風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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リハビリ出撃で開いちゃうので・・ その2

術後のリハビリと、今年の『姫始め』じゃなかった『事始め』で小旅行をする1/30~31の土日は記事を書けないので、約二週間の空白が開く→人気の無いブログには致命的なダメージという事で、ツナギの記事の第二弾おば・・。

掲載前から言う予想だけど、ウチのブログはこういったイベント記事だけは、割と好評なのよねぇ。
それは使い回しとはいえ、『お宝写真』をふんだんに掲載してるからだろうね。 それでは、第二弾の私鉄路線おば・・。



  秋田内陸縦貫鉄道 〔秋田県〕
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山里の無人駅に
一番列車がやってきた
樹の枝に雪が乗っていればなぁ

日本三大銅山の1つである阿仁銅山の鉱石産出の為に建設された路線。 建設路線名は、鷹ノ巣と角館を結ぶべく『鷹角線』と呼ばれていた。 その両端からの既存線である阿仁合線と角館線が国鉄再建法により廃止転換対象の候補に挙がり、未通区間の建設も凍結された。 これを受けて未開通区間の建設再開を条件に、地元自治体主導の第三セクター方式により1986年11月経営移管された路線。 

路線経営は御多分にもれず厳しく、県議会の議題で常にこの路線の存廃が取り挙げられるとの事。
元来、鉱山のある山奥で沿線人口も鉄道を必要とする程に多いとは言えず、鉱山の閉山後は過疎化が進み、並走道路も整備されて鉄道の存在意義が失われつつあるからである。

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派手な塗装の急行専用車両を使用する
急行【もりよし】号

運行の特徴としては、料金が必要の急行列車が運行されている事である。 専用のロマンスカーを投入して、シーズン時には女性添乗員も同行するとの事。 また、沿線観光地に祭などのイベントがあると、観光客を誘致すべく急行・イベント様式車輌を使っての臨時列車が運行されている。

沿線は“マタギの里”として有名で、また自然の宝庫でもある。 森吉山の高山植物や『安ノ滝』など、周囲の渓谷に掛かる名瀑は是非とも訪れたい所である。



   近鉄・伊賀線(現 伊賀鉄道) 〔三重県〕
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好きだったのは近鉄時代の伊賀線で
今の東急車両には興味ありましぇ~ん

関西本線の伊賀上野と上野市(現 伊賀市)の中心街を結ぶべく、『伊賀軌道』により伊賀上野~上野市が建設(1916年)されたのが、この路線の始まりである。 上野市~名張(後に伊賀神戸~名張は廃止)が完成したのは、1922年の事である。

1926年に伊賀上野~名張の全線で電化される。 その年に、社名も『伊賀電気鉄道』に変更される。
その後の『伊賀電気鉄道』は、阪伊を結ぶ幹線鉄道網の形成を目論む『参宮急行電鉄』からの経営圧迫を受ける事となる。

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この頃のボロ電は
今の車両より断然カックイイ

『参宮急行電鉄』は、阪伊を結ぶべく伊賀神戸~名張に並走路線を敷設する建設事業を立ち上げる。
これが完成すると経営の立ち行かなる『伊賀電気鉄道』は、完成前年の1929年に『参宮急行電鉄』の同系会社である『大阪電気軌道』に譲渡・吸収される事となる。 これによって、伊賀地域の鉄道敷設免許は『参宮急行』の掌中となる。

1931年には、阪伊を結ぶ幹線鉄道を完成させた『参宮急行電鉄』に伊賀線は譲渡される事となる。
その10年後には、『大阪電気軌道』と『参宮急行電鉄』は併合し、『関西急行鉄道』を経て1944年に『近畿日本鉄道』、いわゆる『近鉄』となるのである。 なお、重複区間の伊賀神戸~西名張(名張より駅名変更)は、1964年に廃止となっている。

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信号と木の架線電柱
味あるなぁ

このように非情なる合併劇の末に近鉄の路線となったこの路線だが、近年は近鉄の経営不振という波にさらされる事となる。 2005年末に近鉄は、赤字路線である伊賀線からの運営撤退の意思がある事を表明したのである。 

そして2007年にはその意思に従うべく、近鉄によって伊賀線の事業廃止届と、撤退後の受け皿会社である『伊賀鉄道』の設立がなされる。 こうして、この年の10月1日をもって『伊賀鉄道』に経営移管されたのである。



  近鉄・大阪線 〔大阪府・奈良県・三重県〕
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最も好きな形式は
この12400形だったよ
でも今の塗装は頂けないね

上本町~桜井は『大阪電気軌道』(以下『大軌』)、桜井~伊勢中川は『参宮急行電鉄』によって建設された路線である。 建設に際しては、鉄道敷設免許をめぐっての策謀を用いた熾烈な争いが繰り広げられたようである。

路線建設の始まりは、1914年に『大軌』が大阪~布施を開業させたのが始まりである。 その後は『八木線』として延伸を続け、1924年には八尾、翌年には大和高田~八木と八木方向からも建設を手掛け、1927年にはこの二つの路線の間をつなげて八木までを全通させている。

1924年頃から路線建設を急いだ理由として、『大軌』は1923年に奈良の西大寺から橿原神宮までの路線を開通させていたが、これは奈良を迂回する遠回りルートで、直接大阪からショートカットされた路線を保有する事でこの弊害を解消し、同時にこの地での主導権を確固たるものにする為だと推察できる。

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『エース・カー』の祖先は
昆虫(バッタ)ではなく
哺乳類(イノブタ)だった

もう一つの理由として、並行して現在の南大阪線の前身である『大阪鉄道』が、1923~29年に阿部野橋~橿原神宮間を開通させた事が挙げられる。 また、1928年には『吉野鉄道』が橿原神宮~吉野を開通させており、これによって橿原神宮や吉野への行楽客を『大阪鉄道』と奪い合う事になる。

『吉野鉄道』や『大阪鉄道』が狭軌で直通運行が可能なのに対し、『大軌』は標準軌で乗換を要するという不利を抱えた危機感から、あらゆる策謀をめぐらすようになる。 まずは、強引な乗客の呼び込みと三線軌条化による直通電車の運行である。

そして次なる策は、橿原神宮から吉野までの敷設免許を取得し、『吉野鉄道』沿いに並行路線を敷設させるべく“脅し”をかけて傘下に取り込む画策をしたのである。 この当時に「敷設免許を交付された」という事は、沿線地権者の抱き込みが成功したという事なのである。 これに屈した『吉野鉄道』は、1929年に『大軌』に合併吸収される事になる。

これによって、軌間は同じものの“競争他社路線”となった吉野へのルートは、『大阪鉄道』にとって“近くにあって手の届かぬもの”となってしまったのである。 その後は、『大軌』との競合での過剰な投資が原因で経営が行き詰まり、競争相手である『大軌』の援助がなければ立ち行かなくなり、やがてその傘下に落ちる事になる。

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ハッキリといいましょう!
今のワテより撮るの上手いです

そして『大軌・吉野線』に乗り入れを許されたのは、『大軌』に株式を掌握されその傘下に落ちる事が確定した時からである。 その後、『大軌』から名称を変えた『関西急行鉄道』に合併吸収(1943年)される事となる。

当時『大軌』には、『大阪鉄道』の他に『大和鉄道』という障害があった。 この『大和鉄道』は今の田原本線の前身で、『大軌』のテリトリーである奈良・橿原地域の王子~田原本に路線を有していた(後に桜井までの延伸も果たしている)。 また、いち早く桜井から名張に至る敷設免許を有しており、正に『大軌』にとっては“目の上のタンコブ”の存在であった。

これに対し『大軌』が取った手法は、『大和鉄道』という会社自体の“乗っ取り”であった。 
『大軌』は、あらゆる手を尽くし『大和鉄道』の株式入手に取りかかる。 地権者(当時地権者は、敷設免許を得る上で土地を鉄道用地に収用させた代わりに株式を与えられていた)を強引に取り込んだり、株式譲渡に抵抗した地権者を破産させ自殺に追い込んだりもしたという。 こうして、1924年頃には『大和鉄道』株式の過半数を取得し、同社の取締役に『大軌』役員を送り込む事に成功する。

『大和鉄道』の乗っ取りに成功した『大軌』は、1927年に『大和鉄道』の名義で名張~宇治山田の敷設免許を取得する。 同時に『大軌』自身も、八木~桜井の『八木線』延伸敷設免許を取得している。
同じ年に伊勢延伸を目指すべく子会社の『参宮急行電鉄』(以下『参急』)を設立し、『大和鉄道』が以前より収得していた桜井~名張と、その延伸の名目で得た名張~宇治山田の敷設免許を『参急』に譲渡させる。 こうして、八木より伊勢へ向けての延伸工事の着工に取り掛かるのである。

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♪アイツはアイツは顔デカい~
カメラのフレームに入らない・・
by ドクター・スランブより

伊勢への路線建設は、最短距離で大阪~伊勢を結ぶべく山岳地形をトンネルで貫く線形が取られた。
まず1928年に、桜井~長谷寺に路線を有していた『長谷鉄道』を飲み込み(『参急』が並行する路線建設を着工すると、すぐに補償条件交渉に移りあっさり落ちたという)、1929年には桜井まで延伸を果たす。

ちなみに、着工路線と並行していた『大和鉄道』の区間(田原本~桜井)は1944年に休止(正式廃止は1958年)に、完全並行していた『長谷鉄道』の区間は1938年(それまで『長谷線』として運営されていた)に廃止されている。

同じく1929年に、伊賀神戸~名張に建設計画路線と並行路線を有していた『伊賀電気鉄道』(現 伊賀線)を『大軌』が合併吸収(その後、1931年に『参急』に譲渡)する事で障害を取り除く。
この『伊賀電気鉄道』は改正鉄道敷設法の『桜松線』に該当する線区であり、『伊賀電気鉄道』が『参急』の手に渡るという事は、同時期にこの法令により建設されていた『桜松線』、つまり名松線延伸計画の頓挫を意味するものだったのである。

障害を完全に取り除いた『大軌』は、1930年に入ると榛原・伊賀神戸・青山町と順次延伸を果たし、伊勢側も榊原温泉口~伊勢中川を開通させ、この年の末に未通区間の青山町~榊原温泉口を開通させる事で現在の大阪線区間が全通した。 なお、青山町~榊原温泉口は、建設区間の最大難関であった『青山トンネル』の掘削があった為、一番最後の開通となったようである。

この後、1938年に『大軌』が名古屋延伸の為に設立した『関西急行電鉄』によって現在の名古屋線が完成し、阪伊と共に名阪の都市間輸送も担う事になる。 この事については、『参急』と当時伊勢地域に路線を展開していた『伊勢電気鉄道』(後に『関西急行電鉄』に合併吸収)との軌間の違いという合併吸収を繰り返す事の弊害も生じたが、1959年の伊勢湾台風災害の折に行なった標準軌への改軌で問題を解消している。

なお、『関西急行電鉄』は『参急』に合併吸収(1940年)され、その『参急』と『大軌』が1941年に併合し『関西急行鉄道』となり、更に1943年に『大阪鉄道』を飲み込んだ翌年の1944年に『近畿日本鉄道』、即ち『近鉄』が設立されるのである。

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時代の流れ・・
50年走り続けたスナックカーも
引退の時を迎えたようだ

名阪伊を結ぶこの路線は、私鉄路線ながら我が国の公共交通機関における最重要幹線となっている。
また、1971年の青山トンネル衝突事故を契機に起された全線の路線改良と青山トンネル部分を含めた全線の複線化や、線区乗り入れの時の弊害を取り除くバイパス線設置工事が行なわれ、名阪京伊を高速で結ぶ『近鉄特急ネットワーク』が完成している。



  近鉄・北勢線(現 三岐鉄道・北勢線) 〔三重県〕
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鳥居の差す方向と列車の角度が
V字型に合えば入線モノとの
胡散臭い評価を得たのだが

軽便鉄道として敷設された路線である。 現在も762mm軌間で、我が国では数少ないナローゲージ路線である。 路線建設と経営の経緯は複雑である。 要約すると、黎明期・三重交通期・近鉄期・現在の三岐鉄道期の4つに分けられるだろう。

この鉄道の建設は、1909年公布の『軽便鉄道法』がすべてだろう。 この法令が公布されると、各地で鉄道建設の機運が高まる事となる。 この員弁川沿線地域でも、地元有志グループと、この地域に鉄道事業を展開しようとする『富田軽便鉄道』との間に『軽便鉄道免許』取得合戦が起こり、これに勝った地元有志グループが『北勢鉄道』を興した。

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西桑名で発車を待つ列車
桑名駅より東にある
西桑名とはこれ如何に

『軽便鉄道免許』を得た『北勢鉄道』は、1914年に西桑名~楚原を開業させたのに続き、1916年には楚原~阿下喜東(現 六石)を開通させる。 この先については、阿下喜の奥にそびえる藤原岳で産出されるセメント石灰石の運搬にこの路線を供すべく延伸が予定されたが、軽便鉄道規格では貨物の大量輸送には不適合との断を受け見送られる。 結局、このセメント輸送については、員弁川対岸に敷設された『員弁鉄道』(現 三岐鉄道・三岐線)が担う事となる。

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下から煽って撮ると
ムーミンに出てくるニョロニョロみたい

全通まであと僅かなのだが、この区間は山間を切り開く必要がある為に難工事が予想され、なかなか着工されずに時が過ぎる。 この間を乗合自動車への接続という形で凌いでいたが、1931年にようやく六石~阿下喜が開通し、同時に電化も行なわれた。 これは先程に出たセメント輸送の為に建設された『員弁鉄道』が、富田~東藤原を開通させる僅か15日前であった。 皮肉な事に、この路線を貨物輸送に適するように改良した方が安上がりであったと端的に示すエピソードが日時として示されたのである。

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何気に眼鏡橋があるなど
立ち寄って面白い路線だよ

阿下喜まで全通した同時期に『陸運統制令』が公布(1930年)され、1932年に三重県下の運送事業の統合・合併が閣議決定される。 これは県内の軽便鉄道業者を一つにまとめる法令だが、当時利益の上がっていた『北勢鉄道』と貨物主体の『三岐鉄道(員弁鉄道)』は反対する。 結局、『三岐鉄道』は除外され、『北勢鉄道』は合併会社での配当を優遇される処置(第一種株式保持)を得て『三重交通』に統合される。

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こういう撮り方も新鮮でいいかも

時は進んで1960年代に入ると、名古屋~伊勢~大阪に幹線路線網を形成する『近鉄』と、北勢線・志摩線・湯の山線・内部線などの支線鉄道路線を運営する三重交通とに分かれていた。 また、三重県内のバス運営はそのほとんどが『三重交通』であったのだが、『近鉄』が自社廃止路線のバス代替輸送に参入するなどした為に、『三重交通』と『近鉄』が入り乱れる状態となってきた。

2社間でこれを打開するべく協議が行なわれ、鉄道事業は『近鉄』、バス事業は『三重交通』に一元化する取り決めがなされた。 これにより、『三重交通』は併合を前提とした全額出資の『三重電気鉄道』を設立(1964年)し、翌年(1965年)には約定通りに『近鉄』によって『三重電気鉄道』は併合されたのである。 これにより、北勢線は他の支線と共に『近鉄』の保有路線となったのである。

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神社前・・踏切・・
こけは白黒で撮って正解

路線運営が『近鉄』に代わった事でATSや列車無線の導入、ワンマン化などの近代化・合理化が行なわれ、近年では運行・技術レベルにおいては通常ローカル私鉄路線の水準に引き上げられていたようである。

更に時は進んで近年に入ると、この北勢線もモータリーゼーションの波にさらされて運営的に行き詰るようになり、2000年に『近鉄』によって北勢線の廃止表明が成される事となる。 これに対して地元は、第三セクター運営で存続させようとするが、2002年に『近鉄』により北勢線の事業廃止届が提出された為、事業機関の設立が間に合わぬ事態となってしまう。 そのような訳で、平行路線を運営した『三岐鉄道』に自治体による支援付という形で運営を依頼する事になる。

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今は近鉄の車両検車区兼務だった
北大社駅が廃止され東員駅となっている

これは、自治体が鉄道運営における赤字補填と鉄道用地の買収・保有を引き受け、鉄道の運行と施設の維持・管理、車輌の保有は『三岐鉄道』が行なう方式である。 こうして、2003年4月に『近鉄』より『三岐鉄道』に経営移管される。



   くりはら田園鉄道 〔宮城県〕 
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流れる雲を追いかけて
横へ急速に流れる雲と赤い小型の気動車
それは手に届きそうで届かぬものを
幼な子が必死に追いかけているように見える

その追いついて手にしたいもの・・
それは「いつまでも走り続けていたい」という心
でも・・それはついに追いつく事も
手にする事も叶わなかった

そう・・’07年の春をもってこの路線は
廃止という名の終止符を打ったのだった

細倉鉱山の鉱石運搬を主目的に、鉱山会社主導の民営鉄道(栗原軌道)として発足し、鉱山の最盛期に電化と改軌がなされて、『栗原電鉄』と名称も変更された。 また、細倉より先の湯沢までの延伸の目論みや、国鉄乗り入れによる仙台までの直通列車も存在したなど、鉱山の隆盛と共に時代を謳歌した路線でもあった。

だが、1988年に細倉鉱山が閉山すると次第に経営は悪化し、貨物の取扱も廃止されて路線の存廃が取り沙汰されるようになる。 地元自治体と親会社である三菱マテリアルが協議した結果、地元自治体への譲渡がなされ、第三セクター方式で路線を維持する事が決まった経緯がある。

また、譲渡がなされた時点で社名を『くりはら田園鉄道』と改称し、コスト削減の為に架線を撤去しての気動車化がなされた。 電化廃止に伴い架線は撤去されたが支柱は放置され、使用されなくなって車庫に放置され朽ちる事しきりの旧電車群と共に、鉄道の遺構が現存する路線として有名でもあった。

しかし、元々が鉱山と共に生きてきた鉄道線であるので鉱山閉山後の経営は振るわず、鉱山跡のテーマパーク(細倉マインパーク)の開園も利用改善の足しにはならなかったようである。

第三セクター転換後も存廃問題が持ち上がり、これを受けて地元自治体による利用促進の為の半額負担などの実験を行なったりもしたが利用状況は改善せず、ついに自治体の大元である県より補助金の打ち切りが発せられ、補助金の打ち切りがなされる年度末までの運営継続と以降の廃止・バス転換の方針が決定され、2007年3月末をもって廃止された路線である。



   小湊鉄道 〔千葉県〕
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身体をゆらゆらさせながら
踏切を通過する

首都圏から2時間弱と近い位置にありながら、駅舎や車輌、そして沿線風景などに素朴な風情を魅せて、密かに人気のある路線である。 路線名の『小湊』は、建設の目的が房総半島の東部に位置する安房(当時は天津)小湊に向けての半島横断線であったからである。

だが、資金面と国鉄木原線(現在 いすみ鉄道)の上総中野までの延伸で、半島横断の目的が達せられた事により打ち切りとなったようである。

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撮っていて思ったんだけど
小湊鉄道の車輌って
アウトフォーカスにした方がいいかも

列車には全て車掌が乗務しており、若い女性を積極的に採用している。 今はさして珍しくもない女性の車掌だが、同鉄道が女性の鉄道勤務参加の道筋をつけた先駆けとして評価を得ている。

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都心から2時間で
こんな豊かな鉄道情景が魅れるなんて
東京も捨てたもんではないね

小湊鉄道の本業は、バス事業といっても過言ではない。 房総半島の衛星都市と県都・千葉市に拡充された市街循環の路線バスは、千葉市郊外の相次ぐニュータウンの造成もあり好業績を挙げているとの事である。



   島原鉄道 〔長崎県〕
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決して人里稀な突端地ではないのだが
それでも鉄道経営は立ち行かず
路線廃止となってしまう

諫早より有明海に沿って、島原半島をほぼ半周する鉄道線である。 途中の沿線中心都市である島原を境に、運行本数が半減する。 それは長い路線であるがゆえ、路線の先端部分となると輸送量もジリ貧となるからである。 例として挙げるなら、東北のJR八戸線と三陸鉄道に経営移管された旧国鉄久慈線と同じような性質である。

この鉄道路線の歴史を見ると、現在の運行形態通りに諫早~南島原は島原鉄道によって、南島原から加津佐までは傍系会社である口之津鉄道によって建設された。 南島原までの開業が1913年、現路線の全通となる口之津鉄道による加津佐までの開業は1928年である。 その後、1943年に口之津鉄道は島原鉄道に吸収合併される。

現在、下り1本・上り2本の少数運行であるが、線内で急行運転されている。 だが、1980年までは、国鉄の気動車急行【出島】に併結されて博多までの直通運転がなされていた。 その為の冷房付き急行専用車輌も在籍していた。 しかし、急行の特急格上げなと長崎本線の高速運転化に伴って、博多への乗り入れ運行は廃止される。

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被写体流れの失敗作だけど
雰囲気的にこういう絵は好き

この路線を語る上での最大の出来事といえば、雲仙・普賢岳の爆発による火砕土石流災害に尽きるだろう。 1991年頃からの雲仙・普賢岳噴火活動の活発化に伴って、麓を通る区間である南島原~布津間が半年の運休となる。 その翌年には大規模な火砕土石流が発生し、同区間の路線は壊滅的な被害を受ける。

この被害を受けて被災した同区間は営業休止区間とされ、災害復旧と併せて高架工事が行なわれる。そして6年の時を経て、1997年に島原外港~深江間の高架工事の完成に伴って運行が再開される。

道路網の充実などによっての地方鉄道の輸送量減少の動向は、この島原鉄道においても例外ではなく、元々先端区間であった旧口之津鉄道区間(通称・南目線)の輸送量は更に悪化する事となる。この区間の赤字が全路線の約8割を占めるようになり、2004年頃より路線廃止が検討され始める。 そして、2007年1月には鉄道会社よって、島原外港~加津佐を翌年3月末に廃止する方針である事が提示される。

そして、その方針が正式に承認され、提示された期日である2008年の3月末をもって、島原外港~加津佐が廃止された。 雲仙・普賢岳の土石流被害からの復旧を遂げた高架区間も含めて廃止となるのは、無常なる世の常を強く感じさせるのである。



   三陸鉄道 〔岩手県〕
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テレビドラマのロケ地ともなった
風光明媚な三陸海岸沿いをゆく

元々は旧国鉄廃止転換の対象となっていた久慈線・宮古線・盛線の3路線で、“特定地方交通線の第三セクター化”の第1号として1984年4月に経営移管された路線である。 それと同時に、建設中であった盛線延伸区間の吉浜~釜石と久慈・宮古線の未通区間であった普代~田老も同時に開業した。

開業当初は“転換路線の第一号”として注目を集めた事もあって黒字運営を達成し、“第三セクター路線のモデルケース”と謳われていた。 だが、年を経る毎に経営状況が苦しくなってきているとの事である。

路線運営の点では、運行本数が少なく接続が著しく悪いJRとの連携を捨てて民営のバス会社とタイアップしたり、レンタカー事業やツーリストなどの旅行企画業務を手掛けたりと、かなりの経営努力が見受けられる。

なお、東日本大震災で不通となったJR山田線の宮古~釜石の復旧工事が完了次第、随時JRから三陸鉄道へ経営移管がなされ、2019年3月23日に全線の復旧が完了し、盛から久慈ので路線が一つにつながった。



   津軽鉄道 〔青森県〕
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捨てられて朽ちる事しきり・・の旧きモノを
横目に新しきモノが通り過ぎる
だがどういう訳か朽ちる事しきり・・
旧きモノに威厳と風格を感じる
ワテの目に映った主役は間違いなく旧きモノだった

川部~五所川原の鉄道運営をしていた『陸奥鉄道』(現 五能線)が国により買収(1927年)されたのに伴い、出資額の倍に相当する補償を受けた株主達が“次なる鉄道”として計画・建設した路線である。
津軽中里へは1930年に開業している。

改正鉄道敷設法では、津軽中里から小泊・三厩を経て青森に至る計画があったが、これは国鉄が1951~58年に『津軽線』として青森~三厩を開通させたのみにとどまっている。

thugaru (1)
ここは文豪・太宰治が
『本州の袋小路』と叫んだ場所
その荒涼たるネガティブな
風景の中を細々と列車が行く
強い季節風が吹き荒れ
何とも重苦しい情景であった
そんな陰鬱な雰囲気の中
雲間より差し込む光のカーテンが
一筋の救いの手を差し伸べているように見えた

昭和の文豪・太宰治の故郷をゆく路線で、沿線の各地にその遺構を偲ばせる史跡がある。
途中の芦野公園駅には小説『津軽』にも登場するレトロ調の駅喫茶店跡があり、近年まで営業していたとの事。

列車運行上の特徴としては、冬季に車内にダルマストーブを据えつけた『ストーブ列車』が運行される事で有名である。 冬の休日期間中は、『ストーブ列車』への乗車が組み込まれた旅ツアーが多数企画される。



   ちほく高原鉄道 〔北海道〕
chihoku (3)
陰鬱な空の裂け目より
光が射しこむが
余計に陰鬱さを増していくようで
路線廃止を控えた状況を
端的に表した写真かな・・と

元々は、道央と網走を結ぶ幹線鉄道として建設された路線で、1911年に池田~北見を全通させて、“網走本線”と呼称される。 だが、1932年に難工事の石北峠を克服して現在の石北本線が開通すると、網走へのメインルートは距離の短いこのルートに取って代られて、支線扱いに転落してしまう事になる。
この路線も、“線名の悲劇”に泣いた線区の一つであろう。

chihoku (2)
路線名の悲劇に泣いた路線
だった旧国鉄池北線の
ちほく高原鉄道

池北線は、両端で帯広に近い池田と北見という街を擁するものの、十勝と北見の国境付近は北海道でも有数の人口稀薄地帯で、『本線』の冠が外され都市間輸送が皆無となると輸送量的にはジリ貧となる。 

こうして、国鉄再建法により第二次の廃止転換対象路線に指定されるが、営業キロが100kmを越える事から名寄本線や天北線などと同じく『冬季の代替輸送の確保の困難』が定義されて、一時的に廃止承認を保留されていた。 だが、『乗客増加が見込めず赤字が増大する』として追加承認される事となる。

この廃止を留保された4路線の中で、第三セクター方式での存続を目論める程に取り立てて良い利用状況にはなかったが、何故か第三セクター路線の『ちほく高原鉄道』として1989年の6月に経営移管され存続が決まる。 開業当時は、「存続に至ったのは、足寄町出身の国会議員の後押しがあったからだ」との噂が流れていたとの事である。

chihoku (1)
脆弱な基盤の鉄道を
高速道路などの道路整備が
トドメを刺した

だが、高速道路の『道東自動車道』が足寄まで開通すると利用客は自家用車に流れ、利用者数は転換時の半数まで減少するに至った。 これを受けて運営が行き詰まり、鉄道存続の為の運営資金の供出を地元自治体に要請したが、鉄道以外に公共交通機関のない陸別町以外は資金供出を拒否をし、自治体の長で構成する『ちほく高原鉄道』の取締役会でも、陸別町長以外の全てが廃線に挙手をして路線廃止が決定した経緯がある。 これを受けて、’06年4月20日限りで営業廃止となった。



    のと鉄道 〔石川県〕
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波戸場につながれた
漁船を借景に

路線建設は比較的新しく、1959~64年にかけて既存区間が全通した路線である。 かつては金沢より急行【能登路】が運行されていたが、都市から離れた末端線区で輸送絶対量は元から少なく、また沿線の過疎化と並走道路の整備で利用客が減少し続け、国鉄再建法により第三次の廃止対象路線に指定される。
それに伴って県出資型の第三セクター・『のと鉄道』が設立され、1988年3月に経営移管されている。

noto (2)
カモメが粋な演出を
買ってでてくれた

また、1990年より七尾線の和倉温泉までの電化工事が進められ、JR西日本より電化工事完成後は和倉温泉より先の七尾線は運営放棄の意向である事が伝えられる。 1991年9月に電化工事が完成し、和倉温泉~輪島の七尾線も『のと鉄道』に経営移管され、これによって『のと鉄道』は営業キロが100kmを越える大型『第三セクター』鉄道となる。

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波止場風景が『撮り鉄』の
レパートリーに加わったのは
のと鉄道の撮影で味をしめたから

だが、JRより切り離された事で直通利用客のほとんどがバスに移行した事が響き、経営状態は更に悪化する。それを受けて輪島への輸送量が激しく落ち込み、穴水~輪島の路線が2001年4月に廃止されてしまう。 『のと鉄道』の保有線区の中では“幹線系”と見られていた穴水~輪島が廃止された事で、同じく輸送量が更に減少傾向にある穴水~蛸島の旧能登線区間も存続が危惧されるようになる。

noto (4)
路線の大半の廃止で海沿いを走る区間は
ほぼ皆無となり沿線の観光名所も
TVアニメの聖地だけになってしまった

その危惧は的中し、金沢からの直通急行やリゾート向けの線内急行便が2002年までに全て廃止され、2004年3月には取締役会で穴水~蛸島の廃止も決定される。 その後、1年の撤退準備期間を経て、2005年3月末をもって旧能登線区間も路線廃止となった。 廃止前は往年の名車・キハ58を旧国鉄急行色に“お色直し”してのリバイバル列車が度々運行され、鉄道ファンが多数押し寄せて混乱が発生する場面が見られたという。

最後に「なぜ、和倉温泉~穴水も含めて全廃とならなかったか?」であるが、一説では「将来の北陸新幹線の開通を見越しての判断だ」という事であるという。 それは、新幹線の開業と同時に七尾線や北陸本線などの在来線がJR西日本より移管される可能性があり、その際に県に鉄道運営技術のノウハウの蓄積が必要だという事、そして鉄道職員の再就職先確保の問題も出たからだという“本音”もあるという。



    北条鉄道 〔兵庫県〕
houjou (2)
桜の樹の木漏れ日が
芝生に美しい彩を添えてくれた
コレ・・たてまえ
 :
事実はビール缶片手に
芝生に寝転がって花見してました

国鉄再建法を受けて廃止転換の指定がなされ、前項の三木鉄道と同時期(1985年4月)に『第三セクター』運営に移管された路線。 旧国鉄の北条線である。

路線の生い立ちが『民間鉄道(播州鉄道)の開業路線の戦時買収』と旅客輸送の目的をもって建設された路線である事と、乗換は要するが起点の粟生駅より神戸電鉄線に乗り継いで神戸市内に通えるという人的流通の動向に則している事から、これが完全にズレていた前項の三木鉄道よりはマシな状況にある。

houjou (1)
「♪咲けよ~酒よ・・と囁きながら」と
鼻歌でも謳いながら
ビール缶片手に『○鉄写真』を撮ると
あ・ら・・不思議!
シラフの時より上手く撮れてたりして

だが、道路の拡充で神戸市内直通の高速バスが並走するなと厳しい経営環境にある事も事実だし、また前項に挙げた同様の経営手法である三木鉄道の廃止が決まったのも、鉄道不要論を再燃させる懸念材料となるだろう。

沿線の加西市は県立のフラワーセンターを誘致するなど『花の咲く街』を市のイメージとしているようで、北条線の車輌形式も“フラワ”を冠したり、沿線各駅に地元有志による花壇を設けたりしていて、長閑な沿線風景と相俟って、休日にぶらりと訪れたくなる雰囲気を醸し出している。



   三木鉄道 〔兵庫県〕
miki (2)
朝のラッシュを終えてのひととき
レトロの穏やかな雰囲気が漂っていた

美嚢川の水運に頼っていた貨物輸送の転換を目的に建設された路線で、旧国鉄三木線である。
路線建設の目的通り、加古川や高砂などの川の下流に栄えた港へ向けて線路が敷かれる事になる。
だが、その為に神戸へと向かう人的交流ルートとズレを生じる結果となり、利用客は開業当初よりジリ貧であったという。 建設目的がこの路線の命運を決したといっても過言ではないだろう。

miki (3)
『放置自転車』が
目一杯に『絵』を創造してくれた

この為、貨物輸送の廃止後は更に業績が悪化して、国鉄再建法による第一次の廃止転換の対象路線となるが、各地の廃止対象線で相次いで発足した『第三セクター鉄道』運営の機運に乗じて、利用向上の裏づけもなく『第三セクター・三木鉄道』が設立され、1985年4月に国鉄から経営移管される。

だが、国鉄から離れた事で加古川からの直通運転もなくなり、更に利便性が悪くなったという弊害を受けて更に利用客が減少するという悪循環となっていた。 当然の如く、転換時に受けた転換交付金を充てがっていた運営基金が底をつくと、存廃問題が再燃する事となる。

miki (1)
満開の菜の花と
こういう車両が霞む撮り方は
『撮り鉄』ではタブーかもしんないね
そして後ろの選挙候補者公示板は
この鉄道を廃止に追いやる議員を
増やすべくの市議会選挙だったりして

この問題を受けて2006年に地元・三木市で行なわれた市長選挙で、「市財政再建の為に三木鉄道の廃止」を公約に掲げる候補が当選し、廃止表明を公約に掲げた市長がこの鉄道会社の社長に就任するという異常事態となる。 早速、就任早々に公約通り路線廃止を表明し、市の定例議会でも「廃止は止むなしと正式承認される。 これを受けて、三木鉄道の取締役会でも廃止の正式決定がなされ、2008年3月末をもって全線廃止となった。


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リハビリ・・の第二弾は
一転してコテコテの内容だなぁ

もう貴重系の写真を
惜しまずに使ったよ
中には元掲載見送りのボツ写真も

これでこの不人気ブログも
2週間の空きを何とか
食つなぐ事ができそうだ

それは偏にボツ写真でも
捨てずに取っておいた
ワテの先見の明が成せる業だぁね

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必ず『オチャメ』るからねぇ・・ワテは
『スーバーオチャメ』と『残念』で
去年は2回死にかけたしィ




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No Subject * by ねむろ大喜
シャッターチャンスを待つ根性が無くて、、、、

No Subject * by 朝弁
おはようございます。

津軽鉄道
そういう経緯があったのですね。
これからは先人の想いを胸に
撮影に励みたいものです。

何故かしら休みだと超早起きの津軽衆
久々の訪問を楽しむ朝でございます。

Re: No Subject * by  風来梨
ねむろ大喜さん、こんばんは。

待つ根性だけは、日に3往復のローカル線を『撮り鉄』する事で鍛えられましたけど、その他の根性はからっきしですわ(溜息)。 でも、元を取ろうとする「コス辛バワー」はあるようです・・、ハイ。

Re: No Subject * by  風来梨
朝弁さん、こんばんは。

津軽鉄道は太宰治が叫んだ「本州の袋小路」という雰囲気を醸し出す鉄道ですね。
特に、津軽中里駅そばに棄てられた廃車体に、その思いがこもってました。

でも放つオーラは、この棄てられた廃車体から強く解き放たれていたのを今でも憶えています。

コメント






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No Subject

シャッターチャンスを待つ根性が無くて、、、、
2021-02-06 * ねむろ大喜 [ 編集 ]

No Subject

おはようございます。

津軽鉄道
そういう経緯があったのですね。
これからは先人の想いを胸に
撮影に励みたいものです。

何故かしら休みだと超早起きの津軽衆
久々の訪問を楽しむ朝でございます。
2021-02-07 * 朝弁 [ 編集 ]

Re: No Subject

ねむろ大喜さん、こんばんは。

待つ根性だけは、日に3往復のローカル線を『撮り鉄』する事で鍛えられましたけど、その他の根性はからっきしですわ(溜息)。 でも、元を取ろうとする「コス辛バワー」はあるようです・・、ハイ。
2021-02-08 *  風来梨 [ 編集 ]

Re: No Subject

朝弁さん、こんばんは。

津軽鉄道は太宰治が叫んだ「本州の袋小路」という雰囲気を醸し出す鉄道ですね。
特に、津軽中里駅そばに棄てられた廃車体に、その思いがこもってました。

でも放つオーラは、この棄てられた廃車体から強く解き放たれていたのを今でも憶えています。
2021-02-08 *  風来梨 [ 編集 ]