2021-06-28 (Mon)✎
『路線の思い出』 第449回 呉線・仁方駅 〔広島県〕
『幻の国鉄航路』の
連絡駅だった仁堀駅
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
三原~海田市 87.0km 9842 / 257
運行本数
広島~広 上下とも毎時3~4本(一部の列車に三原までの直通列車アリ・また一部呉 止もアリ)
広島発 9~20時には、毎時2本の快速〔安芸路ライナー〕の運行アリ
広~三原 上下とも毎時1~2本(早朝・深夜帯は安浦・竹原 止の列車アリ)
(一部広島直通の列車がアリ・その内2本が広から快速〔安芸路ラ
イナー〕)
今は無人駅となってカーテンで
閉じられたままの改札窓口
※ ウィキペディア画像を拝借
仁方駅(にがたえき)は、広島県呉市仁方本町二丁目にあるJR西日本・呉線の駅である。
三原駅管理の無人駅である。 相対式ホーム2面2線を有する駅で、互いのホームは跨線橋で連絡していたが、2018年10月の運転再開時点で使用停止となっており、現在は解体撤去されている(これとは別に呉市が設置した自由通路の跨線橋ある)。
自動改札機はないがICOCAは利用可能で、ICカードは専用カードリーダーによる対応である。
便所は男女別の水洗式が設置されている。 駅本屋は三原方面行きホーム側にあるが、呉方面行きホーム側にも出入口がある。 自動券売機は駅本屋内と、呉方面行きホームに設置されている。 2019年の1日平均乗車人員は511人との事。
駅から離れ列車の案内放送もなかった
仁堀航路の本州側桟橋の仁堀桟橋
※ ウィキペディア画像を拝借
国鉄時代には宇高航路の補助的役割で航路開設された仁堀航路があり、その連絡駅だった。
この航路は、当駅から徒歩10分ほどの所ににある仁方港(仁方桟橋)から、瀬戸内海対岸の堀江桟橋までを結んでいたが、あまりにもマイナーな立地から国鉄職員でも知らない者が多く『幻の国鉄航路』と云われていた。
「運航僅か2往復」
「桟橋まで駅から徒歩10分」
「列車での案内放送ナシ」
なら乗客もいないわなぁ
※ 『仁堀航路・瀬戸丸』より
晩年は1日2便の運航しかなく、当駅と四国側の堀江駅共に桟橋から離れていた事から、列車乗り継ぎで鉄道連絡船として利用する客は皆無に近く、トラックなどのフェリー輸送が主であった。 また、呉線の列車と仁堀航路との接続は考慮されておらず、列車の車内放送では連絡船接続の案内すらなかったという。
国鉄航路で唯一赤字が理由で
廃止となった仁堀航路
※ 『国鉄連絡船仁堀航路』(ウェブ閉鎖)より
この為に利用が低迷して、戦後唯一赤字が理由で1982年の7月1日に廃止された国鉄の航路である(他の航路廃止は、橋梁やトンネルの開通で代替された事によるものである)。
仁堀航路廃止後は
瀬戸内海周辺の島々への航路の
船着き場となっている
※ 『旧国鉄仁堀航路・仁方桟橋』
仁堀航路の廃止以降は、松山(堀江)への連絡機能は、阿賀港の最寄駅である安芸阿賀駅(呉・松山フェリーの寄港地)に譲ったが、呉・松山フェリーも2009年6月限りで廃止されている。
国鉄職員すらその存在を知らず
『幻の国鉄航路』と云われた
仁堀航路乗船の記憶が今回のネタだ
※ ウィキペディア画像を拝借
国鉄職員すらその存在を知らなかった者が多かったゆえに『幻の国鉄航路』と云われた仁堀航路。
ぢ・つ・わ・・ワテ、この航路に上記駅紹介の項目で「列車乗り継ぎで鉄道連絡船として利用する客は皆無に近い」と記した「皆無たる」乗客層の1人となったんだよね~。
数少ない現物に乗船した体験者なのに
小僧ゆえ「金を惜しんで」
足跡皆無の大失態となっちまったよ
※ 『国鉄連絡船仁堀航路』(ウェブ閉鎖)より
つまり、この航路に乗った事があり、それが前回の岩国駅でも記した『初めての四国旅』での最大の『目玉』になるハズであったが、金がない中坊の思考である「周遊券で乗れるのにわざわざ乗船券を買うのは金のムダ」という出し惜しみで、乗車券などの『足跡』を一切残せず終いとなってしまっなってしまったのである。
前回に岩国駅の記事を書くまで
この駅に降りた事は記憶外の事だった
※ 『鉄道チャンネル』より
この仁方駅も、この仁堀航路に乗るべく降りたので、大方40年近く前に降りたっきりである。
そして当然ながら、この駅に降りた記憶はほとんどない。 だが、お蔵入りした写真を掘り出してみると、奇跡的に駅舎と撤去工事されている跨線橋を渡る乗客が写った写真を撮っていたのが見つかったのである。
この写真を撮ってから40年近くの間、「フイルム撮り始めの試し撮りか何かだ」と思って気にも留めずに即『お蔵入り』していたのであるが、前回の『路線の思い出・岩国駅』のネタで岩日線の『撮り鉄』写真をスキャンした時に、たまたま「続きコマ」でプレビューされたのである。
このプレビュー画像を試しにスキャンしてみると、駅舎の柱の青く細長いホーロー駅名板に『にかた』と書かれているではないか! これで、いつもは「助けて!ウィキペディア」とウィキペディア画像を借りまくっていたというか、駅舎の掲載写真のほぼ全てがウィキペディア画像だったのが、1枚だけではあるが「駅に降りた当時」の写真を掲載する事ができたのである。 その貴重過ぎる駅舎写真がコレ。
奇跡的に撮っていた
下車当時の仁方駅の駅舎
そうなると、記事を書くべく必死に「大方40年前」の記憶を思い出してみる。 すると、おぼろげではあったが、仁堀航路に乗った日の記憶が思い浮かんできたよ。
『幻の国鉄航路』とは云われたが
時刻表には端折られずに乗っていたよ
※ JTBの時刻表より
前回で記した岩国駅での徹夜は元より、岩日線で『撮り鉄』した南桑駅の庇だけのベンチで昼寝爆睡した事、岩日線の『撮り鉄』後に立ち寄ったので、乗った船便は午後4時台の第3便であった事を。
だが桟橋建屋の中は
思い出す事ができなかったよ
※ 『愛媛の記憶』より
こうやって記憶を紐解くと、次々に記憶が甦る。 駅から桟橋まで徒歩10分程歩いた記憶や、船の客室座席が窓に向かって直列に並んでいた事や、座席が並ぶ船の客室の中央に相撲の土俵の如くカーペット敷の居間があり、そこにはテレビがあって海上では唯一受信できるNHKが放映されていたのである。
単なる波止場の仁方港
※ ウィキペディア画像を拝借
更に記憶をたどると、仁堀航路に乗った時の事を記した旅日記を書いていた事を思い出したよ。
それで、お蔵と化した本棚(タワケの家の本棚なので本自体は大したモノはなく、積もる埃だけが年季を語るシロモノである)を漁ってみると、旅日記の1冊目に『初めての四国旅』を記載していて、その旅の《2日目》に仁堀航路に乗った時の事が、わりと詳細に書かれていたのである。
乗客のほぼ全てを占める
トラックの運ちゃんは
この居間に陣取っていた
※ ウィキペディア画像を拝借
その日記には、仁方駅から桟橋まで歩いて連絡船に乗り継いだのは数人いた事や、乗客のほとんどが航送するトラックの運ちゃんで船室の居間に陣取ってテレビに見入っていた事、そのテレビは大相撲が放映されていて、大横綱・千代の富士関がまだ大関時代で、中入り後の土俵周りの殿を務めていた事が記されていたよ。
仁堀航路での唯一の足跡・・
船のデッキより魅せられた
瀬戸内海に沈みゆく夕日
そして、唯一仁堀航路船中での行動記憶である船のデッキに上って、瀬戸内海に沈みゆく夕日を撮ったこの写真も・・。 その後は、特段に出来事がないままに2時間半ほどの乗船時間が過ぎ去り、どっぷり日が暮れた19時前に堀江桟橋に到着し、『路線の思い出 第167回 堀江駅』へと続くのである。
仁方・堀江の双方の桟橋とも
灯り一つない桟橋を渡って下船する
「放置プレー」な桟橋だった
※ ウィキペディア画像を拝借
でも、堀江桟橋は桟橋の母屋を通らずに直接下船するようで、徒歩の乗客は灯り一つない真っ暗闇の桟橋を歩かされるハメとなったよ。 コレって、始めから「鉄道連絡による乗客は皆無」とタガをくくっていたから・・なの? 下船後も堀江駅で面白い事があったが、それは堀江駅のリンク先を見てネ。
奴らヒトモドキ共は
何が何でも東京五輪を
開催したいが為に
国民へのワクチン接種が進まない
無防備の状況で五輪を開催する
暴挙を危ぶむ多くの国民の声に対して
今度は「ワクチンは身体に変調をきたして
接種した奴の方が早く死ぬ」と
ヒトモドキそのままの事を言い出したよ
この発信主は『反日勢力を切る』の
PONKOというチョンの成り済ましだ
ワクチンを打つ打たんは当人の勝手だか
この言いぐさは既に接種を終えた
医療関係者や高齢者は
早く死ぬ愚か者だと言ってるに等しく
真にチョンのヒトモドキ
そのままの思考が明らかとなった
皆さん憶えておきましょう
こういえ日本を潰す事を発信する奴らは
事が大きくなったなら必ず断罪して
その責任を取らせるべきだと
その他にも感染拡大と
なるのが解っていながら
観客10000人までは安全だとか
酒を販売しようとかいった政治屋も
併せて断罪せねばならないだろうね
- 関連記事
スポンサーサイト