2021-04-14 (Wed)✎
尾西線の昇圧に伴って
新一宮駅への乗り入れが廃止となり
運行休止となる半年後まで路線バス
と併用運転となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
名鉄・起線(おこしせん)とは、愛知県一宮市の新一宮駅(廃止直前は八幡町駅)から愛知県中島郡起町(後に尾西市を経て現・一宮市)の起駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の軌道線(路面電車)である。
1953年6月に運行休止となった後、1年後の翌年6月1日に廃止された路線である。 だが、廃止となった理由が、他の廃止路線にありがちな沿線の過疎化や周辺の鉱山の閉山などによる貨客需要の減少や、モータリゼーションによる経営圧迫などではなく、寧ろ乗客は増え続けているのに輸送力増強の手が打てず、鉄道よりバス輸送の方か、低コストで輸送力増強が行える事が判明して路線廃止となった経緯がある。
増えた乗客を捌ききれない
という理由で廃止となった
摩訶不思議な廃止線・名鉄起線
※ 名古屋鉄道ウェブより
それは、戦後に入り一宮市が名古屋市の衛星都市として沿線の人口増加が顕著になり、新一宮を通して名古屋へ向かう通勤・通学輸送が大幅に増加したのであるが、軌道線(路面電車)として当路線が敷設されていた道路は幅員が狭く、軌道の複線化等の輸送力増強施策が打てずにいたのである。
しかも、1952年の新一宮に乗り入れる尾西線の架線電圧の昇圧の為、尾西線と供用で使っていた軌道を引き渡す形で新一宮駅(現・名鉄一宮駅)への乗り入れを中止するなど、起線自体が沿線人口の増加に対する施策を放棄した形となった。
新一宮駅乗り入れ廃止後は
バスは新一宮に乗り入れ
路面電車は八幡町から徒歩と
ハチャメチャな対応が取られた
※『街と鉄道』より
これによって新一宮駅への乗り入れが断たれ、当路線の利用客は八幡町から新一宮まで300mを歩かされるようになる。 その対応策としてバスによる代替輸送で新一宮駅乗り入れを行ったところ、輸送力の増強が低コストで行えた為、1953年6月より1年間の休止期間を経て正式に廃止・バス転換となった。
起線が通っていた市道・八幡通は
全線片側一車線道路で路線を
複線化するのは困難だった
※ 『一宮市の地名』より
前述のように、バス化による廃線事例は乗客数の減少による事がほとんどで、当路線のように乗客が多過ぎてバス化された事例は珍しい。 なお、起線の敷設されていた道路は現在も片側1車線のままであり、少し北側を通る県道一宮大垣線(濃尾大橋の東手前まで片側2車線)がバイパス道路として機能している。
名鉄・起線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離(営業キロ):(新一宮)・八幡町~起 5.3 km(新一宮~八幡町 0.3km)
※ 新一宮~八幡町は尾西線の1500V昇圧に伴い、1952年12月24日に乗り入れ廃止
されている
軌間:1,067 mm、複線区間:なし(全線単線)、電化区間:全線(直流600V)
駅数:11駅(起終点駅含む)
〔新一宮〕・八幡町・一宮病院前・馬引・篭屋・尾張三条・西三条・新三条・尾張中島・西中島・起
車庫:尾張三条、交換可能駅:八幡町・尾張三条・尾張中島
古き良き時代の新一宮駅
※ 名古屋鉄道ウェブより
名鉄・起線 年表
1921年(大正10年) 8月 5日:起から一宮の便を図る目的で、同区間の軌道敷設免許を収得
1922年(大正11年) 3月25日:同軌道の建設を行う為に、蘇東電気軌道を設立
1923年(大正12年)11月22日:蘇東電気軌道が名古屋鉄道に合併
1924年(大正13年) 2月 1日:起~一宮(後の八幡町)5.3 kmが蘇東線として開業
1930年(昭和 5年)12月20日:尾西線と一部区間の線路を共用する形で、新一宮駅への乗り入れ
を開始
1944年(昭和19年) :馬引・篭屋・西三条・新三条・工業高校前の各停留所を休止
1946年(昭和21年) 8月15日:休止中の馬引・篭屋・西三条・新三条・工業高校前の各停留所の
営業再開
1948年(昭和23年) 5月16日:起線に路線名を変更
1949年(昭和24年)12月 1日:一宮を八幡町に、東洋紡績前を一宮病院前に、工業高校前を西中島
に改称
1952年(昭和27年)12月24日:尾西線の架線電圧の1,500 V昇圧に伴い、新一宮への乗り入れ
を廃止
1953年(昭和28年) 6月 1日:電車の運行を休止してバス代行輸送開始
バスは新一宮駅へ乗り入れ
1954年(昭和29年) 6月 1日:全線廃止
八幡町駅
※ 名古屋鉄道ウェブより
八幡町駅(はちまんちょうえき)は、愛知県一宮市八幡にあった名鉄起線(路面電車)の電車停留所である。 起線(蘇東線)開業時と廃止時の始発駅であった。 相対式2面2線の乗り場であった。
起線で唯一、道路上の電車停留所では無かった。 当駅から新一宮駅への乗り入れが、当駅にとって重要な関わりを持っていた。
1924年2月1日に、名古屋鉄道(旧)蘇東線の始発駅・一宮として開業。 1930年12月20日に、尾西線と一部区間の線路を共用する形で新一宮への乗り入れを開始している。 1949年に八幡町に駅名改称している。
1952年12月24日の尾西線の1500V昇圧に伴い、新一宮駅乗り入れが廃止となる。 これによって当駅が再び始発駅となるが、沿線人口の増加による輸送力増強と逆行する事となり、その対応策として新一宮に乗り入れのバス代行輸送を実施する。 これによって列車は当駅より徒歩で、バス便のみ新一宮駅に乗り入れとなる。 その半年後の1953年6月1日に電車の運行を休止し、翌1954年6月1日に正式に起線が廃止となり、それに伴い当駅も廃駅となった。
駅跡付近に設けられた
尾張三条バス停
※ ユキサキナビより
尾張三条駅(おわりさんじょうえき)は、愛知県中島郡起町(現・一宮市三条)にあった、名古屋鉄道(名鉄)起線(軌道=路面電車)の電車停留所である。 1952年12月24日の新一宮駅乗り入れ廃止に伴い、その半年後の1953年6月より運行休止を経て、1954年6月1日の起線正式廃止に伴い、当駅も廃駅となった。 相対式2面2線の乗り場であり、交換施設を有していた。 隣接して、電車の三条車庫が設置されており、起線の中心的な役割があった。
名鉄起線の車庫だった敷地には
西松屋が建っている
※ ユキサキナビより
駅は現在の名鉄バス尾張三条バス停付近にあった。 車庫跡は名鉄バスの転回場として使用されていたが、現在は西松屋が建っている。 尾張三条バス停の待合所には、起線で使用されていたと推測されるレール(アメリカ製)が使用されている。
駅跡付近に設けられた
尾張中島バス停
※ ユキサキナビより
尾張中島駅(おわりなかじまえき)は、愛知県中島郡起町(現・一宮市小信中島)にあった、名鉄起線(軌道=路面電車)の電車停留所である。 1952年12月24日の新一宮駅乗り入れ廃止に伴い、その半年後の1953年6月より運行休止を経て、1954年6月1日の起線正式廃止に伴い、当駅も廃駅となった。
相対式2面2線の乗り場であり、交換施設を有していた。 駅は現在の名鉄バス尾張中島バス停付近。この箇所は道幅が広くなっている。
起駅に停車中の路面電車と
旅籠のような建付けの起駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
起駅(おこしえき)は、愛知県中島郡起町(現・一宮市起)にあった、名古屋鉄道起線(軌道=路面電車)の電車停留所である。 1952年12月24日の新一宮駅乗り入れ廃止に伴い、その半年後の1953年6月より運行休止を経て、1954年6月1日の起線正式廃止に伴い、当駅も廃駅となった。
起駅はバス停の近くにあった
:
路線バスも終点となっているが
バス転回場がなく付近を周回して
往路を戻る運行経路となっている
※ ユキサキナビより
起線の終着駅であった。 駅は現在の名鉄バス起バス停付近。 駅舎は起バス停の道路を挟んだ北側付近という。 昔の旅籠のような建物の駅舎があった。
『武漢ウイルス』に対して
何の保全対策も取らずに
「シナより早くオリンピックの開催」と
愛国者のフリして実は国を滅ぼし
日本を支配しようとする
在日チョンの日本人の成り済まし
である天皇信奉右翼共
奴らが常日頃口にするチョンに
完全に乗っ取られたTVマスニダも
五輪開催の推進のようですけど
これも都合の悪い事はダブスタ?
恐らくテレビメディアは
「シナ様は日本の五輪開催を望んでいる」
と踏んでいるみたいだ
シナが日本の五輪開催に反対なら
口汚く罵りまくるハズだしィ
それはもうクアッド同盟の事と同じように
シナとしては東京五輪を開催させて
感染拡大という失敗をさせて
日本の国際的地位を貶める方が
利得だと考えているのだろう
日本へのウイルスの拡散ならば
応援団を装った侵入工作員で工作可能だし
感染者が出ると鬼の首を取ったように
チョンと一緒に騒ぎ立てるよ
そうなれば詐欺徴用工の二の舞だろうね
即ち東京五輪の開催は
日本人に感染拡大の被害を及ぼし
日本の立場を貶め西側諸国の
対シナ包囲網を崩壊に導く
利敵行為そのものなのだ
- 関連記事
スポンサーサイト
No Subject * by ねむろ大喜
懐かしい風景^^)
Re: No Subject * by 風来梨
ねむろ大喜さん、こんばんは。
ほんと、古き良き時代ですね。
この頃の方が、人間らしい暮らしだったかも。
ほんと、古き良き時代ですね。
この頃の方が、人間らしい暮らしだったかも。