2021-10-01 (Fri)✎
廃線鉄道 第66回 紀州鉄道(一部廃止区間)〔和歌山県〕
実質日本で最も短い路線に
『一部廃止区間』が存在した
※ ウィキペディア画像を拝借
紀州鉄道線(きしゅうてつどうせん)は、和歌山県御坊市にある御坊から西御坊までを結ぶ紀州鉄道の鉄道路線(路線延長2.7km)であるが、かつては西御坊より先の日高川まで3.4kmり路線を有していたが、1989年4月1日に西御坊~日高川 0.7kmが路線廃止となり現在に至っている。
廃止された日高川駅は
駅舎は撤去されたものの
その他の駅施設は現在まで
30年以上放置され続けている
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道の廃止後、和歌山県で唯一の全線非電化の私鉄路線となっている。 また、国鉄特定地方交通線や日本鉄道建設公団建設線を転換した第三セクター鉄道を除く、近畿地方で唯一の非電化の私鉄路線でもある。
街外れにある紀勢本線御坊駅と御坊の市街地とを結ぶ目的で、地元有志により1931年6月に敷設された鉄道路線で、1934年8月に日高川まで全通開業している。
国鉄紀勢西線(現在の紀勢本線)の紀伊由良~御坊の開通(1929年4月21日)に間に合わせるべく準備を始めたが、湯川村で土地所有者から土地を買収した所、小作人が耕作権を主張して補償を要求しだして、その示談に1年を費やすなど、土地買収で手間取る事になる。 そのような訳で当路線の御坊~御坊町(現在の紀伊御坊)の開業は1931年6月と、国鉄紀勢西線の御坊までの延伸開通に間に合わなかった。
紀州鉄道の『顔』だったキハ603
:
引退する2012年まで
車齢50年の古車両2両のうち
1両を部品取りの種車にして
どうにか運行継続させていた
※ ウィキペディア画像を拝借
その後も、延長工事は財界不況による資金難や一部用地の土地収用法による収容審査会の手続きにより遅れ、2kmにも満たない路線延伸に3年余りを費やし、ようやく1934年8月に日高川まで全通した。
だが、営業成績は当初から振るわず毎年欠損を重ねていた。 1935年上期にはじめて純益金を計上したが、その実情は主力銀行の日高銀行の破綻とその債務棚上げ操作によるものであったという。
このような状況の中、増収策として日出紡織(大和紡績)分工場の拡大を機会に、西御坊より貨物線の敷設や大阪鉄道管理局のハイキングコース(『御坊大浜日ノ岬コース』)指定を受けての行楽客の誘致に努めた。 一方、1937年下期より政府補助金の交付を受けたものの、1941年下期の累積欠損金は14,487円に達したという。
かつて日高川駅では
王子製紙・春日井工場への
原材料チップ輸送を担っており
駅構内にはチップ加工用の
木材が山積みされていた
※ 『地方私鉄1960年代の回想』より
やがて第二次世界大戦下の戦時体制に入り、1943~44年にかけて大和紡績の第一・二工場が日本アルミニューム製造所に買収されて軍需工場(航空機部品工場)に転換されると、その工員輸送で旅客は激増する。 だが、ガソリン規制によってガス発生炉装置を取付けた気動車は出力不足であり、物資不足により修理もままならず、その上1945年6月の御坊空襲では機関庫に直撃弾を受けて気動車2両が被災した。
この被災で路線継続が危ぶまれたが、戦後になって国鉄より気動車キハニ40801の購入と蒸気機関車2両の借入、八幡製鐵所からBタンク機関車を購入し、戦時中の被災と戦後の混乱期を乗りきった。
1953年7月の集中豪雨で
日高川が氾濫・決壊して
御坊の町の大半がが水没した
※ 『ニュース和歌山』より
ところが、1953年7月に発生した紀州大水害によって日高川が氾濫して全線が冠水し、復旧まで2か月かかる被害を受けるなど、前途多難な路線であった。 それでも乗客数は徐々に増加し、1960年半ばには100万人を数えていた。
会社の実態は軽井沢などに
リゾートホテルを持ち
観光開発事業を手掛ける不動産業だった
:
慢性的な赤字でも運行を継続するのは
『鉄道会社は世間に信用される』という
ネームバリューの為だった
※ 『のりものニュース』より
しかし、1965年前後から乗客数は減少、それに続いて貨物も減少していく。 さらに1970年に組合の賃上げストライキによる賃金の上昇で経費が嵩み、バスや他事業を持たない会社にとっては致命的な状況となっていく。 そして、1973年に東京の不動産業者・磐梯電鉄不動産(磐梯急行電鉄倒産後に、同社の旧経営陣が設立した企業)に鉄道事業が買収され、紀州鉄道となった。
また、1955~84年までの間、西御坊駅から西方の大和紡績和歌山工場までの引込線(専用線)があり、貨物輸送を行なっていた。
紀州鉄道・一部廃止区間の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
※ 一部廃止区間のみ
路線距離(営業キロ):西御坊~日高川 0.7km。軌間:1067mm
駅数:3駅(起終点駅含む)〔西御坊〕・日出紡績前・日高川
※ 日出紡績前は1941年に駅廃止
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)、閉塞方式:スタフ閉塞式
運行形態:ほとんどの列車が西御坊で折り返し、廃止を控えた末期は日高川までの列車は1日2往復
のみだった。
最高速度:40km/h
「日高川河口の港湾整備が
進めば路線復活も有り得る」として
廃止後30年以上放置されている
※ ウィキペディア画像を拝借
紀州鉄道線 年表(一部区間廃止時まで)
1928年(昭和 3年) 3月22日 - 御坊臨港鉄道に対し鉄道免許状下付(日高郡湯川村~同郡御坊町
動力 瓦斯倫)
12月13日 - 御坊臨港鉄道株式会社設立
1931年(昭和 6年) 6月15日 - 御坊~御坊町(現在の紀伊御坊) 1.74km)が開業
1932年(昭和 7年) 4月10日 - 紀伊御坊~松原口(現在の西御坊)0.9kmが開業
1934年(昭和 9年) 8月10日 - 西御坊~日高川 0.7km)が開業し全通(貨物運輸開始)
松原口駅を西御坊駅に改称
1941年(昭和16年)12月 8日 - 財部・中学前・日出紡績前の各駅を廃止。
1953年(昭和28年) 7月18日 - 集中豪雨により日高川が氾濫し(紀州大水害)、全線で浸水し、
路盤の崩壊が発生 また日高川の機関庫が流出し、車両もB2012
が横転する甚大な被害を受ける 当時2両保有していた気動車は
床下が水に浸かった為にエンジンの修理をする事となった
9月15日 - 御坊~西御坊が運転再開
1955年(昭和30年) 6月15日 - 大和紡績和歌山工場(美浜町吉原・現ダイワボウプログレス和歌山
工場)までの専用線 0.85km が開通。
1967年(昭和42年) 8月30日 - 市役所前新設
1973年(昭和48年) 1月 1日 - 御坊臨港鉄道から紀州鉄道に事業譲渡
1979年(昭和54年) 8月10日 - 中学前跡近くに学門 新設
1984年(昭和59年) 2月 1日 - 国鉄の貨物合理化に伴い、貨物営業を廃止
6月26日 - 大和紡績和歌山工場の専用線を廃止
1989年(平成元年) 4月 1日 - 西御坊~日高川が廃止 ワンマン運転開始される
お色直しを受けて
キレイになったキハ603
:
引退後は車内を軽食テナント用に
改装されて地元商店街の広場に
静態保存されている
※ ウィキペディア画像を拝借
車両 (西御坊~日高川 廃止時に使用されていた車両)
キハ600形(キハ603, 604)
1960年新潟鐵工所製の元大分交通耶馬渓線の車両で、同線が廃止された1975年に同社から譲り受けた。 正面2枚窓・両運転台の18 m級車体だが、側窓がいわゆるバス窓でその下に補強帯(ウインドウシル)を残す事やDMH17Bエンジン(160 PS)搭載・小断面車体など国鉄キハ10系気動車の影響が強く見られ、近年では珍しくなった古典的気動車として鉄道ファンから人気を集めていた。
座席はセミクロスで
白熱灯のグローブランプが灯る
古き良き時代の車内だった
※ ウィキペディア画像を拝借
液体式変速機を搭載するが、新造当初から総括制御が不可能な仕様で、紀州鉄道転入後もそのままであった。 座席はボックスシートと車端部のロングシートとのセミクロスシートで、床は油引きの板張り・室内灯は白熱灯・エンジンの排気ガスは屋上ではなく床下で排気するなど、随所に古典的な構造を残している。
大分交通からのお下がりの為
マスコンとブレーキレバーの位置が逆だった
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の気動車とは異なり、右手でマスコン・左手でブレーキを操作する。 形式・車番から塗色や車番・接客設備に至るまで、大分交通時代の内容をそのまま踏襲しているが、前面窓は譲受の十数年後にHゴム固定からアルミサッシ化され、天地寸法が小さくなると共に四隅にあった丸みがなくなった。
また、前照灯が尾灯の位置に増設された為、少し印象が変わっている。 駆動軸を持つボギー台車は、粘着力を稼ぐ目的で、台車の中心が駆動軸側にオフセットした偏心台車と呼ばれる珍しいものである。
台車の中心が駆動軸寄りに
オフセットされた特異な車両だった
・・乗りたかったなぁ
もっと早く訪れていれば・・なぁ
※ ウィキペディア画像を拝借
かつては2両とも運行に使われていたが、冷房がなく車齢が高い事から現有車両のキテツ1形導入後は主力の地位を退き、キハ603のみが主に金曜日から日曜日および祝日に運行していた。
古くなった車両を継続使用すべく
キハ604を部品取りの種車として
構内側線に留置させていた
※ ウィキペディア画像を拝借
キハ604はキハ603の部品確保用で、扱い上は予備車だが、燃料噴射ポンプなどの主要部品が取り外されている為に運行に入る事ができず、キハ603が定期検査中にキテツ1に車両故障が発生した際も運行される事はなかった(この場合は列車の運行自体を中止する)。キハ604については2010年12月に解体された。
製造から50年近く経ち老朽化が進んでおり、上述のキテツ2の導入によりキハ603は2009年10月25日に定期運行を終了した。 定期運行最終日には、前面に地元有志が製作した特製ヘッドマークが装着された。
現在のキハ603は御坊市の本町商店街振興組合が譲り受け、2017年11月に紀伊御坊駅にほど近い本町商店街にある空き地にレールを敷き移設された。 キハ603にはたこ焼き屋と軽食屋が入居し、車両が置かれた広場は『キハ603広場(仮称)』として2017年12月16日にオープンした。 2018年1月、広場の名称は公募により『ほんまち広場603『に決まった。
廃止区間は民家の
路地裏に敷かれていた
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡
踏切跡など一部撤去されたり埋められている場所はあるが、線路(レール)がほぼそのまま残されている。 これは将来的に、日高川河口の港湾整備が進んだ場合の復活を考慮している為と説明されている。
だが、放置状態なので線路の状態は悪く、また途中にあった橋梁も撤去されている。
訪れた時に乗ったのは
『キテツ2号』を名乗るコレだった
※ ウィキペディア画像を拝借
↓
たぶん北条鉄道て乗ったコレが
紀州鉄道に譲渡されたので
既に一度乗った事になるなぁ
乗車記
訪れたのが、西御坊~日高川が廃止となった1989年以降なので、廃止区間は未乗車。 その当時は時間に余裕がなく西御坊ですくに折り返したので、路線廃止後の日高川駅跡も未訪。 再度訪問したいと思っている。 もちろん、その際は西御坊から日高川駅跡まで歩く予定。
現存区間(御坊~西御坊)に乗車した感想は、『ラッタッタ ←歳がバレるぞ!』や『passol』などのオバちゃん向け原チャリ並みの速度であった。 もちろん、リード50やジョグ50(原チャリでも60km/h出るしィ)には到底敵わない。
速度を30km/hも出したら
停まれずにオーバーランして
柵を突き破りかねない
※ ウィキペディア画像を拝借
なぜなら、それ以上出すと停留所をオーバーランしてしまうからだろうね。 終点の西御坊なんか、オーバーランすると柵を突き破りかねないしィ。 下手すれば、ママチャリでも追いつけそうだったよ。
狭い敷地に無理やり
駅舎とホームを設けた西御坊駅
※ ウィキペディア画像を拝借
西御坊駅(にしごぼうえき)は、和歌山県御坊市薗にある紀州鉄道線の駅である。 1989年に当駅~日高川が廃止された後は紀州鉄道線の終着駅となるが、廃止された線路や施設の多くがそのまま残る。
単式ホーム1面1線を持つ駅で、便所はホームの御坊方面側の端にあり、仮設タイプの男女共用の汲取式である。 夜間滞泊はなく、紀伊御坊駅まで回送される。 2019年の1日平均乗車人員は42人との事。
かつては、駅の西側にあるダイワボウプログレス(当時は大和紡績)和歌山工場へ至る専用線(延長0.85km)が分岐していた。 西川を渡る鉄橋があったほか、工場内に大きな貨物上屋があり、神戸港で陸揚げされた綿花などが貨車で到着していた。
老朽化して痛んだ駅舎を
黒く塗装している
:
塗装と同時に駅名標札も
取り付けられた
※ ウィキペディア画像を拝借
駅入口には長い間駅名表示がなかったが、再塗装と共に『西御坊駅』の表示もされるようになった。
現行の駅名標の左上に、紀州鉄道の生い立ちである『(旧)御坊臨港鉄道・日本一短いローカル私鉄 2.7km』と書かれた木製の駅案内板が取付けられている。
かつては駅員が配置され
乗車券販売と改札業務が行われていた
※ ウィキペディア画像を拝借
以前は駅員が配置されて入場券及び乗車券を販売していたが、2018年8月27日に当駅が完全無人化されて、乗車券類の販売も廃止となった。 また、2003年7月まで当駅で使われていた『回転式乗車券箱』が、鉄道博物館の収蔵資料となっている。
放置されてボロボロとなった
路線廃止間際の日高川駅舎
※ 紀伊御坊駅に保管されていた写真
日高川駅(ひだかがわえき)は、和歌山県御坊市にあった紀州鉄道線の駅である。 かつては同線の終着駅であったが、1989年4月1日に西御坊駅以南の廃線に伴って駅廃止となった。 戦前は機関庫が設けられるなど、鉄道線の中枢駅として機能していたが、太平洋戦争中の1945年6月22日に空襲に遭い、駅舎や機関庫が全焼した経歴がある。
日高川に停車中のキハ603
:
廃止を控えた末期は
1日2往復のみの運行で
乗車困難な区間だったようだ
※ ウィキペディア画像を拝借
単式ホーム1面1線のホームと2本の側線を持つ駅で、ホームは現在も多少崩れている箇所はあるが残存している。 かつては、王子製紙の春日井工場に原材料のチップを運搬する国鉄貨車が出入りしていた。
しかし、路線廃止を控えた末期は、列車の運行は1日2往復しかなかった。
「日高港が整備されたら路線を
復活させる為に残している」としているが
実質は撤去費用を惜しんで放置状態
※ ウィキペディア画像を拝借
西御坊駅と日高川駅の間は、廃止から30年以上たった今でも線路が残されており、周辺住民の生活道路となっている(但し、一部区間では『紀州鉄道管理地・立入禁止』の看板が立てられている)。
また、腕木式信号機や踏切(使用中止の標記あり)も残っている。
日高川駅では線路が当時のまま残っているほか、駅の中程にある橋が残っている。 転轍機も残っていた(但し分岐装置は作動しなかった)が、撤去されている。 また、当駅跡を2017年に廃車となるキテツ2形を活用し、列車運転体験などが出来る鉄道公園として整備する構想があるが、2021年4月時点では実現していない。
東京五輪開催で引き起こされた
今回の感染爆発であるが
1日の全国の感染者数が2000人前後と
ひとまず沈静化してきた
『天皇信奉右翼』やそれが
政界に巣食う『日本会議』という
チョンの日本人成りすまし共が
開催すれば感染爆発となる事を知りながら
日本を乗っ取る為に開催した東京五輪
この国民の仇敵のヒトモドキ共は
沈静化はワクチン接種が
進んだ為と『エラ』を張って
功績を強調するが
開催した途端に感染者数が2万を超え
東京五輪が終了して外人共が去って
しばらくすると沈静化した事自体
「参加した外人共が病原体だった」という
言い逃れできぬ証拠となるのである
そしてワクチンは接種した本人の身体を
感染から守る効果があるだけで
身体からウイルスを除去する効果はない
即ち今回の感染爆発の原因は
東京五輪参加した外人共だと証明されたよ
東京五輪開催期間に集中して
7万人とも10万人ともいわれる
ウイルスを保持した病原体の外人共が
入国して要請を無視して日夜酒盛りを催し
国内を観光気分で自由に闊歩した為だと
要するに東京五輪に参加した外人共は
ワクチン接種を受けていたので
自身は感染しないがデルタ株を
大量に身に宿していたという訳
それで大会主催者・日本の要請を
無視して日夜酒盛りし国内を闊歩した為
開催当時ワクチン接種が10%台だった
無防備な日本の国民に感染させまくった
っていうのが今回の感染爆発の真相だ
なぜ沈静に向かったのかというのも
東京五輪に参加した外人の大半が帰った事と
日本の国民にもワクチン接種が進んで
ウイルス感染へのある程度の防御力ができた為で
国民への制限を加えた
ヒトモドキ共の功績ではない
むしろ奴らは日本の国に
感染爆発をもたらした国民の仇敵である
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