2020-11-29 (Sun)✎
廃線鉄道 第41回 岩内線 〔北海道〕
路線最終日・小沢駅での
岩内線列車交換
※ ウィキペディア画像を拝借
岩内線(いわないせん)は、かつて国鉄が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。 函館本線の小沢駅(北海道岩内郡共和町)より分岐し、同郡岩内町の岩内駅までを結んでいた。 1980年の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(いわゆる国鉄再建法)施行を受けて、第1次特定地方交通線に指定され、1985年7月1日に廃止された。
ローカル線が華やかとなる日・・
それは明日から列車が走らなくなる
路線の最終日
岩内線は岩内と函館本線を接続する目的で、軽便鉄道法を準用して建設された路線で、岩内軽便線(いわないけいべんせん)として1912年に全線が開業した。 岩内は日本海に面していて、その港はニシン漁で栄える良港で、また岩内線沿線にも茅沼炭鉱や銅を産出する国富鉱山があり、海産物や石炭、鉱石の輸送で活況を呈した。
海産物輸送がトラック輸送に切り替えられ
使用されなくなった貨物側線とホームは
最終日の臨時快速列車の引き込み線として使われた
従って、道都の札幌や函館を結ぶ主幹線の函館本線と連絡する事が至上命題であった為に、鉄道敷設に対する要望が高く、明治時代には馬車鉄道が先行して開業していた。 その後の大正時代に入ってすぐに、蒸気機関を動力とした軽便鉄道が敷設されている。
岩内線の廃止と時を並べるように
港も衰退しフェリー会社は倒産
港施設も尽く撤去されている
※『東日本フェリー・岩内ターミナル』より
しかし、ニシン漁の衰退や炭鉱・鉱山の閉山に加え、道路整備による貨客のバスやトラックへの輸送手段の切替により、岩内線の輸送量は客貨ともに減少し、1968年には赤字83線の一つとして廃止対象とされるまでに至った。
『バスに転換すべき赤字83線』での廃止は凌いだが
国鉄当局が不退転の決意を持って廃止に臨んだ
『国鉄再建法』には太刀打ちできなかった
この『バスに転換すべき赤字83線』は廃止に向けた計画が曖昧だった為に存続したが、不退転の決意を持った政府(国鉄総局)によって1980年に国鉄再建法が成立すると、当路線は第1次特定地方交通線に指定されて、1985年7月1日に廃止となりバス路線へと転換された。
この日を最後に
時刻表の地図から岩内線が消えた
岩内線からは、札幌方面に直通する準急・急行列車【らいでん】も運行(岩内線の各駅は普通列車)されていて、岩内から道都・札幌まで乗り換えなしの直通列車があるなど、第一次廃止対象路線では格段に路線条件が良かった。
札幌駅で発車を待つ
遜色急行の代表格だった急行【らいでん】
岩内線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
管轄:日本国有鉄道
区間(営業キロ):小沢~岩内 14.9km
駅数:6(起点駅を含む)〔小沢〕・国富・幌似・前田・西前田・岩内
軌間:1,067mm・複線区間:なし(全線単線)・電化方式:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式
交換可能駅:なし(全線1閉塞)※ かつては国富・幌似・前田に交換設備があったが全て撤去された
最後に美しい急行編成が入線したのは
見送った人たちのいい思い出となろう
※ ’85年鑑『日本の鉄道』より
岩内線・年表
岩内馬車鉄道の開業
1905年(明治38年) 7月 小沢~岩内に岩内馬車鉄道開通。
北海道鉄道(初代、現在の函館本線)との連絡運輸を行う。
1909年(明治42年) 5月 政府に鉄道敷設の請願を行う為、岩内鉄道期成同盟会を発足。
1910年(明治43年) 7月10日 鉄道院より岩内町に対し、敷設条件として土地提供の通牒発布。
1912年(明治45年) 5月11日 岩内馬車鉄道営業廃止。
廃止を控えた
末期の岩内線時刻表
:
一次廃止対象線とはいえ
8往復の運行があり比較的残ると思われた岩内線
岩内軽便線から国鉄・岩内線へ
1912年(大正 元年)11月 1日 小沢~岩内 (14.9km) が岩内軽便線として開業。
前田駅・岩内駅を新設。
1913年(大正 2年) 9月21日 国富駅を新設。
1919年(大正 8年)12月 5日 幌似駅を新設。
1922年(大正11年) 9月 2日 岩内線に改称。
1949年(昭和24年) 6月 1日 日本国有鉄道法施行に伴い、日本国有鉄道(国鉄)に移管。
1963年(昭和38年)10月 1日 西前田駅を新設。
1972年(昭和47年)12月24日 岩内線(岩内~黒松内)が着工認可され、日本鉄道建設公団により
起工式が行われるが、その後計画は凍結され工事中止。
1973年(昭和48年)10月 蒸気機関車の運転を廃止。
1981年(昭和56年) 9月18日 第1次特定地方交通線として廃止承認。
1984年(昭和59年) 2月 1日 全線 (14.9km) の貨物営業を廃止。
1985年(昭和60年) 7月 1日 岩内線 (14.9km) 全線廃止。 ニセコバスに転換。
岩内から先も北海道西岸の沿岸鉄道
としての構想を持っていた岩内線
廃線跡と未成線
幌似駅と国富駅のホームが現存している。また、幌似駅は鉄道記念公園として駅舎も保存されている。
だが、国富〜岩内のほとんどの区間が、国道276号線・岩内・共和道路の用地として転用された。
元々岩内線は、瀬棚~寿都~岩内~然別の鉄道敷設運動の結果、一部区間が承認されて建設された路線である。 また、太平洋戦争後に、函館本線の急勾配を緩和するバイパスルートとして計画された建設路線(岩内~黒松内 43.9km)の一部でもあり、1972年12月に起工式も行われたが、岩内線の既存区間が『赤字83線』の廃止対象に挙がった事から工事は凍結された。
なお、建設予定区間の黒松内~湯別は、1968年まで営業していた寿都鉄道の路盤跡を転用する事も内定していたが、一部の用地買収が行われたのみで1972年の起工式直後に建設は中止されている。
計画されていた駅
岩内・敷島内・雷電・港町・磯谷・美谷・歌棄・湯別・中の川・黒松内
かつての鉄道の要衝も
すっかり寂れ果てて
待合室駅舎となってしまった
※ ウィキペディア画像を拝借
小沢駅(こざわえき)は、北海道岩内郡共和町小沢にあるJR北海道・函館本線の駅である。
2014年の1日平均乗降人員は34人との事。 倶知安駅管理の無人駅。 駅舎は簡素なものに建て替えられているが、跨線橋は昔ながらの非常に重厚な造りのものが使用されている。 かつては急行【ニセコ】・【らいでん】などが停車し、岩内線も接続していた。 また、岩内線が開業する前には、岩内馬車鉄道も接続していた。
線路を剥がされて更地となった
構内を渡す重厚な造りの跨線橋
※ ウィキペディア画像を拝借
島式ホーム1面2線を持つ駅で、かつては多くの側線を持っていた為に、ホームと駅舎の間には線路を剥がした跡地が広がっていて跨線橋も長くなっている。 駅舎の前が岩内線ホームの旧1番のりばだったが、岩内線の廃止に伴いホームは撤去されていて、現在は島式ホーム1面2線(2・3番のりば)のみとなっている。
小沢駅の「いち時代」が終わる日
:
岩内線が廃線となる日
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
銀山駅との間にある稲穂トンネルが開通した頃から作られ始めた『トンネル餅』が、駅の名物となっている。 以前は当駅で売られていたが、現在は駅前の国道5号に面した製造元商店で販売されている。
小沢駅に急行列車が停まっていた頃の
主要駅らしい重厚な駅舎
※ 映画『男はつらいよ 望郷篇』のワンシーンより
駅弁同様に経木でできた折りに詰められているが、駅構内で販売しているものではない事と中身がご飯・麺類ではなく「すあま」であり、駅弁とは言い難いが、パッケージに小沢駅の文字が残り100年を超える歴史を有する事などを踏まえて、雑誌の記事などでは駅弁として扱われる事が多い。
国富駅駅名標
※ 『屍の駅』より
国富駅(くにとみえき)は、かつて北海道岩内郡共和町国富にあった国鉄・岩内線の駅である。
岩内線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(岩内方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていたが、かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な駅であった。
職員配置駅で、駅舎は構内の南側に位置しホーム中央部分に接していた。 また、かつては、国富鉱業所精錬所への専用線も分岐していた。 1981年度の1日平均乗降客数は43人との事。
駅名の由来は、駅付近にある国富鉱山からの輸送のために設置された駅であり、駅名はこの鉱山の名前から採られたものである。 また、縁起のよい駅名としても知られていた。
銅や鉛を産出する国富鉱山の製品を出荷する為に増設された駅で、資源枯渇の為に国富鉱山の採掘は戦後早々に中断されたが、精錬所は採掘中止後も国内主力精錬所として1970年代まで稼働していた為、かつては駅より鉱山精錬所への専用線があった。 なお、専用線の跡は残っておらず、終点にあった工場跡はアスパラガスの運送会社が利用している。
駅跡は2011年時点でホームが残存している。 また、旧駅構内を出てすぐのシマツケナイ川と堀株川の合流地点の手前に、『上鮭川橋梁』が残存する。 駅前を通る道は、駅跡を貫通して反対側の住宅地を結んでいる。
鉄道記念公園として保存される幌似駅駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
幌似駅(ほろにえき)は、かつて北海道岩内郡共和町幌似にあった国鉄・岩内線の駅である。
岩内線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 職員配置駅で、駅舎は構内の北側に位置しホーム中央部分に接していた。 1981年度の1日平均乗降客数は54人との事。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(岩内方面に向かって右手側)に存在した。 かつては、相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な駅であった。 使われなくなった駅舎と反対側の1線は、交換設備運用廃止後も側線として残っていたが、プラットホームは撤去されていた。
その他、小沢方から駅舎側に分岐して、駅舎東側のホーム切欠き部分にあった貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。
駅名の由来は所在地名からで、地名はアイヌ語の「ポロイチャンイ(poro-ichan-i)」(大きい・サケやマスの産卵場)に由来するとされる。 幕末・明治の探検家松浦武四郎の『丁巳日誌』には「ホロイチャン 多く鮭が卵を置く」とあり、それが「ホロイザンニ」「ホロニサンニ」と呼ばれるようになり、これが省略されて漢字を当てられ『幌似』となったと考えられている。
このほか、「ポロナイ(poro-nay)」(大きい・川)に由来するとする説もあるが、旧記などから、上記の説が妥当と考えられている。
『幌似鉄道記念公園』の施設となった
旧駅舎の中は鉄道資料館となっている
※ 共和町観光課のウェブサイトより
駅跡の旧駅構内は、共和町により『幌似鉄道記念公園』として整備されていた。 駅舎・ホーム・駅名標・側線を含む線路など、廃止当時の構内施設がそのまま残る形で保存されていた。 駅舎内にはさよなら列車のヘッドマークや事務備品など岩内線関連資料が保存・展示され、貨物側線には旧型客車と、それに連結して有蓋緩急車の2両が静態保存・展示されていたが、後に国道276号・岩内共和道路の工事の為に公園全体が道路の北側に移動している。
従って、本物のホームと線路は撤去され、貨物ホームも埋められ屋根と痕跡を残すのみとなっている。
駅舎は移設されてホームと線路は新造、保存車両も移動した。 駅の周辺は、らいでん西瓜や雷電メロンの畑が広がる畑作地帯だった。
加賀・前田藩が地名由来の
線内中心駅・前田
前田駅(まえだえき)は、北海道岩内郡共和町前田にかつて設置されていた国鉄・岩内線の駅である。
岩内線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。
廃止時点で島式ホーム(※片面使用)1面1線を有した駅で、ホームは線路の南側(岩内方面に向かって左側)に存在した。 かつては島式ホーム1面2線を有する、列車交換可能な交換駅であった。
使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後に撤去された。 その他、小沢方から分岐した側線を1線有していた。
前田駅に到着するさよなら列車
職員配置駅(業務委託駅)で、駅舎は構内の南側に位置し、ホームとは通路で連絡していた。
1981年度の1日平均乗降客数は203人との事。
駅名の由来は当駅が所在した地名(開業当時は岩内郡前田村)からで、この地名はこの地の開拓を計画した旧金沢藩主・前田利嗣の姓に由来する。
駅跡は1999年までに駅舎は解体され、当時の駅前への道路が旧構内を貫く形で反対側へと通り抜けており、ホームは分断された形で残存している。 また、貨物ホームも残っている。
以前は札幌行の列車があったのだが・・
:
廃線を控えた末期は札幌行の急行が
運行打ち切りとなっていた
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
西前田駅(にしまえだえき)は、かつて北海道岩内郡共和町梨野舞納(りやむない)に設置されていた国鉄・岩内線の駅である。 岩内線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 1981年度の1日平均乗降客数は2人との事。
線内で唯一の停留所だった西前田駅
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(岩内方面に向かって右側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 ホームは、コンクリート板を組み合わせたものであった。 無人駅となっており駅舎はなかったが、ホームの下に木造の待合所を有していた。
駅名の由来は、当駅の所在地近辺の地・前田の『西』に位置する事から付けられた。
棒線ホームの傍らに
駅寝野郎しか利用する事のなかった
待合所が設置されていた
駅跡は永らくホームが草むらの中に埋まっている様な状態で放置されていたが、その後に道路工事の為に周囲の草が刈られ、工事車両通過用の道路がホームを貫く形で反対側へと通り抜けており、ホームは分断された形で残存し、柵や手すり付きの階段も残存している。
古くからの港町として栄え
重厚な駅舎をもっていた岩内駅
※ ウィキペディア画像を拝借
岩内駅(いわないえき)は、北海道岩内郡岩内町字万代にあった国鉄・岩内線の駅である。
岩内線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 1980年の岩内線内への乗入廃止まで、運行されていた準急(後に急行)【らいでん】(岩内線内は普通列車)の発着駅であった。
1980年のダイヤ改正まで札幌直通の
急行【らいでん】が運転されていた
職員配置駅で、駅舎は構内の南側に位置しホーム中央部分に接していた。 駅舎は、大きく立派な建物であった。 1981年度の1日平均乗降客数は392人との事。
広い構内に側線が敷き詰められ
海産物や茅沼炭鉱の石炭輸送貨物が
往来したのも夢の跡
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(岩内方面に向かって左手側)に存在した。 かつては貨物列車の運行があった名残で多くの側線があり、構内は広く取られていたが、1983年の路線末期には大部分の線路が撤去されていた。
鉄道創生期以来の賑わいとなった
岩内線最終日の岩内駅
末期の駅構内は、旅客列車の発着線の北側にホームを有さない副本線1線、小沢方より分岐し構内の端をめぐり発着線の延長で収束する形の側線とその分岐側線を東側・北側各1線、旅客ホームとは別に隣接してあった貨物ホームに向かってホーム端より分岐した行き止まりの貨物側線2線を有した。 ホームには庭園と花壇があった。
広かった駅跡地は『道の駅・いわない』と
小樽・札幌・倶知安方面の
バスターミナルとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借
広い構内敷地を有した駅跡は鉄道関連施設が全て撤去されて、『道の駅・いわない』と岩内バスターミナル(北海道中央バス・ニセコバス)となっている。 また、駅開業当初の写真が掲示されている記念碑が建立されている。
駅名の由来は当駅の所在する地名からであるが、地名に関しての定説は確定しておらず、和人の「硫黄」がアイヌ語に転訛した「イワウ」を含むと見られるイワウナイ(硫黄の川)、あるいはイエオナイ(軽石の多い川)、その他幾つかの説があるが、特異な禿山の硫黄山であるイワウヌプリ(岩雄登山、イワオヌプリ)が後背に控えている事から、硫黄川説が有力とされている。
ワテが岩内に初めて訪れたのは
直江津よりフェリーでの北海道上陸だった
※ 東日本フェリーのパンプレットより
また、松前藩が1700年に作成し幕府に献上した地図には、すでに『岩内』の漢字が当てられて書かれている。 駅のある岩内は港町で、1999年まで新潟・直江津よりフェリーの定期便が就航していた。
日本政府や著名人のお偉いさん方は
また『武漢ウイルス』感染拡大を
旅行者や飲食店に責任転嫁しているね
だからいくら規制を呼びかけても
感染拡大を食い止める事は
できない事は元より
国内経済が更に疲弊するね
なぜなら事の原因を放置して
原因を罪なき旅行者や飲食店に擦り付けて
魔女狩りしようとしてるからですね
考えてもみてよ
感染拡大したのは11月に入ってから・・
それはシナ・チョンの入国制限を
緩和した時からだよ
だからこの『武漢ウイルス』の
感染拡大を防止するには
シナとチョンの徹底的な入国制限を再開する事だよ
:
実態を隠蔽するシナでは
辺境の地を中心に恐らくアメ以上の感染者が
放置されているようだし・・ね
究極の感染防止対策は
西側諸国の総力を持って
シナ共産党を討ち滅ぼす事だよ
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