風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第60回 草軽電気鉄道

廃線鉄道  第60回  草軽電気鉄道〔長野県・群馬県〕

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路線の建設費を抑える為に
トンネルを一切通さずスイッチバックのみで
山を乗り越えた路線だった草軽電気鉄道
※ 『草軽電気鉄道』より

草軽電気鉄道(くさかるでんきてつどう)は、長野県北佐久郡軽井沢町の新軽井沢と群馬県吾妻郡草津町の草津温泉とを結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)である。 鉄道事業廃止後も、東急グループ傘下の草軽交通というバス会社として残存している。

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草津温泉と云えば
湯畑ですね
※ ウィキペディア画像を拝借

草津温泉は古くより名湯として知られていたが、草津白根山の山懐にあったが為に、明治終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。 草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津温泉や浅間山麓の高原静養地に向けての輸送を目的に着工される事となり、大正期の1914~26年に順次路線を開通させていった。 

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国鉄の軽井沢駅に隣接して設けられた
草軽電気鉄道の起点駅・新軽井沢

この間の1923年に、吾妻川電力によって当路線の沿線5カ所で発電所の建設が計画され、その建設資材輸送の必要が生じた事から吾妻川電力自体が鉄道を傘下に収め、同社の重役である河村隆実を社長に就任させて、社名変更と電化を始めとした積極経営に乗り出す。 その積極経営策とは、草津温泉への延長・乗合自動車(路線バス)兼営・周辺静養地に向けた電力供給事業などで、その為の資本金の増資ゆ社債発行が行われた。

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蒸気機関車の火の粉から
別荘が火事となりその抗議に乗り込むも
逆に電化の必要性を説かれて
電化資金に土地を寄付した法政大学の学長さん
※ ウィキペディア画像を拝借

ちょうどその頃、法政大学学長の松室致は、自分の別荘が蒸気機関車の火の粉により火災に遭って、その事を抗議するべく草軽電気鉄道の本社に乗り込んだが、逆に説得されて電化の事業に手を貸すようになり、7.9万坪もの土地の寄付を受ける事となった。 その土地を元手に五百坪付の株式を売り出し、130万円の増資に成功している。

ところが予想に反して利用者は伸びず、政府の補助金を受けても赤字は埋まらない状態が続いて配当も途中から無配となって、ついには社債も債務不履行となる。 結局、1932年の社債権者集会では、利率の大幅引下げを決議する事となる。 その他、償還日(1934年9月)の延長は何度も行われ、最終的には1945年9月まで10年以上の償還支払を猶予したという。

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建設費を抑える為に
坂はスイッチバックを駆使して
ジグザクで越えていた
※ 『草軽電鉄の記憶』より

また、建設費用をできるだけ抑えようとした為に、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルが存在しなかった事が路線の大きな特徴として挙げられる。
このような線形から、勾配がキツい所ではブレーキをかけるのが大変だったと言われている。
それに加えて、本来道床に必要な砕石も敷かれない区間もあった。 また、線路規格が極端に低かった事もあって、全線55.5kmを走破するのに2時間半~3時間を要していた。

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路線建設費を抑えた為に路線状況が悪く
その為に2時間半~3時間もかけて
軽井沢~草津温泉を往来していた
それがこの脆弱な鉄道の
廃止の一因となったのだ

高原静養地には嬬恋・北軽井沢等の途中駅が設けられ、1951年公開の日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場して、当路線は巷からは高原列車として親しまれた。 だが、1935年に渋川~草津などに国鉄バスの運行が開始され、またバス車両の大型化も順次執り行われた。 こうして、バスと比較した軽便鉄道(草軽電気鉄道)の輸送力の差は明らかとなって、利用客は次第に減少していった。

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大型車両導入によって
輸送力増強を成し遂げたバス路線に
所要時間や利便性の全てで勝負に
ならなかった軽便鉄道・草軽電気鉄道
※ 『きたかんナビ』より

更に、1945年に国鉄長野原線(現・JR吾妻線)の開通(長野原~草津温泉は国鉄バスが旅客輸送を受けた)によって、利用者が国鉄側へシフトして経営的に大打撃を蒙る。 また、弱り目にたたり目で、1947年には政府補助金制度も廃止され、それに加えて度重なる台風の襲来によって、鉄道施設に草軽創設以来最大の被害を蒙ったのである。

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速度・利便性・輸送力で
路線バスとは勝負にならず
政府補助金制度も打ち切られ
それに加えて度重なる台風災害に遭うなど
弱り目にたたり目となった草軽電気鉄道

その台風災害のトドメは、1959年に来襲した台風7号によって、応急処置をしていた吾妻川橋梁が再度流失する被害に遭う。 これが決定的なダメージとなって、周辺住民や元自治体の存続運動があったものの、1960年の乗客数は、全盛期の約1/8の56000人に激減し、第一次の廃線として1960年に新軽井沢~上州三原が廃止される。 残る区間の上州三原~草津温泉も既に採算性が取れないと判断されていて、2年後の1962年に廃止となり、この時をもって全線廃止となった。

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草軽電気鉄道は草津温泉や軽井沢を
世界的な観光リゾート地に仕立てた
多大な実績を残したのだ
※ ウィキペディア画像を拝借

経営的には創成期から不振が続いた草軽電気鉄道だが、地域の観光に大きな功績を残しただけではなく、沿線町村の活性化にも重要な役割を果たしたのである。 物流の面でも、この小さな鉄道が大きな役目を担っていたのである。

それは、温泉湯治場である草津町には食料を中心とした物資を運び、長野原町・六合村・嬬恋村の3町村から産出される農産物や、草津白根山周辺に点在した鉱山からの硫黄鉱石などの鉱物資源輸送を担い、草軽電気鉄道は地域の命綱となっていたのである。

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旅客より木材搬出や産出硫黄の運搬や
温泉町への生活物資の輸送など
物資輸送の命綱だった草軽電気鉄道

旅客輸送よりもこうした貨物輸送を重要視された為、定期列車は貨客混合列車が普通で、貨物列車も運行されていた。 終戦前後に差し掛かる頃に硫黄の産出がピークを迎え、草軽電鉄の輸送実績もピークに達する。

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大戦末期から終戦直後は
草津白根山からの硫黄鉱石搬出で
草軽電気鉄道は最盛期を迎えた

大戦が激しさを増す中、当時の硫黄鉱山を経営していた『帝国硫黄工業』と連携して軍事利用に向けての多量の硫黄鉱石が搬出され、また戦争へ出てゆく兵士の出立なども草軽電鉄が使われる事が多かったという。
このように国鉄バスや国鉄長野原線(現在のJR吾妻線)の開業や、台風災害による被害などでその役割を終えたが、沿線の町村に近代文明をもたらした存在であった。

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浅間山の裾野にある国内有数の
リゾート地・軽井沢で
東急対西武という鉄道財閥の
覇権争いが繰り広げられた

草軽電気鉄道の経営的な足跡としては、軽井沢や草津温泉といったリゾート地開発において、『東急』対『西武』という首都圏の鉄道財閥の覇権争いに巻き込まれた事が伺える。

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その浅間山は噴火の為に
登山禁止なんだけど
登っちゃった・・テヘッ
登山禁止処置で頂上を示す
標柱は皆無なので
自分で「あさまやま」と彫っちゃった

箱根山戦争・伊豆戦争・東京城西地区・渋谷など何かと張り合った東急・西武の両陣営だが、軽井沢~草津でも両者の競争が繰り広げられていた。 軽井沢開発は西武が先行していて、1945年に東急が草軽電鉄を傘下に納めた時には、既に西武は『鬼押ハイウェー』を系列会社の手で敷設した上で軽井沢高原バスを運行し、地域交通を手中に収めていた。 また、軽井沢の別荘・保養地開発を早くから手がけるなど、軽井沢周辺では西武系の勢力が強まっていった。

しかし、草津温泉においては、西武系は路線バスを乗り入れるのみで自系列の宿泊施設等はなかった(西武系は、万座温泉方面から志賀高原方面に力を入れて開発していく事となる)事と比較して、東急系列が先に『草津温泉ホテル東急』を開業させた事は、草津温泉だけを見ると、東急にやや軍配が上がったとも言える。 草津温泉ホテルリゾート前の駐車場に隣接して小さな公園があり、公園内には草軽電鉄の草津温泉駅跡の小さな記念碑が建てられている。

終戦直後の過渡期が過ぎて、モータリーゼーションが進んでスピード重視へと世の中が傾斜してゆく中、少ない本数で時間をかけてゆっくり走る小さな電車の草軽電鉄よりも、増発が可能でスピーディーに走り、収容能力に勝る西武バスへ客が流れて行くのは当然の事であった。 

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リゾート観光客向けに使用された
トロッコ車両も晩年は
国境平駅構内に放置されていた
※ 萩原二朗氏撮影

だが、その頃は東急グループ傘下となっていた草軽電鉄も、沿線を中心に乗合自動車(路線バス)の営業を開始していた。 バスの大型化なども進み、奇しくも草軽電鉄を挟む格好で東急系列の草軽と西武は対峙したのである。

そして、バス路線競争に出遅れた東急側が不採算の高原電車を廃止して、草軽交通としてバス路線運営で挽回を図ったのもやむを得ない選択であった。 草軽電鉄の高原電車は、競争相手の西武バスは元より、自社グループの東急バスにも追い込まれる形で終止符を打ったのである。

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草軽電気鉄道路線図

《路線データ》
路線距離(営業キロ):新軽井沢~草津温泉 55.5km、軌間:762mm
電化区間:全線(直流600V)吾妻変電所・石津変電所・小瀬変電所、複線区間:なし(全線単線)
駅数:21駅(起終点駅含む)
新軽井沢・旧道・旧軽井沢・三笠・鶴溜・小瀬温泉(旧小瀬)・長日向・国境平・二度上・栗平・
(臨)湯沢・北軽井沢(旧地蔵川)・吾妻・小代・嬬恋・上州三原・東三原・万座温泉口・草津前口・
谷所・鳥の窪・草津温泉
  ※ 新軽井沢で、当時国鉄・信越本線の軽井沢と接続していた
  ※ 上州三原駅付近で現在の吾妻線の万座・鹿沢口付近を通っていたが、吾妻線が万座・
    鹿沢口を経て大前まで延伸されたのは、草軽電気鉄道が廃止された後の1971年であり、
    営業当時は吾妻線との交点はなかった。

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運行列車の半数が
貨客混合列車であった

運行本数:1940年7月当時
旅客列車本数:1日7往復(7月1日~9月20日のいわゆる『夏休み』には1往復増発されていた)
       また、軽井沢~北軽井沢の区間便以外は貨客混合列車が多かった
所要時間:全線2時間34分~3時間2分
     1960年度(路線廃止を控えた末期)の輸送量
旅客 115140人(1日平均 315.5人) 最盛期は1955年の492000人(1日平均 1348人)
貨物   1302トン(1日平均 3.57トン)  最盛期は1952年の56840トン(1日平均155.7トン)

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ゲテモノ機関車が
貨客をつないで往来していた
※ 『日本マウント』のウェブサイトより

   草軽電気鉄道 年表
1909年(明治42年)  2月23日  前身となる『草津興業』の設立委員会が発足し、軽便軌条敷設特許を
                 内閣総理大臣へ申請
1910年(明治43年)  4月30日  軽便軌条敷設特許
1912年(大正元年)   8月  6日  軌道より軽便鉄道に指定変更
             9月17日  草津軽便鉄道に社名変更
1913年(大正  2年)11月25日  起点の新軽井沢において着工
1915年(大正  4年)  7月22日  新軽井沢~小瀬(後の小瀬温泉)開業
1917年(大正  6年)  7月19日  小瀬~吾妻 開業
1918年(大正  7年)  6月  1日  精進場川を三笠に、浅間を二度上に改称
           6月 15日  夏期のみ営業の臨時駅として、地蔵川(後の北軽井沢)開業
1919年(大正  8年)  9月 22日  地蔵川を常設駅に変更届出
           11月   7日  吾妻~嬬恋 開業
1920年(大正  9年)  8月 11日  国境平 開業
1921年(大正10年)10月 15日  小代 開業
1923年(大正12年)       吾妻川電力の傘下となる
           11月   9日  長日向 開業
1924年(大正13年)  2月 15日  草津電気鉄道に社名変更
           11月   1日   新軽井沢~嬬恋 電化

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カブトムシ機関車の
巣のようだった新軽井沢駅

1926年(大正15年)  8月 15日   嬬恋~草津前口 電化開業 これ以降は開業当初から電化
           9月 19日   草津前口~草津温泉 開業し、全線開通
1927年(昭和  2年)       地蔵川を北軽井沢に改称
1928年(昭和  3年)  5月   9日  北軽井沢~鬼押出し と、北軽井沢~地蔵川温泉の乗合自動車運輸
                営業開始(4月12日に自動車業兼営認可)
1932年(昭和  7年)  6月   3日  旧道 開業
1933年(昭和  8年)  6月   1日  吾妻川電力が合併され、東信電気株式会社の傘下となる
1934年(昭和  9年)       小瀬を小瀬温泉、新嬬恋を新鹿沢温泉口、石津平を万座温泉口に改称
1936年(昭和11年)  7月 10日  湯沢 開業 夏期のみ営業の臨時駅
1937年(昭和12年)       新鹿沢温泉口を上州三原に改称

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日本一のリゾート地を結んでいた
贅沢な鉄道路線だった草軽電気鉄道
※ 『草軽電鉄博物館』より

1939年(昭和14年)       日本窒素硫黄株式会社の傘下となる
            4月28日   草軽電気鉄道に社名変更
1945年(昭和20年)  4月  1日   東京急行電鉄の傘下入り
1949年(昭和24年)  9月  1日   台風による被害で沿線各所に多大な被害を受ける
                これが引き金となって経営不振の為に新軽井沢~上州三原の廃止が
                同年11月の株主総会にて決議
1950年(昭和25年)  8月  4日   台風の為に吾妻川橋梁が流失 他の施設も被災するなど会社創立
                以来の被害を蒙る
          11月13日   運輸審議会公聽会『草軽電鉄株式会社・新軽井沢~上州三原の鉄道
                運輸営業廃止について』が運輸省にて開催される
1959年(昭和34年)  8月14日   台風の為に再び吾妻川橋梁が流失する この為に嬬恋~上州三原
                が不通となり、同区間を代行バス輸送とする
                その後は橋梁が復旧される事なく部分廃止される
           10月27日   新軽井沢~上州三原(37.9 km)の鉄道の運輸営業廃止を許可する
               事が適当である旨を運輸審議会が答申する
1960年(昭和35年) 4月25日   新軽井沢~上州三原 廃止
1961年(昭和36年) 8月  5日   上州三原~草津温泉の地方鉄道運輸営業廃止の許可につき、運輸
               審議会件名表へ登載される
          12月19日   上州三原~草津温泉間17.6 km)の地方鉄道の運輸営業廃止は、
               許可する事が適当である旨を運輸審議会が答申する
1962年(昭和37年)2月  1日   上州三原~草津温泉が廃止されて全線廃止

  車両(1960年の部分廃止時点で在籍した車両)

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その改造パンタグラフを
突き上げた容姿から
『カブトムシ』と呼ばれたデキ12形

  電気機関車
デキ12形 (12・13・15-24)
1920年米国ジェフリー社製の電気機関車で、信越電力(のち東京電燈)が発電所建設工事用として使用したものを電化の際に譲り受けた。 1937年にデキ22が増備され、同時期にデキ21が背の高い凸形車体へ改造された。 その後に車両番号の変更あり。

譲受直後は屋根のないオープンキャブ(吹きさらし)だった運転台を密閉型へ改装して先輪と従輪及び朝顔型連結器を設置し、集電装置を車体中央の門型の台に設置したトロリーポールから、運転台上に設置した高く張り上げた独特の形状のパンタグラフに交換して、L字型の車体になった。

更に、電気ブレーキの追加とそれに伴う機械室天板の嵩上げ及び側面全周に渡る通風口の設置、機械室の左右に一段張り出すような形状の安定用の死重を追加といった改造が順次施されている。 そのパンタグラフの形状から『カブトムシ』の愛称で親しまれ、1959年に老朽化により廃車となったデキ14を除き廃線時まで使用された。 凸形車体に改造されたデキ50形(元の車両番号はデキ21) は、1947年に栃尾電鉄(後の越後交通栃尾線)に譲渡された。

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電動車両の主力だった
モハ100形電車
※ ウィキペディア画像を拝借

   電車
モハ100形 (101・102)
1941年日本鉄道自動車製の電車。 当初は101~105の5両が製造されたが、105は1947年に、103・104は1950年にそれぞれ栃尾電鉄に譲渡された。 残った101・102も部分廃止の際に栃尾電鉄に譲渡されている。

  客車
ホハ10形 (10~12)
東武伊香保軌道線で使用されていた木造電動車を譲り受けたもので、1956年に2軸車からボギー車に改造された。 部分廃止の際に廃車となった。 その他、ホハ15形 (15)・ホハ21形 (21・22)・ホハ23形 (23)・ホハ30形 (30~33)が在籍した。

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屋台トロッコそのままだった
納涼トロッコ〔しらかば1号〕
※ 萩原二朗氏撮影

  しらかば1号
1922年日本車両製の長物ボギー貨車チト50形チト62からの改造。 いわゆるトロッコ客車で、三角形の屋根に岐阜提灯が飾られた避暑客に人気の納涼客車だった。 一方の車端に乗降用のデッキを備え、屋根の縁には波模様のキャンバス生地の装飾が施されたが、後に全面ガラス張りの窓がつけられるよう改造され、同時にデッキの乗降口にも扉が設置された。

車体色は初期は茶色、後に白色となっており、またこの車体色変更に際して車体外側にシラカバの枝が装飾としてあしらわれ、側面に〔しらかば〕の愛称板がつけられた。

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路線廃止後に台車を外されて
解体の時を待つ〔あさま2号〕
※ 萩原二朗氏撮影

  あさま1号・2号
1917年の吾妻までの延長開業に際して製作された、天野工場製のボギー客車ホロハ1形からの改造車両。 緩くカーブした屋根と車体中央に乗降口を持ち、雨天時にも運行できるよう全面ガラス張りの窓がつけられる本格的な展望客車である。

幕板部分には赤・緑・黄・青の色ガラスが使用され、腰板部分は乗降口を境に片側半分には幕板部分と同色の色ガラスで横桟の入った細長い窓が設置され、もう片側半分には浅間山の風景画が描かれた。
更に乗降口や車体内外の四隅はシラカバの丸太で装飾され、妻面には〔あさま〕の愛称板がつけられていた。

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バス会社となった草軽交通の
本社整備工場の片隅に物置として
放置されているコワフ100形
※ ウィキペディア画像を拝借

   貨車
  有蓋車 
コワフ30形・コワフ100形など、7t積みボギー緩急車を10両保有していた。

  無蓋車
ト1形・ト20形など4t積み2軸車12両、チト58形など7t積みボギー車3両、ホト100形など7t積みボギー緩急車16両を保有していた。

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旧・軽井沢駅舎記念館の前に
静態保存されているデキ13
※ 軽井沢町のウェブサイトより

  廃線後の状況
草軽交通・西武高原バスの『旧軽井沢』バス停から、北に伸びる『三笠通り』(草軽交通の『一本松』バス停から『三笠パーク入口』までの区間)は上下線で不自然に段差があるが、これは草軽電気鉄道の線路が通っていた名残りである。 また、鉄橋の橋脚や北軽井沢駅舎など一部は廃線跡遺構として残存しているが、多くの区間は道路などに転用されている。 中には、廃線後の長い時間を経て、自然に還ってしまった区間も少なからずある、



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草軽電気鉄道の起点駅として
2階建ての立派な駅舎が
建っていた新軽井沢駅

新軽井沢駅(しんかるいざわえき)は、かつて長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢にあった草軽電気鉄道の駅である。 国鉄軽井沢駅のすぐ側にあり、草軽電気鉄道の起点であるとともに国鉄信越線との乗換駅だった。 駅舎は2階建てとなっていた。

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草軽交通の鉄道史ウェブサイト
草軽電鉄Webサイト』のバナー
新軽井沢駅の跡地には
バス会社となった草軽交通の
本社が建っている

現在は草軽交通本社が建っており、本社整備工場敷地内(旧草軽電鉄車庫跡)に旧プラットホームの屋根が移築されている。 また、コワフ100形有蓋車・コワフ104が保存されている。



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現在の旧軽井沢駅跡周辺は
リゾート地への玄関口となっている

旧軽井沢駅(きゅうかるいざわえき)は、かつて長野県北佐久郡軽井沢町にあった草軽電気鉄道の駅である。 当駅は、初代と旧道駅(きゅうどうえき)より改称した2代目が存在していた。 なお、初代と後に2代目となる旧道駅は、一時期に200m離れた距離で同時営業していた。

初代駅があった駅前は旧軽井沢ロータリーとなっていて、初代駅の跡地は『草軽交通駅舎・旧軽井沢』という土産店になっている。 また、『三笠通り』と呼ばれる長野県道133号・旧軽井沢軽井沢停車場線によって軽井沢駅とつながり、その通りは『旧軽井沢メインストリート』となっている。



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鹿鳴館時代の息吹香る
国の重要文化財・旧三笠ホテルは
三笠駅の最寄りに遭った
※ ウィキペディア画像を拝借

三笠駅(みかさえき)は、かつて長野県北佐久郡軽井沢町にあった草軽電気鉄道の駅である。 
開業当初は精進場川と称されたが、程なく三笠に改称された。

旧軽井沢から三笠までの区間は、北上する『三笠通り』に沿って西側に鉄路が伸びていたが、廃線後に道路へと転用されている。 現在、この区間の『三笠通り』には道路の中央部にカラマツ並木があるが、この並木の西側の北上する側の一段高くなった道路は線路跡である。

三笠駅まで『三笠通り』沿いに北上してきた線路は、この駅から西へ大きく向きを変え、川を渡って、現在の別荘地『三笠パーク』一帯にあたる斜面を登る林間のルートへと入っていた。 一方、『三笠通り』をそのまま北上すると、500メートルほど先の右手に『旧三笠ホテル』があり、往時の三笠は『三笠ホテル』の最寄駅であった。



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国の有形登録文化財に登録され
観光名所となっている北軽井沢駅
※ ウィキペディア画像を拝借

北軽井沢駅(きたかるいざわえき)は、かつて群馬県吾妻郡長野原町にあった草軽電気鉄道の駅である。 1918年6月15日に、草津軽便鉄道の地蔵川駅(じぞうがわえき)として開業した。 その後、当駅の近接地域に開発された別荘地である『法政大学村』(現『社団法人・北軽井沢大学村組合』で通称『大学村』)によって駅舎が改築・寄贈され、1927年に草津電気鉄道(1924年に草津軽便鉄道より社名変更)の北軽井沢駅へと改称された。

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往時の字体で書かれた
北軽井沢駅の駅名標
※ ウィキペディア画像を拝借

駅名の由来は軽井沢の北側に位置していた為で、屋根の形が信州の善光寺をモデルにした駅舎となっている。 駅舎正面の欄間には、『大学村』の開村に関わりの深い法政大学の頭文字である『H』が刻まれている。

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廃止直後の北軽井沢駅
お色直しを受けて観光名所となった
現在と違ってボロボロの印象だった

1939年4月28日に草軽電気鉄道(草津電気鉄道より社名変更)の駅となったが、1949年に発生した台風による沿線各所への被害、1950年及び1959年に発生した台風による吾妻川橋梁の流失などの度重なる災害が影響し、1960年4月25日に新軽井沢~上州三原の区間廃止に伴い廃駅となった。

旧駅舎は、廃線後に元草軽職員が譲受の上で私費を投じて修繕・整備を行い、30年弱に渡ってスナックの店舗として活用されていた。 2001年のスナック閉店後は長野原町に売却されて、2005年に改めて改修工事が施され、翌2006年9月15日には国の登録有形文化財に登録するよう答申され、同年11月29日に『旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎』として、文化庁の登録有形文化財に登録された。 現在は北軽井沢観光協会が管理しており、夏期などに期間限定で無料開放されている。

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往時のホームが再現されて
デキ12形電気機関車の模型が
展示されている
ちなみに模型が置かれている
レール幅は1067mmで
この模型は実物よりも大きいらしい
※ ウィキペディア画像を拝借

2010年7月に、駅舎裏跡地には現役時代のホームと線路が再現整備され、木製模型のデキ12形電気機関車が実物大モニュメントとして設置・展示されている。 この実物大のモニュメントは、北軽井沢のシンボルとして『北軽井沢コンソーシアム協議会』(現『浅間高原北軽井沢・じねんびと』)が企画立案・製作し、模型の設計・施工は光建築工房有限会社が行った。

当駅は日本初のカラー映画・『カルメン故郷に帰る』(1951年公開)のロケ地にもなっており、主人公のカルメン(高峰秀子)らが列車から降り立つ駅として登場した。



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廃校となった校舎のような
駅舎だった草津温泉駅

草津温泉駅(くさつおんせんえき)は、かつて群馬県吾妻郡草津町にあった草軽電気鉄道の駅(廃駅)である。現行の草津温泉バスターミナルから400mほど南に位置していた。 当駅跡地は公園となり、園内には当駅があったことを示す記念碑が建っており、その下には当時のレールが残されている。

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駅跡は草津温泉ホテルリゾート
(東急系列ホテル)前にあり
現在は小公園が設けられて
駅跡碑が建立されている
※ ウィキペディア画像を拝借

なお、現在の草津温泉駅は、草津温泉バスターミナルの事を指している。 国鉄バス・志賀草津高原線の自動車駅(バス駅)であった為、「駅」と呼ばれる事が多い。 このバスターミナルの施設は、草津町主体の第3セクターである『草津バスターミナル株式会社』が運営・管理を行っている。


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先日千葉で飲酒運転による
トラックが歩道に突っ込んで
下校途中の小学生6人中
5人が死傷する重大事故が起きた

飲酒運転・・それは重大事故を
引き起こす可能性が著しく高く
事故を起こすと他人の命を奪う
大惨事になる許されざる行為である

だがこの唾棄すべき行為の飲酒運転と
政治屋と一部のヒトモドキが推し進める
東京五輪の開催とは全く性質が同じなのだ

感染爆発という事故が起こり
多くの国民が命を落とす
大参事が起こる可能性がバカ高い中で
私欲だけで執り行う東京五輪の開催は
泥酔状態という悪質な飲酒運転と同様なのだ

そしてひと度事故が起これば
千葉のトラック事故の比ではなく
何百何千という国民が犠牲となり
何万という国民が感染被害に遭うのだ

云わば悪質極まる飲酒運転の国家版で
国民の大虐殺行為に発展しかねないのである
事故が起これば大参事となるのを承知で
「五輪は安全安心」と偽り人の命を
踏み台にする人間のクズな行為・東京五輪

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事故が起こらねばこのヒトモドキ共は
「大丈夫だろ!」とドヤ顔となるだろうが
感染拡大となればタダでは済ませない
開催を煽った輩も同乗者同罪で
必ずその命を持って償ってもらおう





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