風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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『路線の思い出』   第463回  筑豊本線・若松駅

『路線の思い出』   第463回  筑豊本線・若松駅 〔福岡県〕

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自身の所有なのに
自分で撮ったモノでない
それが今回の『駅ネタ』です

《路線データ》
      営業区間と営業キロ            輸送密度  / 営業係数(’15)   
     若松~原田 66.1km              5497   /   149 
’21年・若松駅発着本数
上下とも概ね毎時2本でラッシュ時は毎時3~4本

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再改装されて更に凡庸化した
見た目となった現在の若松駅
※ ウィキペディア画像を拝借

若松駅(わかまつえき)は、福岡県北九州市若松区白山一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線(若松線)の駅である。 筑豊本線の起点駅であるが、折尾~当駅の間は非電化で、電化区間より直通できる車両が蓄電池車両のみと限られている為、運行列車の約半数が鹿児島本線との接続駅である折尾止、又は鹿児島本線に乗り入れとなり、起点駅としての機能はあまり有していない。 2020年の1日平均乗車人員は906人との事である。

頭端式ホーム1面2線を有する駅で、南側に1本の側線が存在する。 以前は石炭の積出港に隣接した駅として重用され、海に沿って広大なヤードを備えていた。 その跡地は駅前広場等公共施設用地として整備され、「久岐の浜シーサイド」として数多くのマンションや市営住宅が建設されている。
同じ蓄電池電車の運行される終点駅の烏山駅(烏山線)や男鹿駅(男鹿線)と異なり、蓄電池充電用の架線設備を持たない。

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駅構内には現在も
立ち食いのそば屋がある
※ ウィキペディア画像を拝借

JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、みどりの窓口が設置されている。 但し、駅遠隔案内システム(中間駅併設のサポートセンターからの遠隔管理)が導入された2017年3月4日以降は駅員の配置時間が早朝の6時30分~8時30分までの時間帯のみとなり、それ以外の時間帯は無人になる。
自動券売機および自動改札機が設置されており、SUGOCA等のICカードと磁気券が利用可能である。
改札外正面には駅うどん・そば店(東筑軒)が併設されている。

筑豊興業鉄道により1891年に開設された駅で、開設当初から石炭の積み出しを主な目的とし、若松駅と若松港の設備の拡張が並行して行われ、石炭桟橋から石炭を積み出した。 駅のすぐ近くの下り線側に高さ8m・長さ1200mもある日本一の石炭桟橋が設けられるなど構内は広大で、多数の石炭車が常時出入りしていた。

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積み出し港に直結した
広大なヤードを有した若松駅
※ ウィキペディア画像を拝借

ガントリークレーン、ホイストなどの積み下ろし設備が各種整備され、最盛期の1940年には年間830万トンの積み出しを行っていた。 石炭産業が斜陽化するまでは、ほぼ常時でわが国では最も貨物取り扱いの多い駅であった。

しかし、エネルギー革命の進展により石炭の取り扱いが急速に減少していき、1970年にはホイストとガントリークレーンの使用が停止され、1982年11月には貨物輸送が廃止されるに至った。
翌1983年4月から構内の整理が開始され、旧駅舎が取り壊されて建て直されると共に、側線群のほぼ全てが撤去され、現在のような簡素な駅構造の旅客駅となっている。 新駅舎となってからも、客車列車が運行されていた1990年代前半頃までは複数のホームを使用していたが、現在は1面2線のみとなっている。



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若松駅がかつての面影を残したモノ
それは国鉄様式の駅名版のみである
※ 『ユキサキナビ』より

この駅には降りた事はあるものの、その記憶はほとんどどころか全くと言って頭から消去されている。
それは降りたのが、もう35年以上も昔の初めて九州に行った旅で、「とりあえず筑豊本線の完乗」だけの思惑で「行って、折り返しの列車で帰ってきた」だけであるからだ。

だが、駅訪問を題材にブログ展開するブロともさんがこの駅を取り上げた時に、「ワテもこの駅に降りた事あるなぁ」と思って『若松駅』をネット検索してみると、思いっきり後悔するような検索結果が出てきたのである。 それは、ワテが訪れた1984年の正月から僅か2か月後に、今存在していれば門司港駅と並んで重要文化財級の『鹿鳴館』な駅舎が取り壊されて、普通のコンクリート駅舎に建て替えられていたのである。

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ワテが訪れた時は
この『鹿鳴館』な駅舎を
スルーしていたよ
そして35年後に駅舎がスルーしたすぐ後に
解体された事を知って激しく後悔したよ
※ ウィキペディア画像を拝借

ワテが訪れた1984年の正月は、確かにその『鹿鳴館』な駅舎が存在していたのである。
たぶんであるが、その『鹿鳴館』な駅舎を真正面から目にしているのである。 だが、若かりし小僧の性質として、ターゲット以外は目に入らず『ガン無視』が災いして、上山田線や漆生線の国宝級(ワテが思っているだけだけど)の木造駅舎同様、「降りたのにスルー」してしまったのである。

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初めての九州の旅での
ターゲットは宮原線を始めとする
廃止ローカル線だった

その時の『ターゲット』はもちろん廃止対象となったローカル線で、初めて九州に渡ったこの旅も、宮原線を始めとする廃止ローカル線の『撮り鉄』だったのである。 だから、廃止ローカル線で『ターゲット』であった宮原線は路線内の全駅を写真に撮っているし、妻線の終点・杉安もゲットしていたよ。

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宮原線・町田駅
この駅のたたずまいは
寺の門前のようで感動モノだった
神奈川県町田市の原町田
(現在は町田に改称)より
駅名上は『格上』だったしィ(笑)

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妻線・杉安駅の駅舎もゲット

だが、『恋(濃い)は盲目』っていうか、視野が狭いっていうか、撮っていれば『お宝写真』確定の『鹿鳴館』な駅舎を目の前にしてスルーしていたのである。

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『鹿鳴館』な駅舎を取り壊して
建て直された味気ない凡庸な駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借

そして建て替えられた駅舎は、全く「再度訪問しようとは思えない」ごく普通のコンクリート駅舎で、「無くなってから失ったものの有難みを知る」を地のままでいく結果となってしまったのである。

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今もキハ40が運行していたら
若松駅再訪も考えたけど
※ 『ユキサキナビ』より

そして行き交う列車も、キハ40から(キハ40だったなら多少は再訪も考えたけど)容姿がJR九州の電車同様の『電チャ』と呼ばれる魅力の乏しい車両に変わって、ますます若松駅が遠のいて後悔が増幅したよ。

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けれど電車と見た目が変わらない
玩具のような名前の車両に
変わっていて再訪意欲完全消滅
※ ウィキペディア画像を拝借

まぁ、アラフィフになると、こういう事が毎日の如く起こるよね。 毎朝の枕元に落ちた髪の毛が、必ずその日の「無くなってから失ったモノの有難みを知る」の出発点となるのだけれど・・。

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「撮ってたかもしれない」と
過去に撮った写真のほぼ全てを保管した
『My お蔵』を漁ってみるが
※ 『のりものニュース』より

だから、「ひょっとしたら撮ってるかもしれない」と過去に撮った写真を全て整理している『My お蔵』を漁ってみる。 ちなみにこの『My お蔵』は、ホジフイルムのスライド原板が約4万コマ、ネガがフイルムにして約700本分(コマ数でいうと約2万~2万5000コマ)あるちょっとした『ライブラリー』だったりするのである。 もちろん、痛恨の失敗旅である『ファースト北海道旅』で撮った『フイルム間違い全ボツコマ』も、ほぼ全て残しているしィ。

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モノクロ化により復活した
天北線・寿仮乗降場
『ファースト北海道旅』で撮った
『フイルム間違い全ボツコマ』も
全部保存していていたから一部の写真は
モノクロでサルベージできたよ

まぁ、小僧の頃から今に至るまでビンボーの習性を引きずって「モノを捨てないで使い続ける」習性があり、この地獄のように「モノ持ちがいい」事は「間食をしない」と同様に、『king of ロクデナシ』なワテで唯一褒められる習性なのである。 その一例を挙げればカメラはフイルム一筋で、今のF-1も使い始めてから30年になるし、更に言えばF-1の前に使っていたAE-1+Pも残っているし、究極でいえばトプコンのT-35Lも動かないけどあるしィ。

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大して防水性も広告にあるような
通気性もないのに値段だけはバカ高く
昔も今もワテが持ってる服では
最も高価な合羽である
※ モンベルの商品紹介写真より

登山用のゴアテックスのカッパは20年以上使って、防水機能皆無となってたよ。←『スーバーオチャメ』の時にズタボロに裂けて、さすがに買い替えたけど。 そして、若かりし『奇跡の体力』時に着ていたユニクロの山用のカーディガンはまだ着てるよ。 要するに、メーカーにとっては「鬱陶しくてたまらない」ユーザーなワテなのである。

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小坊の時に買ってもらった
40年以上前に発刊された
鉄道ファンの『近鉄特急特集』は
今もワテの本棚にあるよ
※ 交友社『鉄道ファン』のバックナンバーより

それに、小坊の時に買ってもらった『鉄〇ファン』や『■道ジゃー◇ル』(オタク雑誌なので一部伏せ字)は、今も本の数が極めて少ない本棚(マンガ以外はあまり本読まないしィ)の主要書籍だしィ。
山の地図も、山を始めた当初から買っていったモノを使いまわしている(当然最新版でないけど)しィ。
たぶん、時刻表(アレは捨てないとさすがに嵩張る)以外は、ほとんど残してるよ。 でも、ここまでくれば『病的』って言われるかも。

・・しょうもない自慢はこの位にして、話を元に戻そうか。 前述のように降りた事は確かにあるが、廃止対象路線の終着駅でなかった為に入場券も買わず、また当時は駅舎に目を向ける余裕も思考もなく、立派な駅舎を前に華麗なるスルーをしてしまって、今に当時の駅舎を目にして「無くなってから失ったモノの有難みを知る」嘆きモードに入るが、ここからは通常の人の思考である「後悔して嘆いた」後に「スッパリ諦める」というのがないワテである。

つまり、何かしらと往生際悪く足掻くのである。 それで、先程に話題を挙げた『My お蔵』をひっくり返して漁ったのである。 この若松駅を訪ねたのは1984年の年明けだから、若松駅舎を撮った形跡があるなら、初めて九州を旅した時の写真を中心に過去に九州を訪れた全ての旅が該当するので、その旅履歴に該当したリバーサルとネガを漁ってみる。

リバーサルは、ヤマ期に入ると「『〇鉄』は自身の恥ずべき黒歴史」として、リバーサルフイルムでは頑なに『鉄』を撮らなかったので、初めて九州を旅した時のコマと宮原線を訪ねた時のコマのフイルム数本分のコマしかなく、比較的容易に「若松駅は撮ってない」との答えが出た。

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ネガフイルムを入れた
サブカメラでは未練たらしく
『〇鉄写真』を撮っていて貴重な
改築前の門静駅旧駅舎も撮っていますた

だが、サブカメラに入れていたネガフイルムでは未練たらしく『鉄』を撮っていたので、該当する九州旅のネガフイルムのおよそ30本分を1コマ1コマ確認していかねばならない。 撮ったフイルムの撮った時期や内容を別表にまとめている(このタワケは、こういった重箱の隅をつつくような統計取りが『病的』な程に大好きである)が、「もしかしたら記載漏れがあるかも」という事で確認してみる。 その捜索結果を言えば、自身で撮ったのは記憶通りなかったが、若松駅の旧駅舎の写真はあったのである。

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格言『貰い物には福がある』
外にもこんな貴重なのもあったしィ
鉄道マニアがオタクとして
世間から白い目で見られていたからこそ
手に入った『お宝』である

これはどういう事かというと、ワテと同じく『鉄』であった事を『黒歴史』として避けていた友人がいて、そいつがデジカメに変える際に「これまでに撮って残しておいた『鉄』のネガは全部捨てる」と言ったので、ライフワークであるMyホームページの『日本百景』のコンテンツ『魅惑の鉄道写真集』を製作している最中だったワテは、「捨てるならワテにくれ」とそいつが持っていた『撮り鉄ネガ』を全て頂戴したのである。

そいつの実家は九州(確か北九州の黒崎だったなぁ・・ 奴が大阪から引っ越した事で疎遠になったけど)にあって、旧炭鉱路線はワテの『ローカル線病』に触発されて、実家に帰った際は結構撮っていたのである。 

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『My お蔵』を掘り返すと
この記事の『根幹』となる
貴重な『お宝』が掘り出されたよ

そのもらったネガを確認すると、3枚の旧若松駅舎の写真がある事を発見! もう「喜んで」スキャンすると、ピンボケ気味で『写真床』のワテより下手くそな写真だが、若松駅の旧駅舎の在りし時の写真だったよ。

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唯一ピントが合ってるコマも
時代の証拠である車とトラックが
入りまくりで駅の写真だと判り辛いしィ

他にも、勝田線の筑前勝田や矢部線の黒木、室木線の室木の駅舎などの貴重過ぎる『お宝写真』も撮っていたのである。 いゃぁ、他人にもらったモノまでも捨てない『コス辛い』ワテの習性の勝利ですね。
売りに出せば値がつくほどの『お宝写真』を、『棚からボタ餅』ならぬ『棚から極上のウナギの蒲焼』の如く何枚もゲットしてたよ。 でも、添田線は奴がそれほど熱心な『鉄』ではなかったので訪れてはおらず、添田線関連はなかったけど。

こうしてこの記事は、いつものような「ウィキペディアから借りまくり」オンリーを免れたのである。
でも、大半はいつもの通り、ウィキペディアからの借りまくりだけど。


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たぶん『天皇信奉右翼』や『日本会議』の
日本人成りすまし議員共の
東京五輪開催による国民の大量殺戮は
今回のバナー下をもって
ひとまず終わりにするが

被害に遭った日本国民に尋ねたい
日本人成りすまし議員共の主張通り
ここまで被害を甚大にした東京五輪開催が
開催前にこの感染爆発を引き起こす
予測が不能だったのか

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即ち東京五輪の開催でこの感染爆発を
引き起こす事が予想外の事だった
という奴ら日本人成りすましの
在日チョンの言い分を信じるのかって事だ

そんな訳ないだろう!
米Google社の予測でも開催期間中の
感染者数は日に5000人以上発生し
その2%が毎日死亡すると発しているのだ

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結果は死者数でほぼ合致し
感染者数に至ってはその4倍の
感染爆発に至ったのだ

それでも途中で中止する事なく
国民を殺しまくった開催推進派の
罪を問い質し厳罰を加える事こそ
『武漢ウイルス』対策の第一歩でしょうが!

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