風来梨のブログ

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廃線鉄道 第61回 福島交通・飯坂東線

廃線鉄道  第61回  福島交通・飯坂東線 〔福島県〕

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未舗装の砂利道に敷設された
車幅の狭い馬面の路面電車
※ 『朝日新聞デジタル』より

福島交通・飯坂東線(ふくしまこうつう・いいざかとうせん)は、かつて福島県福島市及び伊達町・保原町・梁川町(いずれも現在の伊達市)などにおいて運行されていた福島交通の軌道線(路面電車)である。 本線格の福島駅前~湯野町の他に、長岡分岐点~保原の保原線、保原~梁川の梁川線、保原~掛田の掛田線の3つの支線を有していた。

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路線廃止時の路線図

戦後のモータリゼーションの進行による影響を受けて輸送人員が減少し、1967年9月に聖光学院前~湯野町が先行廃止となり、続く1971年4月12日に3支線を含めた全線が廃止となった。 なお、戦前には。4保原~桑折と掛田より先の川俣(1972年まで国鉄・川俣線が通じていたが、『赤字83線廃止』の取り組みにより路線廃止となった)まで路線を有していた。

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福島市近郊の保原・梁原・霊山
なとの町を結んでいた飯坂東線

当軌道線は福島交通の前身である福島電気鉄道(信達軌道)が建設したものであるが、福島電気鉄道と飯坂電車との合併で福島交通となってからも、現存する福島~飯坂温泉が『飯坂西線』と呼ばれていたのに対して、当路線は3支線を含めた全線が『飯坂東線』と呼ばれていた。

当路線は信達軌道が1908年に、軌間762mm・蒸気動力の軽便鉄道として福島~長岡~湯野村(後の湯野町)を開業させた事が始まりである。 開業した同年内に長岡~保原も開業し、また信達軌道の事業者統合によって大日本軌道の福島支社となる。

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在りし日の梁川駅舎
梁川まで延伸した頃が
最も勢いがあったようだ

その後、1910~15年にかけて保原~梁川と保原~掛田~川俣へと路線を延伸させて、1917年に再び信達軌道として独立する。 再独立後の1922年には桑折~保原を開業させて、当路線は最大路線を有する事となる。

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保有路線が最大になった時の路線図
※ 『街道ウェブ』より

だが、1913年2月10日に、機関車の火の粉によって鎌田~長岡の7ヶ所で小火が発生し、沿線の消防組が鉄道を運行する大日本軌道・福島支社に抗議している。 その出火の原因は、無煙炭とコークスを使う事を条件として許可された軌道であるにも関わらず、粗悪な石炭を使った事である。

このように、度々ボヤ騒ぎを引き起こして『軽便放火』と揶揄された事や、市街地を黒煙を上げて行き交う当路線に対する苦情が殺到し、1916年には市街地区間の廃止運動も起こったという。 そのような状況の中で、1922年5月19日に鎌田村大字本内において蒸気機関車からの火の粉が原因といわれる『鎌田本内大火』が発生する。 この大火で、住戸46戸・非住居87棟が焼失するに至ったのである。

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「禍転じて福と成す」と刻まれた
鎌田本内大火の慰霊碑
この大火を受けて路線の電化が
必然となったのである
※ ウィキペディア画像を拝借

この大火を受けて、被害に遭った住民が軌道上に座り込んで抗議し、鉄道は18日間運休を余儀なくされたのである。 この大火の後に、機関車の煙突に飛び火防止カバーが取り付けられる事となった。
また、この火災によって多額の損害賠償が請求され、また以前から借入金を抱えていた信達軌道は資金難に陥ってしまう。

この時に同社の要請をうけて取締役になったのが、後に富山地方鉄道の社長になった佐伯宗義である。
佐伯は沿線火災予防に加えて、競合路線である福島飯坂電気軌道(後の飯坂電車で現在の福島交通・飯坂線)が福島~飯坂の直通路線を開業させた事への対応から、必然となっていた路線の電化計画に着手する。

まず、信達軌道社長の同郷である日本レール株式会社を訪ねて協力を依頼し、電化資金の調達に成功する。 その上で債権者である日本興業銀行の総裁を説得し、逆に資金の借入にも成功したのである。
資金の借り入れに成功して電化工事の着工の運びとなるが、電化工事の進め方について金沢電気軌道社長に協力を依頼し、同社の電気技術主任を移籍させて工事に当たらせた。 また、この電化・改軌工事は、費用節約の為に鉄道第2聯隊(鉄道敷設などに対応する陸軍部隊)の演習として実施された。

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鎌田大火の慰霊碑前を通る電車
※ 『福島鉄道70年の歩み』より

この時に赤字路線であった掛田~川俣と桑折~保原は、電化・改軌工事を実施されずに廃止される事となる。 この赤字路線の整理は、電化・改軌資金の融資元である日本興業銀行の助言によるものだと言われている。 

1926年1月に社名を福島電気鉄道と改め、同年4月には先だって福島駅前~長岡~湯野町の本線区間の電化・改軌が完成し、開業に漕ぎつけている。 また、同年12月までに、伊達~保原、保原~掛田、保原~梁川の3支線も含めた対象全区間の電化・1067mm軌間への改軌工事が完了し、路面電車(軌道線)となった。

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軌間を1067mmへと拡大したもの
粗悪な砂利道に敷かれていた為に
異様に狭い車幅限界が課せられて
このような容姿の電車となった

だが、軌間の1067mmへの改軌はしたものの、改軌762mm時代に線路を通していた道路の大幅な拡幅ができなかった為に、1067mm軌間の路線としては異様に狭い幅の車両限界が課せられる事となった。
そのような訳で、当路線の車両の最大幅員は以前の762mm軌間と同じ1,676mmと狭いままで、戦後の増備車両では多少車幅が拡大されたが、それでも2000mmに満たない狭い幅員であった。

電化・改軌工事完成後は社勢を盛り返し、1927年10月に競合路線の飯坂電車を吸収合併して、飯坂電車が所有していた福島~飯坂温泉を『飯坂西線』と改称し、従前の福島電気軌道の路線は『飯坂東線』と改称する。

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飯坂西線が専用軌道化されて
飯坂東線は福島駅では
孤立状態となっていった

1942年12月に飯坂西線は福島駅に専用軌道で乗り入れを開始し、福島駅前通りから北に分岐していた従前の併用軌道は廃止されて、飯坂東線と飯坂西線は分離された。 戦時中の企業統合では、福島電気軌道が福島県中通り北部と浜通り北部の運輸業統合の中心となり、19438月に周辺のバス会社を統合して福島電気鉄道グループの母体が完成した。

戦後に入ると、設立時から関係のあった福島県南交通を1961年7月に合併して事業地域を拡大し、1962年7月に現在の社名の福島交通に社名を変更する。 昭和30年代に入ると、観光事業や路線バス事業が経営に占める割合が大きくなり、軌道事業の存在感が徐々に薄くなっていく。

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時の趨勢であるモータリゼーションの
進行に太刀打ちできず先行廃止となった
長岡分岐点~湯野町の末端区間

それに加えて、モータリゼーションの進行によって利用客が減少していき、1967年9月16日に先行して聖光学院前~湯野町を廃止して軌道を撤去し、長岡分岐点~伊達駅前の旅客営業も廃止して貨物営業専用路線に変更する。 だが、その後も経営状況は改善せず、1971年4月12日に支線を含めた全線の営業を廃止し、同社の路線バスに転換された。

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商店街の門前に設置された
路線最大のジャンクション・長岡分岐点

当路線は、電化未着工路線を廃止したとはいえ路線延長が31.5kmと長く、軽便鉄道時代から各市街地や集落を連絡する機能を有しており、路面電車規格ではあったが福島市の市街電車である事と同時に、インターアーバン(都市間連絡電気鉄道)的な性格も合わせ持っていた。

また、旅客運輸と共に貨物営業も行なっており、福島駅前と各主要駅の間に貨物列車が沿線の貨物輸送を担っていた。 貨物列車は、本線格の福島駅前~保原で貨物専用車両の電動貨車が付随貨車2~3両を牽引し、保原からは旅客電車に付随貨車1両をつなげて牽引させて、支線の各方面に貨物を̪仕送っていた。
なお、当路線は国鉄線と同じく1067mm軌間ではあるが、狭い車両限界の為に国鉄規格の貨車車両の直通ができず、全ての貨物輸送に対して荷の積み替えが必要だった。

当路線は、福島市街地中心部など一部は舗装道路で、舗装道路上では軌道敷内も敷石で舗装されていたが、伊達郡(現・伊達市)に入ると道床の状況が一変する。 支線の梁川線などは、路面電車ではあったが沿線の大半が未舗装の砂利道で、狭い道路の片側半分を占有するような形で線路が敷設されており、電車と自動車の行き違い時には自動車を反対車線に待避させて走行していた。

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梁川駅ホーム
砂利敷の駐車場との境が見当らない
線路を敷いた道床は砂利道で
軌道敷内は土を突き固めていた

また、砂利道であった為に、軌道敷内は土を突き固めて舗装しており、レールは車輪のフランジが通過するスペースを確保する為に、舗装面より若干高く設置してあった。 電車との行き違い待避時には、自動車はこのレールを乗り越えて待避していたという。 土や砂利でレールが埋もれると。スコップを持った保線係員が電車に添乗して現地まで出向いて、その場で掘り起こしていたという。

路線廃止が迫った末期には、砂利道のアスファルト舗装化が急ピッチで行われるなど沿線の道路事情は改善されていったが、アスファルト舗装化された道路でも、軌道敷内は最後まで土のままの区間が残っていた。

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福島交通・飯坂東線の予想路線図
福島駅前~湯野町以外に
該当地図が見当たらなかったので
保原・掛田・梁川の3支線は
予測だけで作成したのでかなり怪しいデス

《路線データ》
  1963年(昭和38年)当時
路線距離:総延長31.5km
飯坂東線・本線 福島駅前~長岡分岐点~聖光学院前~湯野町 13.5km
        伊達駅前~聖光学院前 0.6km
   保原支線 長岡分岐点~保原 4.5km
   掛田支線 保原~掛田 6.3km
   梁川支線 保原~梁川 6.6km
軌間:1067mm(電化以前は762mm)、複線区間:なし(全区間単線)
停留所
飯坂東線・本線 福島駅前・本町・上町・北町・浜田町・五老内・桜木町・競馬場前・祓川・
        文知褶通・松川橋(信夫ヶ丘)グランド前・大日堂前・本内・鎌田支所前・
        新鎌田・瀬上局前・瀬上荒町・河原町・長岡田町・長岡分岐点・聖光学院前・
        東湯野・明神前・湯野町
        〔聖光学院前〕・伊達駅前
   保原支線 〔長岡分岐点〕・箱崎・柳原・伏黒・三日市・保原
   掛田支線 〔保原〕・中村・柱田・金山・掛田
   梁川支線 〔保原〕・九丁目・三十日町・猫川・大立目・向川原・粟野小学校前・粟野・
        新開・梁川
最急曲線:半径16m・聖光学院前のデルタ線、最急勾配増田~東湯野の30.3‰
電化区間:全線(直流750V架空単線式)、変電所:聖光学院前(500kW水銀整流器を設置)
車庫:聖光学院前(長岡車庫と呼称され、工場機能を併設していた)
軌条:22kg/m又は30kg/mが使用されていた。
   福島駅前~文知褶通付近の3.5kmと、保原付近~三十日町付近の約0.8kmは37kg/m
   が使用された。

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長岡分岐点のジャンクションに
差しかかる路面電車
ポイント切替は全て手動で
全列車が運転士と車掌のツーマン運行だった

  運行形態 1969年4月当時
福島駅前~長岡分岐点~保原は1時間に4本(日中15分間隔)で、ラッシュ時は増発された。 
掛田支線・保原~掛田と梁川支線・保原~梁川は日中は1時間間隔、ラッシュ時は30分間隔だった。
また、福島駅前~保原間で12便の折り返し運転が設定されていた。 以上の単線では容量いっぱいの過密ダイヤであった為、貨車を除く在籍車両23両中の内の22両がフル稼動しており、予備車両の余裕が無かったという。

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車幅制限がかけられた素案な道床
ポイント切替は全て手作業・・
これで日中15分ヘッドとは真に神業だった

長岡分岐点~湯野町は1967年9月16日に営業を廃止されている。 聖光学院前~伊達駅前は区間運転で旅客営業をしていたが、長岡分岐点~湯野町と同時に廃止となり、以降は貨物列車のみが1日6本運行していた。 また、旅客営業が廃止後の長岡分岐点~長岡車庫~伊達駅前は、車両の出入庫と貨物輸送のみで使用されていた。 その他の貨物輸送は、長岡分岐点~掛田と長岡分岐点~梁川に各2往復の客貨混合列車が運行されていた。

全線単線であった為にスタフ(通票)閉塞運転が行われ、ラッシュ時は2列車以上・最大で5列車が閉塞区間内を続けて進行する続行運転が実施されていた。 続行運転の場合の閉塞の取り扱いは、続行列車の車両の車両前面窓下に、円形で黄色地に赤の縁取り付き(中央に「続行あり」と記入されている)の続行標識を掲示していた。

また、ポイント設備は自動化されておらず、道端に操作用のレバーが設置してあり、乗務員や係員が手動で操作していた。 列車運行において手動でのポイント切替業務が必要な為、開業から廃止まで運転手と車掌が乗務するツーマン運転で、ワンマン運転は実施されなかった。

  貨物輸送
福島駅前・長岡分岐点・伊達駅前・湯野町・保原・梁川・掛田の沿線各主要駅で、特産品の絹織物や農産物及び、生活物資等の貨物を取り扱っていた。 この為、上記に挙げた各駅には。本線と並行して貨物取扱用の機回し線が設置されていた。

福島駅前付近には、国鉄福島駅前から東側に分岐する引き込み線(貨物側線)が日本通運の敷地内に敷かれ、福島駅前を経由して各方面に貨物列車が運行されていた。 当路線の異様に狭い車両限界から貨車は自社線内専用車両しか走行できず、他路線との接続地点では貨物の積み替えが必要だった。

単線では限界に達した過密ダイヤであった為に、貨物列車は旅客列車の続行運転で設定され、電動貨車・ニモ1に2~3両の貨車を連結して福島駅前から保原までを運行し、以遠の区間輸送は旅客用の電車に貨車1両を連結して牽引運行をさせていた。 急カーブで車体が接触するのを防ぐ為に車両の連結は特殊仕様で、双方の車両のピン・リンク式連結器を長さ1m以上もある長い連結棒(Draw bar=ドローバー)で接続して運転していた。

時代の変化と共に貨物の区間輸送が次第にトラック輸送に切り替わり、路線廃止が迫った晩年は福島駅前の引き込み線は撤去され、電動貨車・ニモ1も廃車された。 電動貨車の廃車以降は、旅客用の電車が貨車を牽引していた。

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1926年3月国鉄川俣線開業
翌1927年掛田~川俣廃止と
僅か1年ちょっとの間だが
国鉄川俣線とも接続してたかも

  接続路線
福島駅前で国鉄(現 JR)東北本線・奥羽本線と、自社路線の飯坂西線(現在は飯坂線)に接続していた。 また、湯野町から徒歩5分程て、自社路線・飯坂西線の飯坂温泉駅があった。 伊達駅前でも、東北本線の伊達駅に接続していた。

かつては、廃止となった桑でも東北本線の桑折駅に接続していた。 そして、接続されていたかは定かではないが、国鉄・川俣線が開業した1926年3月から掛田~川俣が廃止となる1927年6月までの1年ちょっとの間、川俣と国鉄・川俣線の岩代川俣駅が同じ地域に存在していた。

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福島市のメイン道路をゆく路面電車
路線の大半が砂利道に敷かれていたが
県都・福島市内は道路が舗装されていた

   福島交通・飯坂東線 年表
1908年(明治41年)  4月14日 - 信達軌道(しんたつきどう)により、福島駅前~十綱(後の飯坂、
                更に湯野町と改称)、本社前(後の聖光学院前)~長岡駅前
               (後の伊達駅前)か開業する
           7月13日 - 長岡 - 保原 開通
           7月28日 - 事業者統合によって、大日本軌道・福島支社となる
1910年(明治43年)  1月  2日 - 保原~(旧)梁川 開通
           6月18日 - (旧)梁川~梁川が開通し、梁川支線全通
1911年(明治44年)  4月  8日 - 保原~掛田 開通
1915年(大正  4年)12月13日 - 掛田~川俣 開通
1917年(大正  6年)  9月  6日 - 再び、信達軌道として独立する
1922年(大正11年)  4月17日 - 保原~桑折が開通し、最大路線網が形成される
           5月19日 - 沿線の鎌田集落で全村焼失する火災発生し、福島駅前~長岡
               (分岐点)が18日間運休となる
1925年(大正14年)12月24日 - 社名を福島電気鉄道に変更
1926年(大正15年)  4月  6日 - 福島駅前~長岡~湯野町の改軌・電化工事が完了し、電車運行開始
           11月  6日 - 伊達~保原(保原支線)の改軌・電化工事が完了し、電車運行開始
           12月  2日 - 保原~掛田(掛田支線)の改軌・電化工事が完了し、電車運行開始
           12月21日 - 保原~梁川(梁川支線)の改軌・電化工事が完了し、電車運行開始
1927年(昭和 2年)  6月28日 - 不採算路線として、非改軌・非電化の桑折~保原 及び 掛田~川俣
               が路線廃止となる
          10月1日 - 現在の飯坂線を経営していた飯坂電車を合併し、『飯坂西線』と
               改称する
               また、従来からの福島電気軌道の路線は『飯坂東線』と
               改称される
1938年(昭和13年) 7月11日 - 長岡車庫工場で火災発生し、車庫2棟と電車5両を焼失
1942年(昭和17年)12月 3日 - 飯坂西線が全線専用軌道化され、併用軌道運行していた飯坂東線
               との接続が廃止となる
1945年(昭和20年)  3月 1日 - 飯坂西線を軌道法に基づく軌道線から、地方鉄道法に基づく鉄道
               路線に変更する
1962年(昭和37年) 7月12日 - 社名を福島交通と改称し、車庫前を聖光学院前に改称
1966年(昭和41年) 8月    - 輸送量の減少に伴う合理化の為、福島駅前の貨物引き込み線を撤去
               電動貨車1両と付随貨車13両が廃車となる
1967年(昭和42年) 9月16日 - 飯坂西線と競合する聖光学院前~湯野町を廃止し、長岡分岐点~
               伊達駅前は貨物輸送と長岡車庫への出入庫のみの路線使用となる
1971年(昭和46年) 4月12日 - 支線を含めた全線が廃止となる

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路地裏のような道に線路が敷設された為に
車幅制限がかけられて
並走する車より車幅が狭かった
※ 『福島交通 モハ1110形(福島駅前停留所)』より

   車両
  旅客用電車
信達軌道時代や大日本軌道福島支社時代には、小型蒸気機関車が貨車・客車を牽引していた。 
その後、電化開業の為に1925~27年にかけて、木造ボギー車を13両を順次新製配備した。 
また、1927年の飯坂電車の合併時には、飯坂電車で使用されていた木造単車(飯坂電車での車番は1~5)5両を転属させて21~25に改番して使用する。 一方、飯坂東線で使用していたボギー車を飯坂西線に転属させた。

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生態保存されている
デ10形路面電車
※ 福島県伊達市のウェブサイトより

1938年に発生した長岡車庫火災で車両を焼失し、前後の記録から再生あるいは新製していると思われるが詳細は不明である。

飯坂電車から引き継いだ21~25は、23~25のうちの2両が1938年の長岡車庫火災で被災するが、1940年に焼け残りの1両と共に半鋼製に車体更新して復旧している。 また、1953年には車体延長改造の上でボギー車化されて、デ17~19に改番されている。 21・22は、飯坂西線が福島駅乗り入れを開始した1942年に飯坂西線転属となった。

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飯坂東線では最後の新車
として投入されたモハ2022
※ ウィキペディア画像を拝借

1955年から木造ボギー車(デ1~13)を半鋼製に車体更新し、モハ1101~1113に改番して使用している。 更に1949~53年にかけて増備したデ14~19も、モハ1114~1119に改番して使用しているいる。 最後の新車となったモハ2022~2023に至るまで、路線状況からくる車幅制限の為にいずれも定員50~52名の小型車で、異様に狭い車体幅によって前面は細長く、花巻電鉄の軌道線用旧型車と同様に、『馬面電車』と呼ばれる特異な存在だった。

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車幅が極端に狭い
特異な容姿から『馬面電車』との
あだ名がつけられていた
※ 『福島交通 モハ1110形(福島駅前停留所)』より

集電装置は当初トロリーポールを使用し、のちにパンタグラフに交換された。 1952年頃に撮られた写真では、トロリーポールとパンタグラフの車両が混在しており、この頃から交換され始めたと思われる。
主幹制御器は、全ての車両が直接制御器で総括制御は不可能であった。 単車と付随車はハンドブレーキを常用し、ボギー車は当初ハンドブレーキであったが、1950年から直通空気ブレーキが取り付けられて常用となった。

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飯坂東線の軌道は車両限界から
荷受け先の国鉄貨車が入線できず
貨物は全て取扱駅での積み替えが必要だった

  電動貨車・付随貨車
電動貨車は木造ボギー車のニモ1が1両あったが、1966年8月の福島駅前の貨物引き込み線撤去時に廃車となっている。 電動貨車の廃車以降は、電車に貨車1両を牽引させていた。 付随貨車は1969年時点で。無蓋車ホト1~2、有蓋車ホワ10~14の7両が在籍していた。

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歩道橋に改築されて現存する
鉄道道路併用橋の旧伊達橋
※ 福島県伊達市のウェブサイトより

  廃線跡地と現存している保存車両
掛田駅は、現在でも駅舎がバス案内所として活用されている。 保原駅(初代)は、跡地が保原バスセンターとなっている。 湯野町駅の駅舎は2000年9月まで残っていたが、現在は解体・撤去されて、跡地は『湯野駅』バス停留所と転回所になっている。

長岡車庫跡地は分割して売却され、現在は跡地の大半が伊達市商工会伊達支所と伊達児童館、一部が伊達市立伊達小学校及び住宅地と工場地に転用されている。 また、阿武隈川を渡っていた鉄道道路併用橋の伊達橋は、現在の伊達橋の完成に伴って歩道橋に改築されて、『旧伊達橋』として現在も使用されている。

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唯一駅舎が現存して
バス案内所として使用されてい
掛田支線の掛田駅
※ ウィキペディア画像を拝借

唯一往時の駅舎が残っいるのは、掛田支線の掛田駅跡である。 伊達市南部の旧伊達郡霊山町の中心部に当たる掛田地区に位置する駅で、保原~当駅までが電化開業された。 路線廃止後は『掛田駅前』バス停となっていて、軌道線廃止後も駅舎はバス案内所や乗務員休憩所として使用され、駅舎出入口には『掛田驛』と書かれた駅名板や窓口の『出札口』の表示などが残されている。

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保原の公民館に
静態保存されたモハ1116
※ ウィキペディア画像を拝借

保存車両は、沿線自治体の福島市と伊達市にある以下の3ヶ所に静態保存されている。
モハ1115 福島県伊達市(霊山こどもの村)
モハ1116 福島県伊達市(保原中央公民館)… 2015年4月に修復作業が完了し、一般公開を再開
モハ1119 福島県福島市(福島市立瀬上小学校)






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No Subject * by 鳳山
伊達、柳川、桑折など南北朝から戦国期にかけての伊達氏の初期の拠点なので懐かしく感じました。路面電車、味があって良いですね。

Re: No Subject * by  風来梨
鳳山さん、こんばんは。

今は、桑折・保原・柳川・掛田の霊山町ともに伊達市に合併されて分かりやすくなってますね。

蒸気機関車の火の粉から大火を引き起こし、それをきっかけに路面電車となりました。 大火を引き起こした福島市の鎌田地区には、この大火から火事のない電車化を急ぐ事となった事から、大火の慰霊碑に「災い転じて福となす」と刻まれています。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No Subject

伊達、柳川、桑折など南北朝から戦国期にかけての伊達氏の初期の拠点なので懐かしく感じました。路面電車、味があって良いですね。
2021-07-22 * 鳳山 [ 編集 ]

Re: No Subject

鳳山さん、こんばんは。

今は、桑折・保原・柳川・掛田の霊山町ともに伊達市に合併されて分かりやすくなってますね。

蒸気機関車の火の粉から大火を引き起こし、それをきっかけに路面電車となりました。 大火を引き起こした福島市の鎌田地区には、この大火から火事のない電車化を急ぐ事となった事から、大火の慰霊碑に「災い転じて福となす」と刻まれています。
2021-07-22 *  風来梨 [ 編集 ]