2021-04-04 (Sun)✎
『路線の思い出』 第435回 三江線・尾関山駅 〔広島県〕
三次市街地の外れに
ポツンとあった尾関山駅
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’16)
江津~三次 108.1km 46 / 1109
廃止年月日 転換処置
’18/4/1 備北交通・大和観光・邑南町営・石見交通
など区間によって分担
運行本数(’17)
江津~三次 下り2本・上り1本
江津~石見川本 上り1本
江津~浜原 3往復
石見川本~三次 上り1本
浜原~三次 2往復
口羽~三次 1往復
※ 廃止日までの残り2週間は昼間便の浜原~口羽の通し運行を実施した
江津~三次 下り4本・上り3本
江津~石見川本 上り1本
石見川本~三次 上り1本
江津~浜原 1往復
浜原~三次 1往復
最後の日は「なごり桜」が
満開となる奇跡が起こった
尾関山駅(おぜきやまえき)は、広島県三次市三次町にあったJR西日本・三江線の駅である。
三江線の廃止に伴い、2018年4月1日に廃駅となった。 三江線はJR西日本・米子支社の浜田鉄道部が管轄しているが、隣の駅かつ三江線の終着である三次駅の構内のみ広島支社三次鉄道部の管轄である為、浜田鉄道部管内としては最後の駅となる。
街と里を隔てる関となる所が
この駅の駅舎だった
三次方面に向かって左側に単式1面1線のホームを持つ停留所規格の駅である。 駅舎があるが、ホーム上に待合室等はない。 停車する列車のほとんどが単行運転だが、ホームはかなり長い。 ホームは島式1面2線に対応した形態になっていて、駅舎よりホームへは構内踏切を渡る形となっていたが、駅舎寄りの線路は撤去されて通路は舗装されていた。
貨物列車の交換駅を想定したのか
単行運転がほとんどの駅なのに
やたらホームが長かった
※ ウィキペディア画像を拝借
かつては駅舎内に窓口があって委託できっぷを販売していたが、現在は無人化されて窓口のあった場所は板が貼り付けられている。 また、駅舎内からのトイレへの入り口も閉鎖されていて、外からでないとトイレに入れない。
以前は駅前の商店で乗車券を販売する簡易委託駅であったが、2010年7月をもって廃止された。
駅には自動券売機は設置されていない。 2015年の一日平均の乗車人員は5人との事。
現在も駅舎は
放置状態で残存している
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の駅跡は、旧駅舎やホームなどの施設と当駅周辺の線路が残存している。 しかし、旧駅舎の東側(表側)と西側(ホーム側)に付けられていた「尾関山駅」の看板や、ホーム上の駅名板は取り外されている。
この駅より先は大河と里と森の
三江線『パラレルワールド』へ
尾関山駅を訪ねたのは秋と路線最後の日、そう3月30~31日の文字通り”最後の時”である。
それまでは駅舎を撮ったのみで、その駅舎を最初に訪ねた時もレンタカーに付いているナビの行き先設定を間違って駅の裏側に出てしまって撮り逃したのである。 駅舎の方は次に訪れた時に何とかなったが、列車の写真は最後の時まで撮れずにいたのである。
三次の街に向けて
最後の脈が発車していった
だが、撮影旅行記の内容として、「最初に登場する駅である尾関山駅の掲載写真が駅舎のみ」というのはさすがに締らないので、どこか撮る場所を探し始めていた。 しかし、「灯台もと暗し」で、すぐ近くに《尾関山公園》という絶好の俯瞰名所があるにもかかわらず、「街から三江線のゆく田舎への移り変わりを表現できる場所はないか」と線路際ばかり見ていたのである。 まぁ、俯瞰写真というのをあまり撮った事がないから、思考がそういう方向や発想に回らなかったのだと思う。
最後の1日にこの場所で撮るまで
「俯瞰」という選択肢は
思いつかなかったよ
だが、尾関山の撮影場所が決まらぬまま3月初めのラス前の訪問での帰路に着く間際、南線区間の上りで唯一撮影可能だった10時台の上り石見川本行きの列車を撮り終えて、レンタカーを返して三次から出る高速バスに乗るまでの待ち時間があって、その時間を潰すのと余ったフイルムを撮りきる目的で《尾関山公園》に立ち寄る。
赤穂事件を起こしたバカ殿・浅野内匠頭の
奥さん・阿久里姫(瑤泉院)は三次の出なんだって
《尾関山公園》は三次市民の憩いの場で、駐車場・トイレ完備の前夜到着して即効車寝をするには好都合な場所だった。 初めはその事が「使えるかな」程度の認識しか持たなかったが、公園の丘の上に登って三次の街を見下ろして、ついに”見つけた”のである。 何を見つけたのかというと、もちろん尾関山駅を飾る掲載写真の撮影場所を・・である。
高温展望台から三次の街を見下ろして
やっと”見つけた”よ
三江線の最初を飾る撮影場所を
もう、最終日の3月末に行く事は決めていたので、3月末の”ファイナル”で訪れた時に真っ先に訪れる撮影地をこの《尾関山公園》と決めてその時を待つ。 だが、三江線の路線廃止は3月末日の31日で、この地域の例年の桜の開花期は4月5~8日位の第一週で、この桜の名所の《尾関山公園》も例年の開花期通りなら「良くて三分咲き程度、最悪はつぼみのみ」の残念な状況での撮影となっていたのである。
例年なら三江線が廃止となる
3月末は開花には早く
「良くて三分咲き」程度の予想だったのが
しかし、季節が三江線の最後を盛大に見送るセレモニーを演出してくれたのか、桜の開花が1週間早まって三江線のファイナルとなる30~31日に盛大に桜が咲き誇る満開となったのである。
その予想を見事に裏切り
山も里も桜の花で染まったのだ
始めは「良くて三分咲き」の思いを持って三次へ車をかっ飛ばし、29日の深夜に着いた《尾関山公園》の駐車場で翌朝の撮影に向けて車の中で仮眠する。 翌朝4時過ぎに起きて、「朝5時台の列車も撮れれば・・」と、夜明け前の微睡み空の中を公園丘の頂上に建つ展望台へ向かう。 公園の頂上丘にあるイベント広場に着くと、満開となった桜が出迎えてくれたのである。
桜に「なごり」の心が通じたのか
廃線となるこの日に合わせて
満開の桜日和となってくれた
これは真にサプライズであった。 本当に春の女神が、三江線を見送るべく満開の桜を演出してくれたのである。 5時台の始発は光量不足で撮れなかったが、7時台と9時台の上りの三次行きは桜満開の中での俯瞰写真ができそうである。
桜で包まれた
尾関山駅に列車が停まる
そして、もう一つの幸運は、30~31日は三江線のファイナルという事で鉄道ファンが多数やってくるのだが、この《尾関山公園》の俯瞰場所は不思議に『撮り鉄』は現れなかったのである。
この俯瞰場所は『撮り鉄』が
狙う”筋”とは少し違うのか
三脚や脚立で場所取りをする
ウザイ奴は一人も来なかったよ
訪れたのは、三江線が廃止になる事で”ついで”に撮る程度の純粋な花見客で、ウザいデカ三脚持ちは皆無であった。 カメラ複数を据え付けた三脚で展望台の柵間際に張りついたりされたなら、邪魔で仕方がないしィ。
だから桜と一緒にこの路線を
心ゆくまで見送る事ができたよ
前述で「『撮り鉄』がいない」と述べたが、桜の咲く位置が尾関山駅と三江線から少しズレている事から敬遠されたのだろうね。 でも、桜の花をはべらして絵を創るには絶好の俯瞰場所だ。 もう、嬉しくなって撮りまくる。
最終日の朝
もう明日は見られない情景を
記憶に擦り込むように
何枚も撮ったよ
それも、翌日の31日も7時台の1本をここで撮ったしィ。 だから、同じような写真の掲載となるけど悪しからず。 それでは、この撮影旅行記の初めを飾る「最後の春」をごろうじろ。
満開の「なごり桜」に包まれて
最後の日の始発列車が三次に向けて
線内ラストの駅を離れていく
三江線よ・・さようなら
そして満開となって見送ってくれた
桜に心から「有難う」
よくよく考えると日本の国の
『武漢ウイルス』防疫が
常に後手を踏んでいる理由は
もはや開催が不能な『東京五輪』の開催に
見苦しく執着しているからである
割とまともな政権運営をしていた安倍政権も
東京五輪成功に執着するあまり
自国民のみに負担と増税を強いて
外国人を優遇する稀代の悪制度『免税店』や
これで支持率が落ちて
不安定となった政権を維持する為に
与党内の『媚シナ』有力議員勢力に媚びて
『武漢ウイルス』が感染拡大する最中に
シナの入国制限を1ヶ月以上も遅らせたりしたからだ
それでシナが日本国中を闊歩して
北海道から感染拡大が
始まったのは周知の事実である
そして世界中で『武漢ウイルス』が蔓延し
この五輪の開催は『武漢ウイルス』の
感染爆発を引き起こしかねない
「国を滅ぼす」に等しい日本国にとっての
悪性腫瘍(ガン細胞)となっている
正直言って多額の援助・支援を受けて
用意された場で努力するアスリート達より
何ら支援も援助もなく日々の暮らしを生き抜く
一般の国民の方がよっぽど努力してるし
護らなければならない存在だ
そして何よりも『武漢ウイルス』を
終息させる事と真逆に
感染源の外国人を際限ナシに流入させて
感染爆発を引き起こし
シナ・チョンにタカられる口実を与える
東京五輪は国を守る為に即刻の中止の英断と
ワクチン接種などの防疫に力を注ぐべきだろう
それと同時に世界の国々で力を合わせ
『原因』であるシナを討ち滅ぼして
『武漢ウイルス』災禍を終息させねばならないのだ
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No Subject * by 鳳山
三江線は廃線になったんですね。島根と広島を結ぶ鉄道は木次線だけなんでしょうか?旧安芸国と旧石見国を結ぶ重要な鉄道だと思うんですが利用客が少なかったんですかね。昔は石見銀山があったから最重要ルートだったと思うんですよ。
Re: No Subject * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。
三江線は路線敷設目的は『陰陽連絡』ですが、江ノ川に沿った為に遠回りとなり、なおかつ全通した昭和50年にはもう中国道があるなど、路線敷設の目的通りに活用されずに終わった路線ですね。
石見銀山も、アクセスは高速道路で三江線は置いてきぼりでした。 昔は江ノ川を渡る術がなかったから、川に沿っての街道が唯一の道となりましたが、橋が架けられるようになると、この地の公共交通の役目は終わりましたね。 元々川戸いは人口稀薄地帯でしたし。
三江線は路線敷設目的は『陰陽連絡』ですが、江ノ川に沿った為に遠回りとなり、なおかつ全通した昭和50年にはもう中国道があるなど、路線敷設の目的通りに活用されずに終わった路線ですね。
石見銀山も、アクセスは高速道路で三江線は置いてきぼりでした。 昔は江ノ川を渡る術がなかったから、川に沿っての街道が唯一の道となりましたが、橋が架けられるようになると、この地の公共交通の役目は終わりましたね。 元々川戸いは人口稀薄地帯でしたし。