2021-03-16 (Tue)✎
『路線の思い出』 第432回 近鉄大阪線・大阪上本町駅(地上ホーム) 〔大阪府〕
直系の百貨店と一体となった
ターミナル駅・大阪上本町駅
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
近鉄大阪線営業区間と営業キロ 運行本数(’21)
大阪・上本町~伊勢中川 108.9km 特急(大阪~名古屋)毎時2本
※伊賀神戸停車は朝の1本のみ
(大阪~伊勢志摩)毎時2本
※伊賀神戸停車は毎時1本
急行 毎時3本(朝夕は快速急行)
※内毎時1本は次の駅・青山町発着列車
名張止まりもあり
準急・区間準急 毎時3本(大和朝倉行が多い)
普通 高安・河内国分行 毎時5本
様々な行先の多種の種別が
入線してくる見ていて楽しい駅だ
※ ウィキペディア画像を拝借
大阪上本町駅(おおさかうえほんまちえき)は、大阪府大阪市天王寺区上本町六丁目にある、近鉄・大阪線と難波線の駅である。 大和八木・名張・伊勢方面に向かう大阪線が地上ホーム、奈良線に直通する難波線と大阪難波駅発着の特急列車が地下ホームを使用している。
駅長配置駅で、第3回『近畿の駅百選』に選定されている。 2018年の1日平均乗降人員は77,990人との事である。 近鉄の大阪の主要駅では、大阪阿部野橋駅・鶴橋駅・大阪難波駅に次いで4番目に利用者数の多い駅である。
線路名称上は、当駅を通る路線は大阪線・難波線である(上本町~布施の複々線は大阪線に属しており、奈良線は布施が起点である)。 また、奈良線に直通する難波線は地下ホームなので、この記事では割愛する。
大阪線の起点であり、近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)開業時からのターミナル駅である。
天王寺区上本町六丁目に所在し、(市電→市バス→)大阪シティバスの停留場名が『上本町六丁目』である事から『上六』駅とも呼ばれる。
1970年(昭和45年)の難波線開業によって、奈良線一般列車や特急の多くは大阪難波駅(2009年3月19日に近鉄難波駅から改駅名改称)を発着するようになったが、大阪線一般列車と一部の阪伊特急は依然として当駅地上の頭端式ホームに発着し、ターミナル駅としての機能を維持している。
大阪線の列車が発着する行き止まりの櫛形7面6線の地上ホーム(1階)と、奈良線の列車と一部の大阪線特急列車が発着する相対式2面2線の地下ホーム(地下3階)に分かれている。 地上ホームと地下ホームは、改札内で階段を通じて結ばれている。
百貨店フロアと直結する地上改札口
※ ウィキペディア画像を拝借
改札口は地上に1ヶ所、地下に3ヶ所ある(うち1ヶ所は近鉄百貨店・上本町店の地下2階と直結している)。 特急券・定期券ともに発売窓口と自動発売機で即時購入可能である。 ホームの有効長は、全ホームとも10両となっている。
地上ホームと地下2階に
百貨店と直結の改札口がある
※ ウィキペディア画像を拝借
地上ホームの並びは北から、3番線降車ホーム(片面のみ)・3~4番のりば・4~5番線降車ホーム・5~6番のりば・6~7番線降車ホーム・7~8番のりば、9番のりば(片面のみ)の順となっている。
近鉄の他の頭端式ターミナル駅(大阪阿部野橋駅・京都駅・近鉄名古屋駅など)と異なり、種別毎のホーム区別はなされていない(近鉄奈良駅も類似の状況)。
現在の上本町駅の構内配線図
この完成形に至るまで
駅構造の度重なる変更が行われた
※ ウィキペディア画像を拝借
地上ホームから発車する特急は、8時と9時台の当駅発の賢島行き特急以外は朝の7時から夕方の19時にかけて毎時1本当駅発の阪伊特急が設定されているのみである。 以前は、地上ホームからも名古屋行の特急が平日の朝に1本(土休日は大阪難波始発)発着していたが、2016年3月19日ダイヤ変更時に大阪難波発に変更され消滅している。
なお、8番のりばと9番のりばは同じ線路を共有しており、特急とそれ以外の種別で使用ホームを分けている(特急到着時は8番のりばを降車、9番のりばを乗車用として使う。 それ以外の種別到着時はこの逆)
9番のりばは、2018年1月現在近鉄で最大のホーム番号である(762mm軌間の内部線・八王子線が『四日市あすなろう鉄道』に経営移管され32015年3月末までは、近鉄四日市駅の10番のりばが近鉄では最大のホーム番号だった)。
1914年の開業時は、現在よりも北に駅があった。 駅前には大阪市電が走り、上本町六丁目電停から九条高津線で大阪ミナミの繁華街へ、上本町線で四天王寺、さらには大手前上本町線・谷町寝屋川線経由で大坂城や大阪府庁へ向かえるなど、大阪市街の東玄関として抜群の立地を誇っていた。
大阪の一大ランドマークとなった
旧大軌百貨店を併設した旧上本町駅
※ ウィキペディア画像を拝借
その後、1926年の駅前の道路拡張に伴い、上本町駅は南側に移転する。 この時に日本初の駅ビルが建設され、大阪市内の一大ランドマークとなった。 当初は食堂や貸店舗・本社事務所などが入居していたが、1931年に増改築の上で駅改札口に直結する形で大軌百貨店をオープンさせた。 この百貨店が、現在の近鉄百貨店・上本町店である。 駅ビルは戦後、難波線建設に伴う駅改装工事により建て替えられている。
だが、難波線開業に伴って上本町駅の地位は相対的に低下し、2004年には近鉄劇場が閉鎖している。
その対応策として、近鉄は難波にあった新歌舞伎座を近鉄劇場跡に誘致し、2010年8月に新歌舞伎座・商業施設とオフィスからなる複合ビル『上本町YUFURA(ユフラ)』を建設してテコ入れを図っている。
構内配線の変遷
上本町駅開業時の構内配線図
〔凡例〕青色は貨物ホームで網掛けは降車ホーム
(以下の図も同様)
※ ウィキペディア画像を拝借
開業時は発着線2本をホーム3面が挟むシンプルな構成で、中央を乗車ホーム・両側を降車ホームとしていた。 1926年の移転時には出発線と到着線が立体交差するように駅ホーム設計・建設が成され、出発列車と到着列車の相互支障が生じないよう工夫されていた。 櫛形ホーム手前には降車ホームがあり、ここで乗客を降ろしたあと乗車ホームに入線していた。
1930年当時の上本町駅
降車ホームが独立して設けられ
到着線と出発線が立体交差する構造となったが
一部ホームで配線上直接上り線に合流する事が
できないという問題を生じていた
※ ウィキペディア画像を拝借
1930年には参宮急行電鉄(大軌の子会社で直通運転先)が山田駅まで開通するのに備え、3両編成用の発着線を2線新設する。 1933年にはそのうち一線を6両編成分まで延長、紀元二千六百年記念行事を目前に控えた1939年には、新たに6両編成分の発着線を駅南端に増設している。
これらのホームを発着する4両編成以上の列車は、配線上直接上り線に合流する事ができず、下り線をしばらく逆走したのち、当駅と鶴橋駅との間にある渡り線を使って上り線に合流するという、非効率な運転を余儀なくされていた。
1956年には電後の異なる
奈良線と大阪線を完全分離した
構内配線となった
※ウィキペディア画像を拝借
戦時中の統合政策により近鉄が発足し、迎えた戦後の1956年には、大阪線と奈良線を分離し、線路別複々線とする工事が行われた。 これに伴って上本町駅も改造が行われ、降車ホームと立体交差を廃止して櫛形ホーム9面8線となり、奈良線と大阪線がそれぞれ4線ずつ使用した。
1970年3月1日には、難波線完成に伴い奈良線ホームが地下に移転する。 この時点では難波線内は営業運転を行わず、難波まで習熟運転として往復し、再び上本町から客扱いを行っていたが同月21日に晴れて営業運転となり、この時から地上6線は大阪線専用となっている。 1985年10月には大阪線の10両編成化に伴ってホームを延長し、1993年には引上線を新設している。
幼い頃から近鉄電車を見て育った
ワテは自然に近鉄贔屓となったよ
ワテは自分でも理解するほどに近鉄を贔屓にしている。 それは鉄道を眺めるだけで喜んでいた幼い頃から、今現在もなお近鉄は『私鉄日本一』の地位を築いている・・、鉄道好き少年なら一目おく№1の存在だった事だ。 また、幼い頃に羽曳野市の古市に住んでいて、その自宅の2階の窓から近鉄・南大阪線の列車が行き交うのを眺める事ができたのである。
幼いころからずっと家の2階の窓から
近鉄を眺めて鉄道が好きになった小僧は
狭軌の南大阪線にビスタカー(Ⅱ世)が
行き交う妄想を抱いていたよ
※ ウィキペディア画像を拝借
幼い頃は狭軌の南大阪線にビスタカー(Ⅱ世)が走るという、幼い小僧特有の錯覚と妄想を抱いて育ったよ。 また、オレンジに濃紺の帯を巻く近鉄特急は小僧のワテの憧れの列車で、ともすれば国鉄の特急列車よりお気に入りであった。
その近鉄特急の中でも最もお気に入りが
12400系の『サニーカー』だった
しかも、ワテが撮り鉄デビューをした小学校低学年(齢一ケタ)の時に颯爽とデビューしたビスタカーⅢ世に、更に虜となったモノである。 でも、そのビスタカーはそれから45年経った今でも現役で走ってるから大したモノである。 っていうか、資金繰りの厳しい近鉄では、車両のモノ持ちを良くせねばやっていけないのだろうね。
ワテの『撮り鉄』デビューと同じ年に
搭乗したビスタカーⅢ世は
魔塗装されたものの
45年経った今もバリバリの現役だぁね
また、ある程度学習能力を身に着けた中学時代には近鉄の生い立ちに興味を抱き、近鉄が成立するまでに歩んできた『敵対的路線買収』を生業とし、地権者を自殺に追い込むまでのエグイ『黒歴史』を目の当たりにして、当時好きだった戦国時代の日本史と掛け合わせてますます好きになっていた。
近鉄の『黒歴史』時代に
特急車として走っていたボロ電
小学校の頃から『撮り鉄』に向かうなら、36枚撮りネガフイルムの半分を国鉄の大阪駅で、残り半分は近鉄の鶴橋や今里で『駅撮り』していた。 また、初めて手にした親父が息子の為に買ったのでなく、気まぐれで買って使わなくなった事で初めて手にした(ついでにタナボタ式に、我が所有カメラとなったしィ)一眼レフカメラ『PENTAXのME super』で初めて『駅間撮り』したのも、この近鉄・大阪線である。
初めて『駅間撮り』した一眼レフデビューの時の
『エースカー』は愛嬌のあるイノブタだったが
40年の時を経た今は
バッタに変化していた
※ ウィキペディア画像を拝借
その後は追っかける鉄道のターゲットが『廃止ローカル線』に変って近鉄は追っかけなくなったけど、今でも長野のヤマからの帰り時の名古屋から大阪への移動は、ほぼ近鉄の名阪特急オンリーとなってるよ。
大阪の鶴橋より南に居住するワテは
名古屋や長野への移動では
高くて所要時間もあまり変わらず
座れないし乗り換えを数回要する
シンカンセンは使わず近鉄オンリーだ
※ ウィキペディア画像を拝借
まぁ、住んでる自宅の最寄り駅が近鉄の乗換駅である鶴橋に近い環状線の駅で、運賃は2000円強安く、全席指定で必ず座れて、新大阪到着のシンカンセンとさほど時間の差も生じない(新大阪から大阪まで出て、更に環状線を乗り継ぐ時間を併せると20分弱しか差がつかない)ので、当然と言えば当然である。
近鉄の「様変わり」で
最も改悪なのが長距離急行専用の
この系列の『ロンシー』化だね
※ウィキペディア画像を拝借
かつてはクロスシートで
長距離急行専用車両だった
その近鉄も、かなり様変わりした。 色に寄って種別・配色デザインによって運行区間を個別に表して見ていて楽しい限りだった列車の行先方向板は電光方向幕に変ったし、快速急行・区間快速急行・急行・準急・普通とあった種別も、料金不要の私鉄電車としては日本一の快速を誇っていた区間快速急行が廃止となり、八尾から各停で普通とあまり変わらない区間準急が新設されたよ。
かつての2610系は
長距離急行専用に運用されていて
車内も4扉で少々窮屈だったが
クロスシート車だった
※ ウィキペディア画像を拝借
また、伊勢の宇治山田や鳥羽にいく快速急行や急行は、必ずポックス型クロスシート車が充てられていたけれど、今やその車両はほぼ全てが『ロンシー』(ロングシート)化されて、伊勢に向かう長距離急行の7~8割が、便所前のみにボックス席が1つ残るだけのロンシー化されているよ。
魔改造を受けて
ロンシー化されちまったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
それは、近鉄の一般車両が塗装変更により、マルーン一色からアイボリーにマルーンの帯を巻く『タヌキ塗装』に替えられてからの車内改装(というより改悪)だろうね。 この頃から、この国全体のデザインセンスに疑問を生じるようになっていったよ。
ロンシー化された車両2両目の
便所前に唯一残るボックスシート
※ ウィキペディア画像を拝借
そして最近では、カッコ良く憧れの的であったオレンジに濃紺の帯を巻く近鉄特急伝統の塗装が、見るも無残な配色に切り替えらりた事である。 この塗装は、バッタ顔の『新エース・22000系』以外の特急車両には見るも無残な配色で、魅力をイッキに失ったよ。
新たな塗装デザインは
元からブサイクなバッタで
辛うじて許せるが
※ ウィキペディア画像を拝借
ビスタカーなど元からあった特急車両には
見るも無残な新塗装であった
※ ウィキペディア画像を拝借
それでも上本町駅は、幼き頃の小僧が憧れた列車の運行形態を今も残していて、近鉄を使う際にはよく立ち寄って、列車待ちの時間などに駅観察を行うようになったよ。 まぁ、今の勤め先は、冬から春まで伊賀にある事業所への住み込みの応援が課される事が多いので、この時期は近鉄かJRの関西本線のお世話となる事が多くなるっていうか、今年も3月末まで応援で伊賀と大阪を行ったり来たりしてるんだよね。
その「幼き頃の小僧が憧れた列車の運行形態」とは、同じ種別でも複数の行先があり、また特急以外は種別によって使用ホームが定まっておらず、駅に設置された到着番線と行先表示の案内電光板が、次にどういう種別のどこへ向かう列車かの予測がつかない事も、見ているといい歳こいでちょっとワクワクする。
例えば、急行でも行先が名張・青山町・松阪・宇治山田・五十鈴川・鳥羽と6つ(概ね名張・青山町・伊勢方面の急行が20分おきに運行)あり、それの到着番線が定まってないので、とっても見物のし甲斐があるのである。 また準急も、五位堂・大和朝倉・榛原・名張の4種類、普通も高安・河内国分・五位堂・大和八木・名張とあって、種別ごとに色も分けられているのでカラフルなのである。
昔の「パタパタ式」の駅の案内板だと、その表示の変更は興味津々のシーンで、駅の電光掲示板好きなら、駅にまる1日いても飽き足らない「お腹いっぱい」となれる駅なのである。
セコい長距離客(特急を使わない客)
に対しての近鉄の僅かな良心『L/Cカー』
※ ウィキペディア画像を拝借
そして、次に面白いのが、特急以外は種別によって車両が専用化されていないって事である。
これは種別によって到着番線が定まっていない事も併せて、到着した列車の折り返しの行先と種別が「見てのお楽しみ」となる事である。
その近鉄にもう一つ
「到着してのお楽しみ」が増えた
それはクロスシート・ロングシートと
座席配置変換ができる『L/Cカー』の導入だ
※ ウィキペディア画像を拝借
『L/Cカー』でも
この状態(ロンシー)ならハズレ
※ ウィキペディア画像を拝借
まぁ、近鉄の「利用客の利便より運行上の配車の都合」が理由の全てだと思うが、クロスシート車で急行として到着した列車が、最短区間の『普通・高安行』となったり、準急で到着したロンシーの車両が、伊勢方面の長距離急行の運用に着いたりするのである。
怒りのあまり「つい撮った」1枚
クロスシート車の『普通・高安行』
:
長距離利用客にとって
この運用はないと思いません?
まぁ、長距離急行利用者にとって伊勢方面の急行がロンシーなのは頂けないし、その横で発車待ちをする『普通・高安行』がクロスシート車だと釈然としないモノがあるのだが。
クロスシート車に当たると
その週はツイているような気がするしィ
:
いわゆるおみくじの『大吉』ですね
※ ウィキペディア画像を拝借
とにかく、今週も伊賀に戻らねばならず、日曜の夜に伊賀に戻るべくこの駅を利用するので、「今日の帰りはクロスシート車でありますように・・」と祈るのみである。
近鉄大阪線に乗る時は
コレが来るのを祈ってるよ
※ ウィキペディア画像を拝借
だって、伊賀に着くまでの疲れの度合が、クロスシートとロンシーでは段違いだしィ。
天皇信奉右翼が目論む
チョンの背乗り天皇を操っての
日本の国の乗っ取り手法
それは日本の国家体制を
チョンの背乗り天皇を『国家元首』に据えた
天皇を国の支配者とする
『天皇全体主義』体制の構築だ
云うなれば「天皇の意志は絶対」の
戦前型帝国主義国家に
日本の体制を代える事である
要するに「天皇陛下の為には命も奉げて尽くす」
天皇を批判する者は死罪あるのみという
北朝鮮型全体主義の構築である
パヨクに後れを取って
ほぼ実現の可能性はないものの
奴らの目論む天皇の
『国家元首』就任が達成されると
チョン剥き出しに態度が豹変するよ
要するに『パヨク』も『天皇信奉右翼』も
同じく在日チョンの「日本人成り済まし」で
日本の乗っ取りと隷属支配の手法が異なるだけである
:
それは『天皇信奉右翼』のダブスタな
態度を見てれば一発で判りそうなモノである
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