風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第43回 船木鉄道

廃線鉄道  第43回  船木鉄道 〔山口県〕

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長閑な風景の中ゆくガソリンカー
古き良き時代の情景だ
※『鉄道100年史(山口県編)』より

船木鉄道(ふなきてつどう)は、かつて山口県宇部市にある西宇部(1964年に宇部駅に改称)から、同じく宇部市の吉部までの17.7kmの路線で、終戦直前の1944年に万倉~吉部が戦時不要不急路線としてレールなどの鉄資材供出の為に休止となった。

戦後は残された西宇部~万倉の9.6kmの営業を続けたが、輸送の主力だった石炭産業の斜陽化によって沿線周辺の炭鉱が次々と閉山し、また会社自身もバス交通への転換を一気に進めた事で、1961年10月に残った宇部~万倉も休止となり、戦前の休止区間と併せて全線廃止となった。

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船木鉄道のように鉄道から
路線バスに切り替えた会社は
西日本の各地に多く見られる
筆頭株主のサンデン交通もその1つとの事
※『ユキサキナビ』より

現在の船木鉄道(株)は社名が示すように、かつては宇部~船木町~吉部(きべ)に鉄道路線を持っていたが、1961年に路線を廃止し鉄道事業から撤退し、山口県宇部市・山陽小野田市・美祢市周辺をエリアとするバス専業の事業者となっている。 なお、社名は鉄道運営から撤退後も、そのまま社名に『鉄道』の文字を残している。

船木鉄道(株)は、同じく山口県西部に基盤を置くバス事業者のサンデン交通が筆頭株主であり、サンデン交通が約35%の株を保有しているが、船木鉄道(株)事態はサンデン交通のグループ傘下には入っていない。 だが、山口県共通バスカードを双方で先行導入するなど、関連は比較的深くなっている。

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路線の中心駅だった船木町駅
今は宇部市の楠支所の中心地で
ここまでは路線バスも数多く運行される
※『廃線探索・船木鉄道』より

社名の由来となっている船木(ふなき)は、旧楠町(2004年11月に宇部市に編入)の中心市街である。
江戸時代は旧山陽道の宿場町として栄えていたが、1900年に敷設された山陽鉄道は船木を避けて南方を迂回した為、船木は交通拠点としての重要性を失っていった。

鉄道業の設立は、1911年に船木の有力者により鉄道設立発起人会が結成され、1913年に船木軽便鉄道が設立されたのが始まりである。 当時の船木周辺には小規模な炭坑が点在し、石炭運搬鉄道としての役割も期待されていた。

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現在もバスセンターとして使われている
旧船木鉄道の中心駅だった船木町駅
※ 船木鉄道(株)のバス停留所案内より

1916年、約2か月の工事の後に、軌間762mmの軽便鉄道として宇部~船木町4.9kmが開業する。
1919年に社名を船木鉄道へ改称する。 この頃、路線延長と輸送力増強(軌間拡大)が計画され、1923年に船木町~万倉(まぐら)間4.7kmの延長と、1067mmへの全線改軌がなされた。

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吉部八幡宮の参道に架かる
鉄橋跡の石垣土台
※『廃線探索・船木鉄道』より

1926年には、万倉~吉部(きべ)間8.1kmが延長し、全線延長が17.7kmとなる。 これが同鉄道路線の最長延長となった。 また、更に大田(現美祢市美東町)まで路線延長する免許も取得する。

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峠駅跡付近にあるバス停
不要不急で休止となった万倉より先は
ほとんど集落のない山中に敷かれていた
『廃線探索・船木鉄道』より

だが、太平洋戦争期の1944年に万倉~吉部が戦時不要不急路線に指定され、鉄材供出に伴い線路を撤去された同区間が休止となった。 戦後は残る西宇部~万倉で路線運営が行われたが、昭和30年代に入ると石炭産業の斜陽化と、事業のバス交通への転換が一気に進み、1961年10月に宇部~万倉も休止となり、終戦直前に休止となった万倉~吉部を含めて全線廃止となった。 末期はディーゼル車が宇部~万倉を約25分で結んでいた。

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船木鉄道の路線廃止後に
加悦鉄道に譲渡されたキハニ51
現在は加悦SL広場(旧加悦駅跡)に
キハユニ51として保存されている
※ ウィキペディア画像を拝借

最後に運転された車両の一つであるキハニ51(芸備鉄道キハユニ17改造)は、廃線後加悦鉄道に譲渡され、京都府与謝野町(旧加悦町)の加悦SL広場にキハユニ51として保存されている。 鉄道廃線跡は各所に見られ、旧船木町駅は船鉄バスのターミナルとして使用され、万倉付近には軌道敷の築堤盛土が残存しており、その他、県道へ転用された部分も多数ある。

同路線廃止後の船木鉄道(株)はバス事業へ転換し、山口県中西部に路線を延ばすとともに、観光バス事業も展開し現在に至っている。

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船木鉄道線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離:西宇部(現在は宇部)~吉部 17.7km
     1944年に戦時不要不急路線として万倉~吉部 8.0kmが休止し、以降は西宇部~万倉 9.6km
     となる
駅数:13 西宇部・有帆・字中村・船木町・裁判所前・宗方・伏附・万倉・ 矢矯・今富・峠・
     大棚・吉部
  ※ 万倉~吉部は1944年に戦時不要不急路線として休止
    裁判所前駅は路線廃止前に廃止
軌間:1,067mm、複線区間:なし(全線単線)、電化区間:なし(非電化)
運行本数:豊後高田~宇佐八幡間10往復半(他、宇佐八幡~宇佐に上りの区間列車が1本存在)
所要時間:廃止を控えた末期は、西宇部~万倉を約25分程て結んでいた

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不要不急路線として休止となった
万倉~吉部にある大棚トンネル
宇部より美祢を経由しての
陰陽連絡路線構想があったようだ
『廃線探索・船木鉄道』より

  船木鉄道・年表
1912年(大正元年)11月30日   船木軽便鉄道に対し軽便鉄道免許状下付
               (厚狭郡船木村~同郡厚南村間、軌間1067mm)
1914年(大正 3年)  5月  2日   宇部(後の西宇部で、再び宇部に駅名変更)〜船木町の4.9kmで敷設工事着手
1916年(大正 5年)  9月16日   宇部~船木町が開業(完成は同年5月2日) 軌間762mm。
1918年(大正 7年)11月29日   船木軽便鉄道に対し軽便鉄道免許状下付(厚狭郡船木町〜美祢郡大山村)
1922年(大正11年) 6月11日   船木町~万倉の敷設工事及び、宇部~船木町の軌間1067mmへの改軌
               工事に着手
1923年(大正12年)10月12日  宇部~船木町の改軌工事が完成し、船木町~万倉4.7kmが軌間1067mm
                で開業。 営業距離が宇部~万倉 9.6kmとなる。
1926年(大正15年) 7月  1日  万倉~今富 2.5kmが開業。 営業距離が宇部~今富 12.1kmとなる
          11月  1日  今富~吉部 5.6kmが開業。 営業距離が宇部~吉部 17.7kmとなる
                この区間延長開業により、同鉄道は最長の路線保有となった
            
1928年(昭和  3年) 4月  6日   免許取消(1918年11月29日の免許のうち、真長田村十文字~大山町
               において指定の期限まで工事竣工せさる為)
1933年(昭和  8年) 2月  1日   裁判所前駅開業
1943年(昭和18年) 5月  1日   宇部を西宇部に改称(船木鉄道線廃止後の1964年に宇部駅に再改称)
1944年(昭和19年) 3月  1日   万倉~吉部 8.0kmが不要不急線に指定され休止となり、営業距離が
               宇部~万倉の 9.6kmとなる
            3月31日   万倉~吉部のレールが、金属類回収令に基づく鉄材供出のため撤去される
1952年(昭和27年)        以前:裁判所前駅が廃止となる。
1961年(昭和36年)10月19日  西宇部~万倉 9.7km及び、休止中の万倉~吉部 8.0kmの廃止により
                全線廃止 なお、石炭貨物輸送は路線廃止の数か月前に廃止

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戦時中の主要貨物である無煙炭輸送には
タンク式機関車が運用された
※ ウィキペディア画像を拝借

  輸送実績
終戦前後の1945年が輸送のピークで、年間で約75万人輸送の実績がある。 また、貨物輸送も周辺の炭鉱で採掘される無煙炭(炭田が形成された年代が古く、炭化が進んで最も炭化度の進んだ石炭の事で、炭素含有量90%以上の石炭)が、隠密性を重要視(無煙炭は純度が高く煙が出ない事から)する海軍艦艇の蒸気機関燃料として重宝され、戦時中の1943年に貨物輸送のピーク(年間19万3千トン)を迎えている。

なお、廃止を控えた末期の1960年は、経営元の船木鉄道(株)が路線バス運営に切り替えた事から輸送人員は21.7万人と約1/4に落ち込み、貨物輸送も周辺の炭鉱の閉山ら伴い、露天掘りでの出炭程度である年間1万トン足らずまで落ちていた。

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1920年代末期に無煙化がなされ
最後は両運転台式の機械式
ディーゼルカーとなっていた
※『鉄道100年史(山口県編)』より

  車両
1929年より動力の無煙化が行われ、気動車は日本車輌製造より単端式気動車(カ1・2)を購入し、1929年より宇部~船木町で運転を開始している。 なお、貨物輸送は、タンク式の蒸気機関車の牽引で行われていた。

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気品のある容姿のトンネルで
廃線遺構探索マニアの評価が高い大棚トンネル
『廃線探索・船木鉄道』より

  廃線跡
最終的な廃止時まで残った西宇部(現在は宇部)〜万倉の廃線跡は、ほとんど道路用地として転用されているが、1944年の戦時不要不急路線として鉄材供出の為に線路を剥がされた万倉~吉部は廃線跡遺構が多く存在している。

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現役時代のまま残っているのは
バスターミナルとして使われている
旧船木町駅舎のみ
※『船木鉄道・船木町駅跡』より

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万倉~矢矯の有帆川陸橋跡
古き良き時代の鉄道情景が
確かにそこにあったのだ
『廃線探索・船木鉄道』より

中でも、万倉駅跡近くの有帆川に架る陸橋の跡や、大棚~吉部にあった大棚トンネルは、廃線遺構探索の鉄道マニアの聖地となっているらしい。


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『残念』の摘出手術入院する前は
「退院後翌日から野宿旅行じゃぁ~」
と息巻いて

旅行先を山陰本線の
長門~萩辺りの『撮り鉄』と
裏匹見峡や龍宮ノ潮噴めぐりやらと定め
結構リアルな計画表も書いて旅(入院)だった

手術前に親類に見透かされて
「アンタまさか退院したらおバカな事
考えてるんじゃないだろうねぇ?」
ドヤす寸前の口調で釘も刺されたが

行ってたら絶縁だったかも・・という以前に
目論見通りに手術後5日の今日退院したものの
体力的に野宿旅行はムリでした

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喉下を切った事で発熱と頭痛が頻発し
ダルいし身体動かんし
身を15グラムほど切り取っただけで
こんなにもヘタるのかと思った次第です・・ハイ



あぁ10/20までは骨バキバキでも
20㎏担いで山を歩ける位に
無敵だったのに・・(涙)




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