2021-10-25 (Mon)✎
廃線鉄道 第69回 秋田中央交通 〔秋田県〕
電化はされていたものの
電車は保有しておらず
電動貨車が客車を牽引する車両運用だった
※『ローカル私鉄を訪ねた日々』より
秋田中央交通線(あきたちゅうおうこうつうせん)は、かつて秋田中央交通が運営していた、秋田県南秋田郡八郎潟町の八郎潟駅と同郡五城目町の五城目駅とを結んでいた鉄道路線である。 僅か3.8kmと短い路線だった。 一時は五城目から上小阿仁村、鷹巣町(現北秋田市)方面へ抜ける路線網を延伸する構想もあったものの実現には至らず、1969年(昭和44年)夏に全線が廃止された。 代替輸送として、同社が路線バスを運行している。
地元の小学校に保存されていた
凸型電気機関車と客車も
老朽化が激しく解体されてしまった
※ ウィキペディア画像を拝借
当線を走った電気機関車と客車は長らく五城目小学校のグラウンドに展示されていたが、老朽化が激しく2003年に廃棄処分となった。
当路線は、マタギの里で名の知られた阿仁方面にある阿仁銅山の搬出を目的として敷設計画された路線で、先行区間として1919年10月に一日市(ひといち・現 八郎潟)~五城目に軽便鉄道法による免許申請を行うが、軽便鉄道法による免許は認可されず却下となり、軌道条例による申請に改めて軌道線として認可された路線で、当初は五城目軌道と称していた。
昔は電動貨車というゲテモノが
主力車両だったんだね
その五城目軌道は、軌道条例による認可を受けた翌年の1921年1月に会社を設立し、会社設立の翌年の1922年4月に、五城目~東五城目 3.8km の既存していた区間全線を開業させる。 なお、1926年に五城目を一日市(ひといち・現 八郎潟)に、東五城目を五城目へと、路線廃止時点と同じ駅名に改称している。 なお、一日市は、1965年6月に現在と同じ八郎潟に駅名改称されている。
車長が客車の1/3にも満たない電動貨車が
客車化されたロングボディの元国鉄車両を
2両も牽引する独特な風情を魅せていた
戦時中の1943年に発令された戦時企業統制によって、五城目軌道は存続会社として認知され、秋田市と南秋田郡のバス会社を統合して社名も秋田中央交通と改める事となる。 その後、1950年に全線が電化されるも、折からのモータリゼーション進行によって経営シフトをバス事業に移し出した会社は当該路線の廃止と自社の路線バス転換を決定して、1969年7月11日をもって八郎潟~五城目 3.8km 全線が路線廃止となった。
現在はバス専業会社となり
秋田市内を網羅する
バス路線を有する秋田中央交通
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の秋田中央交通は路線在時に本社を五城目町から秋田市内へ移転し、路線バスを主としたバス専業の会社となっている。 1969年の鉄道路線廃止時は本社は秋田市内にあったものの、主要エリアは五城目町や秋田市北部のローカルエリアのみであった。 だが、2001年頃から徐々に事業撤退し始めた秋田市交通局から、最終的には秋田市内全域のバス路線運行の移管を受けて、今は秋田県内で随一のバス事業会社となっている。
秋田中央交通線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線区間と距離(営業キロ) : 八郎潟~五城目 3.8km、軌間 : 1067mm
駅数(起終点駅を含む): 4駅〔八郎潟〕・川崎・高校前・五城目
複線区間 : なし(全線単線)、電化区間 : 全線(直流600V)、車庫 : 五城目
電化されてからも
電気機関車や電動貨車が
客車を牽引する車両運用だった
※『吊り掛け電車を求めて』より
秋田中央交通線 年表
1919年(大正 8年)10月 - 一日市駅 - 五城目駅間を軽便鉄道法による免許申請
時期不詳 - 却下されたため軌道条例による出願に改める
1920年(大正 9年) 8月13日 - 軌道特許状下付(南秋田郡一日市村~同郡五城目町 動力瓦斯)
1921年(大正10年) 1月15日 - 五城目軌道設立
1922年(大正11年) 4月21日 - 五城目~東五城目 (3.8km) 開業
1926年(大正15年)11月 1日 - 五城目を一日市(ひといち)に改称
1927年(昭和 2年) 1月 1日 - 東五城目を五城目に改称
1943年(昭和18年) 6月26日 - 秋田市・南秋田郡の鉄道・バス事業者統合の存続会社となり
秋田中央交通に改称
電化の理由は戦後の混乱による
石炭の高騰であった
※『吊り掛け電車を求めて』より
1950年(昭和25年) 1月20日 - 全線電化
1965年(昭和40年) 6月 1日 - 一日市を八郎潟に改称
1969年(昭和44年) 7月11日 - 八郎潟~五城目 3.8km 全線廃止
電動貨車を動力源として使うのは
地方の電化私鉄路線で
よく見られた車両運用手法だ
※『地方私鉄1960年代の回想』より
車両・運用
開業時に配備された車両はガソリン機関車2両、客車2両、貨車4両であった。 ガソリン機関車は同年に開業した仙台軌道(仙台鉄道)と同じくアメリカのミルウォーキー社製で、一般営業した鉄軌道線では最も早いガソリン機関車の導入とされる。 ただ、ガソリン機関車は非力な上に脱線も多かった為、1925年から蒸気機関車が導入されて置き換えられた。 客車は、開業時に配備された木造小型ボギー車(定員32名)のハフ1・2と、1939年に松島電車から譲渡された木造4輪単車のハ1・2が在籍していた。
電化しても電車は導入せずに
電動貨車が客車化された車両を
牽引する消極的運用が取られていた
戦後は石炭費の高騰に苦しめられ、新潟鉄道局の指導もあって電化される事になった。 電化の際に、南海電鉄から元国鉄の電気機関車ED40(出力230kW)を購入したが、出力が大きすぎて変電所の回転変流器100kW2台では電力不足となり、車体重量も44tと重過ぎた為に使用に堪えず、5年ほどで廃車されている。
秋田中央交通の車両運用の
切り札となった電動貨車・デワ3000型
この電気機関車導入の失敗を受け、1951年に東急電鉄から電動貨車(デワ3002)を購入し、後に2両(デワ3001・3003)増備して、これを主力として運用するようなった。 1967年に、越後交通長岡線からEB110形EB111を購入するも、僅か2年で路線が廃止となった。
国鉄のキハ41000のエンジンを
降して客車化されたナハフ10形
※『吊り掛け電車を求めて』より
なお、電化後も電車は導入されず、電気機関車や電動貨車が客車を牽引する方式が採られた。デワ3000形と同時期にナハフ10形客車2輌(国鉄キハ41000形の改造)が導入され、廃線まで主力として使用された。
自身にも荷を積み有蓋貨車と
ロングボディの客車を牽引する
珠玉の働きだった電動貨車
※『秋田中央交通・1963年』より
輸送実績
最大時の1949年で、年間輸送人員は約519000人(1日平均1422人)であった。
貨物輸送の最大も1949年で、年間24358トン(1日平均66.7トン)だった。
唯一残った秋田中央交通の
廃線跡遺構である川崎駅ホーム跡
廃線跡
路線跡のほとんどが、県道15号・秋田八郎潟線の道路拡幅に供出された。 遺構としては、現在も県道の脇に川崎駅のホームが残っている。 また、県道の道路拡幅と共に付帯する歩道の整備も行われ、廃線跡用地の一部はサイクリング道路にも転用されている。
終点の五城目駅跡の敷地は、秋田中央交通の路線バス及び、潟上市より路線バス運行の受託を受けて潟上市の飛び地(旧 南秋田郡昭和町)にコミュニティーバスを運行している秋田中央トランスポートが使用する五城目バスターミナル及び、五城目営業所となっている。
秋田中央交通線の廃線跡遺構として
唯一現存する川崎駅ホーム跡
※ ウィキペディア画像を拝借
川崎駅(かわさきえき)は、かつて秋田県南秋田郡八郎潟町川崎高田(開業時は旧・南秋田郡一日市町面潟川崎)にあった、秋田中央交通線(旧・五城目軌道)の駅である。 秋田中央交通線の廃線に伴って、1969年7月11日に駅廃止となった。 燃料費増加対策として会社の増資及び、路線の電化を行う事が決定した際に、地元出資者からの出資の条件として開設された駅であった。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(五城目方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 職員配置駅で、ホーム中央部分に待合所を有していた。 駅周囲は水田地帯で、当時未舗装であった県道との併用軌道区間の途中に位置した。
土盛りのホームがほぼ完全な形で残存し、ホーム上には松や桜の木が残されていた。 また、待合所の土台も確認され、この路線では唯一の遺構と言える存在であった。 駅近辺を通る秋田自動車道の建設に伴う工事での遺構撤去が懸念されたが、秋田自動車道の開通後も変わらず残存している。 また、当駅跡前後の線路跡は、サイクリングロードや集落の間道などの舗装された道となっている。
高校前駅(こうこうまええき)は、秋田県南秋田郡八郎潟町川崎宮花にあった秋田中央交通秋田中央交通線(旧・五城目軌道)の駅(廃駅)である。 秋田中央交通線の廃線に伴って、1969年7月11日に廃駅となった。 なお、駅名の元となった秋田県立五城目高等学校は、路線廃止後には馬場目川の対岸(南方)に移転している。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(五城目方面に向かって左手側)に存在した。 開業時からの無人駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 駅周囲は水田地帯で、県道の南側部分に駅は位置したが、併用軌道ではなく築堤化された上を線路が通じていた。
駅施設は全て撤去されて跡形も残っておらず、県道の整備が進んで駅跡が全く判らなくなっていたが、五城目高校前バス停附近の道幅が広くなっている部分があり、そこが駅跡地と思われる。 また、後にバス停の道幅が広くなった部分は、同バス停前の小公園として整備されている。
なお、線路が通っていた築堤は県道の拡幅整備によって取り払われ、拡幅された道路に取り込まれている。 また、その拡幅された道路端の付帯歩道部分は、サイクリングロードとなっている。
五城目駅で発車を待つ
電動貨車と元国鉄気動車改造の客車
五城目駅(ごじょうのめえき)は、かつて秋田県南秋田郡五城目町字鵜ノ木34にあった秋田中央交通線(旧・五城目軌道)の駅である。 秋田中央交通線の廃線に伴って、1969年7月11日に駅廃止となった。
廃止時点で島式ホーム(片面使用)1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(五城目方面に向かって左手側)に存在した。 その他に側線として、本線の八郎潟方から北側に分岐し島式ホーム北側と線路の北側にある貨物ホームに挟まれる形の行き止りの貨物側線を1線、本線から南側に分岐した機回し線、機回し線の南側に数線の側線を有した車庫線を有していた。
職員配置駅となっていて、駅舎は構内の北側に位置し、旅客ホームと貨物ホームの東側に接していた。
貨物ホーム上にも建屋を有していた。 また、車庫の建屋は、2線を格納する車庫と線路の南側に倉庫を有していた。
現在の五城目駅跡は
バス専業会社となった秋田中央交通の
営業所とバスターミナルとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の駅跡地は秋田中央交通バスの五城目営業所及び、同バスターミナルとなっている。
路線廃止後もバスでの国鉄への連絡運輸を行っていた関係で、長らく『五城目駅』と称していた。
現在は『五城目バスターミナル』と称されている。
また安倍内閣も基本的に支持していたけど
安倍晋三議員は東京五輪からおかしくなった
東京五輪招致が決まった途端に
パヨク政党のような行動を取り始めたのだ
外人だけ消費税を免除する免税店などの外人優遇と
逆に国民には消費税10%への上乗せという増税
特に『武漢ウイルス』が蔓延し出す中で
東京五輪を餌に強請りにきたシナに媚びて
日本だけシナの入国制限をしないなど失政続きとなった
それは安倍議員がアホなのではなく
党の意向に逆らえなかったのだろう
国民の意見を具現化していた安倍政権は
東京五輪と共に『日本会議』=チョンの背乗り
議員集団の従順な犬となってしまったのである
国民を裏切り続けて政権が持たなくなり辞任したが
続く菅は更に党の従順な犬と化し
開催すれば感染爆発を引き起こすのを承知で
党の開催推進派のいいなりとなって
『安心安全の東京五輪』と国民を騙し
ホロコースト・東京五輪の開催を強行し
案の定感染爆発を引き起こして
150万人の感染爆発及び15000人の
国民の命を奪ったのだ
そしてその罪を認めようとはせず
あろう事か感染爆発の罪を
感染被害者が多数となった日本人の
若年層に擦りつけたのである
感染爆発の要因となったデルタ株は
外国由来で日本人同士での発生は
有り得ないという事をひた隠しに隠して
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Re: バス事業者 * by 風来梨
TOM☆彡さん、こんばんは。
路面電車系の交通事業会社は、ほとんどが自社運行の路線バスへの切り替えが鉄道の廃止理由ですね。
秋田中央交通の保存車両は、2003年頃までは五城目小学校のグラウンドの隅に静態保存されていたそうですが、風雪に晒されてボロボロになって、老朽化で撤去処分されたそうです。 今は残念ながら一両も残ってないそうです。
秋田中央交通は路線バスに特化した会社のようで、高速バスの運行はなく、路線バスオンリーのようです。 秋田市内とその周辺市町村が営業エリアのようですね。
路面電車系の交通事業会社は、ほとんどが自社運行の路線バスへの切り替えが鉄道の廃止理由ですね。
秋田中央交通の保存車両は、2003年頃までは五城目小学校のグラウンドの隅に静態保存されていたそうですが、風雪に晒されてボロボロになって、老朽化で撤去処分されたそうです。 今は残念ながら一両も残ってないそうです。
秋田中央交通は路線バスに特化した会社のようで、高速バスの運行はなく、路線バスオンリーのようです。 秋田市内とその周辺市町村が営業エリアのようですね。
地方私鉄とバス事業者のかかわりはどこも切ってもきれません。ここは今は保存されている車両はあるんでしょうか?痕跡を求め(バス探索ともども)訪れてみたいですね。