2021-10-17 (Sun)✎
廃線鉄道 第68回 九十九里鉄道 〔千葉県〕
九十九里鉄道
:
フロントにエンジンを取り付けた
だけの非力な単端式のガソリンカーが
客車を2両牽引する旧態依然の鉄道だった
※ 『九十九里町史』より
九十九里鉄道(くじゅうくりてつどう)は、東金と漁師町の片貝を結ぶ路線として1926年11月25日に開業した路線である。 当初は九十九里軌道を名乗る法規上も軌道法の適用を受けた軌道線だったが、1931年に地方鉄道法に適用法規を変更して、翌年に社名も九十九里鐵道に改めた。 千葉市や山武郡成東町(現・山武市)への路線延伸も計画されていたが、実現する事はなかった。
単端式のガソリンカーを
機関車代わりに運用していた
列車はガソリンカーで運行されていた。 このガソリンカーは運転席が進行方向側にしかない単端式と呼ばれるもので、東金駅と上総片貝駅にあった転車台で方向転換する必要があった。
東金駅でターンテーブルによって
方向転換する単端式ガソリンカー
また、戦時中や終戦直後の混乱期は気動車の燃料として使われるガソリンの入手が困難となるが、当鉄道は気動車の燃料を沿線地域である片貝付近の地下で採取した天然ガスで動くように改造して代用する事によって乗り切り、この混乱期も気動車による運行を継続する事ができた。
NHKの番組『にっぽんの廃線』で
放映された九十九里鉄道
しかし、天然ガスはガソリンと比べて馬力が小さく、ラッシュ時などの多客時は乗客を捌ききれず、終戦直後の1946年~47年頃までは燃料不足や溢れる買出し客を捌く為に、栃尾鉄道や日本硫黄沼尻鉄道(耶麻軌道)から譲り受けた蒸気機関車を併用していた。
廃止を控えた末期は
列車とバスの交互運行で
経費を節減していた
※『地方私鉄1960年代の回想』より
終戦後数年が経って世情が戦後復興期に入ると、鉄道と並行した道路(未舗装)に自社の定期バスを運行して、近代化が図れず輸送力の乏しい鉄道と交互運行を行っていた。 交互運行時に上総片貝駅に乗客が来ると、次の便が鉄道かバスかの発車案内があった。
全国的に著名な観光地の
九十九里浜に近く
夏季は海水浴客で賑わっていた
著名な観光地として名の知られた九十九里浜に近い事で夏季には海水浴客で賑わったが、戦後の復興期に入ると沿線の道路整備が進められて車社会化が進む一方で、資金不足から鉄道施設の近代化が図れず、1961年2月28日限りで廃止された。
廃止時まで路線改良などの
設備投資は行われず開業時からの
運行形態を通していた
※ NHKの番組『にっぽんの廃線』より
廃止時には『さよなら運転』等の行事は行われず、また路線廃止を惜しんだ『お名残乗車』の乗客が詰めかける事もなく、その日の上りの最終列車に乗車した人はほんの数名と、ひっそりと人知れず路線廃止になったという。
非力なガソリンカーが
機関車代わりとなって
客車のみならず貨車も牽引していた
上述のように、沿線の道路整備などモータレゼーション化が進む一方で、資金不足で路線の近代化が図れぬ当鉄道の運行形態は気動車が有蓋車1輛と客車2輛を牽引した旧態依然の状態で、列車の走行速度は最高時速が30kmにも満たなかったという。 この事が会社の鉄道事業の廃止と、バス事業への完全転換へとつながっていったのである。
1961年2月28日の路線廃止以降の九十九里鉄道は、『船木鉄道』(山口県)など地方鉄道路線を所有していた他地域の私鉄と同じく、社名に『鉄道』を冠した路線バス専業の会社となっている。
上総片貝駅跡に建てられた
旧駅舎を模したバス待合所
※ 『きどうみち・九十九里町』より
現在はバス専業の会社であるが、上述の通り1926年~61年までの間、東金(現 JR東金線・東金駅)から九十九里町の上総片貝までを結んでいた鉄道路線を有していた名残りから社名に『鉄道』を残している。 バス停となった片貝には『片貝駅バス停留所』と、かつては駅であった事を示す『駅』の文字が入れられるなど、鉄道路線を保有していた名残が見られる。
千葉県東金市を拠点とする路線バス専業の事業者となってからは、小湊鐵道と共に小湊グループを形成している。 小湊鉄道と株を持ち合っていて企業規模が大きく異なる(小湊鉄道は房総全域にバス路線を保有する地域最大のバス事業者である)が、株式保有比率から小湊鐵道の名目的な親会社という形になっている。
九十九里鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線延長と区間:東金~上総片貝 8.6km、軌間:762mm、複線区間:なし(全線単線)、
電化区間:なし(全線非電化)
東金駅舎
駅数:7駅(起終点駅含む)〔東金〕・ 堀上・家徳・荒生・西・学校前・上総片貝
非力なガソリンカーが
有蓋車1輛と客車2輛を牽引した
旧態依然の車両運用だった
車両運用と運行形態:気動車が有蓋車1輛と客車2輛を牽引した旧態依然の状態で、列車の走行速度は
最高時速が30kmにも満たなかったという。 廃止が近づく末期になると
自社の路線バスとの交互運転となっていた。
車両は単端式のガソリンカーで、東金と上総片貝にあった転車台で方向転換
する必要があった。 車両のディーゼル機関への換装は行われず、廃止時まで
単端式のガソリンカーのままだった。
路線廃止まで開業時からの
鉄道設備で通した九十九里鉄道
※ 『九十九里町史』より
九十九里鉄道 年表
1922年(大正11年) 9月26日 - 軌道特許状下付(山武郡東金町〜同郡片貝村)
1923年(大正12年)12月21日 - 九十九里軌道として会社設立
上総片貝で発車を待つ
単端式ガソリンカー
1926年(大正15年)11月25日 - 東金〜片貝(のちの上総片貝)開業
1927年(昭和 2年) 3月 2日 - 軌道特許状下付(山武郡鳴浜村~同郡豊海村)
1931年(昭和 6年)12月26日 - 軌道から鉄道に変更
1932年(昭和 7年) 3月24日 - 九十九里鐵道に社名変更
1936年(昭和11年) 1月22日 - 指定の期限までに工事に着手しなかった為に鉄道免許失効
(山武郡片貝町大字片貝~同郡鳴浜村大字本須賀)
1937年(昭和12年)10月20日 - 指定の期限までに工事に着手しなかった為に鉄道免許状失効
(山武郡片貝町大字片貝~同郡豊海村大字真亀)
1939年(昭和14年)11月 - 学校前仮駅設置 → 年月日不明 学校前仮駅廃止
1944年(昭和19年) 3月 - 京成電気軌道傘下に入る
1948年(昭和23年)12月 - 鉄道と並行して東金〜片貝の路線バス運行開始
1953年(昭和28年) - 学校前駅再設置
1961年(昭和36年) 3月 1日 - 東金〜上総片貝の鉄道廃止
軽乗用車並みの出力のガソリンカーが
客車2両と貨車1両を牽引していた
所属車両
気動車
ディーゼルエンジン搭載車は皆無で、路線廃止時までガソリンエンジン車のみの運用だった。
また、空気ブレーキ装備は行われず、牽引気動車の手動式ブレーキとエンジンブレーキのみで減速・停止を行っていた。
開業時から路線廃止まで休む事なく
働き続けた単端式ガソリンカー
キハ102・103・104
キハ101は1929年に焼失により除籍。 当初形式は『キハ』ではなく『クジュウクリ・マルヤマ(丸山車両製造)』を略した『クマ』であったとも言われている。 木造車で九十九里軌道としての創業時より路線廃止に至るまでの全期間を通じての主力車であった。
丸山車輌が製造した単端式気動車で、他の丸山単端車が最大20HPのフォード・モデルTエンジンと変速機を用いていたのに対し、強化版としてフォード社の傍系会社であるフォードソン・トラクター製26HP4気筒エンジンを搭載し、専用のトランスミッションを装備していた。
運転台横にエンジンが
剥き出しで載せられていた
台枠の一部にも木材を用いていた事が特徴で、原型では車端の車内寄り床下にエンジンを納めたキャブオーバー型であったが、1950年代初頭に100HP級のフォード・V型8気筒にエンジン換装されて、フロントに台枠とボンネットを突き出す形(いわゆるブルドック型)に改造され、客貨車牽引力を著しく増大させている。 またエンジン換装時に、木造外板の外側に鋼板を張り付ける補強措置も行っている。
キハ101以外の3両はメンテナンス状態が良かった事もあり、概して老朽化が早く早期廃車されがちであった丸山単端車の中では異例な存在で、路線廃止時まで35年に渡る長寿を達成した。
客車
気動車改造車を除いて、ほとんどが木造車であった。
路線廃止後は東金駅構内で
放置されていたキハ201
※『思い出の地・九十九里鉄道』より
キハ201
焼失したキハ101の代替車として新造されたもので、雨宮独特の角張った車体を持つ。
当初形式は『クジュウクリ・アメミヤ(雨宮製作所製造)』を略した『クア』であったとも言われる。
戦後まで気動車として使われたが、1950年代末期にエンジンを降ろして客車化された。
ケハフ301
1936年日本車輌製造製の半鋼製両運転台気動車で、岩井町営軌道(鳥取県・終戦直前の1944年に休止で正式な廃止は1964年)が当局に無認可で新造していた半鋼製両運転台気動車キハ104を、同線休止後の1944年に譲受された車両である。
キハ301として入線したものであるが、岩井町営が無許可で新造した『モグリ』車両である事は、戦時中の混乱に紛れて露見しなかったようである。 その為、1944年12月に提出された申請書には認可された規格を超過した数字が記入されていたが、申請窓口である当局が勝手に誤記と判断し訂正を指示し、1945年3月に何ら問われる事もなく認可された。 機動性では単端式各車よりも勝っていたハズであるが、戦後の比較的早期に客車化されている。
その他、廃止時にはハニフ105・106・ケハ107・111の4両の計5両の客車と、ケワ50・52・53の3両の貨車が在籍していた。
蒸気機関車
終戦直後の混乱期は、沿線である片貝のガス田から採取された天然ガスを活用して燃料不足を乗り切っていたが、天然ガス式に改造された気動車は出力が乏しく、多客時には乗客を捌ききれない事態となった為に、1946~47年にかけて栃尾鉄道と日本硫黄沼尻鉄道(耶麻軌道)からB形コッペルの蒸気機関車を購入して併用していた。
当初は遊園地の遊覧鉄道に
再利用する目的で保存されていたが
計画が流れると放置状態となり荒廃が進んで
全車解体及び粉砕されて土中に埋められた
鉄道線廃止後の車両保存
廃止直後にケハ107が沿線の片貝ときがね幼稚園に寄贈されたが、幼稚園移転の際に個人が引き取り、現在は千葉県内某所にて保管している。 その他の車両は、京成電鉄が谷津遊園と船橋ヘルスセンターの間に遊覧鉄道を計画していた事から東金駅構内にて保管されていたが、実現する事なく1970年代に入ると放置状態となり、荒廃が進んで全て解体処分された。 九十九里鉄道関係者の話によれば、廃車体は全て東金駅周辺区画整理の際に粉砕されて土に埋められたという。
九十九里町内の廃線跡は
線路の模様が入ったタイルで舗装された
サイクリング道となっている
※ 『きどうみち・九十九里町』より
廃線跡
東金市の区間(東金~荒生)の廃線跡の一部が道路に転用された以外は、農地や用水路の管理通路となっている。 また、九十九里町内区間(荒生~上総片貝)の廃線跡は、線路を模したタイルが入ったアスファルト舗装をされて、『きどうみち』と名付けられたサイクリング道路となっている。
立派な駅舎を有した上総片貝駅
上総片貝駅(かずさかたかいえき)は、かつて千葉県山武郡九十九里町にあった九十九里鉄道の駅であり、同鉄道の終着駅である。 1961年2月末の鉄道廃止後は、同社が運行する路線バスの停留所「片貝駅バス停留所」となっている。 使用車両が進行方向のみに運転台のある単端式のガソリンカーだった為に方向転換する必要があり、ターンテーブルが設置されていた。
九十九里鉄道廃止後の当駅跡地はバスの停車場や廃車置場として利用されており、『片貝駅バス停』として、東金駅・千葉駅方面への路線バスの始発停留所となっている。
駅跡に設置されたバス停には
『駅』の文字が入っている
※ 『バス停案内』より
このバス停には、現在路線バス専業である九十九里鉄道がかつて鉄道路線を所有していた名残として、停留所名に『駅』が付けられている。
なお、全国的に著名な観光地の『九十九里海岸』へは、徒歩数分の距離である。
超広角レンズで撮った
写真の歪みについてだが
デジタルカメラでは歪みを
直線に変換するモードがあるらしい
でも相対性理論に背いてまで
歪みを消したい・有り得ない光景が欲しい
と思うモノなのかねぇ
夜に走行列車をビタ止めや
深夜に被写深度ガン無視の
有り得ない写真と同様に
不自然極まる直線が写り込むのを
望んでるんだろうね
ワテならそんな有り得ない写真は
気持ち悪いだけにしか思えないよ
それにせっかく撮った写真を
有り得ない気持ち悪いモノに変える
神経も理解できないわ
そもそも広角レンズよる歪みとは
写真という二次元における世界で
円形を平面に表したモノであり
歪みとは「円を四角形に転換した」
転換不能な部位が歪みとして表れたモノである
だからコレをデジタルで
無理矢理直線に変換すると
本当は曲線を成しているモノも
直線化されてしまうのだ
歪んで写った直線の歪みを消す事によって
元々極緩やかに写っていた曲線が
直線に写る方が気色悪い写真になるよ
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