2021-01-02 (Sat)✎
退院したとはいうものの、やはり身体のヘタりが結構あって、記事を書くのも遅筆となってるよ。
もう、1日籠ってPCに向かっている(他にする事ないしィ)が、1記事書くのが手一杯となってるよ。
その遅筆で大晦日内で記事を挙げる為には、記事を半分化しなければならなかったので、その「残り半分」おば、作成・公開しようと思う。 それでは、始めの記事の目的である『200000アクセスを一人祝う』という事はどこかに吹き飛んで、「1日1記事をアップさせる」に目的が変更しつつある《その2》をごろうじろ。
深名線の閑散区間『名雨線』側には
北海道でも稀少タイプのキハ24が入っていた
深名線 しんめいせん
かつて国鉄とJR北海道が運営していた鉄道路線で、深川より函館本線から分かれて、幌加内を経て名寄で宗谷本線に接続していた路線である。
当時の『名雨線』側は
平行道路自体がまともに存在しなかった
営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補に挙げられていた。 並行道路の未整備を理由に廃止保留となって、二次廃止対象から外されてJRに運営を引き継がれたが、朱鞠内より美幌峠を越えて美深・名寄を結ぶ国道275線の通称《名母道路》の改良など並行道路の整備が進んだ事から、1995年9月4日に路線廃止となった。
『幌加内線』側の建設目的は
雨竜川の水運に頼っていた
森林資源の搬出だった
深名線は朱鞠内で運行系統が分断されていた通り、路線敷設の経過も全く別物となっている。
深川~幌加内~朱鞠内は、雨竜川の水運に頼っていた木材運搬を担うべく、『幌加内線』として敷設された路線である。
一方の名寄~朱鞠内は、当時最盛期だった羽幌・築別炭鉱の石炭運搬を目的とする『名羽線』構想の一環として建設された路線で、朱鞠内で『幌加内線』とつながり全通するまで『名雨線』と呼ばれていた。
石炭産業の斜陽で築別炭鉱が閉山して
『名羽線』構想が頓挫した後は
無人地帯に行き交うレールだけが残った
また『名羽線』構想も、築別炭鉱が稼働していた時は、既存の私鉄運炭路線であった『羽幌炭礦鉄道』と併せて全区間の半分位の路盤が完成し、一部は国鉄の管轄外区間として運炭業務も担ったが、石炭産業の斜陽化で築別炭鉱が閉山すると、石炭搬出の為だけに敷設された原野の中をゆく『名羽線』構想は頓挫し、既存区間の『名雨線』区間も原野の無人荒野をゆく路線として取り残された。
中でも、朱鞠内湖をめぐる湖の北岸地域は、ほほ全ての村落が離農によってゴーストタウン化していた。
一方『幌加内線』側は、深川寄りで多少の旅客需要があり、人口減少が顕著ながらも路線の行く地域の中心である幌加内町の中心部を通ったので、路線の体躯を成す程度の利用はあったようである。
『赤字ワースト1』路線になりながらも
廃止が後回しされたのは
この豪雪も理由の一つだった
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
深川~名寄 121.8km 168 / 3157
廃止年月日 転換処置
’95/ 9/ 4 名士バス
廃止時運行本数
深川~名寄 1往復(車両は直通・列車番号は朱鞠内で変わる)
深川~朱鞠内 下り3本・上り2本
深川~幌加内 下り1本・上り2本
朱鞠内~名寄 2往復
モノトーンの情景
:
深々と降る雪と単行に改造された
かつての急行用車両
その車両の心が抱く哀愁も
モノトーンの情景の一つだと思う
天空に架かる橋を渡って
神話の里へ
高千穂線 たかちほせん
かつて、宮崎県の延岡から高千穂を結んでいた路線で、元々は同じく廃止対象路線として経営移管された高森線と結んで、豊肥本線経由で熊本県の県都・熊本を結ぶ計画路線であった。 二次廃止路線指定を受けた事から、1989年4月28日にJR九州より高千穂鉄道に経営移管されている。
高千穂鉄道に経営移管されてからは、水面よりの高さ105mと日本一の高さを誇る高千穂橋梁を観光資源として活用するなと経営状態は順調だったものの、2005年9月の台風14号による被害で五ヶ瀬川沿いの橋が落橋・流失するなど大被害を受けて運行休止となった。
被害運休後は復旧へ向けての方策が模索され続けたが、宮崎県や沿線自治体が復旧費用の負担に難色を示した為、高千穂鉄道としての復旧・運行再開を断念し、全線廃止とする事が決定された。 2007年9月6日に延岡~槇峰が廃止、翌2008年12月28日に高千穂~槇峰も含む全線が廃止となった。
現在は高千輪鉄道の復活を目的に、高千穂町の観光・商工関係者らが『神話高千穂トロッコ鉄道』という会社を設立したが、鉄道路線としての復活はほぽ不可能と判断し、社名を『高千穂あまてらす鉄道』と改称し、遊具であるスーパーカートで高千穂~高千穂橋梁の運行(シーズンのみ)を担う観光事業を展開している状況である。
青空と天空に架かる橋を見上げて
《路線データ》
営業区間と営業キロ JRからの移管年月日
延岡~高千穂 50.1km ’89/ 4/28
廃止年月日 廃止転換処置
’08/12/28 宮崎交通バス
廃止時運行本数
延岡~高千穂 下り14本・上り15本
(下り1本・上り2本 土・休日トロッコ列車で運転)
朝モヤのおりなす幻想たる雰囲気が
神話の里を包む中をゆく
北海道の大平原をゆく
情景を端的に魅せる路線だった
天北線 てんぽくせん
宗谷本線のほぼ中間点である音威子府より、宗谷本線から分かれてオホーツク海沿岸に出て、オホーツク沿岸沿いの町である浜頓別や猿払を経て、南稚内で再び宗谷本線に合流していた国鉄及びJR北海道が運営していた鉄道路線である。
国鉄再建法の施行により1985年8月に第2次特定地方交通線に選定され、JR北海道に承継されたものの、その2年後の1989年5月1日に路線廃止となった。 路線名は、敷設されていた地域の令制国名の『天塩国』と『北見国』から採られている。 なお、特定地方交通線に指定された旧・国鉄の路線としては、最長の路線距離を有していた。
現在の宗谷本線よりも
輸送量は多かったとはいえ
最北の無人荒原野をゆく路線で
ある事は変わらなかった
路線としての前身は、日本統治下の南樺太への連絡鉄道として建設された宗谷本線の当初のルートである。 音威子府から稚内へは、天塩線(現在の宗谷本線)ルートの方が短距離であるにもかかわらず、最寄りに宗谷管内第二の町の枝幸町がある事から大きく迂回する当路線ルートが先行し、1922年に稚内まで全通している。
だが、1926年に音威子府~南稚内に、より距離の短い天塩線が幌延経由のルートで開通すると、1930年に天塩線が宗谷本線に編入され、音威子府~浜頓別~稚内の旧来のルートは北見線として分離されている。 なお、1942年に常呂郡野付牛町が市制施行し北見市となった事で、網走本線の駅も北見駅と改称された事から、当路線の名称も北見線から天北線に改称された。
1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、「冬季の代替輸送に問題がある」として、北海道内の他の長大3線(名寄本線・池北線・標津線)と共に廃止承認が見送られた。
しかし、結局1985年に「上記の問題がなくなった」として追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年5月1日に全線廃止となった。
クッチャロ湖畔を行く急行【天北】
:
天北線の廃止で浜頓別は
道都・札幌から更に
遠い地となってしまった
廃止の時点まで、急行【天北】が運行されていた。 第三セクター鉄道など他の事業者に運営を引き継ぐ事なく、優等列車が運行された状態で全線廃止となった路線は、国鉄・JRの歴史上でも当線が初めてである。
この地の神峰・ピンネシリと
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
音威子府~南稚内 148.9km 418 / 884
廃止年月日 転換処置
’89/ 5/ 1 宗谷バス
廃止時運行本数
音威子府~稚内 下り7本・上り6本(内 急行1往復)
音威子府~浜頓別 1往復
声問~稚内 1往復《休日運休》
曲淵~稚内 上り1本
快速運行された急行【天北】も
この原野を周回するのは数分かかった
広大な流氷原野を望める
我が国唯一の路線だった名寄本線
名寄本線 なよろほんせん
国鉄及びJR北海道が運営していた鉄道路線で、名寄で宗谷本線から分かれ、下川・西興部・興部を経て、オホーツク沿岸沿いの主要な街である紋別を経て、中湧別から再び内陸部に入り込み遠軽で石北本線に接続する本線と、中湧別で本線から分岐して湧別に至る支線から成り立っていた。
チラっと流氷を望むだけなら
釧網本線の北浜もあるが
大平原と流氷原が望めるのはこの地だけだった
国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定されたものの、JR北海道に承継されて2年後の1989年5月1日に路線廃止となった。 なお、廃止された特定地方交通線の中では、唯一の『本線』であった。
沙留の波止場に設けられた駅から
流氷で埋め尽くされたオホーツクへ
当路線は、北海道鉄道敷設法の規定する『道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道』として建設されたものである。 路線敷設の経緯は、1915年に野付牛(現在の北見駅)から社名淵(後の開盛)へ延長された路線を発端としている。 その翌年には、社名淵~下湧別(後の湧別)間で延伸開業し、遠軽よりオホーツク沿岸に線路を延ばす。
一方、名寄~中湧別は難所であった石北峠・北見峠(現在の石北本線ルート)を避けて、名寄方は名寄西線、中湧別方は名寄東線として両側から建設が進められ、1919年から1921年にかけて名寄線として全線が開通した。 なお、1923年に支線である渚滑線の開業に伴って、名寄本線と改称している。
路線廃止の年の'89年は
流氷が接岸しなかったので
これが最後の流氷列車となった
だが、1932年に北見峠を克服して石北線(1961年に石北本線と改称)が全通すると、湧別線は遠軽を境に分割され、遠軽~下湧別は名寄本線に、遠軽~野付牛(後の北見)は石北線に編入された。
それと同時に、名寄本線は幹線鉄道としての役目を石北線に譲る事となった。
1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、「冬季の代替輸送に問題がある」として、北海道内の他の長大3線(名寄本線・池北線・標津線)と共に廃止承認が保留された。
しかし、結局1985年に「上記の問題がなくなった」として追加廃止承認されている。
もう撮る事のできない情景
:
この時は「まさか名寄本線は
廃止されないだろう」と思っていたが
1987年4月の国鉄分割民営化を受けてJR北海道に継承されたが、追加廃止承認された事で路線廃止問題も同時に俎上する。 路線を維持する為に、沿線の自治体である遠軽町・紋別市・下川町が、住民の利用に補助金を出すなどの存続運動が行われた。 そして、比較的乗降客数が多かった名寄~下川と、沿線最大の街である紋別~遠軽を第三セクター化して部分存続させる案も浮上している。
路線の存続案から外された
興部町の反発から第三センター存続の
望みは断たれ全線廃止へ
だが、路線存続区間から漏れた興部町が同案に反発して、全線の存続を主張した為に同案は白紙となり、そのまま国鉄分割民営化から2年後の1989年5月1日に全線廃止となった。
流氷は気まぐれ・・
こんなに流氷で海が埋まるのは
数年に一度との事
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
名寄~遠軽・中湧別~湧別 143.0km 597 / 1246
廃止転換年月日 転換処置
’89・ 5・ 1 名士バス・北紋バス
廃止時列車本数
名寄~遠軽 下り7本・上り4本、名寄~興部 上り1本、名寄~紋別 上り3本
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 2往復
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 2往復
もうこの国には存在しない鉄道風景
:
だからこの一枚は
ワテのかけがえのない宝物
北海道の廃止線では別格の
路線バスが毎時2本行き交う
街中をゆく路線だった幌内線
幌内線 ほろないせん
国鉄及びJR北海道が運営していた鉄道路線で、岩見沢で函館本線から分岐して幾春別に至る本線と、途中の三笠から分岐して幌内に至る貨物支線から成り立っていた。 国鉄再建法の施行によって第2次特定地方交通線に指定され、1987年7月12日限りで全線廃止となった。
1882年に官営・幌内鉄道によって開業した路線で、幌内炭鉱をはじめとした沿線の炭鉱から産出される石炭の積み出しの為に建設された路線で、 手宮線(現在は廃止)と共に道内では最も古い鉄道路線の一つである。
幌内炭鉱をはじめとした沿線の炭鉱からの石炭は、当路線を使って小樽や苫小牧・室蘭といった港湾に搬出されていた。 1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、鉄道国有法により1906年に国有化されて幌内線となった。 以降は運炭輸送に当たり、石炭産業の最盛期には道内随一の黒字線ともなったが、石炭産業の斜陽化で沿線の炭鉱の閉山が相次ぎ、客貨共に輸送量が減少する。 なお、1979年度の営業係数は718であった。
1980年の国鉄再建法施行により、1984年に第2次特定地方交通線に指定され、1987年4月の国鉄分割民営化を受けてJR北海道に継承されたが、JR北海道への継承されて3か月後の同年7月13日に路線廃止となり、バス路線に転換された。 特定地方交通線だったとはいえ、JR移行後に最初に廃止されたJRの路線となった。
現在の旧幌内駅構内及び三笠駅構内は、幌内線をはじめとする北海道の鉄道の歴史を後世に伝えるべく、『三笠鉄道記念館』や『クロフォード公園』を含む『三笠鉄道村』として活用されている。
黒ダイヤの栄光と挫折を
肌身で味わった路線だった幌内線
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
岩見沢~幾春別 18.1km 654 / 771
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’87/ 7/13 北海道中央バス 7往復
最初で最後の花列車が走った日は
路線の最終日だった
湧網線 ゆうもうせん
国鉄が運営していた鉄道路線で、名寄本線の中湧別から分岐して、サロマ湖・オホーツク海・能取湖等の沿岸を巡って網走に至る路線であった。 数あるローカル線の中でも、車窓から見られる風景が美しい路線として知られていた。
また、遠軽~網走は、当線および名寄本線を経由した方が石北本線経由より営業キロが若干短く、当線の網走発遠軽行き最終列車は、石北本線経由の網走発札幌行き夜行急行【大雪】(北見までは普通)より遅く網走を出ていたが、遠軽には先着する運行ダイヤとなっていた。
利用客はジリ貧だったが
集落は点在するなど
全くの無人荒野を行く路線
という訳でもなかった湧網線
名寄本線の中湧別と網走本線(現在の石北本線)の網走を短絡する鉄道として計画された路線で、路線建設は網走・中湧別の両方から進められ、1935年からそれぞれ湧網東線・湧網西線として順次開業した。
その後、太平洋戦争により路線建設は中断したが、1953年に湧網東線と湧網西線がつながって全通となり湧網線となった。
だが、1960年代に入ると、沿線の過疎化やモータリゼーションの進行で利用者が減り、1980年の国鉄再建法によって、1984年に第2次特定地方交通線に指定される。 その後は存続運動はあったものの全く実を結ばず、国鉄分割民営化前にけりを着けたいとする国鉄当局の思念も働いて、国鉄分割民営化直前の1987年3月20日に全線が廃止された。 これは、JR北海道への経営移管日の2日前である3月30日に、路線廃止となった羽幌線にも云える事である。
『紅葉橋』という響きに魅かれて
仮乗降場に降りては見たものの
紅葉橋はスカで鉄道橋だけは立派だった
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
中湧別~網走 89.8km 177 / 2322
廃止年月日 転換処置
’87/ 3/20 網走バス・北見バス
廃止時運行本数
中湧別~網走 5往復
中湧別~佐呂間 上り1本
お別れ列車を生涯に渡って
心に残るように印象深く撮る
身体がヘタって、この記事書くだけでほぼ1日かかってしまったよ。 でも、掲載写真下の差し込み文を考えるのは楽しいね。 次の記事からは通常の連載シリーズの再開をしようと思うが、入院中にタマを使い果たしたので、仕込みから始めなくちゃないないね。
そして、今度のミレニアムは30万アクセスって事であるが、挫けたら25万に前倒しするかもね。
ミレニアムの記事にするネタだけは、今からでも作成に取りかかれる位に豊富にあるけど、何せ人気がないからねぇ。 人気の無さに挫けて、コメント数達成をミレニアムの条件から外したしィ。
退院明け自宅待機のこの年末年始は
旅に出ているよりも『正月』してないよ
年末年始の旅に出ていれば
立ち寄り先で神社を見つけると
紛いなりにも『初詣で』をしていたし
『年越しそば』は『どん兵衛たぬきそば』など
カップメンであるがこなしていたし
定番の『おせちパン』も元旦の朝にキチンと
チョコ・クリーム・ジャムの
三色の味付けのモノを用意してたしィ
でも身体を動かすだけで億劫な
病み上がりの身体では
『おせちバン』は見送り『年越しそば』も
買い置きの日清焼そばになっちまったよ
- 関連記事
-
- anniversary 35万アクセス&3000拍手
- 30万アクセス突破(コメは1記事で1以下)anniversary その3
- 30万アクセス突破(コメは1記事で1以下)anniversary その2
- 30万アクセス突破(コメは1記事で1以下)anniversary
- リハビリ出撃で開いちゃうので・・ その2
- 200000アクセス(FC2からは50000)突破を一人寂しく祝いましょ その2
- 200000アクセス(FC2からは50000)突破を一人寂しく祝いましょ その1
- 1000拍手突破しちゃった・・記念
- あけましておめでとうございます
- 良いお年を・・
- このブログがFC2に移転してから全ての季節に突入できた奇跡を祝って・・
スポンサーサイト
Re: No Subject * by 風来梨
朝弁さん、こんばんは。
三ヶ日もあっという間に終わりですね。
ちょっと今は身体がヘタってますが、来月辺りからぼちぼち始動して、春には撮影旅始め、夏前には簡単な山から復活の狼煙を上げていこうかと。
三ヶ日もあっという間に終わりですね。
ちょっと今は身体がヘタってますが、来月辺りからぼちぼち始動して、春には撮影旅始め、夏前には簡単な山から復活の狼煙を上げていこうかと。
こちらへのご教授
大変ありがとうございました。
結露を気にせず
こちらのお写真のような
雪と地に根差した撮り鉄
やってみたいと思えてます。
今日で子どもらが戻り
また大人だけの生活となります。