2021-09-04 (Sat)✎
廃線鉄道 第64回 大分交通・別大線 〔大分県〕
単線区間の別院停留所
(高崎山と呼ばれていたらしい)
に侵入する別大線の路面電車
※ 『思い出鉄道探偵団・大分交通別大線』より
大分交通・別大線(おおいたこうつう・べつだいせん)は、かつて大分県大分市の大分駅前から別府市の亀川駅前までを、国道10号(別大国道)に沿って結んでいた大分交通の軌道線(路面電車)である。
通称『別大電車』と呼ばれていた。
この軌道線は、1900年に豊州電気鉄道により九州初の電気鉄道として開業する。 1927年からの経営主体である別府大分電鉄株式会社(べっぷおおいたでんてつ)は、1945年の戦時統合で発足した大分交通の母体にもなった。 末期まで黒字経営であったが、バス・乗用車の発達に伴って別大国道(国道10号線)の混雑が問題視されるようになり、大分県の要請を受けて1972年4月5日に廃止された。
両郡橋電停から別府湾と
温泉観光都市・別府の街並みを望む
※ ウィキペディア画像を拝借
別大線は、大分駅前停留場から亀川駅前停留場までを結んでいた全長18.4kmの軌道線で、廃止時点では途中に32の停留場が設置されていた。 起点の大分駅前側から見て、両郡橋停留場を過ぎた地点に大分市と別府市の境界があり、両郡橋停留場までの14停留場が大分市内、次の東別府駅前停留場から終点亀川駅前までの20停留場が別府市内に位置した。
別大線はほぼ全区間が
国鉄(現 JR)日豊本線と並走していた
また、別大線はおおむね日豊本線に沿って敷設されており、日豊本線大分駅・西大分駅・東別府駅・亀川駅の4駅に対応してそれぞれ『駅前』停留場を置いていた。 複線区間は、起点側では大分駅前からかんたん停留場までの3.8km。 新川停留場までは南北方向、新川から先は東西方向の道路に敷設された併用軌道でもあった。 この区間は『大分市内』と呼ばれていた。
国道の中央に軌道が敷かれて
路面電車の性質を帯びた
別大線『大分市内線』区間
かんたん停留場から東別府駅前停留場までの7.3kmは、別府湾に沿う国道10号の陸側(日豊本線側)に敷設された専用軌道区間で、うち両郡橋停留場までの6.6kmは単線区間であった。 単線区間では、1951年以降は白木停留場の先にあった仏崎離合所と別院前停留場の2か所で列車の行き違いを行っていた。
残る東別府駅前から終点亀川駅前までの7.3kmは『別府市内』と呼ばれた区間で、全線複線であり亀川駅付近の専用軌道区間を除いて国道10号上に敷設されていた。
以上は1972年の全線廃止時まで存在した路線であるが、それ以前には『別府市内』区間の北浜停留場から西へ日豊本線別府駅方向に向かう0.5kmの支線が存在し、終点に別府駅前停留場が設けられていた。
この支線は1956年10月に廃止されている。
別大線は京都電気鉄道・名古屋電気鉄道・大師電気鉄道・小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道である。 豊州電気鉄道という会社により建設され、1906年に豊後電気鉄道が引き継ぎ、その後1916年合併により九州水力電気へ、1927年事業譲渡により別府大分電鉄へと渡る。 別府大分電鉄は1945年の戦時統合通達によって、同社を母体として周辺私鉄を統合して社名を変更して大分交通となり、廃止まで運営されていた。
路線建設の歴史であるが、別大線を建設した豊州電気鉄道は、1894年11月20日に軌道敷設特許を得た2年後の1896年8月5日に設立された。 発起人は地元や愛媛県の実業家である。 さらに4年後の1900年5月10日に、豊州電気鉄道は別府停留場(別府町字南町)から堀川停留場(大分町字堀川)に至る、全長6マイル56チェーン(約10.78km)の電気鉄道を開業させた。 これが別大線で最初に開業した区間である。
その後路線は大分町側で延伸され、1901年11月29日に堀川から荷揚町停留場まで開業し、翌1902年4月15日には南新地停留場(後の竹町通)まで延伸された。 また旅客輸送専門であったが1902年5月から貨車が導入され、貨物輸送も開始された。 更に1904年8月からは兼業として電気事業にも進出している。
市内軌道の側面と大分・別府の
都市間輸送の任を兼ね備えていた
大分交通・別大線
こうした事業拡大にもかかわらず、経営面では業績を伸ばすに至らず、経営不振から経営陣の頻繁な交代や株主間の対立などで社内は混乱するようになる。 そのような中で、元役員を中心とする債権者が大分地方裁判所に対し会社の破産申請の訴訟を起こし、1904年に豊州電気鉄道は破産宣告を受けてしまう。
破産宣告後の同社は、債権者に財産一切を譲渡して負債を消却するという破綻処理を取る事となり、1906年1月30日の臨時株主総会で会社解散を決議する。 会社解散に先んじた同年1月4日に新会社の豊後電気鉄道が設立され、破綻した豊州電気鉄道から事業一切を引き継いで経営の再建に着手する。
新体制となった豊後電気鉄道は積極経営を展開し、線路・車両の改修や電気事業の拡大を図る。
だが、豊後電気鉄道時代に路線の延伸はなく、その反面電気事業は水力発電所の新設など拡大した為に、収入面では電気事業収入が著しく伸長し、大正初期には全収入の7割近くを電気事業が占めるようになっていた。
1916年3月、豊後電気鉄道は当時福岡・大分両県で積極的な事業統合を展開していた九州水力電気株式会社という電力会社に合併された。 同社は福岡市内の路面電車(旧博多電気軌道線)も経営していた事から、これと区別するため旧豊後電気鉄道線は『大分電鉄線』とされた。
大分駅前にて
:
以外にも大分乗り入れを果たしたのは
開業から19年も経ってからである
九州水力電気の時代になると、再び路線延伸が進む。 まず大分市側で延伸され、1917年7月7日に外堀(外濠)停留場まで開業し、さらに1919年2月24日に大分駅前停留場まで開業して大分駅前への乗り入れを果たした。
1922年3月7日には、警察署前停留場とかんたん停留場間に、海岸寄り(新川停留場)経由の新線が開業する。 堀川経由の旧線はしばらく残されたが、道路幅が狭く危険であるとして沿線町内会の反対を押し切り1925年12月に営業を停止している。 一方別府市側では、1922年11月25日付で別府停留場が移設され、大阪行きの船が発着する別府港桟橋まで延長された。
九大フェリー・さんふらわぁの
就航する別府観光港
※ ウィキペディア画像を拝借
こうした設備投資の一方で、九州水力電気全体で見ると福岡の電鉄線を含む鉄道事業が占める収益面での重要度は低く、なおかつ大分電鉄線の経営は不振であった。 この為、1926年12月に、電気事業以外の兼営部門の整理を決定した。
大分電鉄線を整理するにあたり、同線の経営に興味を持った中央別府温泉土地(本社は大阪)という観光開発業の会社が、阪神急行電鉄社長(現在の阪急電鉄→阪急阪神ホールディングス)に九州水力電気からの軌道線部門の独立と経営権移譲の仲介を求めた事により、九州水力電気からの経営権移譲交渉と新会社の設立準備は阪神急行本社内で進められる事となった。
こうして、資本金は200万円・全4万株のうち2万株を九州水力電気が引き受ける事、初代社長には中央別府温泉土地の社長が就く事で交渉がまとまり、新会社・別府大分電鉄が発足し、1927年6月24日に開催された新会社創立総会も阪神急行電鉄本社にて開催された。 これによって、同年6月30日付で別府・大分間の鉄道線は、九州水力電気から別府大分電鉄へ譲渡された。
別府大分電鉄の新体制となると
積極的な路線経営を展開し
亀川への延伸やボギー台車装着の
大型車両が導入された
新体制となった別府大分電鉄では、別府市の北側の亀川町への路線延伸に着手し、1928年2月に亀川延伸の軌道敷設特許を取得する。 その翌1929年5月1日に、その第1段階として既設の別府桟橋停留場~境川停留場までの区間と、その途中の北浜停留場~別府駅前停留場へ至る別府駅連絡用の支線を開業させた。 残る境川から亀川新川停留場までの区間は、1930年12月1日に開業している。
車両については、九州水力電気からの継承客車が29両あったが、老朽化が進んでいた為にボギー車への置き換えを進め、1928年に10両・1929年に5両・1932年にも1両と、順次ボギー車を増備して近代化を進めた。
また経営の多角化も進展した。 まず1920年代になって参入が相次いでいた路線バス事業へと進出し、1927年11月30日に別府・大分間で運行されていた個人経営バスの営業権を買収した。 バス兼営は電車乗客の流出防止を目的としていたが、その後別府と杵築を結ぶバス(後に別杵自動車という子会社を発足させている)の営業権も買収し、電車沿線以外にもバス路線網を拡大していく。 バス以外でも、別府市内の別荘地『鶴水園』での食堂経営や亀川での天然砂場運営を手掛けていた。
1940年、大分県への進出を強める北九州の九州電気軌道(後の西日本鉄道)が九州水力電気より別府大分電鉄の株式を買収し、別府大分電鉄を傘下に収める。 同年5月30日には、九州電気軌道の社長が、中央別府温泉土地の経営者だった初代社長にとって代わって2代目社長に就任している。
亀川栄久前電停にて
:
最大延伸先となった亀川駅前に
到達したのは戦時真っ只中の
1942年3月の事だった
この時期は日中戦争下であり、鉄道事業では資材不足によって車両増備ができなくなり、1941年には廃車や車両売却により、ボギー車16両・単車12両での運行へと体制縮小を余儀なくされた。 しかし中古レールを活用する事で、1942年3月3日に亀川駅前乗り入れ(亀川新川~亀川駅前停留場間の延伸)を果たしている。
一方バス事業は運行状況がより悪化しており、戦時下の燃料統制の為に運行が困難となって、1939年6月に電車並行線が休止となったのを皮切りに路線休止が相次いだ。 最終的にバス事業は、1945年1月に残存路線(大分~木ノ上)と車両8台を大分バスへと譲渡して撤退した。
太平洋戦争開戦後の1942年8月に、鉄道省による私鉄・バス会社の企業統合に関する通牒を受けた大分県でも交通事業統合に向けた動きが始まり、県内を県北・県南・日田の3ブロックに分割してそれぞれの域内で統合に向けた準備が進められた。
戦時企業統合通達では
統合の母体企業に指名された
大分交通前身の別府大分電鉄線
その中で別府大分電鉄の事業地域である県北エリアの統合では、別府大分電鉄を母体としてこれに各社を吸収合併させる案が採用され、1943年4月に統合に関する覚書交換、翌1944年11月には宇佐神宮での合併契約調印と進んだ。 そして大戦末期の1945年3月1日付で合併に関する当局の認可が下り、4月20日に開催された大分市での合併報告総会をもって合併が成立した。
合併に参加したのは存続会社となった別府大分電鉄と、耶馬溪鉄道・宇佐参宮鉄道・豊州鉄道・国東鉄道・宇佐参宮自動車・別杵自動車の7社であり、合同によって大分交通株式会社が成立した。
大分交通成立により、旧別府大分電鉄の鉄道路線は同社の『別大線』となった。 別大線における輸送量のピークは終戦直後の1946~47年度にかけてで、戦前は600万人台であった年間利用者数は一挙に1500万人台へと跳ね上がった。 当時の車両は別府大分電鉄時代からの1型12両・100型16両の28両で、戦災にあった1両も戦後すぐ復旧していたが、それでも車両が不足する為、名古屋市電から単車を5両購入している。
沿線の高崎山が脚光を浴びると
電停を駅規格に改装して
観光客の利用を促進させた
終戦から日が経ち電車以外の交通機関の輸送状況が好転するにつれて、併走する国鉄日豊本線や自動車との競争が激しくなり、別大線の乗客は減少傾向となった。 対策として1951年6月に、単線区間の交換場所変更と車両歯車比変更による速度向上を実施し、全線の運転時間を54分から50分へと短縮する。
また観光地として沿線の高崎山が脚光を浴びた為に、最寄の別院前停留場を改修し、長距離客に同停留場での途中下車を認可するなどの観光客誘致策を実施している。
終戦直後は輸送量がピークに達して
新型車両が次々と導入された
この300型もそのひとつである
車両面では、1949年に1932年以来の新車となる200形5両を導入したのを皮切りに、1954年に300形2両・1956~59年にかけて500型7両を導入した。 これらの新車は輸送力を増やすべく連結運転可能な仕様とされ、その後在来車の100型も連結運転に対応するよう改造が施された(150型へと改番)。
別府駅前
かつてはこの駅前にも
別大線が通っていた
※ ウィキペディア画像を拝借
こうした輸送力増強の一方で、北浜から別府駅前へ伸びる500メートルの支線は1車両平均9人と利用が落ち込んだ為に、別府市の撤去要望に応える形で1956年10月18日限りで廃線となった。
1960年代に入っても別大線の年間輸送人員は1200万人を超えており、朝ラッシュ時の輸送力増強を目的として1962年に2車体連接の1000型1編成が登場、さらに翌1963年には2両を背中合わせに連結した大型車1100型2編成も導入される。
ワンマン化や高崎山への観光客誘致など
経営努力もモータリゼーションの
波には太刀打ちできなかった
しかしながらピークは長く続かず、モータリゼーションの進展によって、1964年度の年間1353万人を頂点に翌年度以降輸送人員は毎年減少していき、1969年度には年間1000万人を下回って別大線の営業収支は赤字に転落した。 収支悪化に対処するため別府市内運転の減便、大分市内運転のワンマン運転実施、夜間の減便と終電繰り上げといった措置が採られたが、経営を改善させるには至らず赤字幅は拡大する一方で、年間輸送人員も1971年度には813万人へと低落した。
電車利用減の反面、別大線のうち半分以上が併用する国道10号では自動車交通が激増した為、大分県では軌道を撤去して国道を2車線から4車線へと拡幅し交通緩和を図る事が適切と判断し、1971年12月に大分交通に対して別大線の撤去を要請する。 これに続いて、1972年3月7日に別府・大分両市も撤去を要請する。 これらの要請を受けて大分交通は、3月8日に軌道撤去を当局へ申請し、3月27日に廃止認可を得て4月4日限りで別大線全線を廃止した。
この軌道線の廃止に伴い、多数あった大分交通の鉄軌道路線は耶馬渓線を残すのみとなったが、それも1975年10月1日に廃線となって、県下の鉄道路線はケーブルカーを除けば国鉄線(現 JR九州)のみとなり、この状態が現在も続いている。
大分交通・別大線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離:大分駅前~亀川駅前間18.4km、軌間:1,067mm、電化区間:全線(直流600V)
複線区間:かんたん~両郡橋間除く11.8km、閉塞方式:タブレット閉塞式
停留所:34停留所(1969年3月当時)
大分駅前・竹町・官公街勧銀前・新川・浜町・春日浦・王子町 - 専売公社前・西大分・かんたん・
白木・仏崎離合所(信号場)・田ノ浦・別院前・両郡橋・東別府駅前・浜脇・永石通・別府桟橋 - 北浜 - 仲間通 - 富士見通 - 境川 - 餅ヶ浜 - 国際観光港 - 春木川 - 深町 - 六勝園 - 聖人ヶ浜・
遺族会館前・照波園・弁天前・亀陽泉前・亀川新川・亀川駅前
※ 1956年までは、北浜から分岐して別府駅までの支線(大分県道32号別府停車場線上に
併用軌道として敷設)も存在した。〔北浜〕・弥生通・別府駅前
※ 大分駅前~かんたん、東別府駅前~亀川駅前が併用軌道、
かんたん~東別府駅前が専用軌道だった。
運行形態:系統は3つあった。
・全線運行する大分駅前~亀川駅前
・大分市内系統として大分駅前~かんたん
・別府市内系統の東別府~亀川駅前(ラッシュ時のみ運行されていた)
後に全線運転を取り止めの上で、北浜での系統分割となった。
1系統・大分駅前~北浜
2系統・北浜~亀川駅前
3系統・大分駅前~かんたん(1系統の区間便)
の3系統体制での運行となった。
並走する国鉄・日豊本線の駅には
必ず駅前電停を設置していた
接続路線:並走していた日豊本線をはじめとする国鉄線(現 JR九州)の駅に接続していた。
大分駅前〔大分駅〕・西大分〔西大分駅〕・東別府駅前〔東別府駅〕・
別府駅前(1956年10月廃止)・北浜〔別府駅〕・亀川駅前:〔亀川駅〕
如何にも路面電車の終点と
いった感じの大分駅前電停
大分交通・別大線 年表
1894年(明治27年)11月30日 : 別府~大分の軌道敷設特許
1896年(明治29年) 8月 5日 : 豊州電気鉄道株式会社設立
1897年(明治30年) 4月28日 : 工事施工許可
1900年(明治33年) 5月10日 : 最初の区間である別府停留場~堀川停留場間が開業
1901年(明治34年)11月29日 : 堀川停留場~荷揚町停留場(後の県庁前)間が延伸開業
1902年(明治35年) 4月15日 : 荷揚町停留場~南新地停留場間(後の竹町通)が延伸開業
1906年(明治39年) 1月 4日 : 豊後電気鉄道株式会社設立、豊州電気鉄道の一切の事業を承継
1916年(大正 5年) 3月28日 : 九州水力電気株式会社が豊後電気鉄道を合併
路線は同社の『大分電鉄線』となる
1917年(大正 6年) 7月 7日 : 南新地停留場~外堀(外濠)停留場間が延伸開業
1919年(大正 8年) 2月24日 : 外堀停留場~大分駅前停留場間が延伸開業し、大分駅前に乗り入れ
1922年(大正11年) 3月 7日 : 警察署前停留場~かんたん停留場の区間に、海岸寄り(新川停留場)
経由の新線が単線で開業
同時に大分駅前~警察署前間を複線化
1922年(大正11年)11月25日 : 脇浜停留場から先の線路を海岸よりの新設道路に付け替え、別府停留場
を移設(後の別府桟橋)
1925年(大正14年)12月31日 : 警察署前~堀川~かんたんの旧線のうち、堀川~かんたん間を撤去
残る警察署前~堀川間は車庫線となる
1927年(昭和 2年) 6月24日 : 資本金200万円で別府大分電鉄株式会社設立
1927年(昭和 2年) 6月30日 : 九州水力電気、別府大分電鉄へ路線を譲渡
1928年(昭和 3年) 2月21日 : 別府市大字別府~速見郡亀川町へ至る区間の軌道敷設特許
1928年(昭和 3年) 2月25日 : 別府市北町から同市不老町へ至る区間の軌道敷設特許
1929年(昭和 4年) 5月 1日 : 別府桟橋停留場~境川停留場が複線で延伸開業し、同時に北浜停留場~
別府駅前停留場間の支線も開業
大分市内区間(警察署前~かんたん)と別府市内区間(東山=後の
東別府駅前~別府桟橋)複線化
1929年(昭和 4年) 7月16日 : 車庫移転に伴い警察署前~堀川の車庫線廃止
1930年(昭和 5年)12月 1日 : 境川停留場~亀川新川停留場が複線で延伸開業
1938年(昭和 8年)11月19日 : 両郡橋~東別府駅間複線化
1942年(昭和17年) 3月 3日 : 亀川新川停留場~亀川駅前停留場が複線で延伸開業
1945年(昭和20年) 4月20日 : 交通事業統合により、別府大分電鉄は大分交通株式会社へ社名変更
同社の『別大線』となる
1956年(昭和31年)10月19日 : 支線北浜~別府駅前間廃止
1958年(昭和33年) 2月25日 : 大分駅前停留場移設の為、駅前から外堀交差点までの区間で線路移設
1961年(昭和36年)10月26日 : 仏崎付近で豪雨による土砂崩れの為、電車205号が埋没し乗客31人死亡
1966年(昭和41年)10月 1日 : 一部車両(503~507号)をワンマン運転化
1968年(昭和43年) 9月 1日 : 大分市内線ワンマン運転化
1971年(昭和46年)12月 : 大分県が大分交通に対し、別大国道交通緩和の為に別大線撤去を要請
1972年(昭和47年) 4月 5日 : 全線廃止
※ 1961年10月26日 :に仏崎付近で豪雨による土砂崩れが発生し、大分駅前発亀川行きの電車(200形205号)が走行中に土砂崩れに巻き込まれる事故となった。 当時この地方では早朝から雨が降り始め、午前10時ごろから雨が激しさを増していた。
そのような豪雨の中で電車が単線区間の仏崎離合所を出て仏崎のカーブを約20キロメートル毎時で徐行運転していたところ、線路左手にある高さ8メートルの崖上から約100立方メートルの土砂ならびに大木が落下し、走行中の電車はV字型に押しつぶされ土砂に埋没する惨事となった。 この事故で車内中央部にいた乗客のうち31名が死亡し、38名が重軽傷を負った。 この集中豪雨では、杵築市方面を走る大分交通国東線でも鉄橋流出などの被害で一部区間が不通となっている。
増結を可能にすペく
在来型の100型を総括制御に
改造して改番された150型電車
車両(路線廃止時):在籍33両
150型・200型・300型・500型はトムリンソン式密着連結器を備えた総括制御車
100型以外は間接自動制御車
100型 (101~116)定員80(座席32)名
半数は150型に改造され廃止時は102・104-107・110・111・115であった
150型(151・153・158・159・161・163・164・166)定員80(座席32)名
旧100型を重連対応の総括制御に改造したもので、車番に+50番を付けた
200型 (201-204)定員90(座席40)名
※ 205は上記の1961年の土砂崩れ災害により事故廃車
300型 (301・302)定員90(座席42)名
大分市・大分市立佐野植物公園に
静態保存されている506号機
※ ウィキペディア画像を拝借
500型(501・502) 定員90(座席38)名
(503~507) 定員90(座席38)名、台車が改良され自重が0.2t重くなった
※ 506号は大分市・大分市立佐野植物公園に静態保存されている
※ 504, 505号は岡山電気軌道に譲渡されて3501・3502号となるが、1982年に車体更新されて、
現在は7201・7202号となっている。
1000型連接車 (1001AB)定員140(座席56)名
完全固定編成で高規格台車を
装着していた1100系電車
※ ウィキペディア画像を拝借
1100型永久連結車 (1101AB・1102AB)定員200(座席80)名
近車KD50台車(シュリーレン方式)の高規格台車だった
- 関連記事
スポンサーサイト
この記事もあと2枚写真を載せたかったけど、「このページに問題があります」と表示されて受け付けてくれない。
新しいパソコンなのでパソコン自体に問題ないと思うので、原因はグーグルクローム又はIEエッジのプラウザがFC2のエディターという事ですね。
3か月前位からおかしいしィ