2021-09-25 (Sat)✎
『路線の思い出』 第460回 南海天王寺支線・飛田本通駅 〔大阪府〕
飛田本通駅
:
天王寺支線部分廃止1ヶ月後の
駅設置から全線廃止による駅廃止まで
8年数ヶ月の短命駅だった
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 廃止年月日
天王寺~天下茶屋 2.4km 全線廃止は1993年4月1日
今池町~天下茶屋 1.1kmは1984年に部分廃止 今池町~天下茶屋の部分廃止は1984年11月18日
廃止時運行本数 転換処置
単行運転で15~20分間隔 配線後の一部が公園や駐車場となっている
これだけ見ると商店街そばの駅だが
その裏手には・・
※ ウィキペディア画像を拝借
飛田本通駅(とびたほんどおりえき)は、かつて大阪府大阪市西成区山王にあった南海天王寺支線の駅である。 1993年4月1日に天王寺支線の廃止により廃駅となったが、駅設置(1984年の部分廃止時直後)からわずか8年で駅廃止となった短命駅であった。 無人駅で駅舎はなく、ホームは旧上り線(部分廃止時に単線化)の線路上に設けられた簡素なものであった。
その裏手には春を売る特殊な
『料亭』が並んでおりました・・ハイ
※ ウィキペディア画像を拝借
新規旅客の開拓を見込んで商店街との交差部の踏切脇に設けられた駅であったが、地下鉄の動物園前駅に近く、乗降客はあまりいなかった。 廃線後駅施設は撤去されたが、跡地は判別できる形で残っている。 1992年の1日平均乗車人員は118人との事。
駅跡は児童公園になっているが
ここで子供を遊ばせるのは
親としてどうか・・と思うしィ
※ ウィキペディア画像を拝借
隣駅の今池町駅とはわずかに400mしか離れておらず、ホームにいながらにして今池町駅が見渡せた。
当駅開業時に既に廃止されていた大門通駅は、当駅から100mほど西に行った所で、現在の飛田本通商店街を挟んで反対側にあった。
一応『さよなら切符』は
発売されてたみたい
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅の附近にある門は、よく当駅舎の門と勘違いされるが、これはその昔にジャンジャン街にあった大橋座の持ち主で、附近一帯の大地主であった大橋氏の邸宅の跡である。
乗った事はないけど
この情景は何度も目にしたよ
※ ウィキペディア画像を拝借
この南海天王寺支線は乗った事はないが、度々単行電車が行き交うのを目にした事がある。
それは、この路線の末期である1992~93年にワテは不動産屋の賃貸屋に従事していていたのと、ズバリ我が居宅からチャリンコで行ける位置だったからだ。
天王寺を出る単行電車
:
南海天王寺支線の廃線跡は
ワテの自宅からチャリンコで
通える位置だったりして
※ ウィキペディア画像を拝借
そして、この天王寺支線が通っていた西成区、特にこの飛田本通駅のあった辺りは、『釜ヶ崎地区』・別称『あいりん地区』と呼ばれる浮浪者・ホームレスの巣で、わが国でも1~2を争う危険地帯なのである。
廃線跡は駐車場などに転用されているが
この場所は日本でも1~2を争う危険地帯・・
他所者が旅行者気分でうろつけば
因縁をつけられて身ぐるみを剝がされるよ
※ ウィキペディア画像を拝借
以前に、ブロともさんが「この天王寺支線の廃線跡を訪ねてみたい」と希望された事があって、ワテは内緒のコメントで「あの辺りは浮浪者の巣で日本で1~2を争う危険地帯なので、他所者がカメラ片手に歩いていたら、因縁をつけられたりカメラや所持金を奪われたりしかねませんから、やめた方がいいですよ」と注意に走ったよ。 まぁ、あの辺りを旅行者気分で歩くのは、冬山難所に挑む位の自殺行為だぁね。
駅の裏手には通称『ちょんの間』と呼ばれる
『料亭』がありましてその料亭の2階居間は
男の客に仲居さんが『春を売る場所』と
なっておりましてホームからその最中の
男女の盛り声が聞えてくる事もあったそうな
※ ウィキペディア画像を拝借
そして、この駅の裏手は、通称『ちょんの間』と呼ばれる建前は『料亭』なれど、実態は『遊郭』崩れの売◇宿(宿泊はできないけど)の密集地『飛田新地』で、日が暮れて暗くなると『買い』に来た野郎が入る店の品定めにうろつき、夏の暑い日なんかは駅のホームから、窓全開にした家屋の2階で盛ってる男女の声が聞こえたりしたとの事である。 なお、筆者がこの店の利用者になった事があるかどうかは問わない事にしよう。
その『料亭』は江戸時代の
『遊郭』崩れの様相で
※ ウィキペディア画像を拝借
客はオネーチャンの容姿を見て
店に入るか決める大阪・西成の
文化の象徴のような所でありました
※ Yahoo!ニュースの記事写真を拝借
また、不動産の賃貸屋に勤めていた時は、ナマポ(生活保護の事)の部屋探しで、今の居住場所が西成区が借り上げた安宿(日雇い労働者向けの一泊2000円ほどのマンション宿)だったりしたので、それを迎えに行ったりするなど、度々この界隈を車で通っていたのである。
舗装された飛田本通付近の廃線跡
目の前のマンションが3畳の安宿
※ ウィキペディア画像を拝借
それは、『釜ヶ崎』を抱える西成区は日本の国で最もナマポの多い所〔聞く所によると世帯数の10%近くがナマポ受給世帯との事〕で、当然ナマポの申請・手続き・支給決定などの役所も、新今宮駅から今池町をつなぐ府道の『釜ヶ崎側(道路の東側)』にあったのである。
従って、ナマポ関連で天王寺近辺で部屋探しの依頼を受けたなら、『お迎え』・『物件案内』・『入居手続き』・『転居の手配(役所が支給した金でコーナンで売ってる布団セットを買って、転居先まで運ばねばならない事もあった)の最低4回は、この近辺に立ち寄らねばならないのである。
今の電車のデザインより
コチラの方が鉄道車両として
魅力的だと思うのは歳のせい?
※ ウィキペディア画像を拝借
その時に幾度となく、南海天王寺支線の単行電車が吊り掛け駆動のモーター音を唸らせて行き交うのを目にしたよ。 でもこの時は、この『釜ヶ崎』界隈が危険地帯である事を認識していたので、極力賃貸の営業車の外へは出歩かないようにしていたよ。 まぁ、営業スーツ着てこんな所を歩いていたら、間違いなくカツアゲされたり財布スラレたりしただろうし・・ね。
だがこの路線が特殊な場所にあったが為に
路線最終日に『葬式鉄』が集まらず
『さよならイベント』もなかったとの事である
※ ウィキペディア画像を拝借
でも、その『釜ヶ崎』の『ドヤ街』も、『浮浪者の巣』という、他の地区で爪弾きにされたホームレスの受け入れ場のままでは立ち行かなくなったのだろうね。 大阪市の財政がひっ迫して税金が財源のナマポ支給への風当たりも強くなったし、イメージが悪すぎる『ホームレス・タウン』の名を返上すべく、国を挙げてナマポ対策や住環境・風致整備に乗り出したみたいだし・・ね。
旧南海・天王寺支線のホーム跡地は
天王寺駅商業ビル『mio』となった
※ 上下ともウィキペディア画像を拝借
その変化の手始めが、この南海天王寺支線の廃止と、天王寺駅の再開発で南海の天王寺駅ホーム跡の敷地に大規模商業施設の『mio』が建設された事なんだろうね。
路線廃止後は20年以上に渡って
線路が撤去もされず放置されていたが
2014年頃にようやく
撤去の上で舗装されたらしい
:
商業施設『mio』の敷地から
長年放置された廃線跡が延びる様は
真に大阪・ミナミのクオリティ
※ 上下ともウィキペディア画像を拝借
まぁ、汚らしいイメージが先行する所ではあったが、『じゃりん子チエ』に出てくる情景そのままだった『大阪・西成』も、姿を変えていきつつあるよ。
南海・天王寺支線の在りし時
※ ウィキペディア画像を拝借
開催すればこのような感染爆発を
引き起こす事を承知で
数多の専門家が今日の感染爆発が
起こりうる事を警鐘する中で
『安全・安心の東京五輪』と国民を騙し
東京五輪の開催を煽り
国民を15000人以上虐殺した自民党
そして感染死者数は4倍以上の重症者が
いる時点でまだまだ増え続けるだろう
そしてこの国を背負う若い世代に
感染爆発災禍を引き起こし
若い命と国の未来を奪った自民党
感染爆発によって経済をズタズタにして
経済再生を5年は遅らせた自民党
これら全ては中止にしていたら
防げた人災・・いや国家反逆行為なのだ
そして明らかに東京五輪の開催が
感染爆発の原因なのにそれを認めず
感染を拡大させたのは「外出自粛に背いて出歩いた
日本人の若年層のせいで感染が急増した」と
責任を国民に擦りつけた自民党
感染爆発による死者も東日本大震災以上と
なる事が予測されるのである
このように東日本大震災のミンスと同様・・
いやそれ以上にタチの悪い亡国行為だ
そんな日本人の面を被った
天皇信奉右翼とその頭の『日本会議』が
このような国民虐殺の暴挙に出たのは
国民の命をダシにした五輪の利権
つまり2~3兆円という『はした金』と
在日チョン共の勢力争いで
常にパヨクに後れを取っていた
『天皇信奉右翼』の巻き返し策だったのだ
チョンの片割れの『天皇信奉右翼』という
ヒトモドキ共の『カンドー』の正体は
日本が感染爆発に陥って苦しむ事を
「カンドーした!」といって喜んでいたのである
今回の東京五輪開催で自民党の正体も
パヨク政党と同じく国民の仇敵と判ったよ
もう日本の政治状況は
右も左も全て敵ばかりで絶望的だね
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Re: No Subject * by 風来梨
風旅記さん、こんばんは。
南海天王寺支線が廃止となってから約30年の時が流れましたが、のmio・Q'sモール・あべのハルカスが建つ天王寺界隈と、旧南海天王寺支線の踏切があった堺筋と阪神高速14号松原線の界隈はますます別世界となってますね。
大阪市の風紀改善を目的とした都市計画で、西成もかつてほどでは無くなったにせよ、天王寺界隈が商業エリアとして益々繁華街化している為に、却って差が広がってる感じですね。
南海といえばブタ鼻型シールドビームの吊りかけ電車が2両(末期は1521系だったかの2両固定でした)でしたね。 南海の特急四国号やズームカー(今は大井川鉄道で余生を送っているようですね)も、ブタ鼻型シールドビームの南海の標準タイプでした。
キハ20系列や近鉄の伊賀線のモ5000のように、貫通タイプ・湘南タイプ共にあのブタ鼻型シールドビームは、周囲の風景と溶け込むいい車両デザインだったなぁと思う事しきりです。
南海天王寺支線が廃止となってから約30年の時が流れましたが、のmio・Q'sモール・あべのハルカスが建つ天王寺界隈と、旧南海天王寺支線の踏切があった堺筋と阪神高速14号松原線の界隈はますます別世界となってますね。
大阪市の風紀改善を目的とした都市計画で、西成もかつてほどでは無くなったにせよ、天王寺界隈が商業エリアとして益々繁華街化している為に、却って差が広がってる感じですね。
南海といえばブタ鼻型シールドビームの吊りかけ電車が2両(末期は1521系だったかの2両固定でした)でしたね。 南海の特急四国号やズームカー(今は大井川鉄道で余生を送っているようですね)も、ブタ鼻型シールドビームの南海の標準タイプでした。
キハ20系列や近鉄の伊賀線のモ5000のように、貫通タイプ・湘南タイプ共にあのブタ鼻型シールドビームは、周囲の風景と溶け込むいい車両デザインだったなぁと思う事しきりです。
No Subject * by 風旅記
お返事くださいましてありがとうございました。
天王寺の賑やかさはあくまでも表通りのもの、今も往時の雰囲気のまま残るエリアもあるのですね。
確かに広範囲に均等に変わっていくということはないのだろうと思います。
他所者は避けるような土地を走る列車にも乗客がいて、濃淡の緑の古びた電車が行き来していたと思えば、気持ちは惹かれます。
いつか天下茶屋まで地下鉄には乗ってみようと思っています。それは別物だとは思うのですが)
今まで接点のなかった南海電車のイメージは、いまだに濃淡の緑色、古い電車の色や形の風景との馴染み方を思うに、先人のデザインの感覚から学ぶこともあるように感じます。
天王寺の賑やかさはあくまでも表通りのもの、今も往時の雰囲気のまま残るエリアもあるのですね。
確かに広範囲に均等に変わっていくということはないのだろうと思います。
他所者は避けるような土地を走る列車にも乗客がいて、濃淡の緑の古びた電車が行き来していたと思えば、気持ちは惹かれます。
いつか天下茶屋まで地下鉄には乗ってみようと思っています。それは別物だとは思うのですが)
今まで接点のなかった南海電車のイメージは、いまだに濃淡の緑色、古い電車の色や形の風景との馴染み方を思うに、先人のデザインの感覚から学ぶこともあるように感じます。
Re: No Subject * by 風来梨
風旅記さんこんばんは。
私も南海と言えば濃淡の緑色ですね。
今の青とオレンジは、ステンレス車両向けの配色なのかなぁって思いますね。 ブタ鼻シールドビームの電車には、合いそうもない配色ですね。 そういえば、近鉄特急もシンボルだったオレンジに紺帯から、白とオレンジの似合わない塗装に変えられました。 ホント、今のデザイナーのセンスを疑いますね。
それと、南海にはいい木造の駅舎がいっぱい残っているので、関西に立ち寄った際にはぜひ!
私も南海と言えば濃淡の緑色ですね。
今の青とオレンジは、ステンレス車両向けの配色なのかなぁって思いますね。 ブタ鼻シールドビームの電車には、合いそうもない配色ですね。 そういえば、近鉄特急もシンボルだったオレンジに紺帯から、白とオレンジの似合わない塗装に変えられました。 ホント、今のデザイナーのセンスを疑いますね。
それと、南海にはいい木造の駅舎がいっぱい残っているので、関西に立ち寄った際にはぜひ!
駅ビルのmio、Q'sモール、あべのハルカスと、若者の集う商業施設が建ち並ぶ天王寺駅周辺の今の様子からは、単行の電車が走っていたとは想像もつかないです。
そして天王寺支線沿線の街も、リアルな雰囲気は分からないというのが正直なところです。
燻んだ深緑の吊り掛け電車が走るところを見てみたかったと感じますが、たくさんの人がそれを思い止まったのだろうと思います。
地図に残るこの路線の痕跡と、途中からの地下鉄堺筋線の走る場所を眺め、お写真から往時を想像するばかりです。
そして少し寂しいですが、天王寺支線はそのように関わった人の記憶に残れば、表立ってたくさんの情報が出ていなくともそれで良い路線なのかもしれません。