風来梨のブログ

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廃線鉄道 第49回 大分交通・国東線

廃線鉄道  第49回  大分交通・国東線 〔大分県〕

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交換設備のあった武蔵駅
安岐からこの駅の区間が1961年の
集中豪雨で復旧不能の被害を受けた

大分交通・国東線(おおいたこうつう・くにさきせん)は、かつて大分県杵築市の杵築駅から、国東半島東部にある同県東国東郡国東町(現・国東市)の国東駅までを結んでいた大分交通の鉄道路線である。 1966年4月1日に路線廃止となった。

国東半島は大分県内の中でもきわめて道路事情の悪い地域であり、陸の孤島などと呼ばれていた。
そういう事もあって、杵築高校生の通学をはじめ、地域住民になくてはならない鉄道路線であった。 

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別名『杵築沿海道路』と呼ばれる
国道213号線の国東市までの大半が
大分交通・国東線の線路跡だ
※ ウィキペディア画像を拝借

半島の沿岸部をまわる国道213号は、現在は国東線の線路跡を利用するなどして線形・幅員ともにかなり改良されているが、当時は曲がりくねった未舗装の狭路で、自動車輸送はあまりアテにできなかったのである。 バス交通もあったが、悪路ゆえに現在よりもずっと時間がかかっていた。

そのような悪い交通事情で安定した輸送実績を示していた鉄道路線は、沿線集落の住民の生活の重要な公共交通手段となっていた。 また、みかん栽培やシチトウの栽培が隆盛をきわめる中で貨物輸送の需要も重なり、国東線の経営もすこぶる順調であった。

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道路改良前の国道213号線はアテにならず
鉄道が公共交通機関の主役だった

それ故に最終的には、宇佐参宮線と結んで『国東半島一周鉄道』を形成する構想を持って、富来までの工事が予定されて用地確保もなされていたが、これらは諸般の事情で実現しなかった。 国東~富来間の確保済みの用地は、現在は荒れるに任されており確認するのは困難となっている。

そんな業績が好調な鉄道路線がなぜ路線廃止となったのかというと、1961年10月26日の集中豪雨により、安岐川に架かる第2安岐川橋をはじめほとんどの鉄橋が流失するなど、甚大な被害を蒙ったからである。 また、同時に発生した高波被害により切通しにあった路盤が崩壊・埋没するなど、路線中間部の安岐~武蔵は復旧不能なほどの被害に見舞われた。

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1961年の豪雨で橋脚が
流失した国東線の軌道
※ 国東市歴史体験学習館のウェブより

この為に長期間の不通・バス代行運転を余儀なくされ、その内に国道213号線の道路改良事業が着手され始め、徐々にモータリゼーションの波に晒される事となる。 こうして、この長期不通区間となった安岐~武蔵は、せっかく復旧した武蔵~国東と共に1964年9月1日に路線廃止に追い込まれたのである。

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中間区間の休止で孤立した
武蔵~国東を行き交った〔かもめ〕号
1961年の豪雨災害から復旧した武蔵~国東は
復旧不能で不通となっていた安岐~武蔵と
共に先行廃止となった

その後も残った杵築~安岐は架設の鉄橋を架けるなどして運行していたが、モータリゼーションの波に晒されて輸送量が減少し続け、また被害復旧費用で経営が圧迫されてついに力尽き、廃線後の線路用地を国道213号線の改良工事に供出するべく売却する事に合意して、1966年4月1日に全線廃止となったのである。

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譲渡された紀州鉄道で
最近まで現役だった
元大分鉄道のキハ601形
廃線となった大分交通の車両は
各地の地方私鉄に譲渡された
※ ウィキペディア画像を拝借

また、なぜ国東半島の交通事情が悪かったかというと、半島特有の地形が集落間や地域の中心都市・杵築への移動を困難にしていた為である。 それは、半島の中心部にある両子山から沿岸部へ放射線状の谷が幾筋も形成され、その谷を隔てる隆起で谷筋が仕分けられたような形の地形で、その谷筋に集落が形成されていた。

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国東市内のレストランで
静態保存されている
大分交通・国東線のキハ601〔しおかぜ〕号
※ chakuwikiより

その為、内陸の集落から沿岸部に出るのは比較的容易であるが、隣の谷筋への移動といった集落間の横移動や、半島の付け根にある地域の中心都市・杵築への移動を困難にしていた。 こういった地形に影響を受けて横移動が困難な国東半島の交通事情が考慮されて、半島の沿岸部入口に位置する安岐駅より以北は、主要な谷筋ごとに必ず駅または停留所がさ設けられていた。 従って、駅および停留所同士の間隔が狭く、沿線集落の住民の生活に密着していた路線であった。

潮干狩りの時期には臨時に〔貝掘り列車〕、花見の際には八幡奈多宮の〔花見列車〕を季節運航していた。 また、みかんやシチトウ(畳の表に使用される)の輸送に使われたりと人々に長い間親しまれていた。

そんな路線のエピソードとしては、国東半島の地形に絡む次のような事が挙げられる。 千光寺の坂(八坂停留所~祇園)、祇園の坂(祇園~若宮臨時停留所)、塩屋の坂(志口停留所~安岐)といった急坂は、いずれも坂道の距離が長く、乗客の多い時など一度では上りきれずに後退してしまう事があった。

そのような場合は思い切って戻り、勢いをつけて全速力で上っていったが、それでも上りきれないときには乗客に坂の間だけ降りて歩いてもらう処置が取られたようである。 極めつけは、車両を乗客に後ろから押してもらうような事もあったそうである。 特に戦中戦後の燃料事情の悪い時には、日常茶飯事だったそうである。

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大分交通・国東線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
1961年(昭和36年)10月当時
路線区間と距離:杵築~国東 30.3km、軌間:1067mm、
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(全線非電化)
駅数:22(内 臨時停留所 2)
杵築駅(本駅)・八坂停留所・祇園・若宮停留所(臨時)・杵築町(杵築市駅)・大内停留所・
灘手停留所・守江(もりえ)・東守江(住吉浜)・狩宿(かりしゅく)停留所・
奈多八幡(なだはちまん)・北奈多停留所・志口停留所・安岐・古城(ふるしろ)停留所・
大海田(おおみだ)停留所・武蔵・池の内停留所・綱井・黒津崎停留所(臨時)・小原停留所・国東
  ※ 若宮停留所は日本三大牛馬市のひとつに数えられた毎年12月の若宮牛馬市の際に、黒 津崎
    停留所は海水浴シーズンに黒津崎海水浴場に遊泳に行く客の為に設けられた
運行本数:杵築~国東 16往復半(他、安岐~杵築に区間列車1本あり)
所要時間:全線で1時間15~30分

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創生期の汚職によるゴタゴタに始まり
戦後成長期の安定経営も
気象災害により廃止になるという
運命に弄ばれた路線だった大分交通・国東線

  路線史
1912年に、地元有志によって杵築~富来の敷設申請がされた。 申請翌年の1913年に免許状が下付され、1914年に国東鉄道株式会社を設立する。 会社設立の年に、初代社長が文書偽造行使詐欺横領の罪状で逮捕される事態が発生する。 その影響で、逮捕された初代社長保有の株式は資本金の過半数に達しており、会社の意思決定もままならない状況に陥っていたのが発覚したのである。

その為に申請中であった工事申請が不認可となり、1916年10月に失効する事となる。 その後に再申請を行い、同年12月に再度免許を受ける。 免許が再度下された後すぐに伏用地買収等の準備をおこない、1917年にようやく路線敷設工事に着手する。

ところが、第一次世界大戦の最中に差し当たって人夫が払底し、加えて建設資金も不足した為に工事が遅れて開業の目処が立たなかった。 開業でできぬままに債権者の取立が始まり、軌条を売却し負債に当てたり社員を全員解雇し最低人数を再雇用するなど、会社は倒産寸前にあった。

軌間は、一度目・二度目共に762mmで敷設申請され、工事施行認可申請も同軌間で行われたが、軌道工事着手前の1918年に免許下伏区間の終点・富来町から山口県の徳山市を結ぶ連絡船事業を計画した背景から、設備の不十分さを理由に省線(国鉄→現 JR線)との連絡が可能な1067mmへ変更された 。

1922年2月の株主総会で資本金80万円を26万4000円に減資し、73万6000円を増資して100万円とする事を決議、差引益金を繰越欠損金及び建設費の償却に充当する事とし、さらに債権者に対し減額を依頼するなど財務整理を実行する。 こうして1922年7月に、ようやく杵築~杵築町(後の杵築市)の開業に漕ぎつける。

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劣悪な交通事情の中で鉄道への信頼は高く
大型ボギー車の導入や併結運転など
戦後成長期は安定した経営を示していた

その後は国東半島の劣悪な交通事情から、鉄道に対する信頼が高く経営も順調に推移したが、1961年10月26日に起った集中豪雨により、安岐川に架かる第2安岐川橋をはじめほとんどの鉄橋が流失し不通となる被害に見舞われる。 また灘手停留所付近では、線路が浜辺を通っていたので高波の被害が著しく。線路が曲がりくねってしまったり観音崎の切通しが埋没するなど、被害が甚大であった。

安岐~武蔵は鉄橋が多かった為に特に被害が大きく、長期間にわたって運休する。 バスによる代行運行が行われたが、復旧の目処が立たないままに復旧していた武蔵~国東と共に1964年に廃止となった。
杵築~安岐は仮設の鉄橋を架けるなどして営業していたが、モータリゼーションの進行の影響もあって、1966年4月1日に全線廃止となった。 皮肉にも、路線廃止から一か月後に大分空港が、大分市内から本線沿線の安岐町・武蔵町へ移転する事が正式に発表されたのである。

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交通事情の悪かった国東半島沿岸部と
杵築市街地や国鉄・日豊本線との連絡に
活躍した大分交通。国東線

   大分交通・国東線 年表
1913年(大正  2年)10月  4日:鉄道免許状下付(速見郡八坂村~東国東郡富来町)
1914年(大正  3年)  3月30日:国東鉄道株式会社設立
1916年(大正  5年)
           10月23日:鉄道免許失効(工事施行認可申請期限超過)
           10月29日:鉄道敷設再申請
           12月14日:鉄道免許状再下付(速見郡八坂村~東国東郡富来町)
1922年(大正11年)
           7月 7日:杵築~杵築町(後の杵築市)5.1km開業
           12月24日:杵築町〜守江 4.3km開業
1923年(大正12年)10月  5日:守江~奈多八幡 4.5km開業
1925年(大正14年)12月  2日:奈多八幡~安岐 4.2km開業
1933年(昭和  8年)  7月11日:安岐~武蔵 5.2km開業
1935年(昭和10年)11月30日:武蔵~国東 7.0km開業
1945年(昭和20年)  4月20日:陸運統制令により大分交通へ合同し、大分交通・国東線となる
1961年(昭和36年)10月26日:集中豪雨による鉄橋流失の為に、安岐~武蔵が運行休止となる
1964年(昭和39年)  9月  1日:安岐~国東 廃止
1966年(昭和41年)  4月  1日:残る杵築~安岐も廃止となって、全線廃止される

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豪雨災害に遭うまでは
安定した経営を示して新型車両も
導入された優良路線だったのだが・・
  輸送実績
 1963年 
輸送人員   2212000 人 (1日あたり6060人)
貨物トン数   48677トン(1日あたり133.4トン)

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国東線の貨物輸送を担った
D33型ディーゼル機関車

  車両
 ディーゼル機関車
D33・34 ディーゼル機関車 1954年日立製作所製 耶馬溪線D31・32の同型車

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国鉄キハ09型と兄弟機の
大分交通・キハ50〔ちどり〕号

  気動車
キハ50〔ちどり〕
元北九州鉄道ジハ51→国鉄キハ40331
キハ602〔しおかぜ〕・604〔なぎさ〕
1956年及び1960年日本車輌製造及び新潟鐵工所製のボギー車 国鉄キハ10系がベースで前面非貫通2枚窓 耶馬溪線キハ601・603の同型車
キハ30〔かもめ〕
元佐久鉄道キホハ57→国鉄キハ40305 ボギー車

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3扉ボギー車で戦前の大分交通て
標準タイプの車両だった
キハ20〔はましぎ〕号

キハ20〔はましぎ〕・21〔しらさぎ〕
1935年日本車輌製造製のボギー車
キハ501「さざなみ」
元和歌山鉄道キハ501  ボギー車
  客車
ホハフ201 ボギー客車
ハニフ11・12 片ボギー客車
元国東鉄道キハ11・12
ハフ54
元国鉄ハ4645
ハフ55~57・ハニフ59 2軸客車
  貨車
ワフ203 2軸有蓋貨車
ト203・212 2軸無蓋貨車

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跡形が全くない国東駅跡地
※ ウィキペディア画像を拝借

  路線廃止後
現在は、路盤跡の大部分が国道213号となっている。 また、一部の停留所の待合室が現在もバスの待合として使われていたり、JR杵築駅ホームの外れに国東線乗り換え案内の看板が残っていたりして往時が偲ばれる。 なお、旧杵築町(杵築市)の駅跡は現在バスターミナルとなっているが、よく鉄道時代の呼称の『市駅』と呼ばれる。 同様にJRの杵築駅は、「本駅」と呼ばれる事が多い。


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