風来梨のブログ

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私の訪ねた路線  第50回  上山田線

『私の訪ねた路線』  第50回  上山田線  〔福岡県〕
 

キハ30系・・
本来は通勤用として
造られた車両だったはず
だが投入先は廃止間際の赤字路線だった
臼井~大隈 にて
 
《路線データ》
        営業区間と営業キロ          輸送密度 / 営業係数(’83)   
      飯塚~豊前川崎 25.9km            688  /   2061    

                            廃止年月日               転換処置  
          ’88/ 9/ 1                  西鉄バス 
 
廃止時運行本数
               飯塚~豊前川崎   下り2本・上り1本
               飯塚~上山田    下り11本・上り13本
               上山田~豊前川崎  下り2本・上り3本
 
   《路線史》
“黒ダイヤ”と呼ばれた筑豊炭田産の石炭積み出しの為に建設された路線。 当然、筑豊炭田の盛衰に命運を捧げた路線であった。 路線建設に関しては、廃止当時の運行状況と同じく、上山田を境に全く別の時期に別の思惑をもって建設されたようである。

前区間の飯塚~上山田の建設時は古く、明治時代の1895年~1901年に民間の筑豊鉄道によって港のある若松(現 筑豊本線)~上山田が建設された。 1907年に国有化される。 今の筑豊本線が原田まで延伸するまでは、この上山田線が『筑豊本線』を名乗っていたのである。

一方、残りの区間の上山田~豊前川崎は、筑豊炭田の末期である1966年の開業である。 苅田港への石炭輸送の為に計画された『油須原線構想』に伴って、漆生線と共に開業した区間である。
だがこの時は、筑豊炭田の凋落が表面化した石炭産業末期で、豊前川崎より先の大任や油須原に向けての延伸工事は建設途中で凍結され、結局先行開業したこの区間は全く石炭輸送に供される事がなかったのである。

そして、炭鉱閉山に伴い沿線各地域も急激に衰退し、運炭の為だけに造られた鉄道の哀れなる末路をたどる事となる。 常時営業係数のワーストランキング入りをし、ついに国鉄再建法による第二次の廃止転換路線の対象区間に指定される。 充実した路線網を誇る西鉄バスがある為か、地元自治体の廃止反対運動はさして盛り上がる事もなく、半ば諦めムードが漂う中で1988年8月末をもって廃止された。

運行に関しては冒頭で述べた通り、上山田を境に全く違う路線であった。 飯塚~上山田はまがいなりにも地方における近隣都市間輸送の用途はあったようで、1日13~14本の列車本数があった。 
残りの上山田~豊前川崎は、貨物路線を想定して建設された為に人的交流はほとんど考慮されておらず、またその貨物輸送さえ全く使用される事がなかった・・という、哀れこの上ない状況だったようである。
1日4往復で日中の運行は全くなしという運行状況も、それを端的に表していた。

飯塚~上山田までの区間は石炭輸送で栄華を極めた頃に建てられたのか、立派な門構えの木造駅舎を持つ駅が多かったようである。 また、旧型気動車の最後の働き場として、キハ30系や35系がこの線に投入されていたようである。
 

 

朝のラッシュ時は気動車の長大編成
も見られた上山田線のメイン区間
臼井~大隈にて
 
  《乗車記》
かつての炭鉱町の中心であった飯塚が上山田線の分岐駅となっているが、炭鉱閉山後は街の中心は新飯塚に移行していたので、末期は新飯塚が始発駅の列車が多かったみたいだ。 駅舎も飯塚駅の“炭鉱町のそれ”がそのまま残っているのに対して、新飯塚駅は“閉山となった炭鉱町”から脱却すべく、近代的な駅ビルに改築されている。
 
新飯塚を出た列車は、筑豊本線上を飯塚までゆく。 飯塚駅では、駅母屋から最も離れた上山田線専用の3番線に入線する。 さぁ、ここから上山田線に入線だ。 飯塚駅を出ても暫くは筑豊本線と併走する。
筑豊本線との別れ際に、最初の駅・平恒がある。 駅近くには住友石炭鉱業(現 住石ホールディングス)の忠隈炭鉱があり、その象徴として『筑豊富士』と呼ばれる美しい三角推を象ったボタ山がある。
かつてこの駅は有人駅であったが、無人化されてからは駅舎はライオンズクラブの集会場となっていた。
 
平恒は旧 穂波町(現 飯塚市)の中心駅であるが、次の臼井は旧 碓井町(現 嘉麻市)で、駅間距離は5.5kmと長い。 駅間は田園地帯で、背後に平恒で見た『筑豊富士』が門番のようにそびえ立っている。
やがて、臼井に着く。 この駅は炭鉱町繁栄の象徴を語るが如く、立派な庄屋造の木造駅舎であった。
また、駅員常駐で荷扱いもある町の中心駅であったが、なぜか駅名は町名の『碓井』でなく『臼井』となっていた。
 
次の大隈駅は、臼井駅に勝るとも劣らぬ豪農の宗家の如く立派な駅舎だった。 駅は旧 嘉穂町(現 嘉麻市)の代表駅であったが、建設当時にイザコザがあったようて、町の中心から3kmも離れた所に位置している。 当時、この駅が町の中心と離れている事を知らなかった筆者は、上山田線の列車に乗り遅れて、上山田駅前から『大隈行』のバスに乗ってしまって、駅より3km離れた町の中心の『大隈』で下ろされ、鉄道駅の『大隈』まで道を尋ね歩いた記憶がある。
 

利用者・鉄共に不評であった
キハ30系を絵にしてみた
臼井~大隈 にて
 
大隈駅から、程なく漆生線との合流地点である《嘉穂信号所》を通過する。 この信号所は上山田線が廃止となる最後まで稼動(漆生線廃止後はタブレット交換所)していて、漆生線が廃止となるまでは人力でポイント切替をしていたようである。 また、当直職員は大隈駅から自転車通勤していたとの事である。
 
《嘉穂信号所》でタブレット交換をして、2kmほど進むと下山田に着く。 下山田の駅舎は昔の庁舎の如くの堂々とした門構えで、今現存していたら鹿鳴館時代の香り漂う重文級の立派な造りであった。
それもこれも、石炭という“黒ダイヤ”の栄光と繁栄がもたらしたものだろう。 この駅は、石炭の積出駅でもあったのだ。 そして、駅裏に新築として建築されていた分譲マンションとの対比も滑稽であった。
 

団地も建つ街に
古ぼけた気動車が行き交う
上山田駅にて
 
次は路線名の駅、上山田だ。 山田市(現在は平成の大合併で嘉麻市となっている)の中心で、ほとんどの列車が当駅を終始発とするなどジャンクション駅となっている。 なぜなら路線史で記した如く、この駅を境に建設時期も、建設目的も、人的流動も全く別物となるからである。
 
飯塚から上山田までがこの路線におけるメインで、この先の豊前川崎までは、《嘉穂信号場》で分岐する漆生線の漆生までと共通運用となっていた。 それでは、油須原線構想の元に苅田港へ石炭を輸送するという壮大な計画の夢は潰え、運炭路線として建設されたものの、ただの一度といえ貨物輸送の実績を刻む事が叶わなかった悲運の路線・上山田線の新線区間に乗ってみよう。
 

悲惨な利用状況の区間から
更に悲惨な利用状況の線区へと結ぶ
 
次の熊ヶ畑は当初は有人駅だったらしく、また石炭産業が斜陽化した頃の開業の為、下山田のような鹿鳴館調のものではなく殺風景なコンクリート駅舎であった。 無人駅として久しい時が経ったらしく、駅務の窓は塗りこめられて封鎖されていたようである。 次の真崎も熊ヶ畑同様の駅舎であるが、こちらの方が放置されて手入れがされていないようで、半分廃墟となっていた。
 
次の東川崎は庇だけの待合所が乗る棒線駅で、周囲は田圃と裕福そうな民家が点在している片田舎の情景であった。 そうなのだ。 この新線区間は、この部分だけ取り上げると、日本一の赤字線として有名な北海道・美幸線を凌ぐ大赤字区間であったという。 それも熊ヶ畑や真崎、そしてこの東川崎の駅を見たなら納得できる。
 
やがて、朝夕のみの運行で4往復と、学生以外は乗るに耐えない運行ダイヤの新線区間は終点の豊前川崎の母屋から離れた3番ホームに到着する。 この豊前川崎も“黒ダイヤ”の積出駅として栄え、石炭産業の斜陽化と伴に衰退した駅であった。 現在はその暗いイメージを払拭すべく、その遺構が影も形も無いが如くに現代風にアレンジした片面一面の棒線駅となっているようだ。 そして、この片面一面のホームこそ、上山田線で使われていた『3番ホーム』であるのが皮肉である。

   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『上山田線』を御覧下さい。




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No title * by オータ
最後に漆生線…あの美幸線と赤字日本一を競った…のサポまで出てきましたか! でも、ラッシュ時あんなに長大な編成があっても廃止されてしまったとは… こちらのローカル線は朝ラッシュでも三両がいいところでしたから、不思議に思いました。

No title * by 風来梨
こんばんは。

あの長大編成は、直方の機関区に帰る為の増結との事です。
単行で上山田を発車したキハ20に漆生で5両増結して6両に、飯塚でも4両つないで10量編成となって直方に帰る便があったそうです。

その編成は、キハ20、キハ23、キハ35、キハ30、キハ55、キハ58のフルハウスだったそうです。

あと、残念な事に、この路線の駅舎は撮り逃してしまいました。 残念!

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No title

最後に漆生線…あの美幸線と赤字日本一を競った…のサポまで出てきましたか! でも、ラッシュ時あんなに長大な編成があっても廃止されてしまったとは… こちらのローカル線は朝ラッシュでも三両がいいところでしたから、不思議に思いました。
2011-09-18 * オータ [ 編集 ]

No title

こんばんは。

あの長大編成は、直方の機関区に帰る為の増結との事です。
単行で上山田を発車したキハ20に漆生で5両増結して6両に、飯塚でも4両つないで10量編成となって直方に帰る便があったそうです。

その編成は、キハ20、キハ23、キハ35、キハ30、キハ55、キハ58のフルハウスだったそうです。

あと、残念な事に、この路線の駅舎は撮り逃してしまいました。 残念!
2011-09-19 * 風来梨 [ 編集 ]