2021-02-07 (Sun)✎
『路線の思い出』 第425回 柳ヶ瀬線・中ノ郷駅跡 〔滋賀県〕
訪れてからもう15年近く経つなぁ
この頃は駅名標のレプリカが
明らかにレプリカと判るモノだったよ
《路線データ》
営業区間と営業キロ 廃止を控えた末期の運行本数
木ノ本~敦賀 26.1km 木ノ本~敦賀 下り6本・上り7本
木ノ本~中之郷 下り1本
休日に上り全区間に2本の運行あり
一部は米原駅・彦根駅より直通
柳ヶ瀬線の路線図
※ グーグル画像を拝借
柳ヶ瀬線(やながせせん)は、かつて北陸本線の木ノ本駅と敦賀駅を結んでいた国鉄の鉄道路線で、元々は北陸本線の一部であった。 だが、1957年10月1日に疋田ループを通る現路線の完成により、地域輸送のため支線として残されたものである。 だが、支線降格後も、元々が人口稀薄地域であったが為に業績は振るわず、営業係数が1000を越える事態に陥り、1964年5月10日限りで柳ヶ瀬線を全線廃止し、翌5月11日より国鉄バスによる代行輸送が開始された。
同じレプリカでも1992年当時の
駅名標の方がワテ好み
※ ウィキペディア画像を拝借
中ノ郷駅(なかのごうえき)は、かつて滋賀県伊香郡余呉村中之郷(現・長浜市余呉町中之郷)にあった国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。 1964年の5月10日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。
北国街道沿いの宿場町にあり、北陸本線が長浜から金ヶ崎(現在の敦賀港駅)まで延伸した時に設置された駅である。 本線時代には、駅弁売りも出るほどの活況であったという。
この駅は補機付け替えに特化された駅で、貨物列車の編成は隣接する木ノ本や高月で行われた。
最盛期には複合式2面9線という構造で、上下ホーム間に3線と上りホーム南側に側線3本、下りホームの西側に側線3本あった。
戦後は、本線時代の優等列車停車駅でありながら旅客ホームは1面1線で、通過線が1本、そして待避線及び側線が何本も枝分かれしていた。 また、転車台、給水塔があった。 転車台と待避線の間にあったホームは、戦前は主に下り線用として使用されていたが、戦後は使用されずに鉄柱も取り払われて草むしていた。
支線に格下げとなった柳ヶ瀬線時代にはそれらの設備はすべて撤去し農地に戻され、給水塔・転車台のみが離れ小島のように農地の中に取り残されていたという。 駅員は数十名から2名に減らされたが、それでも柳ヶ瀬線唯一の駅員常駐駅であった。
上記の如く柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えの為に全ての列車が停車する重要駅であったが、北陸本線の新線建設に伴う路線の付け替えにより『柳ヶ瀬線』という支線に降格している。
その後、1963年9月30日の新線の複線化完成に伴って、疋田の先の鳥原信号所で北陸本線に合流して敦賀に向かっていた柳ヶ瀬線が、複線化開業後に敦賀へ向かう為には新線の下り線の線路を使用せねばならない(複線化された新線は上下線が離れた位置を通るので、上下の渡り線を設ける事が困難だった)問題が発生する。
この事で敦賀まで柳ヶ瀬線全列車(上下13本)を走らせる新線の下り線と上り線のつり合いが取れなくなり、それによって北陸本線全体の輸送力の減退を招く事や、何より下り専用線に上下列車を走らせる事は運行の安全上の問題となる事を危惧した国鉄当局は、柳ヶ瀬線の疋田~敦賀の運行休止に踏み切ったのである。
これで新線開通翌日の1963年10月1日に敦賀〜疋田が運行休止となって、バス代行運転となったのである。 この柳ヶ瀬線運行休止によって敦賀〜疋田が分断された事で営業係数が更に悪化して、支線降格後7年の1964年5月に全線が廃止となって国鉄バスに代替された。
柳ヶ瀬線の路盤は国道に転用され、駅跡は余呉町役場(現在は長浜市役所余呉支所)となっていて、ホーム(一部のみ)には駅名標のレプリカが立っている。 周囲の施設跡は、一旦農地に戻された後に売却されて建物が建っている。 駅名は正式には『中ノ郷』であるが『中之郷』と表記される事も多く、駅名標のレプリカも初代が『中の郷駅』、取り替えられた現在は『中之郷駅』と表記されている。
支線転落後はデビュー当時の
キハ52が運用に就いていたという
:
ワテが小坊の時の40年チョイ前は
柳ヶ瀬線列車の運用の名残りからか
敦賀までは気動車が運行していた
今回取り上げる北陸本線の旧線である柳ヶ瀬線の中ノ郷駅は、『○鉄・黒歴史』認識時に、この時に鉄道より興味のあった戦国時代の城址や古戦場跡を訪ねる事を理由付けとして「ついでに立ち寄った」モノである。
でも、当時は『○鉄』に関わる行動を、自身の恥ずかしい「黒歴史」として認識してはいたが、それでもかつては冬の駅寝も厭わないなど『情熱大陸バカ』なる熱き思いをもって追っかけていた事もあって、立ち読みの鉄道雑誌(確か『鉄○ファン』だったかと)で初めて知った北陸本線の旧線で新線付け替えに伴い支線に格下げられ、その後「邪魔な路線」として廃止となった柳ヶ瀬線に、情熱を持って追っかけた廃止ローカル線との同じ香りを感じたのである。
その鉄道雑誌にも載ってなかった
現存する唯一の駅舎跡である
柳ヶ瀬駅はバス停待合所となっていたのを
通りすがりで見つけたよ
:
でも『○鉄・黒歴史』が邪魔して写真は撮らず
なのでウィキペディア画像を拝借
それでも、何かの理由づけがないと『○鉄』関連に踏み切る事に躊躇する変な拘りの権化のこのタワケは、必死になってこの鉄道遺構を訪れる『理由』を探す。 するとあったよ。 織田信長に攻められ自刃した北近江の戦国武将・浅井長政と、同じく信長により7日あまりで滅ぼされた朝倉義景に関わる戦国時代の遺構めぐりである。
小谷城は長浜が秀吉の統治となると
廃城となりほとんどの遺構が
取り壊されたという
長政の親父である久政が
城将として守った小丸跡
:
久政もこの地で自刃したと伝えられる
※ 上下2枚ともウィキペディア画像を拝借
めぐるルートとしては、まず最初に浅井長政自刃の地となった小谷城址である。 城跡は完全に野に還っていて、見どころ!?といえば城の石垣や馬洗場の跡などの石造りの遺構と、枯草の荒野である浅井長政自刃の地となった赤尾屋敷跡くらいだろうか。
浅井長政が自刃したと伝えられる
重臣・赤尾清綱の屋敷跡も
枯草の荒れ野となっていた
でも、浅井長政の肖像画を見ると、どう見ても40前後のオッサンで、とうてい描かれた頃の25~26歳とは思えない事が、ワテが浅井長政に興味を抱くキッカケとなったのは藪の中に。
どう見ても40を越えたオッサンと
しか思えない25~26歳当時の
浅井長政の肖像画
:
ちなみに浅井長政が自刃したのは29歳の時
※ ウィキペディア画像を拝借
その次に、上述の立ち読みの鉄道雑誌で知った柳ヶ瀬線の訪問・・、違った「ついでに立ち寄り」だ。
立ち読みで鉄道雑誌に乗っていた記事を舐めるように見て、記事内容をある程度暗記して、中ノ郷駅の跡が余呉町の町役場前にある事やトンネル内で何度も死傷事故を起こして『魔のトンネル』と云われた『柳ヶ瀬トンネル』、新線との合流点手前にある疋田駅の跡は幼稚園となっていて、ホーム跡の石垣が今も残っているなどの事前知識を得る。
まぁ、それでもこの雑誌を買わなかったのは、自身が『黒歴史の復活』に呑まれる事を恐れてか、はたまたいい歳した大人が雑誌を買う金さえ惜しむ「コス辛い」だけのロクデナシだったからだろうか・・は謎のままに。
駅ホーム跡に立てられた
駅跡だった事を示す説明板
※ ウィキペディア画像を拝借
そうして「ついでに立ち寄った」中ノ郷駅跡は、雑誌の記述通りに余呉町の町役場前に有り、ホーム跡に駅名標のモニュメントも立てかけられていた。 そして、町役場との前には国道365号線が通っている。
町役場(余呉町は合併吸収されて長浜市となったので、現在は長浜市余呉支所)があるなど駅跡周辺は余呉町の中心市街地で、古くは北国街道の宿場町として栄えた所で、現在の新線上に設置された余呉駅より市街地となっている。
刀根坂の古戦場跡
:
ここで織田勢の猛追撃にあって
大敗を喫した朝倉氏は
その7日後に滅亡した
その次の訪問地は、織田信長の小谷城攻めに対して浅井長政の救援をすべく後詰めに出陣した朝倉義景が、後詰めに陣を配した大嶽(おおづく)城が嵐の夜に乗じた織田勢によって落とされ退却を余儀なくされ、その退却中に織田勢の追い討ち受けて滅亡につながる大敗を喫した《刀根坂の戦》の古戦場跡である。
朝倉氏滅亡の戦いとなった
刀根坂の戦い
※ ウェブサイト・敦賀の歴史より
この狭い峠道で
両軍合わせて5万の大軍が
合戦に及んだのである
この戦そのものは、歴史通に「ダメ武将」の評価を受けている朝倉義景が、信長をして簡単に読まれる撤退行動をとっての自滅に等しい大敗であるが、こんな狭い峠道に撤退する朝倉2万の軍勢と追い打ちする織田勢3万が入り混じったというのは、地勢的には奇跡的な事だと思うよ。
柳ヶ瀬トンネルの雁ヶ谷ポータル
この付近にトンネルの煤煙対策の
築道換気幕操作と煤煙監視目的に
設置された雁ヶ谷駅があったらしい
:
鉄道時代は事故が頻発した
『魔のトンネル』も
片側相互通行の車道トンネルに
※ ウィキペディア画像を拝借
そして、当時も本心として訪れたかった『○鉄・黒歴史』の総本山である柳ヶ瀬トンネルである。
この近江・越前の境にあるトンネルの長さは1352mとの事で、開通当時の鉄道創生期時代(1884年)は日本一長いトンネルだったらしい。
なお、現在は県道140号線上の車道専用トンネルとなっていて、トンネル幅を拡張したとはいえ単線だった事ですれ違いが困難な大型車の通行は禁止され、また歩行者は危険な為に通行禁止となっている。
でも、このトンネルを「歩いて渡ろう」と目論んだロクデナシのタワケって・・。
柳ヶ瀬トンネルの福井県側
:
かつての『魔のトンネル』は
なかなか青にならない
『魔の信号』となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
そして何より凄いのが、行き違いを防ぐ為にトンネルの通過が「狭き門」となっている事だ。
それはトンネルのポータル両側に進入信号機が設けられた『片側相互通行』となっているが、『進入可』の青信号が30秒あまりなのに対して『トンネル前待機』の赤信号は5分以上とかなり待たされるのである。 これでヌケヌケと歩いていったら、交番につまみ出されるだろうね。
こんなのが撮りたくて
トンネルを歩く事を画策したのだが
:
トンネル内を歩くと交番に
つまみ出されかねない違った意味の
『魔のトンネル』となっていたよ
※ グーグル画像を拝借
でも、このトンネルは勾配でスリップした列車が暴走したり、滋賀県側の洪水がトンネルを伝って福井県側に流れ込んで地盤が脆弱な福井県側の民家が流失被害にあったり、勾配で車輪が空転した蒸気機関車がトンネル内で立ち往生し、その煤煙によって火災や窒息死亡事故が発生するなど、『魔のスポット』だったトンネルである。
それでも往生際悪く
車をトンネル手前200m程先に止めて
入口まで歩いてコソっと撮影するタワケ
:
この後走って車に戻ったので
トンネル入口の写真は撮れず
でも、今は周辺に住む地元民か、一部の好き者以外には「対して必要のない」トンネルとなっている。
それは、このトンネルのすぐ上を北陸自動車道が通り、車は時速100km以上で県境を駆け抜ける事が可能だからである。
また、高速道を通らずとも、長年県道140号線と同じく峠道だった国道365号線の椿阪峠も、2014年に『椿坂バイパス』が開通して難路の峠道は大幅に解消されている。 また、こんな峠地帯を周らずとも、素直に一級国道の国道8号線を周ればいいのである。
ホーム跡を敷地の一部に
幼稚園が建てられていた疋田駅跡
:
やっとこさ駅跡を発見したものの
『○鉄の黒歴史』の意識が邪魔をして
「幼稚園撮るのも何だしィ」と写真撮らなかったよ
なのでウィキペディア画像を拝借
この『魔のトンネル』を抜けると県道140号線は福井県に入り、『魔のトンネル』の頭上を越えてきた北陸道と並走しながら国道8号と合流する。 なお、柳ヶ瀬線の途中駅であった刀根駅の敷地は北陸道の『刀根PA(下り車線)』に転用され、疋田駅跡には幼稚園(現在は幼稚園は閉園して公民館となってるらしい)が建ち、ホームの石垣も残っている。 でも、疋田駅跡は住宅街で判り辛い。
ワテがデジタルを「使い物にならない」
「デジタルカメラに換える位なら
写真を辞める」と言った訳
それはデジタルカメラが
失敗をすぐに消去する癖の着く
人間の能力を枯渇させる
『魔のシステム』であるからだ
これによって失敗の原因を
探求する為に頭を使う事が無くなって
想像力や分析力と言った
人間にとって大切な能力が
使われずに枯渇していくのである
次にパソコンの知識と技量があれば
夜に「ビダ止め」など相対性理論に反する
「有り得ない」写真を自在に偽造できる
存在そのものが『ニセモノ』だからだ
そして階調も所詮は「あるなし」の
2進法で奥深さが全くなく
扱っていても楽しみを見出せないからだ
フイルムはこの記事の上部に載せた写真の様に
40年経っても鮮やかに再現され
また色褪せても経年を証明する貴重な資料や
『お宝写真』として手元に残るのである
だがデータとしての維持が困難な
デジタルにその可能性は皆無だ
:
まだまだあるけど
それは次の機会に
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
北陸本線の北陸トンネル付近も、スイッチバックの旧線があったようですね。 そして柳ヶ瀬線は、かなりドラスチックな出来事が多発し、また廃線に追い込まれたトドメの理由も、「新線では受け入れられないから部分休止」と、廃止ローカル線に通じる感情がありましたね。
米原~敦賀をキハ52が走っていたのは、交直セクションの影響だったのですね。 私はてっきり柳ヶ瀬線から米原への直通列車があった名残りだと思っていました。 九州の妻線の廃止後も、宮崎~佐土原に列車が運行されたのと同じように。
北陸本線の北陸トンネル付近も、スイッチバックの旧線があったようですね。 そして柳ヶ瀬線は、かなりドラスチックな出来事が多発し、また廃線に追い込まれたトドメの理由も、「新線では受け入れられないから部分休止」と、廃止ローカル線に通じる感情がありましたね。
米原~敦賀をキハ52が走っていたのは、交直セクションの影響だったのですね。 私はてっきり柳ヶ瀬線から米原への直通列車があった名残りだと思っていました。 九州の妻線の廃止後も、宮崎~佐土原に列車が運行されたのと同じように。
柳ヶ瀬トンネル * by きゃみ
こんばんは。
柳ヶ瀬トンネルは歩行者通行禁止なんですね・・・。手前で折り返すか、車で行く必要がありそうです。
できれば公共交通機関で行きたいので、新疋田から疋田まで歩いてバスでトンネル入口まで行き、敦賀に出ようかなと思います。実現できるかわかりませんが・・・。
柳ヶ瀬トンネルは歩行者通行禁止なんですね・・・。手前で折り返すか、車で行く必要がありそうです。
できれば公共交通機関で行きたいので、新疋田から疋田まで歩いてバスでトンネル入口まで行き、敦賀に出ようかなと思います。実現できるかわかりませんが・・・。
Re: 柳ヶ瀬トンネル * by 風来梨
きゃみさん、こんばんは。
柳ケ瀬トンネルは、歩行者は自転車の軽車両共に進入禁止なんですよね。 また、路線バスも、集落のある柳ケ瀬で打ち止めのようです。 新疋田側は新疋田から疋田駅のあったところまでコミュニティバスが運行してるようですが、これもとトンネル方面へは向かわないでしょうね。
限りなく、訪れるには車が必要な所のようです。
柳ケ瀬トンネルは、歩行者は自転車の軽車両共に進入禁止なんですよね。 また、路線バスも、集落のある柳ケ瀬で打ち止めのようです。 新疋田側は新疋田から疋田駅のあったところまでコミュニティバスが運行してるようですが、これもとトンネル方面へは向かわないでしょうね。
限りなく、訪れるには車が必要な所のようです。
「40年チョイ前は柳ヶ瀬線列車の運用の名残りからか敦賀までは気動車が運行していた」
湖西線も当時は近江今津~敦賀の各停は気動車でしたね。交直セクションの影響もあったのでしょうか?