風来梨のブログ

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廃線鉄道 第50回 日ノ丸自動車・法勝寺鉄道線

廃線鉄道  第50回  日ノ丸自動車・法勝寺鉄道線 〔鳥取県・島根県〕

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伯備線の電化開業まで
鳥取県では唯一の電化路線だった
日ノ丸自動車・法勝寺鉄道線
※『米子で走った電車』より

日ノ丸自動車・法勝寺電鉄線(ひのまるじどうしゃ・ほっしょうじでんてつせん)は、かつて鳥取県米子市と同県西伯郡西伯町法勝寺(現・南部町)の間を結んでいた日ノ丸自動車の鉄道路線である。
また、1930年より休止となる1944年(正式な路線廃止は1959年)まで、途中の阿賀より県境を越えて島根県能義郡伯太町(現・安来市)の母里(もり)までの支線も保有していた。

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『日ノ丸自動車・電車部』と現在の
JR西のローカル線区管轄の『○○鉄道部』
のような路線名看板が掲げられていた米子市駅
※ 米子市立・山陰歴史館のウェフより

1924年に法勝寺鉄道という名称で開業し、開業当時の名前から地元では『法勝寺電車』と呼ばれていた。 その後、伯陽電鉄に社名を改めている。 ちなみに、『日ノ丸自動車八十年史』(2012年・日ノ丸自動車 刊)では、《伯陽電鉄》という社名は「伯耆と山陽を結ぶ意図を持っていた事から」としているが、『新修米子市史』第三巻(2007年・米子市役所 刊)では「伯陽の陽は旧国名の一字下につける美称で、伯州の意」と記述されている。

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米子市駅で待機する客車牽引電車
ラッシュ時は電車が客車を
牽引する対応をしていたようである
※ 米子市立山陰歴史館のウェフより

山陽地方への延長は行われなかったものの、同規模の地方鉄道にしては珍しく鳥取県から県境を越えて島根県の母里(現・安来市)までの母里支線を開業させている。

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75年の時を越えて
残存する母里駅ホーム
※『旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道 廃線跡』より

しかしながら母里支線の営業成績は芳しくなく、1944年に戦時不要不急路線に指定されて開業から僅か14年の短命で路線休止となっている。 なお、母里支線の正式廃止は1959年で、それまでは休止扱いだった。

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民家の物置として
使われている旧母里駅舎
※『旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道 廃線跡』より

その後、山陰中央鉄道を経て、1953年に地元のバス会社である日ノ丸自動車へ吸収合併されるが、1960年代のモータリゼーションの波に勝てず、1967年5月15日に全線廃止となった。

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日ノ丸自動車・法勝寺鉄道線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離(営業キロ):本線 米子市~法勝寺 12.4km、母里(もり)支線 阿賀~母里 5.5km
軌間:1067mm、複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)、変電所:手間変電所(以前は安養寺変電所)
電気設備:回転変流器(交流側450V直流側600V)直流側の出力100KW・常用1・予備1を所有

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駅跡の半数に駅名標型の
駅跡碑が建てられている
※『旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道 廃線跡』より

駅数:本線11駅・母里支線5駅(起終点駅含む・阿賀駅は本線のみに計上)
本線:米子市・長砂・宗形神社前・安養寺・青木・大袋・手間・天津・阿賀・大国・法勝寺
支線:〔阿賀〕・原・猪小路・与一谷・不動尊・母里
  ※ 長砂・宗形神社前と母里支線の与一谷・不動尊は路線廃止前に駅廃止となっている
運行本数:1959年の時点で、米子市~法勝寺は1日15往復・概ね約60分毎の運転だった

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サヨナラ運転で
花電車となった『法勝寺電車』
※『米子で走った電車』より

  日ノ丸自動車・法勝寺鉄道線 年表
1922年(大正11年)11月16日:法勝寺軽便鉄道に対し鉄道免許状下付
               (西伯郡米子町~同郡法勝寺村・動力蒸気)
           12月28日:法勝寺鉄道株式会社設立
1923年(大正12年)  7月17日:電化完成

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駅があった事の説明と
駅舎の写真が掲示された
法勝寺駅の駅跡碑
※『旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道 廃線跡』より

1924年(大正13年)  7月  8日:法勝寺鉄道 米子町(後の米子市)~大袋開業(旅客運輸)
           7月18日:鉄道免許状下付(西伯郡法勝寺村~能義郡井尻村)
           8月12日:大袋~法勝寺開業(旅客運輸)
1925年(大正14年)  2月12日:伯陽電鉄に社名変更
1927年(昭和  2年)      :米子町を米子市に改称
1930年(昭和  5年)  1月  1日:阿賀~母里の母里支線を開業
1937年(昭和12年)  以降  :与一谷・不動尊の両駅廃止
1944年(昭和19年)  2月11日:阿賀~母里の母里支線を休止
          10月31日:伯陽電鉄と広瀬鉄道が合併し、山陰中央鉄道となる
                 前者は法勝寺線・後者は広瀬線となる
1948年(昭和23年)   4月 1日 :広瀬線を島根鉄道(後に一畑電気鉄道に合併)として分離
1953年(昭和28年) 9月15日:日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を吸収合併し、同社の法勝寺電鉄線
                 となる
1959年(昭和34年)  9月17日:休止中の母里支線・阿賀~母里を廃止
1967年(昭和42年)  5月15日:米子市~法勝寺 全線廃止

国鉄山陰本線と境線の米子駅及び米子電車軌道(1925-1938年)の米子駅前と、当路線の基点駅の米子市駅は、徒歩で10分かかったという。

また、1944年に休止となった母里支線は、「戦時不要不急路線」の指定を受けて当初は廃止の方針であった。 ところが代替輸送機関がない為に地元で反対運動が起き、路線存続の陳情に母里村長が監理局長と面接する事になった。 その後、折衷案として伯陽電鉄は営業廃止許可申請を取下げる事となり、鉄道軌道統制会により営業休止許可となった経緯がある。

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天津駅跡碑
線路跡はあまり道路転用されず
荒地として残っているようだ

1967年のこの鉄道路線の廃止に伴い、鳥取県の鉄道事業者は、1987年10月14日に若桜線が第三セクター鉄道の若桜鉄道・若桜線に転換されるまで、国鉄(→JR西日本)のみとなった。 また、この鉄道路線の廃止に伴って鳥取県の電化路線も、1982年7月1日に国鉄伯備線が電化されるまで消滅し、非電化路線のみとなっていた。

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モータリーゼーションの波に飲まれて
路線廃止となった『法勝寺電車』
※『米子で走った電車』より

  輸送実績
旅客輸送の最大は1962年で、年間で1072000人(1日平均2937人)だった。 貨物輸送の最大は1941年で、14032トン(1日平均38.5トン)だった。

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現在はお色直しを受けて
静態保存されているデハ203号機
※ 米子市立・山陰歴史館のウェフより

  車両と保存車両
  デハ1~デハ3
単車で元愛知電気鉄道9・11・12。 名古屋電車製作所製。 開業時2両、少し遅れて1両を購入した。 1950年にデハ2が廃車、1954年にデハ1が客車フ53に改造されている。 後に車両改番によりデハ3がデハ209となったが、同年11月27日に廃車となっている。

  デハ4・デハ5
ボギー車で伯陽電鉄時代の1930年より使用されている。 元は池上電気鉄道が駿遠電気から譲受した。1922年日本車輌製のデハ1・デハ2である。 車両改番でデハ201・デハ203となった。
なお、デハ201は1964年に、車体に鋼板を貼り付ける簡易鋼体化改造を受けている。

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戦後まもなくの鉄道輸送最盛期に導入された
大型ボギー車両のデハ205

  デハ6
山陰中央鉄道時代の1947年より使用されている。 元は名鉄が尾西鉄道から承継した1922年日本車輌製のモ103で、車両改番でデハ205となった。 1962年に簡易鋼体化改造を受けている。

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中小私鉄を渡り歩いて
米子にやってきたデハ207号機

  デハ7
山陰中央鉄道時代の1948年より使用されている。 元は静岡鉄道モハ8だが、出自は1923年汽車会社製の目黒蒲田電鉄モハ8で、神中鉄道から更に静岡鉄道を経ている。 車両改番でデハ207となった。

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ラッシュ時に運用された客車車両群
3両目が出自が判明するまで
公園で野ざらし放置されていた
英国・バーミンガムでされた貴重な
『日本国内で現存する最古の木造2軸客車』だった

客車は、地方私鉄や鉄道省から譲渡されたモノやガソリンカーのエンジンを撤去しての客車化車両の寄せ集めで、6両在籍していた。 なお、機関車は保有せず、客車は電動車による牽引であった。

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南部町立西伯小学校で保存されていたデハ203
※ ウィキペディア画像を拝借

  保存車両
米子市元町商店街パティオ広場には、法勝寺電鉄線で使われたフ50形客車が保存展示されている。
この客車は法勝寺電鉄線廃止後に米子市内の湊山公園で保存展示されていたが、荒廃が激しくなった為に、2000年に『大正ロマン電車保存事業』として修復が行われた。

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保存に向けてのお色直しの際に
『日本国内で現存する最古の木造2軸客車』という
貴重な車両だった事が判明したフ50形客車
※ ウィキペディア画像を拝借

当初1922年製とされていたが、この際の調査で実は更に古く1887年英国バーミンガムで製造された客車で、関西鉄道が1889年に輸入した日本国内で現存する最古の木造2軸三等客車である事が判明した。
関西鉄道の国有化により国鉄の所属となり、払い下げを受けた出雲鉄道を経て、1941年に伯陽電鉄に入線したモノである。 また、1922年日本車輌製の電車で元駿遠電気20形・池上電気鉄道乙2のデハ203が、南部町立西伯小学校に静態保存されている。

2両とも2011年に『旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両 附関連資料一括』として鳥取県保護文化財の指定を受けている。 なお、デハ203は2012~13年の間にJR西日本の後藤総合車両所で復元作業を実施し、南部町公民館の施設に移送されて、引き続き静態保存されている。


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『武漢ウイルス』災禍と
チョンの背乗り天皇・ヒロヒトを
キチンと処刑・処罰しなかったが為に
招いた在日チョンや南北チョンによる
今日の反日棄損行為の数々・・

コレって全く同じ性質の問題なんだわ
それは事を引き起こした原因を糾弾し
処罰し排除する事を怠ったが為に
招いた災禍だって事である

そう・・『武漢ウイルス』に関しては
世界を我が意で牛耳る為にウイルスを
撒き散らしたシナを糾弾し徹底的に
攻め滅ぼせば程なく終息に向かうだろう

なぜならより感染力の強い変種が
シナと敵対の意を表した英国発で発生し拡散する
などのシナにとっての「都合良さ」は
未だにシナがウイルスの変種・凶悪化を
手掛けて撒き散らしている証拠である

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また日本もチョンの背乗り天皇ヒロヒトが
チョンの抱く『恨』そのままに行った
日本の国を『悪』としての世界謝罪行脚で
日本は「謝って金をタカられる」『謝罪ATM国家』に貶められ
それにつけ入ったチョンやシナに
国の尊厳も国防力も金もタカり毟られたのだ
次回記事のバナー下に続く




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