2021-02-07 (Sun)✎
廃線鉄道 第47回 松尾鉱山鉄道 〔岩手県〕
分岐元の国鉄(現JR東日本)が
非電化なのに対して
この鉱山鉄道は電化されて
高速運転の電車が走っていた
※ 『思い出の車窓から』より
松尾鉱業鉄道(まつおこうぎょうてつどう)は、かつて岩手県岩手郡松尾村(現 八幡平市)の東八幡平駅と、西根町(現在は町村合併により八幡平市)の国鉄(現 JR東日本)花輪線の大更駅との間を結んでいた鉄道路線である。
運営主体は松尾鉱業の鉄道部であった。 松尾村にあった松尾鉱山と花輪線を結ぶ目的で敷設されたもので、1914年(大正3年)の創立時には手押しトロッコであったが、馬車鉄道→軽便鉄道→専用鉄道と変遷を繰り返した後に、太平洋戦争後の1948年に地方鉄道として開業した。
往時は主力の「東洋一の硫黄鉱山」からの
貨物輸送に加えて「八幡平への観光の玄関口」
として観光客輸送にも活況を呈した路線であった
接続する花輪線が現在に至るまで非電化の中、当路線は直流1500 Vで電化されており、大更駅構内にも架線が張り巡らされ、松尾鉱山で採掘された硫黄鉱石をはじめ、その他各種物資の輸送に大きな役割を果たした。 鉱山町に住む従業員や家族の為、阪和電気鉄道から譲渡を受けた高速電車を投入して旅客輸送も行い、八幡平を訪れる観光客の重要な足ともなっていた。
地方の鉱山鉄道では稀の全線電化に
加えて高速電車を投入までして
観光客輸送に力を入れたのだが
※ ウィキペディア画像を拝借
だが、石油精製の際に出る硫黄の脱硫が義務づけられ、その副産物として回収硫黄(脱硫工程で産出される副産物としての硫黄)の普及によって硫黄鉱山の需要をほとんど失い、松尾鉱山は1969年に鉱業会社が倒産し操業が停止する。 その後は、新会社を設立して黄鉄鉱に絞って操業が再開されたが長続きせず、3年後の1972年に鉱業会社が鉱業権を放棄して完全閉山となった。
それに伴って硫黄鉱物輸送を主目的とした当路線も、閉山と同じ年の1972年10月9日限りで路線廃止となり、「雲上の楽園」「東洋一の硫黄鉱山」と謳われ栄えた鉱山と運命を共にしたのである。
松尾鉱山鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線区間と営業キロ:大更~東八幡平 12.2 km、軌間:1067 mm
駅数:4駅(起終点駅含む)〔大更〕大更・田頭(でんどう)・鹿野(ししの)・東八幡平
複線区間:なし(全線単線)、電化区間:全線電化(直流1500 V)
多客時は複数つないだ客車を
電気機関車で牽引していた
※ 地方私鉄1960年代の回想より
運行形態
1967年(昭和42年)10月当時
旅客列車の運行本数:大更~東八幡平 11往復
所要時間:全線21~23分
鉱山の繁栄と共に栄え
鉱山の閉山と共に終焉を
向かえた目線であった
松尾鉱山鉄道・年表
1914年(大正 3年)12月 手押しトロッコとして開業
1929年(昭和 4年) 3月 内燃化 車両はアメリカプリマス1台、ホイットコム2台
1933年(昭和 8年)11月 6日 専用鉄道免許状下付
1934年(昭和 9年) 3月30日 専用鉄道開業(松尾村~大更村)
1948年(昭和23年) 3月15日 屋敷台~大更が地方鉄道として開業
1951年(昭和26年) 8月10日 直流1500 Vにより電化
1951年(昭和26年) 7月 2日 バス事業開始 元山~変電所~屋敷台 6.0キロ・1日5往復
1960年(昭和35年) 路線・貸切バス事業を八幡平観光に移管
1962年(昭和37年) 1月 1日 屋敷台を東八幡平に駅名改称
1967年(昭和42年) 八幡平観光が八幡平観光道路開通に合わせ岩手県北自動車と共同運行
で、盛岡~八幡平頂上の直通バス運行開始
1968年(昭和43年)12月18日 会社更生法申請
1969年(昭和44年)12月12日 全列車運休(その後貨物輸送のみ再開)
1970年(昭和45年) 2月 1日 旅客営業廃止(実施)
1970年(昭和45年) 2月 5日 八幡平観光がバス事業を岩手県北自動車に讓渡
1972年(昭和47年)10月10日 全線廃止
鉱山から搬出された
硫黄鉱物を運ぶ貨車列車
※ ウィキペディア画像を拝借
輸送実績
旅客輸送最盛期の1966年で、年間583000人(1日あたり1597人)
※ 旅客営業は、運営企業の鉱山会社の倒産年の1969年の暮れに休止の後、翌年に廃止となっている。
貨物輸送は最盛期の1952年で年間749181トン(1日あたり2052.6トン)
鉱山会社の会社倒産後の1970年は、年間261166トン(1日あたり715.5トン)
※ 鉱山会社倒産後は、新会社を設立して黄鉄鉱に絞って操業を再開したが、1972年に鉱業権を放棄して
完全閉山となる。
使用車両
阪和電気鉄道より譲り受けたモヨ100形を
単行運転可能な両運転台に戻して
高速電車として使用していた
※ ウィキペディア画像を拝借
電車
旅客車輌は、阪和電気鉄道より譲り受けたモヨ100形を単行運転可能な両運転台に復元し、塗装はクリームとマルーンに塗り分け、モハ20型として使用していた。 寒冷地につき冬期は中央扉は締め切りとし両端の扉は半自動としたいた。観光シーズンになると盛岡駅発の国鉄の気動車が乗り入れてくるので、それを連結して東八幡平へ運転していた。 廃止後、弘南鉄道に譲渡され、同社モハ2025・2026となっている。
客車は元国鉄で廃車となった客車を
かき集めて保有していた
客車
元国鉄の廃車両を数両譲り受けて使用していた。 客車は多客時に電気機関車に牽引されるか、電車牽引のトレーラーとして使用されていた。
八幡平市松尾民族資料館内に
静態保存されている
ED25型電気機関車
※ ウィキペディア画像を拝借
電気機関車
ED25形:1951年東芝製の入換用電気機関車。 主力のED50形の代わりに、本線の列車を牽引する事もあった。
路線廃止後は長年スクラップとして
産廃処理業者のゴミ捨て場に放置されていた
※ 八幡平市松尾歴史民俗資料館のウェブより
路線廃止後はED252は廃車となり、ED251も同様の処分となる予定で盛岡市の廃棄物処理業者の処分場にゴミの山と共に放置されていたが、1993年に八幡平市により買い戻され、松尾村歴史民俗資料館(現・八幡平市松尾歴史民俗資料館)で静態保存されている。
路線往時は貨物輸送の
主力だったED50型
※ ウィキペディア画像を拝借
ED50形:1951年日立製作所製の当路線主力機関車。 路線廃止後は秩父鉄道に譲渡され、同社のデキ107・108となっている。
過ぎたる『デジタル』が何故に危険なのか?
それは『デジタル』を使うに当たって
その使用過多によって生じる弊害を
全く考慮しないからである
それはPCを扱う技能次第では
相手の権限を冒してでも侵入し
自身の快楽のみを求める
思考となり得るからだ
またその造られた偽りの快楽により
バーチャルと現実の区別ができずに
現実空間でバーチャルを繰り広げる
アホが必ずいるって事である
そしてそれよりも危険なのが
その過ぎたる使用により感性や想像力
辞書で掘り下げて調べるといった事で
身に着く分析力や考える能力が
枯渇・欠落していく事だ
上記の懸念より更に危険なのが
ネット情報のみを信じその情報が
正しいモノなのかの分析をしなくなり
結果・・大衆扇動を受けるって事だ
これを悪用してるのがパヨクであり
チョンが乗っ取ったマスニダである
アメリカもデジタルによる不正の限りで
政府をシナ傀儡に乗っ取られたのだから
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