年12月1日をもって鉄道線は休止(同月25日廃止)となり、代替バスが運転を開始した。

だが、鉄道廃止後も経営は苦しく、新車のバスの代金の支払いが滞ってバスを返却する事態も発生し、結局は鉄道廃止後1年と持たない1953年9月20日をもって、大沼~鹿部の乗合バスを休止して同月22日から函館バスが運行を代替するようになって、その後に大沼電鉄は解散した。

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大沼電鉄の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
  1945年5月31日の一度目の廃止時
路線距離と区間(営業キロ):大沼公園~鹿部 17.2 km、軌間:1,067 mm、
駅数(起終点駅を含む):8駅 大沼公園・大八湾・池田園・銚子口・大沼温泉・新小川・新本別・鹿部
  ※ 新本別は、国鉄・函館本線(砂原支線)の新本別信号場とは全く離れた場所にあった。
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:全線(直流600 V)、変電所:留ノ澤、根拠法:軌道法
運行本数:大沼公園~鹿部 7往復・全線 17.2 km を所要40分〔1943年時点〕
輸送実績(最高値年):旅客 213747人(585.6人/日)〔1941年〕
           貨物 36945トン(101.2トン/日)〔1941年〕

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一部復活は国鉄・函館本線(砂原支線)
銚子口駅が起点となった

  1952年12月1日の休業時(正式な廃止は12月25日)
路線距離と区間(営業キロ):新銚子口~鹿部 11.3 km、軌間:1,067 mm、
駅数(起終点駅を含む):5駅 新銚子口・大沼温泉・駒見・宮ノ浜・鹿部
  ※ 戦前の銚子口と戦後の新銚子口は別の場所にあった。
    鹿部は、国鉄・函館本線(砂原支線)の鹿部とは全く離れた場所にあった。
    宮ノ浜は、国鉄・函館本線(砂原支線)の新本別とは全く離れた場所にあった。
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:全線(直流600 V)、変電所:留ノ澤、根拠法:地方鉄道法
運行本数:新銚子口~鹿部 5往復・全線 11.3 km を所要30分〔1950年時点〕
輸送実績(最高値年):旅客 356254人(976人/日)〔1950年〕
           貨物 23301トン(63.8トン/日)〔1951年〕

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大沼電鉄では電気機関車や電動貨車は
保有せず木造2軸の小型客車や貨車を
電車で牽引する運行方法が取られた
※『木造二軸客車』より

   大沼電鉄 年表
1922年(大正11年)12月27日:渡島軌道に対し軌道特許状下付(動力馬力)
1924年(大正13年)  4月  3日:渡島軌道を設立
1928年(昭和  3年)  4月17日:大沼電鉄に名称変更
                     5月  6日:起工式
1929年(昭和  4年)  1月  5日:大沼~新本別が開通し、同区間に大沼・大八湾・鬼柳・銚子口・
                留ノ澤・新小川・新本別の停留所を設置
                         1月31日:新本別~鹿部が開通し、大沼~鹿部が全通する
                  同区間に鹿部停留所を設置

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渡島駒ヶ岳の独特な山容は
1929年に発生した
大爆発噴火の爪痕だ

               6月17日:駒ヶ岳の噴火により被災し、約2か月間運休となる
           時期不詳:国鉄・大沼駅へ乗り入れ開始
                大沼を大沼公園・鬼柳を池田園・留ノ澤を大沼温泉に改称
1944年(昭和19年)  6月  1日:北海道における旅客自動車運輸事業統合要綱により、バス事業を
                函館乗合自動車(現在の函館バス)へ譲渡
1945年(昭和20年)  6月  1日:不要不急線指定に伴い、大沼公園~鹿部が全線廃止となる
                大沼公園・大八湾・池田園・銚子口・大沼温泉・新小川・新本別・
                鹿部が廃止となる
1946年(昭和21年)11月  8日:大沼電鉄の事業再開が認可される
1948年(昭和23年)  1月16日:新銚子口~鹿部温泉が開通し、同区間に新銚子口・大沼温泉・
                駒見・宮ノ浜・鹿部温泉を設置
                新銚子口駅付近以外は旧線の路盤が再利用され、駅名については
                新小川が駒見・新本別が宮ノ浜、鹿部が鹿部温泉に改称
             9月10日:国鉄からの貨物直通輸送を開始
1949年(昭和24年)  2月20日:鹿部温泉が鹿部に再改称され、同時に国鉄・函館本線の鹿部が
                鷹待駅に改称される(大沼電鉄廃止後の1956年に鹿部に戻る)
1952年(昭和27年)12月  1日:新銚子口~鹿部が全線休止となる
           12月25日:新銚子口~鹿部が全線廃止となり、新銚子口・大沼温泉・駒見・
                宮ノ浜・鹿部が廃止となる

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路線廃止後茨城交通に譲渡された
デ1型・木造2軸電車(茨城交通ではモハ3)

  車両
開業当時の車両は木造2軸電車 デ1・2、木造2軸客車の フ1・2、有蓋貨車 ワフ1・2、無蓋貨車 ト101・102の計8両で、いずれも日本車輌で製造された自社発注車両である。 貨車は保有したが電気機関車や電動貨車は保有せず、電車のデ1・2が客車・貨車を牽引していた。 1942年に車両検査・故障時の備えとして、富山電気鉄道(現・富山地方鉄道)から木造2軸電車 デ11(元 愛知電気鉄道16)を譲り受けてデ3とした。

1945年の廃止後の車両は、先述のように富山地方鉄道高岡軌道線への譲渡が中止され保管されていたが、デ3が同線の開業に備えて1947年に富山地方鉄道に譲渡された以外の他の車両は、1948年の再開業時に再び使用されている。 その後、水産物を中心とする貨物輸送が増大した為、1950年に国鉄から有蓋車ワ18452・18381、ワフ184・239・1595、冷蔵車レ1522の6両を譲り受け、ワ201・202、ワフ203~205、レ201として使用開始している。

1952年の路線廃止によって、デ1・2とフ1・2は茨城交通に譲渡された。 デ1・2はモハ3・4となり茨城線で、フ1・2はハフ13・14となり湊線で使用された。

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鹿部駅跡はライバル会社の
車庫となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

  廃線跡
折戸川に架かっていた石積みの橋台跡が放置されているなど、所々で廃線跡の遺構が残っている。
また、判明している駅跡は次の通りとなっている。
大八湾:駅跡及び路盤跡は、北海道道338号大沼公園線となっている。
池田園:現在のJR池田園駅の東側に位置していた。 駅施設自体の痕跡は何もないが、駅の硫黄積み込み
    施設と思われる擁壁が苔に覆われて残存している。
銚子口:駅跡及び路盤跡は、北海道道338号大沼公園線となっている。
    駅施設自体の痕跡は何もないが、当駅附近の線路跡が草薮の中の作業道となっていた。
新銚子口:現在のJR函館本線・砂原支線の銚子口駅の駅前に位置し、駅跡地は駅前の空地となっていた。
     駅附近の鹿部方への線路跡は、沼尻川を渡る地点までが住宅地に続く舗装道路となっていた。
     また、近くにある沼尻川に築堤と橋台が残存していた。
宮ノ浜:駅跡及び路盤跡は住宅地となっている。
鹿部:1929年の駒ヶ岳の噴火によって被災した駅舎はその翌年に改築され、駅前には噴水池や温水プール
   があったという。 鹿部地区の内浦湾岸にほど近い場所にあり、駅の南側には鹿部温泉があり最寄
   り駅となっていた。 現在の駅跡は函館バスの車庫となっている。


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