風来梨のブログ

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廃線鉄道 第55回 歌登町営軌道

廃線鉄道  第55回  歌登町営軌道 〔北海道〕

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多客時はディーゼル機関車が
車両定員の多い客車を牽引していた

歌登町営軌道(うたのぼりちょうえいきどう)は、かつて北海道枝幸郡歌登町・枝幸町(2006年に歌登町が枝幸町に吸収合併されて、現在は枝幸町)にあった歌登町営の簡易軌道である。

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当時『本線』だった天北線も
1989年5月に路線廃止となってしまった

元々は、1989年5月1日に廃線となった天北線(開業当初は宗谷本線)は、枝幸の町の中心部を経由する予定であったが、計画が変更されて音威子府村から浜頓別町へ直線的に抜ける事となり、同線の小頓別駅から分岐して枝幸町に至る簡易軌道の敷設が計画されるようになった。

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駅構内が広かった
興浜北線・北見枝幸駅
この広い構内のどこかが
歌登町営軌道のホームだったのだろう

1929年に小頓別から幌別六線(後の歌登)までの路線が、翌年に枝幸までの路線が内務省出資による北海道庁の自設で全通した。 当初は組合に運営を委託していたが、1932年から北海道庁直営となる。

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小頓別を発車する自走客車
※ 枝幸町編纂の『歌登町史』より

また、この時は動力を馬力に頼っていたが、1933年からはガソリン機関車を本線で導入した。 
だが、一部支線では、最後まで馬力を用いていた。 また、冬季には、積雪の為に一部区間で運行を休止していたようである。

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戦後しばらくすると
北海道開発局出資によって
自走客車(ガソリンカー)が導入された

戦後、歌登村(1962年以降は歌登町)に経営が委託される。 1956年に鶴居村営軌道と共に、簡易軌道では初の北海道開発局による自走客車の導入が行われた。

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『日本一の赤字線』美幸線の
ルートと重複する事が
この植民鉄道の廃止の理由となった

しかし、その後路線は順次縮小し、1971年には当時建設中であった美幸線とルートの一部が重複する事から、軌道を撤去して建設用地に充てるよう日本鉄道建設公団より求められて全線廃止に踏み切った。 

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だがその美幸線も我が国有数の
人口稀薄地帯を通る事から
『日本一の赤字線』となって
1985年の9月17日に廃線となった

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だが1980年に工事凍結された時点で
路盤工事が完了するなど全区間の60%
の工事が完了していてレールを敷けば
すぐにでも開業できる区間も存在していた

輸送はバスやトラックなどに置き換えられたが、結局は美幸線の未成線自体も1980年に建設工事が凍結されて未成線で終わっている。

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未成線区間のほとんどが
道道120号線の道路拡張用地となった

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未成線最大のトンネルだった
『第大曲トンネル』も
道道120号に転用されて
『天の川トンネル』となった

なお、歌登~志美宇丹の歌登町営軌道の軌道跡を含む歌登までの美幸線の未成線区間のほとんどが、道道120号・美深中頓別線の道路拡張用地に供出されている。 また、未成線の途中にあった『第2大曲トンネル』は、道道120号線に転用されて『天の川トンネル』となっている。

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北海道開拓の礎だった植民軌道
※ 北海道マガジンより

なお、このような北海道に多く存在した簡易軌道・殖民軌道は市販の時刻表に掲載されていない事が多かったが、この路線はその重要性からか、開業後しばらくしてから廃線になるまで掲載され続けていた。

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歌登町営軌道の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離 支線を組めて3路線で、路線の総延長距離は57.5km
・枝幸線:小頓別~枝幸 35.0km(歌登 - 枝幸間廃止後は『歌登線』となる)
・幌別線:歌登~志美宇丹 12.6km
・本幌別支線:中央~本幌別 9.9km
軌間:762mm、複線区間:なし、電化区間:なし
運行本数 小頓別~枝幸 3往復、幌別(後の歌登)〜枝幸1往復
 ※ 1949年の歌登~枝幸の区間廃止後は、小頓別~歌登 3往復
 ※ 幌別線の運行本数は不詳
所要時間:戦前は動力が馬力とガソリン機関車だったので、小頓別~枝幸で3時間半かかった
     戦後になると自走客車を導入し、小頓別~歌登の所要時間が30分となった

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歌登や枝幸への玄関口として
急行【天北】も停車した起点駅の小頓別
歌登町営軌道の廃止後も
当駅で路線バスに接続していた
※ ウィキペディア画像を拝借

駅数:25
枝幸線 小頓別・吉田・毛登別・大島・柴山・熊の沢・秋山(本)・秋山(分)・中央・歌登
 ※ 1949年廃止区間〔歌登〕・般毛内・一本松・金駒内・下幌別・枝幸
幌別線 〔歌登〕・辺毛内・興生・林内・北志美宇丹・志美宇丹
本幌別支線 〔中央〕・幌見・旭岡・滝ノ上・川添・本幌別
 ※ 本幌別支線は1955年に先行して廃止となっている

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静態保存車両の前に設置された
歌登町営軌道の『軌道小史』
※『うたのぼり健康回復村』のウェブサイトより

   歌登町営軌道 年表
1929年(昭和  4年)12月  1日  小頓別~上幌別六線(後の歌登)開業
1930年(昭和  5年)  9月  4日  上幌別六線(後の歌登)〜枝幸港が開業し、枝幸線全通の

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最盛期は興浜北線の
北見枝幸まで延伸された

1932年(昭和  7年)  7月10日  北海道庁拓殖部殖民軌道となり、小噸別~枝幸をガソリン機関車
               により運行開始
1933年(昭和  8年)11月10日  上幌別六線 - 志美宇丹間(幌別線)開業
1936年(昭和11年)10月27日  上幌別 - 本幌別間(本幌別線)開業
1948年(昭和23年)      枝幸線の経営を北海道庁から軌道組合に移管
                 ※ 幌別線・本幌別支線は、開業当初から軌道組合が経営

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興浜北線の運航再開で
一部馬力を動力にしていた
植民軌道は持たなかったのだろう
興浜北線運行再開の4年後の1949年に
歌登~枝幸が廃止となった

1949年(昭和24年)      戦時不要不急路線として休止していた興浜北線が、1945年に営業再開
               した事に伴って輸送量が減少した事で、枝幸線の歌登~枝幸を廃止し、
               枝幸線を歌登線に改称
1951年(昭和26年)      経営を歌登村に移管し、歌登村営軌道となる
1955年(昭和30年)      本幌別支線廃止
1956年(昭和31年)      自走客車の導入
1962年(昭和37年)  1月     歌登町発足に伴って、村営から町営となる
1966年(昭和41年)      幌別線にも自走客車導入

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歌登町営軌道を廃止に追いやった美幸線は
未成線のまま現存区間も廃止となり
今はレールバイク体験施設
『トロッコ王国・美深』となっている

1969年(昭和44年)  5月     幌別線を国鉄美幸線建設に伴い休止
1970年(昭和45年)10月31日  全線運行停止
1971年(昭和46年)  5月29日  全路線廃止

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歌登町営軌道の遺構として
唯一保存されているデイーゼル機関車
※『うたのぼり健康回復村』のウェブサイトより

   車両
全線廃止が近づく昭和44年10月時点の在籍車両は次の通りである。
・ディーゼル機関車2両 昭和40年・泰和車両製(機関/日野DA59

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小頓別で発車を待つ自走客車
※ 枝幸町編纂の『歌登町史』より

自走客車3両     昭和38~40年の製造で、いずれも泰和車両製(機関/日野DS60
・ロータリー車1両   昭和40年・泰和車両製(機関/日野DA59
・ラッセル車1両    昭和40年・泰和車両製(機関/日野DA59)
その他、有蓋貨車1両と無蓋貨車3両保有

上記の他に、歌登に元十勝鉄道コホハ44(大正13年藤田鉄工所製、昭和32年泰和車両で鋼体化改造を受け昭和35年購入)と。小頓別に昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体があった。

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小型トラック・ダットサンの
エンジン(排気量860cc)を搭載した
『ゲテモノ』レールバス
当時は「何でもアリ」だったようだが
窓が開閉不能な上に小さ過ぎて
使い物とならず早々に
物置として放置されたようだ

このうちの小頓別に廃車体として放置されていた超小型自走客車は単端式の2軸車で、エンジンはダットサンを積んでいた。 定員は15名としていたが、実際には8名も乗れば満員の大きさだった。
窓が開かないので夏は使用できないのと、小さ過ぎて使い物にならない為に、早々と小頓別で物置となった。 このゲテモノ車両は、『歌登のマイクロレールバス』として模型化されるなど、割と有名であった。

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『うたのぼり健康回復村』に
静態保存されている
歌登町営軌道のディーゼル機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

   保存車両
町営『うたのぼり健康回復村』に、ディーゼル機関車が保存・展示してある。  また、歌登市街には、当時の車庫がバス車庫として残っている。  かつては、歌登の軌道事務所跡と志美宇丹の駅舎兼車庫跡が残っていたが、解体され両方とも現存していない。


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天皇信奉右翼に言わせれば
東京五輪に反対する者は
全てシナ共産党の息のかかったパヨクか
狂惨党やリッケンミンスの支持者なんだって

まぁ迷惑千万なパヨク政党も
与党・自民党に敵対する為だけに
反対の声を上げてるけど
現時点で国民の70%が開催に反対してるんだよ

そして今度は「日本政府は
東京五輪を中止する権限はなく
その権限を有するのはIOCだけだ」
「中止すると莫大な制裁金を取られる」
とメチャクチャな事を宣っている

さっすがチョンの『日本人成り済まし』だね
バカを超越したヒトモドキ脳だよ
IOCが認めまいが開催国が
『中止』を宣言すればできる訳ないだろうがよ

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それにIOCが違約金を要求してきたら
世界的な感染拡大防止という
世界世論を味方につけて
劣悪な利権搾取団体のIOCを
解体に追い込む絶好のチャンスじゃない!


恐らく世界各国のどこの国であろうが
今後は五輪は開催できないんじゃないかな
なぜなら『武漢ウイルス』が終息したとしても
2兆・3兆という金を捻出できる国が皆無だからね
それに利権にまみれた五輪はもうヤメた方がいいよ








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No Subject * by hanagon60
この鉄道が存在した事は高校生の頃から知っていて(時刻表復刻版を見て)、その後北海道鉄道乗り回しの際、小頓別に列車が近づくと線路跡が見えないか、目を皿のようにして探した記憶があります。
昭和30年代以前は鶴居村営、浜中町営等、道内各地にこのような簡易軌道が走っていましたね。
私が小学生の頃までこんな軌道が実際に走っていた事実、隔世の感があります。

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさん、こんばんは。

歌登町営軌道などの簡易軌道は、私にとっては一回り前でした。 でも、私の世代で廃止となった興浜北線が、遠回りでも速度の差で、馬車の歌登町営軌道を廃止に追い込んだのは面白い史実でしたね。

でも、国鉄の廃止線を追っかけてる時は、残念ながら植民軌道はガン無視でした。 小僧の頃って、一つの事しか目に入らなかったので。

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No Subject

この鉄道が存在した事は高校生の頃から知っていて(時刻表復刻版を見て)、その後北海道鉄道乗り回しの際、小頓別に列車が近づくと線路跡が見えないか、目を皿のようにして探した記憶があります。
昭和30年代以前は鶴居村営、浜中町営等、道内各地にこのような簡易軌道が走っていましたね。
私が小学生の頃までこんな軌道が実際に走っていた事実、隔世の感があります。
2021-05-20 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさん、こんばんは。

歌登町営軌道などの簡易軌道は、私にとっては一回り前でした。 でも、私の世代で廃止となった興浜北線が、遠回りでも速度の差で、馬車の歌登町営軌道を廃止に追い込んだのは面白い史実でしたね。

でも、国鉄の廃止線を追っかけてる時は、残念ながら植民軌道はガン無視でした。 小僧の頃って、一つの事しか目に入らなかったので。
2021-05-21 *  風来梨 [ 編集 ]