風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  路線の思い出 >  路線の思い出 451~500 >  『路線の思い出』   第461回  天北線・上音威子府駅跡

『路線の思い出』   第461回  天北線・上音威子府駅跡

『路線の思い出』   第461回  天北線・上音威子府駅跡 〔北海道〕

r461-ph (3)
駅開業当時は線内でも
主要駅だったのだろうか
立派な造りだった上音威子府駅舎

《路線データ》
      営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)  
    音威子府~南稚内 148.9km          418  /   884               
          廃止年月日              転換処置
           ’89/ 5/ 1                   宗谷バス
廃止時運行本数
          音威子府~稚内   下り7本・上り6本(内 急行1往復)
          音威子府~浜頓別  1往復
          声問~稚内       1往復《休日運休》
          曲淵~稚内     上り1本

r461-ph (2)
駅在りし時の駅名標
天北線を廃止にしたくて
たまらなかったJR北海道は
天北線の駅名標をJR様式に変えなかった

上音威子府駅(かみおといねっぷえき)は、北海道(上川支庁)中川郡音威子府村字上音威子府にあったJR北海道・天北線の駅である。 天北線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。 無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の西側に位置しホームに接していた。
その駅舎は木造板壁で、柱を露出させてその間を縦板で埋めるという遊びの入ったデザインであった。

1987年11月のダイヤ改正時から冬季休業(12/1~3/31休業)の臨時駅となっており、廃止直前には下り(稚内行)の一番列車のみが停車し、上り(音威子府方面)は全列車が通過していた。 1971年の時点では、1日平均8人の乗車人員があったとの事だが、上述の通り臨時駅になってからは、停車列車が日に下り始発列車の1本のみとなって、年間乗降ゼロ駅となっていた。

r461 (2)
かつては駅員がいて交換設備を有し
側線には木材を積まれた貨車が待機する
典型的な北海道開拓路線の駅だった
※『旧上音威子府駅跡』より

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(南稚内方面に向かって左手側)に存在した。 分岐器を持たない棒線駅となっていたが、かつては千鳥状に配置された単式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。 交換設備運用廃止後に線路は撤去されたが、上り方面ホーム(対向ホーム)は残存していた。 また、太平洋戦争以前には、周辺の森林(北海道大学演習林)から出荷される木材の積み込みの為のヤードを有していた。 

r461-bus (1)
上音威子府には
かつては小学校もあった
※『日本の過疎地』より

駅名は当駅の所在する地名からで、その地名は『音威子府』の語源となった音威子府川(アイヌ語の『オトイネㇷ゚・川口の濁っている川』の意で、音威子府川が天塩川に合流する地点では泥で濁っていた事から)の上流に位置する事からのものである。 上音威子府集落があって、上音威子府小中学校が存在したが、離農により集落が消滅して現在は無人原野地帯となっている。

r461kame.jpg
駅舎は廃止後15年位取り壊されず
物置として使用されていた
※『北海道妄想の旅』より

1997年時点では、駅舎・ホーム・信号機器設備が残存していた。 駅舎は廃屋一歩手前の状況ながらも農機材置き場に再利用されていた。 2004年9月頃までは残存していたが、倒壊の危険がある為に取り壊された。 駅舎があった頃は、当時の椅子などもそのまま残存していた。

r461-w.jpg
駅舎が取り壊された後は
雑草生い茂る原野に回帰していた
※ ウィキペディア画像を拝借

2009年秋の時点で、国道から駅前広場までの数十メートルの道(未舗装)・駅前広場(未舗装)・石積みのプラットホーム・音威子府方面及び小頓別方面への線路跡が確認できた。 ホームや線路跡には草木が生い茂り、貨物扱いなどを行った構内跡も原野化している。 ホームは、2010年時点でも残存していた。

r461-3 (1)
地元村民有志により
復元された国鉄様式の
駅名標レプリカ
真冬は駅への『電停道』が
雪に埋もれて近寄れない

2014年に天北線開業100年を記念して、音威子府村民有志による『天北線上音威子府機関支区鉄道倶楽部(現:nociw*)』が駅の修復に乗り出し、村の『住民提案型まちづくり補助金制度』による助成を受けて、プラットホームの修復と国鉄様式を模したレプリカの駅名標設置が行われた。 2015年8月4日にプラットホームの修復工事は完成し、駅名標の除幕式が行われた。 以降は毎年ホームの除草が成されている。



r461-ph (1)
この駅前広場で車寝したのが
今回の『思い出』です
話をつなげる為に
かなり話を広げてますけど

この駅が臨時駅となる前は全列車が停車していて、紛いなりにもこの駅での下車は可能であった。
もちろん車があれば、この駅に立ち寄るのに「列車があるなし」など関係ない事なのであるが、筆者であるタワケはこの頃は車の免許が持てない歳の小僧であり、また駅が通常駅だった当時のターゲットは天北線ではなく、天北線の浜頓別から枝分かれする興浜北線だったのである。

r323 (10)
廃止路線を追っかけて
北海道に渡ったターゲットは
第一次廃止線のこの線だった

そして、その興浜北線内を1日6往復する車両だが、音威子府から天北線の始発列車につながれて、浜頓別で切り離されて仕様に入る運用だったのである。

r461-3 (6)
浜頓別に興浜北線の車両を送り込む
役目を担っていた天北線の
下り始発列車はまだ夜が明けぬ
4:16発と途轍もなく早かった
日本一早い始発列車だったかも

その為に、興浜北線の浜頓別始発5:42に間に合わせるべく、天北線の音威子府発の始発列車は4:16発と途轍もなく早く、2両編成の列車の後ろの車両は『北見枝幸 ゆき』だったのである。 そのような訳で、興浜北線在りし当時は上音威子府駅は夜明け前に通るだけの存在でしかなかったのである。 興浜北線からの帰りは、夜行急行【利尻】に乗るべく稚内に抜けていたし・・ね。

r323 (3)
歳食って久しく
思い出の廃線跡地に再訪
興浜北線の思い出の岬で
あの時に抱いた思いにふける

一次廃止線の興浜北線が廃止となった次は、二次廃止線に指定された天北線に「お鉢」が回ってきて、高校を出たばかりのタワケガキの新たなるターゲットとなったのである。 それと同時期の1987年11月のダイヤ改正で上音威子府駅は深名線のこの駅同様に冬季休業の臨時駅となって、毎年冬季に訪れていたワテには『下車不能』な駅となっていたのである。

天北線の『撮り鉄』
ターゲットとして通った地
tenpoku (2)
クッチャロ湖畔をゆく
急行【天北】

r461-3 (4)
国鉄時代・キハ56の急行【天北】
小石付近にて
何気に釣り糸を垂らしているよ
このタワケ

tenpoku (3)
猿払原野をゆく天北線列車
浅芽野付近にて

r461-3 (5)
大平原を駆ける光の環
生涯きっての『お宝写真』
の1つとなったこの1枚

それに「天北線がターゲットとなった」といっても、天北線で目を向けていたのはクッチャロ湖畔の『安別仮乗降場』や有名な仮乗降場であった『飛行場前仮乗降場』、『徒歩での宗谷岬』への足掛かりとなる『鬼志別』や『小石』、雄大な宗谷丘陵を望む『恵北』など、浜頓別より稚内寄りの区間だったのである。

r461 (1)
駅廃止になる以前から
1日の停車列車が下り始発の1本のみと
事実上下車不能状態だった
※『旧上音威子府駅跡』より

それに、『乗り鉄&撮り鉄』に勤しんでいた(もちろん車の免許は持ってない)この当時のワテが、気を向けてこの駅に「降りる」としたなら、臨時駅に格下げられたこの駅に唯一停車する下り始発列車の音威子府4:37発(興浜北線の廃止で多少繰り下がったものの、相変わらず途轍もなく早発である)に乗って、4:43に到着する事になる。

tenpoku (1)
天北線の山宣区間は弱く
撮れば失敗ばかりだった
敏音知岳バックもド逆光

r461-3 (2)
逆光でも工夫ナシに撮る所が
今の写真界の底辺を這いずる
『写真床』たる原点だな

夜明けまで駅舎でタムロってから『撮り鉄』などをコナしたその後は、降りた4:43に到着の下り始発列車以外の全列車が通過するこの駅では、どこに移動する事も適わなくなるのである。 そう・・、音威子府まで約6kmを歩いて戻るか、天に運を任せてヒッチハイクするしかないのである。

r461-bus (3)
全くの無人原野となった
上音威子府は廃止後数年で
天北線代替バスも撤退して
※『旧上音威子府駅跡』より

r461-bus (2)
事前予約があった時のみ
運行するコミュニティバスとなっていた
※『日本の過疎地』より

もっとも、ワテの訪れていた冬のこの駅は冬季休業で、これまでに書いた事は全て『IF』のシュミレートでしかない(毎回北海道には2月中旬~4月の初めまで滞在したので、この駅は旅の最後でギリギリ開業となったりして)のであるが・・。

r461-3 (3)
コレどこで撮ったか不明なので
「上音威子府付近で撮った」という事で

そして、一次廃止線は元より天北線などの二次廃止線も廃止・淘汰されて時が過ぎ、ワテの旅のターゲットも『廃止路線の追っかけ』から『ヤマ』に変わり、旅の季節も冬から夏に、旅のスタイルも『真冬の駅寝』から『放浪山旅』に転換していったのである。

そのように旅の根幹が変わりゆく中で、偶然にこの駅跡に訪れる機会ができたのである。
この時は『放浪山旅』を生業とする『山期』で、口では「ハズかしい我が黒歴史」と言って昔追っかけていた鉄道を遠ざけていたが、心根では度々廃線跡遺構に立ち寄るなど「未練タラタラ」だったのだ。

r461-4.jpg
『山旅放浪』の頃はハッチバックの
狭いマイカーが『下界での宿』で
食料を積んで無人原野や登山口に
車を止めて車寝していたよ
※ 十勝幌尻岳登山口にて

また、この駅跡に立ち寄った理由も、この駅と同じく泊まる場所を求めての事であった。
なぜ、こんな秘境駅だった駅跡を宿泊場所にしたか・・というと、「こういう場所の夜はまず誰もおらず、静かに一夜を過ごせる」のと、現存駅の場合はトイレがある確率(もちろんボットンだが)が高く、駅跡だとしても誰もいないので気兼ねなく『キジを撃てる』からである。 でも、切実なのよ、車寝におけるこの事の成否は・・。

r461 (3)
原野に還りつつある駅跡は
人っ子1人立ち寄らず
静かな眠りは確保されるが
獣の気配と真っ暗闇の恐怖に
耐える精神力が必要だよ
※『旧上音威子府駅跡』より

だが、逆に言い返すと、「人はまず立ち寄らないが、クマや野犬などの獣は近寄ってくるかもしんない」という事と、「完全無欠の真っ暗闇の中で過ごさればならない」という、普通の人ならば発狂しかねない恐怖の一夜を過ごさねばならないのだ。 でも、ヤマで鍛えたワテは、こういう事には全く動じない変な方向に強い精神力を持っていたのである。

ともすれば「狭い車の中は寝辛いので、廃屋然となっていた駅舎のベンチに寝転がって寝ようか」などと考えていたのである。 だが、廃屋然の駅舎の中は建物の木材が腐ったカビ臭い腐乱臭が充満していて、寝るにはキツかったので自重したけど。 でも駅寝してたら、このタワケの「自慢にもならない事を驚異の如く吹聴する」自称・自慢のタネが、また一つ増えていただろうね。 もちろん、我がホームページやこのブログに何度も記述しているだろうね。

ちなみに、この時は最初の『放浪山旅』の時で、『礼文8時間コース』と利尻山を踏破すべく島に渡る道の途中だったのである。 なので、テントは持っていなかったしィ。 テント持ってたら、駅舎内にテントおっ立てて『廃屋駅寝』していただろうね。

r461-t.jpg
駅前で車寝して迎えた朝は
これとない爽やかな朝だった

まぁ、駅跡車寝自体はつづがなく夜が明けて、翌日は爽やかな朝だったよ。


にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
前記事のバナー下の続き
前回に「誰がなっても同じ」で
この劣悪な状況を変える方法はただ一つ
国民虐殺行為の東京五輪開催を
煽った奴の糾弾以外にない!」と言ったのか?

それは誰が首相になっても
裏で糸を操る勢力が
日本人に成りすました
在日チョンの議員共だからである

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
前回も述べたように河野なら
裏で操るのは反日パヨクな党内左派勢力で
媚シナ・媚チョン外交となり
外人や在日への優遇や
権限移譲が更に進むだろう

高市がなれば裏で糸を引くのは
『天皇信奉右翼』議員勢力の『日本会議』で
在日チョンと権限が被る国民からの権利はく奪と
日本人のみの増税という国民の資産搾取・・

にほんブログ村 鉄道ブログへ
即ち『天皇信奉右翼』共が望む
チョンの背乗り天皇を国家元首とした
『天皇全体主義』という天皇の名を借りた
政府・指導層からの命令に絶対服従という
北朝鮮型の全体主義に走り出すだろう

まぁ高市は政権基盤が弱いので
数ヶ月しか持たないだろうから
この『最悪』の危険はないが
高市が潰れると同時に
スパイ防止法や憲法改正も永久にお蔵入りだろう

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
この度首相となった岸田も
「流されるまま」で今自民党は左派の方が
勢力があるので河野よりはマシだが
媚シナ・チョン外交となろう

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
こんな「どう転んでも最悪」な状況を
打破するには国民の虐殺行為で
「これはチョン以外に有り得ない」という
感染爆発を引き起こし国民を虐殺した
東京五輪開催推進の罪を糾弾する事である

PVアクセスランキング にほんブログ村
それは糾弾して罪を問うていくと
必ず『天皇信奉右翼』や『日本会議』に突き当たり
これを追及していくとこの所属議員の大半が
在日チョンの背乗り議員だって事が判明するのである

にほんブログ村 鉄道ブログ
更に追及するとチョンの日本人成りすましである
『天皇信奉右翼』が持ち上げる天皇も
『チョンの背乗り』だという事が判明し
天皇のチョン追放を機に
在日チョンの一斉追放が適うからである






関連記事
スポンサーサイト



コメント






管理者にだけ表示を許可