風来梨のブログ

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廃線鉄道 第58回 加悦鉄道

廃線鉄道  第58回  加悦鉄道 〔京都府〕

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鉄道ファンの全国区に名乗りを
上げた加悦鉄道の名物車両キハ08形
※ ウィキペディア画像を拝借

加悦鉄道(かやてつどう)は、京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現・京都丹後鉄道宮豊線・与謝野駅)から、同郡加悦町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄路線である。
かつては大江山鉱山よりニッケル鉱石も輸送したが、沿線住民に自家用車が普及した事やニッケル鉱石輸送の終了に伴う赤字のため、1985年5月1日に全線が廃止された。

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ゲテモノ機関車が
どこかにともなく譲り受けた
客車を牽引していた
※ ウィキペディア画像を拝借

丹後山田駅と南西部の加悦町を結んでいた路線で、当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送する事を主目的として、沿線住民823名の出資によって1925年に設立され、1926年に開業している。
1934年からはバス事業も開始し、加悦から丹後山田までを結んでいた。 丹後山田駅は国鉄宮津線に乗り入れる中核駅として宿場町的な役割を担い、駅前の旅館『大正亭』は、大きな風呂敷包みを抱えた行商人らがよく利用したという。

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この鉄道の命脈は
鉱山貨物輸送にあったのだ
※ ウィキペディア画像を拝借

その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始された為、1940年に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942年には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金工業・大江山製造所)への専用線も開通した。

戦後に入って大江山でのニッケル採掘が中止された為に、加悦~大江山の専用線は撤去(ただし、法的には加悦鉄道廃止まで廃止手続きは取られていなかった)されたが、岩滝工場への専用線は、同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するべく存続した。

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加悦鉄道では切符マニア
必涎モノの硬券乗車券が売られていた

モータリゼーションの進行によって旅客輸送量が減少する一方、明治・大正時代に製造された古典蒸気機関車をはじめ、『マッチ箱』と呼ばれる木造2軸客車や国鉄から購入した客車改造のキハ08形気動車など希少車・珍車の宝庫として知られ、多くの鉄道ファンを集めた。 これに呼応して、会社側も観光鉄道としての運営を目指すようになり、グッズ類の販売等にも力を入れるようになった。

一方、親会社の日本冶金鉱業からの輸入ニッケル鉱の精錬品輸送は堅調で、ディーゼル機関車が不足した時には、他の私鉄から機関車を借り入れた事もあった。 別府鉄道からDC302や、北陸鉄道からも借り入れたという。

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国鉄の貨物扱いの撤退は
ローカル私鉄の生きる
道筋を閉ざしたのだ
※ ウィキペディア画像を拝借

しかし、1985年3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線を経由してのニッケル鉱輸送が不可能となった為、丹後山田~岩滝工場の専用線も廃止を余儀なくされた。 これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれた為、同年5月1日に全線が廃止された。

路線廃止を1か月後に控えた1985年4月に加悦駅で行われた『加悦鉄道のお別れ式』では、車体に「さようなら」の5文字が書かれた2両の列車が、ゆっくり動き去るのを多くの住民が見送ったのである。

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余生は『加悦SL広場』の人気展示車両
となった大きなバスケット付の
貨客兼用車・キハユニ51
※ ウィキペディア画像を拝借

なお、運営会社の加悦鉄道株式会社は、鉄道廃止以前から路線バスの運行のみならず、鉄道会社の事業展開としては異色の自動車整備業と建設業を営んでいた。 廃止後には『カヤ興産株式会社』と社名を変更し、前述の建設業・自動車整備業に加えて、『株式会社YAKIN大江山(当時)』構内におけるニッケル運搬・構内機器整備等の他、鉄道保存展示施設『加悦SL広場』の運営なども行っていた。

1999年にバス部門を『加悦フェローライン』に分社する。 なお。2009年の『加悦フェローライン』会社解散に伴い、バス部門業務を『カヤ興産』に差し戻している。 ニッケル鉱輸送の関連から日本冶金工業のグループ会社であり、社紋についても共通である。

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社名が変ろうが
親会社の日本冶金鉱業と
同じ社紋が使われていた
※ ウィキペディア画像を拝借

その後、2011年4月1日に『宮津港運株式会社』と『カヤ興産株式会社』の合併によって『宮津海陸運輸株式会社』が設立され、『加悦SL広場』の運営などの観光事業は『宮津海陸運輸株式会社』に引き継がれたが、テナントとして入店していた車両レストランなどが相次いで閉店し、『加悦SL広場』は2020年3月末に閉園となった。 現在は展示されていた車両の保存に向けた保守業務のみ行われている。

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加悦鉄道の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離(営業キロ):丹後山田~加悦 5.7 km、軌間:1067mm
駅数:7駅(起終点駅含み、専用線除く)
(岩滝工場ヤード)・〔丹後山田〕・水戸谷・丹後四辻・加悦谷高校前・三河内口・三河内・加悦
(大江山鉱山)
※ 丹後山田駅は、加悦鉄道廃止後の1990年4月1日に野田川駅、2015年4月1日に与謝野駅と改称している
※ 岩滝工場ヤード~丹後山田と加悦~大江山鉱山は、日本冶金工業の貨物専用線だった
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)、閉塞方式:票券閉塞式

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加悦駅に停車中の
キハ08形客車改造気動車
※ ウィキペディア画像を拝借

   加悦鉄道 年表
1925年(大正14年)  3月31日:鉄道免許状下付(与謝郡山田村~同郡加悦町)
           5月  5日:加悦鉄道創立

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加悦駅入場券

1926年(大正15年)12月  5日:丹後山田~加悦が開業
1927年(昭和  2年)  3月  7日:北丹後地震で被災し全線不通となるも、3月12日に全線運転再開
          11月24日:乗合自動車(バス)路線開通(加悦町~丹後山田)
1936年(昭和11年)       :キハ101号を導入する
1939年(昭和14年)   7月28日:大江山ニッケル鉱業(1943年に親会社の日本冶金工業に合併)に
                 経営を委ねる
            8月10日:ニッケル鉱石輸送開始
1942年(昭和17年) 10月14日:岩滝工場側線完成し、鉱山から工場へ一貫輸送開始する
1945年(昭和20年)      :大江山鉱山が閉山となり、製作所も業務を停止する
1951年(昭和26年)      :大江山製作所が業務を再開し、岩滝工場側線も運行再開する
1972年(昭和47年)      :国鉄よりキハ083を譲り受ける
1977年(昭和52年)      :加悦SL広場を加悦機関区の横に設置し開園
1984年(昭和59年)  2月  1日:貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)  5月  1日:丹後山田~加悦の鉄道全線廃止
           12月   :社名をカヤ興産に変更
1996年(平成8年)     :加悦SL広場を鉱山駅跡に移転 保存展示車数27両
1999年(平成11年)     :バス事業を加悦フェローラインへ分社 DB201号の動態保存化
2004年(平成16年)     :キハ101号動態保存化
2006年(平成18年)     :2号機関車が国の重要文化財に指定
2009年(平成21年) 4月  1日:加悦フェローライン解散に伴い、バス事業を譲受・再開
2011年(平成23年) 4月  1日:宮津港運とカヤ興産の合併により宮津海陸運輸設立

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加悦鉄道の名物だった
大きなバスケット付の珍車
キハユニ(郵便車兼用)51
※ ウィキペディア画像を拝借

  車両
廃止時点で蒸気機関車 (SL) が2両、ディーゼル機関車 (DL) が3両、気動車が4両、客車が3両、貨車が2両在籍していたが、そのうち、気動車1両とディーゼル機関車1両、及び蒸気機関車、客車、貨車は本線で使用されなくなっており、後述の加悦SL広場で保存・展示された。

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加悦鉄道の名物となっていた
客車改造の気動車・キハ08
※ ウィキペディア画像を拝借

  気動車
キハ40900形
 キハユニ51 元は芸備鉄道のキハユニ18で、その後に戦時買収で鉄道省キハユニ40921となり、
       船木鉄道に移籍した後、加悦鉄道に譲渡された。 キハ08導入まで主力車だった。
キハ08形
 キハ083  元は国鉄キハ08形気動車で、国鉄時代は北海道で使用されていたという事もあり、
       冬場には重宝された。
キハ10形
 キハ1018   元は国鉄キハ10形気動車で1980年に国鉄から譲渡され、廃止まで主力車として
       使用された。

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鉱石運搬・ヤード入替・客車牽引と
多様されたディーゼル機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

  ディーゼル機関車
DC35形
 351    元南部鉄道DC251で、廃止前の1967年に日本冶金が購入した。 同年加悦鉄道借入
        認可となり、1972年までは岩滝工場専用線の他間合い運用として客車牽引にも使用
        されたが、1974年のDD352導入後は予備車となった。
DD35形
 352    1974年に日本冶金が購入した機関車

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C-160号蒸気機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

  蒸気機関車
 1号     元は鉄道省5100形5100で、加悦鉄道開業の際、相模鉄道より購入したもので、
       1936年に廃車解体された。
 3号     加悦鉄道開業の際に旧伊勢鉄道より購入したが、出力不足のため1936年に廃車解体
       された。
1080形
 1088    1940年に鉄道省より導入し、ニッケル鉱石輸送に使用したが、終戦とともに使用停止
        となり、1955年iに廃車解体された。

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洋風駅舎風の展示室が
玄関口の『加悦SL鉄道広場』
※ ウィキペディア画像を拝借

 『加悦SL広場保存車両
加悦SL広場保存車として、以下の車両が在籍していた。
キハ101形 1936年自社発注の片ボギーのガソリンカーで前に荷物台を持ち、1968年にディーゼル
       エンジン化されたが、1972年のキハ08形入線後は休車状態であった。

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『森ブタ』と呼ばれていた
ロッド式の小型機関車・DB201
※ ウィキペディア画像を拝借

DB201形  1953年森製作所製の10トンディーゼル機関車。 愛称は森ブタ。
        1967年のDC35入線後は予備車となり、1972年1月以降は休車となった。
 120形    1873年製の国鉄120形機関車123をルーツとし、簸上鉄道を経て1926年開業にそなえ
      購入。 1956年に漏水で休車となる。 1970年に社宝指定され、保存の為の修理が
      なされた。
 4号   1934年に河東鉄道(現在の長野電鉄)より購入した蒸気機関車。
1260形  簸上鉄道No6、国鉄買収後1261となった後、1943年に日本冶金が購入。
       DC351形導入後の1967年に休車となった。

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与謝野町文化財と産業考古
学会産業遺産に認定されて
『加悦SL広場』に展示それたハ10形
※ ウィキペディア画像を拝借

ハ10形   1926年の開業時に購入した木造ボギー客車。 1970年に休車となり以降は展示のみ。
ハ20形     1893年製の鉄道省客車を1928年に譲り受けた。
       21は改造後の車体で保存され、20はマッチ箱型に復元された。
その他にも、サハ3100形・ワブ1形・トム51形・C160形が保存車として展示されていた。

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文化財となって『加悦SL広場』に
保存されるマッチ箱型の客車
※ ウィキペディア画像を拝借

  バス事業
934年時点で加悦町-丹後山田駅間7.4キロを運行していたが1941年8月にバス事業は休止にのち廃止。
再開したのは1952年5月になってからであった。1954年になり宮津駅まで延長した。

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加悦鉄道の最新気動車は
国鉄お払い箱となったキハ10形だった
※ ウィキペディア画像を拝借

  廃線跡
廃線後の軌道敷跡は『カヤ興産』が請負い、サイクリングロード『加悦岩滝自転車道線』として整備され、地域の中高生の通学路として活用されている。

加悦駅は鉄道廃止前から『加悦SL広場』として整備され、加悦鉄道で使用されていた気動車やイギリス製2号蒸気機関車などの鉄道車両が展示されていた。 その『加悦SL広場』は、1996年に加悦駅跡から大江山鉱山駅跡に移転している。

加悦駅のあった場所には加悦町の町役場(現在は周辺3町の合併で与謝野町の加悦庁舎となっている)が建てられ、また町の文化財に指定された旧加悦駅舎は、駅跡周辺に移設されて特定非営利活動法人『加悦鐵道保存会』が与謝野町から管理運営業務を受託し、『加悦鉄道資料館』を運営している。



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移管先が替わる毎に
駅名が解消された
元丹後山田駅の与謝野駅
※ ウィキペディア画像を拝借

与謝野駅(よさのえき)は、京都府与謝郡与謝野町字下山田小字柿内にあるWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線の駅である。 『宮豊線』の愛称区間に含まれている。 また、1985年まで、当駅から加悦まで加悦鉄道が運行されていた。

国鉄やJR西日本が運営していた時代は丹後山田駅(たんごやまだえき)と名乗っていたが、北近畿タンゴ鉄道への宮津線移管の際に野田川駅に改称され(野田川は与謝野町成立までの旧町名だった)、WILLER TRAINSへの宮津線移管の際に現在の駅名に改称されている。

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北近畿タンゴ鉄道に
経営移管された時には町名と同じく
野田川駅と改称されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

単式・島式の複合型2面3線のホームを持つ、列車交換や折り返しが可能な駅で、島式ホームには単式ホームの豊岡寄りから構内踏切で連絡している。 また、駅舎の反対側にも、構内踏切に直接繋がる勝手口がある。 駅舎は単式ホーム側にあり、丹後ちりめんの産地である事にちなみ、駅舎の屋根は着物の襟を模った造りとなっている。

丹鉄線内に15駅ある有人駅の一つで簡易委託駅であり、窓口は早朝・夜間を除いて駅係員が常駐している。 窓口では硬券の入場券・乗車券(丹鉄線内・JR線直通)・自由席特急券(京都からの乗継割引含む)を購入する事が可能で、窓口に常備されていないきっぷ類は補充券の発行で対応している。
また、自動券売機も設置されている。

なお、2013年3月16日改正時点では、当駅16時59分発の西舞鶴行き以外に当駅を始発駅・終着駅とする列車はなかったが、2016年3月26日改正で9時29分当駅終着列車と、その折り返しの9時42分発西舞鶴行きが設定された。

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駅舎内の一角には丹後山田駅を
名乗っていた頃の駅資料を
展示した鉄道資料室がある
※ ウィキペディア画像を拝借

駅舎の左側には、「丹後山田駅資料室」がある。 1部屋だけの小規模な展示室だが、北近畿タンゴ鉄道が国鉄・JR西日本だった頃の当駅にゆかりのある鉄道部品が展示されている。 部屋の中には、Nゲージで昭和50年代後半頃の丹後山田駅が再現されている。



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路線末期には駅構内に
保有する珍車・稀少車を展示する
『加悦SL広場』が開設された
※ ウィキペディア画像を拝借

加悦駅(かやえき)は、かつて京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)字加悦にあった加悦鉄道の駅である。 加悦鉄道の路線廃止に伴い、1985年5月1日に駅廃止されている。

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町の文化財指定を受けて
道路の向かい側に移設され
鉄道資料館となっている旧加悦駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡地は、与謝野町役場の加悦庁舎(旧・加悦町役場)となっている。 役場庁舎建設に際して道路を渡った反対側に移設された旧駅舎には『加悦鉄道資料館』が開館し、2010年7月1日より特定非営利活動法人・加悦鐵道保存会が管理運営している。 当駅を含む加悦鉄道の軌道敷跡は、サイクリングロード『加悦岩滝自転車道線』(京都府道803号・加悦岩滝自転車道線)として整備されている。

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博物館駅として鉄道ファンに
知れ渡る駅となっていた加悦駅

廃駅前から駅構内は『加悦SLの広場』として、加悦鉄道で使用された鉄道車両が保存されていたが、1993年に旧・加悦町役場の移転先として駅跡敷地を提供し、『加悦SL広場』は旧・大江山鉱山駅跡に移転している。



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『加悦SL広場』の一角に
駅名標型の駅跡碑が
立てられた大江山鉱山駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借

大江山鉱山駅(おおえやまこうざんえき)は、かつて大江山にニッケル鉱山(大江山鉱山)が発見された事に伴い、鉱土輸送の為の貨物専用線(大江山線)として加悦鉄道・加悦駅から2.6キロ延伸された際に設置されていた貨物専用駅である。 大江山線は1940年6月には開通していたが、終戦後にニッケル鉱山の採掘が休止された為に、ニッケル鉱土輸送は廃止となった。

その後、地方鉄道として営業許可を申請して1948年に認可されて、翌1949年には旅客運賃制定も認可されて旅客運行を開始する予定であったが、路線バスとの競合により実現せず終いとなった。

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鉱山の採掘が休止となり
放置されていた大江山鉱山への
貨物専用線をスキー客などを
目当てに旅客化する計画もあった

加悦鉄道が1985年4月30日に廃止されるまでの間に、一時的に大江山鉱山が掘削を再開した1955年の6月~9月の4ヶ月間のみ、貨物列車が走行した。 大江山鉱山は1967年にも一時的に掘削を再開しているが、その際は線路の状態が思わしくなく、ダンプによる陸路輸送だった。

その状況を鑑みた日本冶金は当区間の復旧作業に着手し完成させたが、年2回程度の試運転と称したキハ101の走行を行っていたのみで、営業列車の走行は無しに廃線を迎えている。 最近まで旧加悦駅構内の一区画で営業していた『加悦SL広場』を移設して開園していたが、2020年3月末にて閉園となっている。


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東京五輪開催を煽るヒトモドキ共が
在日チョンの成り済ましである
事実がまた一つ判明したよ

それは東京五輪の表彰式で
着せる半被をチョンの民族衣装に
似せたモノを採用するという

もちろんそのデザイナーも
日本の国を蔑視する言葉
『ジャップ(JAP)』という
スタジオを経営する生粋の在日チョンだ
こんな売国行為になぜ反対しないの?

「シナと対抗する為に
東京五輪を開催する」と言いながら
下チョンに媚び諂う在日チョンの
「日本人成り済まし」である
『天皇信奉右翼』のヒトモドキ共

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日本の乗っ取りを企む
人間の出来損ない共がチョンである事が
チョンバレとなった事例がまた一つ







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No Subject * by hanagon60
加悦鉄道は現役時代に乗った事があります。
大好きな路線でした。
キハ08の乗り心地は衝撃的な悪さ(笑)
左右に大きくローリングしていました。

加悦SL広場は一昨年訪問しました。
土日しか営業しておらず、閉園は時間の問題かなぁと思っていたら、やはりでしたね。。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-2033.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさん、こんばんは。

私が乗ったのは、'84年に廃止となった別府鉄道と'86年の播但線とセットで・・、ですね。 友人に「この3つは近い内に廃止なるから、興味が湧かなくても乗っておけば・・」と、勧められて乗りに行きました。 その頃は国鉄の廃止ローカル線(特に北海道と九州の宮原線)一辺倒で、今にして思えば「もったいねぇ~! このバチ当たりモノめ!(笑)」という位に、あまり乗り気なく「乗るだけ乗ったろう」というヤル気無さ満開で乗りに行きました。 なので写真はおろかカメラも持たず、足跡は切符を買っただけで、本音は宮津線の完乗目当ての「ついで」でした。

今思えば、ホント「もったいね~!」 ちなみに、私もキハ08形でした。 でも、全く憶えていません。 乗り心地・・。

SL広場は『道の駅』に立ち寄った時に、外からさっと見ただけですね。 その時は山期で、表向きは『鉄』は我がオタ黒歴史として(中途半端に)封印していましたから。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No Subject

加悦鉄道は現役時代に乗った事があります。
大好きな路線でした。
キハ08の乗り心地は衝撃的な悪さ(笑)
左右に大きくローリングしていました。

加悦SL広場は一昨年訪問しました。
土日しか営業しておらず、閉園は時間の問題かなぁと思っていたら、やはりでしたね。。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-2033.html
2021-06-18 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさん、こんばんは。

私が乗ったのは、'84年に廃止となった別府鉄道と'86年の播但線とセットで・・、ですね。 友人に「この3つは近い内に廃止なるから、興味が湧かなくても乗っておけば・・」と、勧められて乗りに行きました。 その頃は国鉄の廃止ローカル線(特に北海道と九州の宮原線)一辺倒で、今にして思えば「もったいねぇ~! このバチ当たりモノめ!(笑)」という位に、あまり乗り気なく「乗るだけ乗ったろう」というヤル気無さ満開で乗りに行きました。 なので写真はおろかカメラも持たず、足跡は切符を買っただけで、本音は宮津線の完乗目当ての「ついで」でした。

今思えば、ホント「もったいね~!」 ちなみに、私もキハ08形でした。 でも、全く憶えていません。 乗り心地・・。

SL広場は『道の駅』に立ち寄った時に、外からさっと見ただけですね。 その時は山期で、表向きは『鉄』は我がオタ黒歴史として(中途半端に)封印していましたから。
2021-06-18 *  風来梨 [ 編集 ]