風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出  第451回  東武鉄道・伊勢崎線 太田駅

『路線の思い出』   第451回  東武鉄道・伊勢崎線 太田駅 〔群馬県〕

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太田駅はこんな近代的な
駅になっているらしい
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
  営業区間と営業キロ                運行本数(’17)
 浅草~伊勢崎 114.5km                太田駅発着列車
              特急【りょうもう】浅草~伊勢崎 1往復
                       浅草~赤城 上下とも 早朝・深夜を除き毎時1~2本
              普通(太田~伊勢崎)上下とも 毎時1本・ラッシュ時3~4本
                  (館林~太田)   上下とも 毎時2編・ラッシュ時3~4本
              普通(東小泉~赤城)上下とも 毎時1本・ラッシュ時2本
                ※ 桐生線と小泉線は共通運用 一部 太田発着列車アリ

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こんな立派な駅ホームだったかなぁ
※ ウィキペディア画像を拝借

太田駅(おおたえき)は、群馬県太田市東本町にある東武鉄道・伊勢崎線の駅である。 島式ホーム3面6線を有する高架駅で、1~4番線と7~10番線はそれぞれ同じ線路を共有しており、ホームの館林寄りを1~4番線、伊勢崎寄りを7~10番線として区切る縦列使用となっている。 また、5番線は小泉線方面、6番線は桐生線赤城方面のりばで、小泉線と桐生線は共通運用となっている。

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高架前の太田駅
やっぱりイメージとしては
断然コッチだね
※ ウィキペディア画像を拝借

1999年~2004年の5年の歳月をかけて、当駅は近代的な高架駅へと大改装されたが、高架化される以前は2面4線で0~3番線が設けられ、0番欄は当駅発着列車の専用ホームとなっていた。 2004年11月25日の高架駅供用開始に際して自動改札機が設置されている。

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太田駅のホームと配線図
※ ウィキペディア画像を拝借

当駅東側にある伊勢崎線と小泉線の分岐点から、当駅西側にある伊勢崎線と桐生線の分岐点までは単線並列となっており、西側の分岐点にはシーサスポイントがある。また、双方向に留置線がある。
太田駅管区として、伊勢崎線の韮川~伊勢崎・桐生線全駅・小泉線の竜舞を統括管理している。
2019年度の一日平均乗降人員は11,705人である。

1909年2月17日に東武・伊勢崎線が足利町駅(現・足利市駅)から当駅まで延伸したのに伴って開業した駅である。  開業当日は駅前広場で三横綱を招請して大相撲が行われるなど、記念行事が行われて盛況を博したとの事である。

1910年3月27日に、東武・伊勢崎線が当駅から新伊勢崎駅まで開通して中間駅となる。 また、人車軌道を運営していた藪塚石材軌道が太田軽便鉄道に改称して建設を進めていた路線を東武鉄道が買収し、1913年3月19日に桐生線として当駅~相老まで開通させる。 1927年10月1日に東武・伊勢崎線の館林~伊勢崎、1928年3月1日に桐生線の当駅~相老と、当駅周辺の路線が相次いで電化された。

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戦後は戦闘機から自動車製造に
シフトを変えた中島飛行機(現 SUBARU)の
城下町として栄えた街・太田
※ ウィキペディア画像を拝借

当駅の所在する太田の街は、中島知久平が設立した飛行機研究所が中島飛行機として急速に拡大した事により工業都市として発展する。 これに伴って、1941年4月に延べ建坪585坪の2階建ての新駅舎を竣工させる。 この新駅舎は当時の東武線で随一と云われ、新駅舎の2階には貴賓室や大衆食堂が配置された

また、同年6月1日には、小泉線が中島飛行機小泉製作所への輸送を目的として当駅から小泉町まで開通するなど整備が進められた。 この小泉線の開通により、伊勢崎線・桐生線・小泉線の3路線が乗り入れる事となった。

だが、時は太平洋戦争真っただ中で、軍用機を生産する中島飛行機はアメリカ軍による空爆の主要対象となって、1945年4月4日に空襲を受ける。 この空襲では駅舎などの建物約1,067坪が全焼し、線路約350mに加えて電車線が約250mと送配電線約2,600m、通信線約23,000mが破壊されたという。

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戦災から復興した駅舎は
街の顔として半世紀の間
太田の街を見てきた
※ 『東武鉄道・かつての太田駅』より

その後、バラックの駅舎で仮復旧し、1954年2月に新駅舎を開設して本格的に復旧した。 当駅の南側は水田地帯であったが、『九合地区土地区画整理事業』として整備が進められ、1966年12月に南口が開設された。

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現在の太田駅南口
近郊都市の駅っぽい造りだね
※ ウィキペディア画像を拝借

高架化される前は、当駅の北側と南側は立体交差する車道と地下歩道のみで接続しており、町が分断される形となっていた。 これが駅の高架化を進めた主な理由である。



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太田駅に立ち寄ったのは
この路線を『撮り鉄』した帰りである

『路線の思い出』の駅シリーズとして取り上げた太田駅であるが、ぢ・つ・わ・・改札口を出た事もないし、駅舎を目にした事もない。 そう・・、今回の『駅の思い出』のネタとなる「最初に降りた時」は、もう30年以上も昔の高架駅となる以前の事なのである。

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今回の太田駅の駅ネタは
まだ非冷房車が幅を利かせていた
30年以上前の事である
※ ウィキペディア画像を拝借

その後『鉄』期から『ヤマ』期に移り変わり、皇海山登山の為にこの駅で乗り換える必要があったので、高架駅になってからも何回か下車したが、高架駅に改装された後の事は全く憶えていない。

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ヤマ期に突入した後も
この山に登るべく
何度か太田駅を訪れたが
駅に降りた記憶は全くない

高架駅となってからの駅構造は、浅草からの伊勢崎線と乗り換える桐生線は発着ホームが違うので、階段を上り下りしてホーム間を渡っているハズなのだが、私鉄の都市有人駅に全く興味がなかったので、記憶は全て飛んでしまっているのだ。

そして、歳食って多少なりとも稼ぎがある身分となっていたので、小僧の頃は『禁断の果実』だった特急格上げの料金を取る【りょうもう】号に乗って、太田駅での乗り換えを飛ばすようにもなっていたよ。
ヤマ期の初めの頃は、いい歳こいて料金不要列車オンリーで通っていた事がバレてしまったよ

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200mm程度で『渓谷と鉄道』を撮ると
列車は限りなく『点景』となる事を
足尾線のこの『撮り鉄』で知ったよ

話は脱線したが、最初に降りた高架駅になる以前にこの駅に降りた理由は、もちろん廃止対象路線となった旧国鉄・足尾線の『乗り鉄&撮り鉄』の為である。 御存知の通り、この国鉄足尾線は第三セクターの『わたらせ渓谷鉄道』に経営移管された路線だ。

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当時はJRに経営移管された直後で
デカデカとタラコ色のキハ35に
『JR』ロゴをペイントするなど
センスの欠片もなかったよ

だが、足尾線だった当時の渡良瀬川は足尾銅山の精錬廃液を垂れ流しされていたからかのか、鉱毒汚染を思わせる乳白色に濁った汚い川で、また車両もキハ35が主力と『撮り鉄』の意欲が湧かない路線だったよ。

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この頃の渡良瀬川は
足尾銅山鉱毒の爪痕が消えぬ
汚染されて濁った川だった

それでも、「濁った川」=「足尾鉱山の鉱毒の歴史」=「足尾線の抱くイメージ」と頑なに信じたタワケガキは、足尾線で撮った全てのコマに濁った川を入れていたよ。 言うまでもなく、結果は今イチばかりだったよ。

そんなのに拘るより、間藤~足尾本山の廃線跡や鉱石を搬出する鉱山ホッパー施設や「通らずの踏切」などに目を向けていたなら、今「撮りたい」と願う『物語性』のある写真が撮れただろうに・・ね。
まぁ、二十歳前の小僧で、そこまで頭が回る訳ないか・・。

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東武の8000系といえば
この顔ですよね
今の角ライトに8000系の
イメージを持てないわ
※ ウィキペディア画像を拝借

そして足尾線を撮った帰りに、今回お題に挙げた太田駅に降り立つのである。 最も太田駅は降りたというより列車を乗り継いだだけというのが正しい表現なのであるが・・。 ちなみに、行きは大田駅には立ち寄っていない。 なぜなら、足尾線の起点駅は国鉄(現 JR)両毛線の桐生駅で、スムーズに足尾線を完乗するならば、両毛線の桐生駅からアプローチせねばならないのである。 でも、桐生で途中下車してしまうと、両毛線の完乗が辛くなるけど。

そして、この時に手に持っていた切符は、当然の如く当時は年相応のきっぷ『セ・セ・セ・セ青春18きっぷ』で、帰りはこのキップで乗れる大垣夜行(まだ〔ムーンライトながら〕となる前の急行型のカボチャ(湘南型)&直角椅子の列車だった)に乗るべく、足尾線からの最短コースで東京駅に戻らねばならなかったのである。 その時に乗り継ぎで足跡をつけたのが、今回の太田駅である。

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当時の東武は白一色の塗装だったよ
※ ウィキペディア画像を拝借

ダタの乗り継ぎなら記事のネタにもならないが、当時の東武は、金のない小僧の味方なる『A準急』なる列車を運行していたのである。 この列車は、浅草発着の伊勢崎行きという走行距離が110kmを越える超ロングラン準急で、東武動物公園~太田までの停車駅も久喜・加須・羽生・館林・足利市・太田(太田~伊勢崎は各停)と、今の特急【りょうもう】と全く同じで料金不要だったのである。

しかも、当時の急行だった【りょうもう】と、所要時間が10分程しか変わらなかったのである。
こんな「金無し小僧の味方」な列車が、1時間に1本の間隔で運行されていたのである。 それと、東武動物公園から各停の『B準急』なる列車が毎時3本の運行パターンだったのである。

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『A』も『B』も同じ
赤幕白抜き文字での『準急』表記で
パッと見の判別は不能だった
※ ウィキペディア画像を拝借

だが、この『A・B』2つの準急は赤幕に白抜きの同じ『準急』表記で、パタパタの行先表示板の下蘭の『停車駅』を見なければ区別が着かない変な列車だったのである。  なお、東武鉄道発行の時刻表では、列車番号末尾に『A』か『B』と表記されていたらしい。 でも、停車駅を追う方が判別が速いわな。
もっと掘り下げると、要約タイプ(俗に言うコンパクト)の時刻表なら、到底判別不能の列車種別なのである。

ウンチクであるが、この『A準急』は世界最強の料金不要の『準急』ではなかったりして・・。 
まぁ、世界の鉄道に中途半端過ぎる列車種別の『準急』(料金不要)という概念はないだろうから、『日本一』の準急が即ち『世界一』の準急となるのである。 なお、1960年代に運行されていた国鉄の有料『準急』は含まない事にする。

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東武の駅ネタで
何気に近鉄押しをしている
近鉄贔屓のタワケ

その世界一の料金不要の『準急』は、近鉄名古屋~鳥羽(120.3km)を走っていた準急で、四日市以降は急行と同じ停車駅で、表定速度も55~56kmと他の私鉄の急行顔負けの『準急』だったのである。
この世界最強の『準急』は、1983年のダイヤ改正まで運行されていたらしいので、1983年以降の世界最強は東武・伊勢崎線の『A準急』だね。

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東武鉄道も『A準急』が
特急格上げとなる【りょうもう】の
利用客を奪う脅威となる事に
遅まきながら気付いたんだろうね
※ ウィキペディア画像を拝借

その『A準急』も、2003年の東武鉄道時刻改正で姿を消した。 さすがに、あまり速度が変わらない料金不要の『A準急』の存在が、特急格上げとなる【りょうもう】の脅威となる事に気付いたのだろうね。
それと徹底的な運行区間の区割りが行われ、首都圏から太田まで行くのに特急【りょうもう】以外では、2回の乗り継ぎが必要となったのである。 要するに、「群馬県内に行くなら特急【りょうもう】に乗れ!」って事ですな。

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歳食ってタワケの身体が
ヘタってきたのと同じく

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東武の名門急行も
見るも無残な地下鉄車両に
落ちていったよ
※ 上下2枚ともウィキペディア画像を拝借

そして、かつて一世を風靡した急行【りょうもう】などの東武の『急行』列車は、かつての『B準急』(東武動物公園以降各停)の2階級格上げとなり、車両も地下鉄を行き交うような都会型の低速車両となっちまったし、『準急』はかつて区間準急(新越谷以降各停)からの格上げだしィ。 あぁ・・、『準急』冬の時代となったね。

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1983年以降世界最強を誇った
東武の『準急』も
区間準急の停車駅と
同等の種別に落ちてしまった
※ ウィキペディア画像を拝借


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