2021-04-26 (Mon)✎
廃線鉄道 第53回 川崎市電 〔神奈川県〕
花電車が運行された最終日も
いつもと変わらぬ
通勤風景だったみたいだ
※ 『ジャパン・アーカイブス』より
川崎市電(かわさきしでん)は、かつて川崎市交通局が運営していた路面電車である。 市電川崎~塩浜の6.7 kmで、軌間1,435 mmの標準軌であった。 直流600 Vの電化軌道線である。 全線が現在の川崎区内を走り、かつ日本鋼管前(現在のJFE前交差点)以東は臨港地区の工場地帯を走るため、朝夕のラッシュ時以外は閑散としたローカル線であった。
朝夕の工場街への通勤者
輸送以外に需要は乏しく
日中は閑散としていた川崎市電
※ 図書館で借りた『川崎市電の25年』より
太平洋戦争末期の1944年には軍需工場に通勤する旅客数は14万に達していたが、燃料不足からバス・トラック輸送が限界となり、交通問題懇談会の要請で川崎市は工場労働者の足として最初の開業区間を5か月の突貫工事で建設した。 しかし、通勤客輸送に活躍する間もなく、米軍の空襲で手ひどい損害を受けた。
川崎市電廃止の直接原因は
路面電車の廃止理由に
ありがちな道路渋滞ではなく
国鉄の貨物操車場への路線収用だった
※ 図書館で借りた『川崎市電の25年』より
戦後は、戦災より生き残った僅か2両の電車から復興が始まる。 東京都から応援車両をもらい請け、路線延長や複線化・新車の投入など整備を進めて川崎市民や工場通勤客の足として順調に伸びたが、モータリゼーションの波に押された事と、路線網が未完成のままだった事で、既に川崎区内に路線網を張り巡らせていた川崎鶴見臨港バスと、戦後発足した川崎市バスによる路線競争に対して取り残された存在となり、経営合理化のため1969年に廃止された。
もし川崎市電が生き残れると
したなら川崎市街を一周する
『川崎駅前発の川崎駅前』行き
の路線形成以外になかっただろう
※ 図書館で借りた『川崎市電の25年』より
京浜急行電鉄大師線
戦時下、川崎臨海部の鉄軌道建設を東京急行電鉄と競合していた。 結局、川崎市側は桜本までを建設する事となり、東急と競争して敷設される。 戦後、川崎市は大師線を買収する事による市内一周運転を企て、大東急分離後の京急と折衝したが、京急は不採算路線となっていた末端部の桜本~塩浜だけを譲渡するにとどめ、同社発祥路線の京浜川崎(現・京急川崎)~塩浜を譲らなかった。 この為、市電による一周運転は実現しなかった。
かつて川崎市電が行き交った道路は
『市電通り』と呼称されている
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡・市電通り
幸区幸警察署前~川崎区JFE(元 日本鋼管)前の道路の通称。 その名の通り、1969年まで小川町からJFE前まで道路中央に市電が走っていた。 廃止後、かなりの年月が経った2012年現在もこの呼称が適用されている。 なお、同市では、1951~1967年の間にトロリーバス(無軌条電車)も運行し、池上新田で平面交差していた。
川崎市電の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離(営業キロ):市電川崎~塩浜 6.7 km、軌間:1,435 mm、電化区間:全線(直流600V)
複線区間:1964年に国鉄・塩浜操車場(現 川崎貨物駅)の完成に伴う線路の提供により池上新田
~塩浜が休止(正式廃止は1967年)となり、途中の浜町三丁目~池上新田の上り線を東海
道本線の貨物支線に供出するまで、全線複線であった
駅数:21駅
市電川崎・川崎駅前・商工中金前・第一国道・渡田新町・渡田三丁目・成就院前・小田栄町・昭和電線前・
東渡田三丁目・日本鋼管前・浜町三丁目・浜町四丁目・桜橋・桜本・池上新田・ 日本鋼管池上正門前・
池上中門・入江崎・塩留橋・塩浜
車庫:渡田車庫(最寄りは成就院前)
※ 池上新田~塩浜は国鉄貨物線の塩浜操車場(現 川崎貨物駅)の開業に伴う線路提供の為に
1964年に先行休止(正式の廃止は1967年)となっている
※ 通常の路面電車は『駅』や『停車場』ではなく『停留所』又は『電停』と呼ぶが、川崎市電は
『駅』呼称をしていたようだ
『三和銀行』が時代を物語っている
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
川崎市電 年表
1944年(昭和19年)10月14日 市電川崎~渡田五丁目 2.76kmが開業する。 川崎市運輸事務所が
運営を担当
1945年(昭和20年) 4月11日 渡田五丁目~浜町三丁目 0.66km延長
4月15日 川崎大空襲の被害により全線運休
5月 1日 運転再開する。 運行可能車両は、被災を免れた1両のみであった
6月30日 箱根登山鉄道小田原市内線より、車両3両をもらい請け入線する
8月13日 空襲の被害により全線運休
8月22日 終戦後すぐに運転再開するが、運行可能車両は2両のみであった
12月 6日 浜町三丁目~桜本三丁目(後の桜本)1.02km延長
これによって、桜本で東急大師線(現在の京急大師線)と連絡
1946年(昭和21年) 8月16日 市電川崎~省線(後の国鉄)川崎駅前0.326km延長
終戦直後は空襲被災や車庫火災などで
常に車両が不足していた
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
1947年(昭和22年) 7月 8日 川崎市運輸事務所を川崎市交通部に改称する
1948年(昭和23年) 5月26日 古川車庫の火災により車庫建屋および電車1両が全焼し、電車1両が
半焼する
1949年(昭和24年) 5月20日 市電川崎を省線川崎駅前(後の川崎駅前)に、省線川崎駅前を
市電川崎にそれぞれ改称
7月16日 (1948年(昭和23年)8月1日)の記録もあり)
日本鋼管前以東の上り線を三線軌条として、夜間に国鉄の貨物列車
を乗り入れて運行
1950年(昭和25年) 8月18日 市電川崎を0.110km終点寄りへ移設
1951年(昭和26年) 3月16日 京浜急行電鉄大師線の桜本~塩浜への乗り入れ開始
1952年(昭和27年) 1月 1日 京浜急行電鉄より大師線・桜本~塩浜2.0kmを買収する
1953年(昭和28年) 9月 7日 それまでの古川車庫が区画整理により廃止となり、新設の渡田車庫
へ移転
1954年(昭和29年) 4月10日 日本鋼管前~池上新田の上下線の三線軌条化、入江崎への交換設備
の設置ほかの設備改良により、国鉄貨物列車の昼間運転開始
1959年(昭和34年) 8月11日 川崎市交通部が川崎市交通局に昇格する
1962年(昭和37年)(1963年(昭和38年)2月6日)の記録もあり)
市電川崎(現在のDICE前)~川崎駅前(現在のさいか屋前)が、
川崎駅前交通緩和のため廃止
1964年(昭和39年) 3月25日 国鉄塩浜操車場(現在の川崎貨物駅)の開業に伴い、池上新田~
塩浜間2.12km休止となる。 併せて浜町三丁目~池上新田間を
単線化して、旧上り線を浜川崎~塩浜操車場の東海道本線貨物支線
の一部に転用される。 この処置に伴い、川崎市電の三線軌条が
取り止めとなる。 浜町三丁目~桜橋に浜町四丁目開設される
1967年(昭和42年) 8月 1日 休止の池上新田~塩浜 2.12kmが正式に廃止となる
1969年(昭和44年) 4月 1日 川崎駅前~池上新田の全線が廃止となる
日本鋼管前~塩浜は元々は専用軌道で
国鉄の貨物列車を運行
させる為に三線軌条だった
※ 『神奈川タウンニュース』より
国鉄貨物線共用区間
日本鋼管前~塩浜は元々は専用軌道で、それまでは日本鋼管専用線を代用していた国鉄貨物列車を運行する為に、京浜急行電鉄と共に三線軌条を設置して対応した。 これによって、川崎市は国鉄から施設利用収入を得ていた。
だが、1967年の国鉄塩浜操車場の建設に伴い、池上新田~塩浜を撤去し、残存区間を単線化する。
片側軌道敷を国鉄に譲渡し、もう片側の軌道のみで運行していた。 単線運行後は、桜橋電停にてタブレットによる交換を行っていた。
路線休止直後は代行バスが
増発運転されたが
現在は旧日本鋼管のJFE工場前
までの運行に短縮されている
※ ウィキペディア画像を拝借
塩浜 - 池上新田間の休止後の状況
塩浜操車場の建設によって、川崎市電の池上新田~塩浜と、京急大師線の小島新田~塩浜が休止となった。 休止後は、川崎市バスと臨港バス、更に京浜急行電鉄が既存のバス路線を増発し、休止の代行とした。
京浜急行では既存区間の増便とは別に、大師線の産業道路駅から塩浜方面への代行バスも出し、一部は国鉄蒲田駅(東京都大田区)まで運転する便もあった。
しかし、池上新田で接続していた川崎市営トロリーバスの廃止に合わせて不要不急の財産を整理した結果、1967年に正式廃止となる。 この結果、京浜急行電鉄も小島新田~塩浜を再開する意味がなくなったと判断し、1970年に代行バスの運行を取りやめた。
川崎市電の車両が集う渡田車庫
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
車両
100形(初代)
開業に際して、新潟交通が市内区間用に購入した1933年日本車輌製造東京支店製の半鋼製単車であるモハ1形モハ1・モハ2を、1944年9月に購入して101・102号車としたもので、101号車は1945年4月15日の川崎大空襲で、102号車は同年8月13日の空襲で全焼、廃車となった。
川崎大空襲で全車被災した事を受け
元東京都電の車両を譲り受けて
被災車両の車番を割り当てたもの
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
200形
100形と同じく開業に際して用意された形式であり、東京都電の木造ボギー車である1500形の1551・1554・1580・1548・1567号車を購入して200形201~205号車としたが、川崎大空襲によって全車被災した為に、東京都交通局の工場へ搬送されて復旧名義で同じ都電1500形の別車両に振り替えられ、1522・1538・1560・1578・1605号車が新たに201~205号車として1945年12月に入線している。
その後1947年4月には1573・1582・1590号車を購入して206~208号車に、翌年10月22日には都電1400形1401・1403・1405号車を209~211号車としている。 1952年以降202~206、209~211号車が鋼体化され、制御装置変更により600形・700形となった。
また、201・207号車は1960年に東洋工機で制御装置も流用して鋼体化され、200形のまま201~202号車となったほか、後述の300形の車体更新車が編入されて203~204号車となっている。 鋼体化改造されなかった208号車は1958年4月1日に廃車となり、鋼体化された新201~204号車は全線廃止まで使用された。
130形
戦災による車両不足の解消のため、箱根登山鉄道小田原市内線の木造単車131~133号車を1945年6月30日に購入して、130形131~133号車としたものである。 元は東京市街鉄道の1903~06年製の1形電車である。
1945年8月13日の空襲で132号車が損傷した為、戦後8月22日の運転再開時点で運行可能であった車両は本形式の131と133号車のみであった。 その後、1948年の古川車庫の火災により133号車が廃車になったほか、1951年1月までに全車廃車となった。
都電荒川線の前身・王子電気軌道の車両で
都電荒川線に引き継がれた後に譲り受けた車両
鋼体化改造で200形と同じ姿となった
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
300形
東京都電の半鋼製ボギー車で、もと王子電気軌道で1927年製の200形の150形154号車と、170形176号車を1947年3月15日に購入して300形301・302号車としたものである。 1962年に東横車輛工業で車体更新改造を実施して、200形の鋼体化改造車と同形態の車体となって200形203・204号車となっている。
100形(2代)
1948年の古川車庫の火災による車両不足を解消する為に、東京都電の木造単車400形の517と567号車を購入して100形の101・102号車としたもので、200形などのボギー車の増備によって1954年頃からは使用されなくなり、1958年4月1日に廃車となった。
500形
川崎市電初の新造車として、1949年12月8日に日本鉄道自動車製の501・502号車の2両が導入されたもので、標識灯が正面上部左右に設置されている以外は都電6000形初期車とほぼ同形であった。
全線廃止まで使用されている。
鋼体化前の200形の台車・主要機器流用の
川崎市電独自デザインの車体更新車両
※ 川崎市交通局『川崎市電の車両』より
600形
川崎市電の独自設計車として1952年2月に新造された601・602号車の2両及び、200形203・202・205・211・210号車の台車や主電動機を流用した車体更新改造車として、翌年1月及び3月に日本鉄道自動車で製造されたものである。 この車体更新改造車は603~607号の車番が振り分けられている。
この改造車は、幅2440mmと路面電車としては広幅の正面2枚窓の車体と、当時まだ珍しかった東芝製の間接式自動加速制御器を採用した事が特徴であった。 全線廃止まで使用されている。
600形の改良型として川崎市電
最後の新造車として登場した車両
:
702号車は桜橋公園に
静態保存されている
※ ウィキペディア画像を拝借
700形
600形の改良型で、200形204・206・209号車の車体更新改造車として1954年に日本鉄道自動車で製造されたもので、600形と基本設計は同一ながら車体は前後扉から前中扉となり、屋根上に強制換気装置とパンタグラフが設置されている。
1963年及び1965年には浜町三丁目~池上新田の単線化に伴い、交換時のタブレット交換の便を図るために前中扉から前後扉に改造され、併せて屋根上の強制換気装置の撤去がされて600形とほぼ同形態となって全線廃止まで使用された。 702号車は廃止後に桜川公園(市バス桜橋バス停から徒歩2分)に保存されている。
桜本~塩浜は元々京急大師線だった
が川崎市電に割譲されている
:
塩浜操車場(現 川崎貨物駅)の
建設に伴う用地収用で1964年に
京急大師線共々運行休止され
後の1970年に正式廃止となった
※ 『地方私鉄・1960年代の回想』より
塩浜駅(しおはまえき)は、神奈川県川崎市川崎区にかつて存在した、京浜急行電鉄大師線の駅および川崎市電の停留所である。 1970年に正式に廃止された。 現在の川崎貨物駅の海側、国道132号夜光交差点西南角に存在した。 現在は川崎市バス塩浜停留所がある。 跡地は重機会社が所在している。
1944年10月1日に、相対式ホーム2面2線の駅として開業する。 下り線は貨物列車を運行するため三線軌条となっており、終電後に運行されていた。 塩浜~桜本の京急路線が川崎市電へ譲渡された後、京急は下り線側のホームと線路を撤去して上り線のみの運用を行い、下り線の跡地に改めて川崎市電が安全地帯と線路を設置した。
京急の駅舎は、上り線ホーム側に置かれていた。 なお、京急と川崎市電の軌間は同じ1435mmであったが、線路は分断されていた。 但し、貨物専用の線路(軌間1067mm)はそのまま存置され、川崎市電はそのまま三線軌条となって、貨物列車は京急から川崎市電を経由し国鉄線へ乗り入れていた(京急側と川崎市電側とでは三線軌条の敷設状況が異なっていた)。
国の規模や人口では
一概に比較はできないが
イスラエルでは日に1万いた
感染者数が300人程度に抑え込まれ
1日の死者ゼロを記録したそうだ
だが日本はその逆だ
『武漢ウイルス』蔓延の第3波が
来るまでは感染者は多くても
日に300人程度だった
だが今は日の感染者数が5000を越えたり
死者総数が1万に達しようとしている
「日の感染者数・300人」のこの時に
オリンピックなどにかまけずに
マトモに対策していれば
現在のような事はなかっただろう
イスラエルは国民のワクチン接種率が
50%を超えているというが
日本はまだ高齢者への接種が
始まったばかりなど
著しく対応が遅れている
こんな状況で感染拡大必至の
『オリンピック』とは気が狂っている
としかいいようがない
ハッキリ言おう!
日本の『武漢ウイルス』での死者の
内の今年に亡くなった7000人は
感染対策もそっちのけで開催を進める
『オリンピック』により殺されたも同然だ!
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