『路線の思い出』 第438回 標津線〔厚床線〕・奥行臼駅 〔北海道〕
この時はまだ駅は生きていた
今では有り得ない
『有人駅』だった奥行臼駅
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶~根室標津・厚床~中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス 〔西春別線〕 標茶~根室標津 6往復
標茶~中標津 下り1本
中標津~根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床~中標津 4往復
線路が敷き直され
枕木が白木になるなど
鉄道公園として
お色直しを受けたみたいだね
奥行臼駅(おくゆきうすえき)は、北海道野付郡別海町奥行にかつてあったJR北海道・標津線の駅である。 標津線の廃止に伴い、1989年4月30日に廃駅となった。 かつては、別海村営軌道が当駅で接続していた。 昭和56年度の1日平均の乗降人員は6人との事である。
今は駅ホーム跡が別海町の
有形文化財に指定され
この駅で貨物の取扱いがあった事を示す
側線とポイントが復元されている
貨物及び荷物取り扱い廃止までは、島状の1面1線の単式ホームと、駅舎とホームの間に貨物積降線1本、及びホーム外側に厚床側から引き入れた留置線を有した。 駅舎は構内の西側(中標津方面に向かって左側)にあって、ホーム中央の駅舎側に設けられた階段へ線路を横切る形で連絡していた。 駅舎横の中標津寄りには、ホーム状の貨物積降場が設けられていた。
貨物及び荷物取り扱い廃止後は貨物積降線が撤去され、路線廃止までは本線と留置線の構造であった。 1963年から1971年まで、別海町上風連まで繋がる殖民軌道風連線(別海村営軌道)の停車場と、そこから駅前を横切って当駅の貨物積降場まで伸びる貨物用線があった。

奥行臼駅遁所は国の史跡に
駅とホームは道の有形文化財に指定されている
駅名の由来は当駅が所在した地名(奥行)からで、地名はアイヌ語の「ウコイキウㇱイ(けんかする・いつもする・所)に由来する。 これはこの地が、根室ポロモシリ村のアイヌと厚岸のアイヌとが戦をした古戦場であった故事に由来する。
別海町の有形文化財に指定されて
公園化した機会に春別駅跡から
職員用風呂場が移築されている
現在は旧駅舎・詰所とホームが別海町の有形文化財に指定されていて、木造駅舎・詰所と線路が廃止時のまま保存されている。 また、側線が復元敷設されている。 貨物ホームの先には、春別駅跡から移築した職員用風呂場が設置された。

GWなのに鍵が閉められて
駅舎内には入れなかったので
偏光フィルターをつけて
窓から覗き撮りしたよ
駅舎内には運賃表、時刻表が掲示されてあり、来訪記念スタンプが置かれている。 駅の近くには、別海村営軌道の自走客車と機関車、貨車が保存されている。
かつての日本は僅か数人の乗客の為に
定期運行を確約する力強さと優しさがあった
標津線が路線廃止となって30年が過ぎて、僅か4往復しかない標津線の厚床線を『乗り鉄&撮り鉄』したのは、もう遥か昔の小僧の時となっていた。 でも、当時は(学校をサボってローカル線を追い回すロクデナシな)小僧で、移動の足が鉄道以外にないので仕方がないと言えばそうなのだが、僅か4往復の標津線に実際に乗って『乗り鉄&撮り鉄』をしたのは凄い根性だと思うよ。
何もない所で4時間を凌ぐ
根性と情熱をかけた駄作でっす
それは、札幌から釧路の夜行急行【まりも】を乗り継いではるばる標津線接続駅の厚床にやってきても、標津線4往復の始発列車には乗れなかったのだから。 夜行急行【大雪】と【利尻】を要する旭川鉄道管理局(国鉄当時)管内は、廃止ローカル線のほとんどが夜行急行【大雪】・【利尻】と始発列車が接続していて、眠りこけて乗り過ごしさえしなければ、駅寝をせずとも「一夜の宿」が確保できたのである。
「何もない春」を撮りに
標津線に通ったよ
しかし、始発列車と朝の情景を狙うなら、駅寝して始発列車を待ち伏せせねばならなかったし、このタワケのように、真冬の北海道の無人駅で自炊していたら食器に溜めていた水が凍って、解かすのに難儀してたら最終列車が行っちまって真冬の駅寝に追い込まれた稀有なケースもあるけれど。 そういえば、厳冬期の夜を撮りに行って自爆して、真冬の駅寝になったケースもあったなぁ。
急行【まりも】は
廃止ローカル線の『乗り鉄&撮り鉄』には
あまり使えなかったよ
だが、急行【まりも】を要する釧路鉄道管理局は、どういう訳か廃止ローカル線に全く接続していなかったのである。 士幌・広尾線は始発まで2時間待ちだし、白糠線は釧路まで乗ってしまうと釧路発の白糠線送り込み列車は出た後だし、厚床での標津線は接続さえしていなかったのである。
標津線・厚床線の時刻表
:
これを『乗り鉄&撮り鉄』
するのは根性がいるよ
即ち、厚床からの標津線は僅か4往復しか列車がないにも関わらず、始発列車は根室か厚床で宿でも取らない限り乗車不能で、使えるのは実質3往復だったのである。 それも、現地の奥行臼へ向かう列車が10:10発でその列車に乗って奥行臼へ向かうと、当然ながらこの列車の奥行臼駅の駅撮り以外は不可能だから、撮影できるのは上下『3番列車』の1往復って事になるのである。
厚床発の『2番列車』は10時発
:
根室か厚床で泊らない限り
1番列車には乗れない
そう・・、札幌から夜行の【まりも】でやってきての乗車可能な標津線の列車は10:10発の『2番列車』で、この列車で10時半に奥行臼に着いたとしても、次の折り返しの上り3番列車の14時半の手前まで、いきなり4時間の空白帯が生じるのである。
この地では人の1000倍いるという
牛さんや馬さんも厩舎の中だった
要するに、この地の人口の1000倍はいる牛以外は何もない場所で、「クソ熱すぎる」情熱と根性で4時間をやり過ごさねばならないのだ。 もちろん、コンビニみたいなのは元より、パンなどを売ってる雑貨屋すらない所を・・である。 また、車もほとんど行き交う事がないので、ヒッチハイクによる脱出も不可能で、更に隣駅の別海・厚床共に10km以上の駅間距離があって徒歩での脱出も厳しいのである。

『乗り鉄&撮り鉄』では
ほぼ撮影が不可能だった
:
だからか・・厚床線の
写真はあまり出回ってないみたい
つまり、立ち寄れる所は駅と駅前と、撮影地と決めた丘のみって事である。 だから、時間を潰す為に駅周辺をウロウロと歩き周ったよ。 それで、北海道の有形文化財で国の史跡に指定されている『奥行臼駅遁所』の周囲をぐるぐると見て周る。
駅逓所は閉っていたよ
:
開いてても有料なら入館に躊躇した
小僧の身の上だったが・・
何故に中に入らなかったか・・というと、閉っていて鍵は保管先にあって取りに行く事ができない&取りに行けたとしても入館料が必要なので躊躇したのいずれかだったと推測できる。
入口に掲げられた駅名標が
現役で稼働している駅で
ある事を示していたが廃屋然だった

綺麗にお色直しされたが
駅としては「死んだ」駅である
有形文化財で保存された駅舎跡
そして、今では信じられない事に、この廃屋然とした奥行臼駅は駅員が配置され、入場券も販売していたのである。 それがコレ・・。
今では有り得ない不可思議
こんな廃屋然とした駅でも
駅員がいてきっぷを売っていた
建物としては、廃止対象に上っている標津線の駅は駅員がいるのが不可思議な位で、鍵が閉まって管理人不在の『奥行臼駅遁所』は国指定の史跡としてお金をかけて綺麗に修築されていた事は小僧の目からも明らかな事だったよ。
別海村営軌道の機関車
当時は雨ざらしのボロボロで
放置されていた
この単端のガソリンカーも
スクラップ同様で放置プレーだったが
今はお色直しを受けて展示品となっている
:
当時はスクラップとして
見向きもしなかったが
30年越しにその価値に気づかなかった
失態を取り戻すべくフイルムに収める
・・で、どうやって4時間を潰した記憶は曖昧なまま、駅近くに絶賛『放置ブレー中』だった別海村営軌道のガソリンカーなどは撮らないという小僧ならではの「目的(標津線)以外は目に入らない」という失態をキッチリ犯して臨んだ「目当ての」14時台の上り『3番列車』おば・・。
不毛の大地にも春がやってきた
:
コレが厚床線での一番星かな
レベル的には三番星程度だけれど
そして、16時の厚床からの下り3番列車は、待ちに待ったキハ22の単行だったよ。
でも、手応えは上りのキハ40の方が少しマシだった。 ハッキリいうと、いずれもあまり手応えのないデキですね。
待望のキハ22だったけれど
周囲に埋もれてしまって今イチ
・・で、あれから30年の時が経ち、時代の移り変わりと共に廃止ローカル線は淘汰され、当時ロクデナシな小僧だったワテもロクデナシ度だけが増大した中年となり、北海道にやって来ての撮影対象も鉄道メインから風景や野生動物となっていた。
それで、根室の自然風景撮影を終えてオホーツク海に沿って北上する道すがらで、この奥行臼駅跡の前を通る機会があったのである。 その『奥行臼駅遁所』は国の史跡に・・、奥行臼駅跡は町の文化財に登録されて、町の観光スポットとなっていた。 まぁ、注目度はかなり低いみたいだけど。
30年前は中に入りたくとも
金がかかる事に躊躇った
今は金がかかる事への躊躇いが消えたが
「都合により閉館」で入れなかった
国道243号線と244号線の交点にあるこの駅遁所には、その入口付近に多目的トイレ付きの公衆トイレが設置され、往時はダートだった駅前もキッチリ舗装されていたよ。 だが『奥行臼駅遁所』はこの時も改築中とかで非公開だったよ。 小僧の時と違って今なら多少の金もあるので、入館料を出して館内を観覧できたのに・・。
でも、これでかつて追っかけた『オホーツク縦貫鉄道の夢』を再び訪ねたくなって、国道244号を北上して『渡らずの橋』の根北線・幾品川橋梁を訪ねたよ。 その際に通った根北峠は思った以上に急坂が続き(特に網走側の下り)、冬季は通行止めになるのも頷けたよ。 それでは、ギリシャ神殿遺跡を髣髴させる『渡らずの橋』をごろうじろ。

石碑の建つ越川駅跡
:
根北峠を越えると
まだ雪が残っていた
国道拡張の為に割られて
『石碑』となった『渡らずの橋』
その石碑は
ギリシャ神殿の遺跡を髣髴させる
列車が一度も通る事が無かった橋は
登録有形文化財&北海道遺産として
脚光を浴びる事となった
天皇信奉右翼は汚い奴ら・・
「オリンピックを開催して『武漢ウイルス』の
感染を拡大させて日本を潰したい」という
日本憎しの在日チョンたる己の願望を
日本国民の願望に挿げ替えている
だが日本国民の願望は間違いなく
感染拡大必至のオリンピックの開催ではなく
感染拡大の鎮静化と終息なのである
言わば感染急拡大が国全体の危機と懸念される中で
「街中でマスクなしで宴会して騒ぐ」が如くの
日本を潰すそのままの亡国行為を
「国民の総意」と宣っているのである
でも人間としての常識を持つなら
大阪だけで日に1200人
日本全国では4000人を越える
感染者数の急拡大の状況に
更に感染拡大を引き起こす事が必至の
オリンピックなど絶対に
開催してはならないと考つくハズである
だが日本人のほとんどは
自身の命や国を守る為に
『オリンピックの開催に反対する』
意志表明を口にしない
だから在日チョンやシナにナメられるのだ
それは『反対』を口にすれば
日本人成り済ましの天皇信奉右翼共などに
『国辱』と詰られる事を恐れて
「事なかれ主義」に陥っているのである
:
こうして奴らの日本の破壊行為は
着々と進行していくのだ
他のブログ主が言ってたが
感染拡大が止らないこの状況で
オリンピックの開催を「国民の意志」として
開催させようとするその行動は
全体主義のファシズムに似たモノがあると・・
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しかし厚床側の標津線は記事にも書かれているとおり、あまりにも便が悪く、乗って通過するだけで終わってしまいました。。