2020-11-16 (Mon)✎
『路線の思い出』 第414回 宗谷本線、名寄本線、深名線・名寄駅 〔北海道〕
昭和初期に建設された
優美な建屋の名寄駅
《路線データ》
宗谷本線
今の特急より優等列車らしかった
急行【宗谷】
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
旭川~稚内 259.4km 746 / 489
運行本数〔名寄駅発着列車〕(’20)
札幌・旭川~稚内 特急【宗谷】・【サロベツ】3往復
旭川~名寄 快速〔なよろ〕4往復
普通 8往復(一部 音威子府・稚内への直通列車あり)
名寄~音威子府・稚内 普通 5往復(一部 旭川への直通列車あり)
名寄本線
廃止後もバス待合所として
使用されていた隣駅の中名寄駅
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
深川~名寄 121.8km 168 / 3157
廃止年月日 転換処置
’95/ 9/ 4 名士バス
廃止時運行本数
深川~名寄 1往復(車両は直通・列車番号は朱鞠内で変わる)
深川~朱鞠内 下り3本・上り2本
深川~幌加内 下り1本・上り2本
朱鞠内~名寄 2往復
名寄本線・深名線の廃止により
一路線の中間駅となった名寄駅
※ ウィキペディア画像を拝借
名寄駅(なよろえき)は、北海道名寄市東1条南6丁目1番1号にあるJR北海道、JR貨物・宗谷本線の駅である。 2015~2019年の5年間における1日平均乗車人員は378人との事。
かつては駅母屋側に深名線専用の
切欠ホーム・0番線があった
※ グーグル画像を拝借
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを持つ駅で、駅舎(改札口)は西側1箇所にあり、日本最北のLED発車標導入駅である。 以前は、駅舎母屋のある単式ホームの旭川寄りに切欠ホームがある2面4線であったが、この深名線専用の切欠ホーム(0番のりば)は、深名線の路線廃止後に撤去されて現状の2面3線となっている。 1~3番ホームは、いずれも上下列車の折り返しが可能となっている。 ホーム間の移動は跨線橋を使っている。
鉄道全盛時代には名寄本線と
深名線の列車を仕立てる為に
名寄機関区も存在した広大な名寄駅構内
※ ウィキペディア画像を拝借
留置線が敷設され、夜間滞泊の運用もある。このうち1本は音威子府駅発着で、当駅まで回送して滞泊している。 終日社員配置駅で、駅構内にはみどりの窓口・自動券売機がある。 駅名の由来は、駅の所在する市の名からで、当地が天塩川と名寄川が合流する事から「ナイオㇿプトゥ(nay-or-putu)」(川・の所・の口)が由来とされる。
宗谷本線では稚内に次ぐ主要駅の名寄駅
:
だが名寄市自体が人口27000人程と
街の過疎縮小化の波に晒されている
名寄市の中心駅であり、普通列車に加え特急【宗谷】・【サロベツ】や快速〔なよろ〕が停車する宗谷本線の主要駅である。 また、運転士の乗務は、この駅を境に稚内方面が宗谷北線運輸営業所、旭川方面が旭川運転所と担当区域が分かれている。 普通列車の運転系統も当駅で同じように分かれるが、1日3往復列車番号を変えて相互に直通する列車もあり、そのうち1往復は旭川~稚内の全線を走破する。
当駅は、1903年9月に開業した。 当時は旭川方面から伸びる天塩線(宗谷本線の前身)の終着駅だった。 その8年後の1911年11月に路線が恩根内駅まで延伸し、名寄駅は途中駅となった。
1919年10月には下川町方面へ向かう名寄線(後の名寄本線)が開業し、同線と宗谷本線の乗換駅となった。 また1937年11月には名雨線(後の深名線)が開業した。
代替道路不備で最後まで残った
深名線在りし頃の改札案内表示板
;
撮ってて良かったB級写真
1987年4月1日の国鉄分割民営化により、名寄駅はJR北海道・JR貨物に継承された。 名寄本線・深名線もJR北海道が継承したが、名寄本線は1989年5月に、深名線は1995年9月に廃止となり、現在は宗谷本線のみの途中駅となっている。
貨物駅といってもあるのは
大型トラックとコンテナだけの
『名寄オフレールステーション』
※ ウィキペディア画像を拝借
JR貨物の名寄駅は、コンテナ貨物(JR規格12フィートコンテナのみ)の取扱駅となっている。
コンテナ集配基地の『名寄オフレールステーション』が駅舎北側に併設されており、貨物列車代行のトラック便が北旭川駅との間に1日5往復運行されている。 JR貨物の駅としては、最北端に位置している。
かつての貨物駅は1面2線のコンテナホームがあったが、貨物列車の発着が廃止された1996年9月以降、荷役線は使用されずホームのみコンテナ基地として使用されている。 貨物列車の発着がないトラック運送代行駅となった後、2006年4月の貨物駅の名称整理の際に、『名寄オフレールステーション』となっている。
また、1993年ごろまでは岩谷産業名寄LPGセンターへの専用線があり、本輪西駅発送の液化石油ガス (LPG) 輸送用のタキ25000形貨車が到着していた。 また、それより前には王子マテリア名寄工場への専用線もあり、同工場向けの石油輸送用タンク車も到着していた。
名寄駅の思い出はやはり
「思い出お~い名寄本線」だった
名寄駅の思い出は、やはり名寄本線と深名線の在りし頃に乗り降りした思い出だ。 特に、名寄本線からの宗谷本線への乗り継ぎの成否は、ワテが熱中していた廃止ローカル線の『乗り鉄&撮り鉄』を成就させるための鍵となっていたよ。
そして、その乗り継ぎも名寄駅の位置づけとして、宗谷本線の旭川方面から音威子府方面への乗り継ぎより、名寄本線に発着する列車からの乗り継ぎの方が重要視されていたようで、全ての名寄本線の発着列車に宗谷本線の接続列車が設定されていたようだ。
名寄本線は遠軽で上りの始発に乗れて
撮影の後に名寄20時前着の列車に乗れば
札幌へ戻る事も札幌発の夜行列車に
乗ってリバースもできた
それも旭川方面への乗り継ぎはより重要視されて、名寄を夜の20時に到着する列車は、名寄で急行【なよろ】に、旭川で特急【ライラック】に接続していて、夜の23時に札幌に到着する事ができたのである。 それも、名寄本線到着ホーム3番線から跨線橋を渡らずに旭川方面の列車に乗換えできたのである。
また、稚内方面も急行【宗谷】に接続していて、同じく23時前に稚内へも向かう事ができたのである。
かつての名寄本線発着ホームの3番線と
旭川方面行の2番線の入った島式ホーム
:
かつては名寄本線の専用ホーム3番線との
乗り継ぎの利便が優先されて
母屋寄りの1番線をさしおいてメインホームと
なっていた旭川方面行2番ホーム
※ ウィキペディア画像を拝借
そう、本来ならば、母屋寄りの1番線に乗客の多い旭川方面行きの列車も発着する「1線スルー方式」となるハズなのだが、名寄本線列車との接続を優先して、旭川方面行の列車は跨線橋を渡った2番線となっていたのである。
今の宗谷本線の天塩中川周りより
乗客の多かった天北線経由の急行【天北】
今の特急と同じ位の
俊足だった急行【礼文】
そして、急行列車も【宗谷】・【礼文】と天北線周りの【天北】を始め、宿代を浮かす事ができる夜行急行の【利尻】もあり、しかもこの名寄駅が上下の急行【利尻】の交換駅で、乗り鉄の猛者は宿代を浮かす為に、こぞってこの名寄駅で「夜行急行リバース」をしていたようである。 まぁ、今のヘタれでは絶対に無理だけれど・・っていうか、「乗り鉄の信念、岩をも通す」っていうかである。 そりゃあ・・もう、毎日「夜行急行リバース」をする猛者もいた位だしィ。
名寄本線在りし時は
この急行【なよろ】は重宝したよ
その他にも、急行【なよろ】が2往復あり、うち一本は札幌直通だったので、札幌へ出るのも結構利便が良かったのである。 即ち、この頃の「急行料金タダで道内全線乗り放題」という最強のきっぷ『周遊券』のB券片を手にすれば、20日間道内どこへでも自由自在に行き交う事ができたのである。
この券片があればどこへでも行けた
魔法のきっふ・周遊券
※ ウィキペディア画像を拝借
正直言って、乗客に乗ってもらう為には、これ位の厚い手配がないと成り立たないと思うのだが。
そして、赤字線として廃止となった名寄本線の存在が、名寄駅の利用客を押し上げていた事実もあるのだ。
かつての駅舎内の待合所は
中央にストーブが設置され
それを取り囲むように配置されるなど
乗ってもらう為の心配りがあった
※ ウィキペディア画像を拝借
それは、名寄本線・深名線の廃止で単なる単独路線の中間駅となった今の利用客が378人に対して、ワテが通った頃・・、即ち深名線と名寄本線が存在していた1980年代は1564人と、4倍の利用者がいたのである。 もちろん、両方の数字共に「1日平均の乗車人員」なので、降車客を含めると倍はいたのである。
まぁ、鉄道全盛期の時代における数字なので、一概に比較対象とはならないだろうけど。
でも、これだけの利用者がいて国鉄は今以上に大赤字だったのだから、当時の国鉄が放漫経営であった事の証拠にもなるのだが。
『流氷列車』を撮るという
『夢』があったあの頃
でも、その国鉄時代は、鉄道に『夢』があった。 鉄道での旅が楽しくて仕方がなかった。
そして、その頃に夢中となった廃止ローカル線の『乗り鉄&撮り鉄』を成就させる為には(学校サボリや真冬の北海道での駅寝連発など)何でもしたし、何でもできる気がした。 最も、「ティーンズ(死語)」という若さがあっての事だけど。
あの頃は駅から500m離れた
この鉄橋で深名線の列車を撮って
駆け足で駅に戻って5分折り返しの
この列車に乗れる若さがあったしィ
『撮り鉄』をする為には
真冬の駅寝など何でもしたし
何でもできる気がした
・・で、廃止ローカル線のほぼ全てが廃止・淘汰という結末となって、鉄道から心が離れて(でも、随所に未練タラタラだったけど)20年という月日が経ち、すっかり中年となってから細々と再び『撮り鉄』に舞い戻ってきた。 でも、あの頃のような情熱を持てる訳もなく、寒くなったり眠くなったりしたらレンタカーに引きこもり、車でコンビニに行きお菓子などをバリバリ喰いまくり・・で、適当に撮る『適撮り』が生業となっていたよ。
「通勤ラッシュ」という
多客時が存在しなくなった駅・名寄駅
:
夕方の帰宅時だというのに
行き交う人が誰もいない時が生じていた
だから、ブログのカテゴリの一つ『路線の思い出』を展開する事によって、撮影機会が増えた
駅舎やホームの写真は、車で駅に立ち寄って人がいなくなるのを車内で待つ事ができるなど、時間をかけて人のいないシーンを撮る事ができるようになったよ。
あの頃は雪の中を3km歩いて
小吹雪の中を3往復の列車を撮る為に
3時間待つ『3フィーバー』をしたっけなぁ
そして、最大に以前と変った事は、撮影に対しての情熱を失った事だろうね。 だから、自分の足で・・、時には列車が来るまで小吹雪の中を耐え忍んだり、雪原をラッセルしてまで「我ひとりの撮影場所」を探し求めるような情熱は消え失せ、ネットで撮影地を検索したり、駅近くの跨線橋に昇って俯瞰したりと、安易に撮れる方向に進んでいくようになったよ。 まぁ、昔から、ロケハンなどの事前調査は一切しなかったけど。
携帯でネット見て決めた
駐車スペース有&撮影後の温泉有りの
車から下りて跨線橋に昇るだけの撮影地
『天塩中川駅近跨線橋』にて
・・で、撮ったのが、このラッセルの写真ですね。 まぁ、安易に撮る事の弊害として、同業者との『バッティング』が増えてしまうけれど、そこは夜のバルブ撮影なと昼間を外したり、ちょっと雪の土手をよじ登ったりする事で概ね解消できるし、その方が『撮り鉄』がタムロする『お立ち台』で撮るよりいいのが撮れる事が多いのである。
ラッセル撮影のお立ち台
『東恵橋』にて
もう2時間前から出張って
その場で待機しないと
三脚・脚立部隊に蹂躙されるよ
でも、かつて憧れ熱中した列車も「古きモノ」として淘汰され、ワテ的にはあまり撮る気が湧かない青とステンレスの特急に変ったりしていったね。 だから、『撮り鉄』に復活したといっても「細々と」の域は出ないし、『鉄』の多くが触手を伸ばすイベント列車やリバイバル列車・「○○形ラストラン運転」、そして前々から全く興味の無かったSLは「全力でパス」だしィ。 その昼に撮らないで空いた時間は、景勝地めぐりに充てているしィ。
そういう形の「ヘンテコ」な『撮り鉄』旅をここ10年、冬の正月や春のGWに続けているのである。
もちろん、夏と秋は山旅である。
国の左右を決める大統領選挙を
乗っ取った米パヨクに対して
やられてから気づいた
FBIがようやく捜査に乗り出したという
でも遅いんだよ
やられる前に気付かないと
シナの世界覇権を許す
世界の凋落が始まるのだから
しかし気づいただけマシか・・
日本なんてあのチョンの背乗りで
面・行為もそのままのチョンの成り済ましを
崇め下賜づく愚を犯して
このチョンのヒトモドキ共の
反日行為に声援を送って
自らの国を貶める事に加担してるのだから
何はともあれFBIの捜査で
一つの州でも不正が『クロ』と判定されると
泥縄式に不正が明るみにでるだろう
悲しいかな・・我が国日本も
シーレーン維持など国の安全保障を保つには
この捜査で米民主党の不正を明らかにして
バイデンの当選無効と米パヨクの一斉逮捕以外にないのだ
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
ローカル線が廃止となって寂れた駅が数多くありますね。
湧網線が廃止になった網走駅や、天北線が廃止になった稚内駅も、駅利用客は名寄駅と同じく1/4程度に落ち込んでいるようですね。
ローカル線の乗換客以上に、観光地をめぐるバスも駅を中心に運行するようになりますから。 今は高速(無料解放)から直接に観光地に行ってるので、網走市自体も通過地点として立ち寄られる事なく寂れています。
夜行リバース・・、私はムリでした。 その代替手段として駅寝に走って、駅寝撮り鉄での伝説だった御三方の周回遅れの末席に加えられて、「北海道真冬の駅寝四人衆」の称号を授かるアウトローとなりました。(笑)
あの伝説の御三方は、今何処へ?
ローカル線が廃止となって寂れた駅が数多くありますね。
湧網線が廃止になった網走駅や、天北線が廃止になった稚内駅も、駅利用客は名寄駅と同じく1/4程度に落ち込んでいるようですね。
ローカル線の乗換客以上に、観光地をめぐるバスも駅を中心に運行するようになりますから。 今は高速(無料解放)から直接に観光地に行ってるので、網走市自体も通過地点として立ち寄られる事なく寂れています。
夜行リバース・・、私はムリでした。 その代替手段として駅寝に走って、駅寝撮り鉄での伝説だった御三方の周回遅れの末席に加えられて、「北海道真冬の駅寝四人衆」の称号を授かるアウトローとなりました。(笑)
あの伝説の御三方は、今何処へ?
おっしゃるとおり、当時は人で賑わっていた印象があります。名寄本線廃止の影響がやはり大きいのでしょうね。
私の場合、夜行リバースは二連泊が限度でしたかね。夜行も3連泊までしかしませんでした。当時の乗り鉄の中ではヘタれの方だったかも(笑)