2020-12-13 (Sun)✎
『路線の思い出』 第418回 舞鶴線、小浜線・東舞鶴駅 〔京都府〕
冬の東舞鶴駅
《路線データ》
舞鶴線
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
綾部~東舞鶴 26.4km 3163 / 388
運行本数(’20)
綾部~東舞鶴 普通 上下とも毎時1~2本(うち 4往復は快速)
京都~東舞鶴 特急【まいづる】下り8本・上り7本
小浜線
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
敦賀~東舞鶴 84.3km 1133 / 660
運行本数(’20)
敦賀~東舞鶴 下り11本、上り12本
敦賀~小浜 下り3本、上り3本
小浜~東舞鶴 下り2本・上り1本
路線同士の終着駅で
しかも支社境界駅にしては
簡素な造りの東舞鶴駅
※ ウィキペディア画像を拝借
東舞鶴駅(ひがしまいづるえき)は、京都府舞鶴市浜町にあるJR西日本の駅である。 京都府北部における行政・経済の中心都市である舞鶴市において、隣駅の西舞鶴と共に拠点性をもつ駅である。
2017年の1日平均乗車人員は1537人との事。
舞鶴線と小浜線の終点であり、2012年3月17日改正時点では小浜線の初電・終電以外のすべての列車が当駅で折り返す。 舞鶴線は福知山支社、小浜線は金沢支社が管轄している為、当駅の上り場内信号機(松尾寺方)に両支社の境界標が併設されている。 なお、当駅構内は福知山支社の管轄である。
こんな感じで優等列車も方向行先も
問わずに縦列停車する
なので優等列車の威厳全くナシ
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の駅舎は1996年の高架化に伴う建替で新築されたもので、島式ホーム1面2線を有する高架駅である。 駅構造は途中駅(交換可能駅)の面持ちで、7両編成に対応している。 基本的に、ホームの西舞鶴寄りに綾部方面行きが、小浜寄りに敦賀方面行きが停車する。 小浜線の列車と舞鶴線の列車が、同一ホーム上で縦列停車する事がある。
駅舎のアクセントとなっている
三角のガラス窓はヨットの帆を
イメージしているらしい
※ ウィキペディア画像を拝借
ホーム上には待合室と飲み物の自動販売機がある。 改札を出て1階にはコンビニ・待合室・舞鶴市観光案内所がある。 1階の改札からはエスカレーターとエレベーターが設置されており、バリアフリー化されている。 始発から終電まで終日駅業務が行われる直営駅(西舞鶴駅の被管理駅)で、みどりの窓口も設置されている。 駅舎入口にあるガラスの三角屋根は、ヨットの帆をイメージしたものである。
各路線向けにホームを増設する事なく
島式ホーム1面2線を目いっぱい使っている
※ ウィキペディア画像を拝借
京都~当駅間を特急【まいづる】が1日下り8本・上り7本運転されており、いずれも当駅が始発着駅となっている。 舞鶴線・小浜線共にのりばは決まっておらず、1番のりばが上下本線・2番のりばが上下副本線という扱いとなっており、一応1線スルーとなっているが、当駅を越える列車は前述の小浜線始発列車と最終列車1往復のみである。 夜間留置の設定はなく、当駅~西舞鶴駅に回送列車の設定がある。
かつて新舞鶴町、後に東舞鶴市と呼ばれた舞鶴市東部(東舞鶴)は、1901年に日本海側唯一の軍事拠点として開府した舞鶴鎮守府を中心にして軍都として急速に発展した街であり、第二次世界大戦までは貴賓室が設置される程の大きな駅舎を有していた。
また、終戦直後には、大陸から舞鶴港への引揚者が当駅より各地へと帰還した。 現在は京都府北部における行政の中心都市として官公庁が集中する事から、出張利用が多い。 なお、1972年までは中舞鶴線などの支線や多くの留置線を有しており構内は広かったが、支線は高架化に伴い撤去され、現在は跡地に高層マンションなどが建設されている。
北口を出て少し歩くと商店街が広がり、徒歩10分程度で舞鶴東港に至る。 また、高架化に伴い建設された南口の周辺にはショッピングセンターなどがある。 南北とも駅前ロータリーが設置され、北口ロータリーからは京都交通バスによって市内各地へ連絡しているほか、大阪(梅田・なんば)・神戸三宮・京都方面への高速バス乗場とタクシー乗場があり、休日には観光周遊バス(プリーズ号)が運行される。
新日本海フェリーが発着する舞鶴フェリーターミナル前島埠頭へは車で約7分。 多客期には北口より連絡バスが運行される。
昔は海軍鎮守府の置かれた港町
今は北海道に向けての玄関口だが
この駅が旅の玄関口と
なっている印象はあまりない
※ ウィキペディア画像を拝借
東舞鶴駅は年末年始の休みなどに、『新日本海フェリー』を使って北海道に渡る時に利用する駅である。 ナゼフェリーを利用するかというと、ズバリ安いからである。 でも、夏ならばともかく、冬のフェリーでのまる1日近くに及ぶ長時間の乗船が大きな苦痛を伴う事は、話が進むほどに語ろうと思う。
以前の放浪期に北海道に渡っていた時は、車内が宿代わり&食糧庫(宿代をケチって車寝を繰り返していた)となるなと車は旅の必需品で、北海道に渡る際は車で直接フェリーに乗り込んでいたが、放浪旅から足を洗って会社勤めとなって、冬休みなどの定期休み以外に北海道に渡る事ができなくなってからは、マイカーで行くより費用も身体の負担面からも楽なレンタカーを借りて道内を周る手法を採るようになったのである。
となると、住んでいる大阪市街から中途半端に遠いフェリー乗場の舞鶴まで、深夜23:50の1時間半前に到着する事が必須となる訳である。 要するに、フェリーの出港時刻に遅れると旅自体がホシャるし、早く着き過ぎると出港ターミナルで無駄に乗船待ちの退屈過ぎる時間を過ごさねばならない。
放浪旅期のように車で直接乗船なら車の中で寝れるし、集合時間に合せて港ターミナルに着く事もできるが、徒歩乗船だとそうもいかないのである。
このように「出港1時間半前の22:00過ぎに舞鶴港のターミナルに着くのは、結構ムズいのである。
そして、会社勤めという事で、旅の日程も休みの日程ギリギリまで詰めて・・というか、仕事を終えたその足で旅に発つべく日程を詰めまくるので、大阪・梅田発着の舞鶴港ターミナル直行の高速バスも使い辛いっていうか、冬休みを控えて予約が殺到して予約が取れそうにないのである。
確かこの時はこの塗装だったかと
今のデザイナーのセンス
疑問に感じるわ
※ ウィキペディア画像を拝借
・・で、調べると、京都から山陰本線の特急【まいづる】号に乗ると、1時間半前よりは少し遅くなるが、東舞鶴に22:37に着くのである。 コレだと港ターミナルには23時前に着き、集合時刻の1時間半前には遅れるが、まさかそれで「乗船拒否」という事もないだろうから『セーフ』となるのである。
・・で、全区間電化区間をゆく2両の気動車特急【まいづる】は、年末の帰省時のフェリーの港へ向かう最終便に当たるというのに、【まいづる】号の2両の車内はフェリー連絡客どころか乗客はワテを含めて数人(綾部で分割される前2両の福地山行【はしだて】号も数人乗っていた位)で、その乗客も途中の園部と綾部で全て降りて、舞鶴線内はワテ一人となったよ。
船に乗り遅れると
旅自体がポシャって
身も蓋もなくなるしィ
※ 新日本海フェリーの案内ウェフより
そして、東舞鶴駅の駅ロータリーのバス乗場も、年末の帰省時というのにバスの定期便はないようだったよ。 元から集合時間の1時間半前より遅れて到着だったのと、時刻表に「駅からバスで10分」と書いてあったので、「船に乗り遅れたら、旅がポシャって実も蓋もない」と思ってタクシーを使ったよ。
運賃1860円ナリ。 でも、これは高い乗り物だったという事は、話を進める内に話そうと思う。
最低クラス『ツーリストA』の
ベット配置表
※ 新日本海フェリーの案内ウェフより
さて、行きは何とか間に合ったが、北海道からの帰りもまた困難だった。 それは、冬の日本海は波が荒く、「船の揺れが尋常ではない」という事だ。 若い頃は何ともなかったし、それに波の穏やかな夏だったのだが、歳食ったせいもあるけど冬は立っているだけで吐きそうになる位に船酔いに襲われるのだ。
船室は3つの仕切りで区切られて
内側のスペースが天井の低い下段
外側は出入りがしにくく
荷物スペースの狭い上段となる
いうなれば最もハズレ
※ 上下とも新日本海フェリーの
新造船案内ページより
もう、船室(もちろん最低料金クラス)のベットの上で頭を押さえつけてジッとしてないと、湧き上がる吐き気でどうしようもなくなるのだ。 もう、食事もパスだし、無料の風呂もパスせざるを得なかったよ。 そういう訳で、船にいる22時間の内の20時間以上は、ベットの上で頭を押さえつけていたよ。
だからまる1日、何も食ってないよ。
料金最低クラスの『ツーリストA』ベットでも
一番端の出入口側だけは
スペースの関係上対面のない個室になる
:
つまりこのベットに
割り当てられると少しラッキー
2回当たったけど船酔い度は変わらんかった
※ 新日本海フェリーの
新造船案内ページより
また、帰りの海上は、それに輪をかけて船の定時運行に支障をきたす程の荒れ模様となったのである。
それで、船の舞鶴到着が3時間遅れて深夜1時前(定刻は21:15)となったのである。
フェリー会社では、この船が遅れて港に深夜に着いた対応として大阪・京都への臨時夜行バスを仕立ていたが、このバスの予約優先権は当然スイートルーム利用客から1等個室→2等個室→ツーリストSと回って、最低料金クラスのツーリストAには当然最後回しとなるのである。 なので、当然仕立てられた臨時夜行バスの空席など残っている訳もなく、「舞鶴で取り残され決定」となった訳である。
この日の夜はフェリーターミナルの
待合室で『避難所生活』
※ 放浪期に撮ったモノ
・・で、結局は、舞鶴港の出港ターミナルの待合所で朝まで『避難所生活』となったよ。 もちろん、「臨時バスなどは出しませんので、夜が明けたら各自の手によってお帰り下さい」との事だった。
せめての心づくしで、毛布1枚の配給はあったけど。
で・・、船から下りたので船酔いも収まって、夜の3時過ぎまで配給毛布を引っ掛けてウツラウツラと過ごしたが、それ以上は寝てられなくなり、船の中でまる1日何も食ってないので小腹も空いてきた事もあって、4時過ぎ位にフェリーターミナルを出て駅に向かう。 ターミナルの出口の扉に東舞鶴駅への行き方を記した手書きの地図が貼ってあったので、それを見て歩いていく。
「タクシーで1860円かかった位だから、駅まで1時間半位はかかるな」、「途中でコンビニでも見つけたら、何か食って行こうか」と考えながら、野宿グッズのカンテラ(ぢ・つ・わ・・この駅で真冬のテント駅寝しますた)を点けて、港の堤防沿いの公園化された遊歩道から市街地と思しき街中に入り、それより続く夜明け前の静まり返った商店街を歩いていく。
でも、商店街の先に、コンビニを見つける前に東舞鶴駅のロータリーが見えてきたよ。 その間の経過時刻は、港ターミナルを出てから15~20分程。 ・・駅からのタクシーの1860円は、どこに行ったんだろ? もしかして、降りたのは(一つ手前)西舞鶴!?との疑問が頭に渦巻いてきたよ。
駅自体はあまり
面白味のない駅だった
※ ウィキペディア画像を拝借
とにかく東舞鶴の駅に着いて、駅の反対側のロータリーの先にあったコンビニ(駅のコンビニはまだ開店前)でおとといの夜以来の食い物を食し、余裕でまにあった東舞鶴駅発の始発に乗って帰る事にする。
でも、敦賀・綾部の上下両方向の始発列車に乗って京都に出る事を比較すれば、100キロ近く遠回りの敦賀の方周りの方が早く京都・大阪に戻れたりするのである。 それに切符も『セ・セ・セ・セ青春18』なので、運賃は変わらんし。
それは、敦賀周りだと敦賀始発の新快速で大阪まで一直線なのに対し、綾部周りだと綾部・園部・京都で3度の乗り換えと、その列車の接続待ちで時間をロスする為である。 いやぁ・・、何とミステリアスな時刻設定ですな。 コレって、「舞鶴に行くには、特急【まいづる】に乗る以外に方法はないよ」という思惑を、全面に押し出したダイヤだねぇ。
かつての非電化路線で
急行列車が発着するこんな駅だったなら
ここで撮り鉄に出向く
『第三の選択』もあったかも・・
※ ウィキペディア画像を拝借
まぁ、かつての非電化区間ならどちらにしようか迷ったが、電化区間となった山陰本線も小浜線もえらく変わらんので敦賀周りとしたけど・・ね。
でも、船に乗るのに身体が持ちこたえられんようになった事で、この次の年辺りから3ヶ月前予約の飛行機の早割が取れたら、片道あるいは往復とも関空かセントレア経由(セントレア発着の方が空いてて早割が取りやすい)の飛行機利用となっていったよ。 だって、片道の最安値で16000円ほどだったしィ。
鉄道だと、シンカンセンが使えない上に料金もバカ高い(飛行機の通常期料金と同じ4万円近く)しィ。
『武漢ウイルス』が感染拡大した
原因であるシナ・チョンの入国を制限
するどころか『緩和』という形で促進した結果が
春に『緊急事態宣言』を出した
一次感染拡大期の感染者数1300人/日の
2.5倍にあたる日に3000人以上の感染拡大
何度も言うように原因を見ないフリして
旅行者や飲食業に罪を擦りつけても
減る訳ないだろう!
逆に増えてるではないか!
それはチョンの背乗り・天皇ヒロヒトを
キチンと処刑せずに放置して
今もなおチョンによって売 春婦や詐欺徴用工で
タカられ侮辱され続けているのと全く同じだ!
しかもチョンの背乗り・天皇ヒロヒトに
我が国をシナ・チョンにタカられ続ける
『謝罪ATM国家』に貶められた事で
『武漢ウイルス』開発の資金源にもされたのだ
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