2020-11-11 (Wed)✎
廃線鉄道 第38回 鹿島鉄道 その1 (路線の概要) 〔茨城県〕
さよなら運転で最後の力行する
鹿島鉄道の単行気動車
※ ウィキペディア画像を拝借
鹿島鉄道線(かしまてつどうせん)は、かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた、鹿島鉄道の鉄道路線である。 2007年4月1日に廃止となった。 なお、会社自体はその後も不動産会社として存続している。
霞ヶ浦湖畔を走る単行気動車
※ ウィキペディア画像を拝借
当路線は、関東鉄道から分離された赤字線の鉾田線を継承して、1979年4月1日に営業を開始した路線である。 茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を、霞ヶ浦北岸を通り横断する形で結んでいた。
なお、関東鉄道から同時に経営分離された筑波鉄道(現・関鉄筑波商事)の筑波線は、鹿島鉄道線より先の1987年に廃止されている。
地図上では、JR常磐線と鹿島臨海鉄道・大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで1km以上離れており、大洗鹿島線とは接続していなかった。 この点は、降車客が徒歩で乗り換えるケースが少なからずあったが、一時期路線バスが運行していた以外、特に接続が考慮されていなかった。
元国鉄のキハ07形を
流線形から平面型に大改造した他
機械式(クラッチ制御)から液体変速機への交換
クーラーの搭載など近代化改装を受けた600形気動車
※ ウィキペディア画像を拝借
また当路線は、元々は鹿島神宮への参宮鉄道として計画されたものであった(当初の計画においての起点駅は石岡駅ではなく、上野方面一つ手前の隣駅である高浜駅であった。 浜駅で鉾田方面と、延方駅(JR東日本・鹿島線)がある方面と2方向に分岐する計画だったが、浜から延方までの建設を早期に断念し、鹿島神宮への延伸は叶わなかった。
代わりとして会社は舟運を兼営し、海陸接続となる浜駅に入り江を設けて専用埠頭を建設している。
なお、浜駅から鉾田駅方面へ直角に曲げて延伸しているのは、当時は周辺がたばこの産地であり、貨物需要を見込んでの事といわれる。 鹿島神宮へは、戦後に国鉄鹿島線(鹿島臨海鉄道大洗鹿島線からの乗り入れを含む)が建設されている。 関東鉄道からの分離の際、当初の社名が採用された筑波鉄道に対し、鹿島参宮鉄道が前身である鉾田線は『参宮』を外して鹿島鉄道と名乗った。
国鉄から譲渡されたDD13も
ジェット燃料輸送の主役を担っていた
※ ウィキペディア画像を拝借
比較的若い世代からは、かしてつの愛称で親しまれていた。 また、関東鉄道の路線であった時期があるこ事から、鹿島鉄道として分社化後も関東鉄道時代の路線名である鉾田線と呼ばれていた事もある。
また、元々鹿島参宮鉄道の路線であり、主にその時代を体験している世代からは、参宮線と呼ばれる事もあった。
ベットタウン化した石岡の
近郊区間のラッシュ時に対応すべく
石岡車庫は増結された車両か待機していた
※ ウィキペディア画像を拝借
高度経済成長期に入り、石岡側はベッドタウンとして宅地化・工業地化が進み、ニュータウン新駅の石岡南台駅の設置や、石岡~玉里・常陸小川の区間運転の設定が行われていた。 沿線には、公共施設も設けられている。 だが、総じて、距離が長めの「ローカル線」としての性格が強かった。
さよなら運転で掲げられたヘッドマーク
※ ウィキペディア画像を拝借
路線廃止までの経緯
鹿島鉄道は、旅客収入だけでは鉄道を維持できないほど利用者が減少していたが、航空自衛隊百里基地への航空ジェット燃料輸送による貨物列車の運行収入によって、路線経営が何とか成り立っていた。
しかし、2001年8月に鉄道に高く依存していた燃料輸送が、榎本駅からの百里基地へのパイプラインの老朽化と安全保障上の対策から中止となった為、収入源を失って深刻な経営悪化となった。
鹿島鉄道は航空自衛隊・百里基地への
ジェット燃料輸送が全てだった
と言っても過言ではない
※ ウィキペディア画像を拝借
これに対し、親会社である関東鉄道による経営支援、沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われる事となり、廃線の危機は一旦回避された。 だが、2005年の『つくばエクスプレス』の開業により、自社の主力路線である常総線(特に取手~守谷)や高速バスの利用者が減少し、利益減収となった関東鉄道は、2007年度以降の経営支援を行わない方針を表明する。 これを受けて、「親会社の支援ナシでの鉄道経営は無理である」として、鹿島鉄道は2006年3月30日に廃止届を国土交通省に提出する
この時点で、2007年度以降の自治体と県による公的支援をどうするかは白紙状態であった。
その後ぎりぎりまで存続の道が模索されたが、状況は好転せずに2007年4月1日に路線廃止となった。
廃線後の線路や駅舎は順次撤去される事となっていたが、現在は撤去作業は途中で中断され、今も線路・駅舎が一部で残っている。 車両は、旧形式5両のうち4両・新形式4両のうち2両が、個人に売却され保存されている。
車両に帯広告も
増収に向けた対策の一つだった
※ ウィキペディア画像を拝借
存続運動
2001年12月に貨物営業の廃止が決まり、存続に危機感を持った沿線自治体が中心となって、茨城県と沿線自治体(石岡市・玉里村〔現 小美玉市〕・小川町〔現 小美玉市〕・玉造町〔現行方市〕・鉾田町〔現 鉾田市〕)の市町村長と、議会議長で組織する鹿島鉄道対策協議会が発足した。 2002年9月に、対策協議会は鹿島鉄道の経営改善5カ年計画を了承し、5年間で総額2億円の公的支援を正式決定した。
また民間でも、沿線の高校生の呼びかけで設立された『かしてつ応援団』が結成され、署名活動や募金活動など、さまざまな存続運動が展開された。 それに呼応して、地元のNPO法人と沿線住民有志が『かしてつブルーバンドプロジェクト』を立ち上げ、霞ヶ浦の『青』をイメージしたブルーバンドを沿線にあるスーパー店舗や駅舎で販売し、その売り上げは、2006年8月の『かしてつ祭』など、鹿島鉄道を盛り上げる為のイベント運営資金などに役立てられた。
努力と応援だけでは
覆せない現実があった
※ ウィキペディア画像を拝借
しかし、状況は好転せず、ついに2006年3月30日に、鹿島鉄道が国土交通省に廃止日を2007年4月1日とする廃止届を提出するに至る。 これにより鹿島鉄道対策協議会は、2006年11月中旬をめどに支援策をまとめた。 また第三セクターでの存続を模索しつつ、代替バスへの転換も検討する方針が対策協議会で確認された。
そして協議会は、2006年11月19日に第3回の会合を開き、協議会および沿線の市の単独での財政支援を今年度限りで打ち切る事を決定する。 この決定を受けて、11月27日から12月11日の間に輸送人員や公的支援額などを公表した上で新事業者を公募し、応募がない場合は代替バスを運行する事として準備が進められた。
この公募には、市民団体の鹿島鉄道再生存続ネットワークが「新しく株式会社霞ヶ浦市民鉄道(仮称)を設立した上、運行を岡山電気軌道に委託する形」で、また、旅行代理店のトラベルプランニングオフィスが「鉄道事業に新規参入する形」で応募した。 この2事業者は、12月17日に鹿島鉄道対策協議会へのプレゼンテーションを行った。
だが、協議会による審査の結果、「鉄道事業の免許を持っていない」、「2007年度から5年間予定している支援額6億5000万円を超える負担が必要になる」、「鹿島鉄道から施設の無償譲渡を受けるのが難しい」などの理由で12月24日に2事業者の案は不採用とし、同線の廃止を決定した。 廃止後は、関鉄グリーンバスへ代替バスの運行が行われている。
関東鉄道最盛期の頃の路線図から
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
路線距離(営業キロ):石岡~鉾田 27.2km・軌間:1067mm
駅数:17駅(起終点駅含む)
石岡・石岡南台・東田中・玉里(たまり)・新高浜・四箇村・常陸小川・小川高校下・桃浦・八木蒔・浜・
玉造町・榎本・借宿前・巴川・坂戸・鉾田
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・閉塞方式:自動閉塞式
車両基地所在駅:石岡駅
鹿島鉄道の歴史ともいえる
自社発注のディーゼル機関車
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年表
1924年(大正13年) 6月 8日 鹿島参宮鉄道 石岡~常陸小川間が開業(1067mm軌間・蒸気動力)
1926年(大正15年) 8月15日 常陸小川~浜が開業
1928年(昭和 3年) 2月 1日 浜~玉造町が開業
1929年(昭和 4年) 5月16日 玉造町~鉾田が開業し全通
1930年(昭和 5年) 9月 6日 瓦斯倫動力併用認可
1931年(昭和 6年) 2月 1日 四ヶ村駅(後の四箇村駅)・下馬場駅・八木蒔駅・坂戸駅開業
1943年(昭和18年)12月23日 四ヶ村駅・下馬場駅・八木蒔駅・坂戸駅休止
1951年(昭和26年)10月 1日 借宿前駅開業し、四箇村駅・八木蒔駅営業再開
1956年(昭和31年)11月19日 坂戸駅営業再開
1957年(昭和32年) 4月26日 武田駅廃止
1964年(昭和39年)11月18日 東田中駅開業
1965年(昭和40年) 6月 1日 常総筑波鉄道と合併して関東鉄道となり、同社の鉾田線となる
1971年(昭和46年)10月 1日 玉里信号所(後の玉里駅)開業
1979年(昭和54年) 4月 1日 鉾田線が鹿島鉄道に分離され鹿島鉄道線となる
1987年(昭和62年) 2月16日 一部列車をワンマン化(但し、2月25日までは訓練期間として
車掌が添乗)
1988年(昭和63年) 4月 1日 玉里駅・小川高校下駅開業
1989年(平成 元年) 6月16日 石岡南台駅開業
2002年(平成14年) 4月 1日 貨物営業廃止
2006年(平成18年) 3月30日 廃止届を国土交通省に提出
2007年(平成19年) 4月 1日 路線廃止と『関鉄グリーンバス』へのバス転換
ベットタウン化した石岡近郊区間は
ラッシュ時には毎時3本運行され
運行列車も2~3両に増結されていた
※ ウィキペディア画像を拝借
運行形態
最後に行われた2006年3月18日改正ダイヤにおいては、全列車が各駅停車で日中時間帯はおおむね1時間に1本運行されていた。 他に区間運行列車として、石岡~常陸小川の列車がおおむね1時間に1本程度運行される他、早朝と夜には石岡~玉里の区間列車も運行されていた。 石岡~常陸小川は日中1時間あたり1~3本運転され、石岡駅で接続するJR常磐線普通列車より本数が多い時間帯があった。 ほとんどの列車が単行での運行であった。 朝方の一部列車やイベントの際には、2~3両での運行も見られた。
この鉄道線は航空自衛隊の百里基地への
燃料輸送でもっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
輸送実績
輸送量が増加した時期もあったが、末期には激減して廃線に至った。 なお、輸送密度は、最盛期の1975年で1日平均で2428人/km、廃止前年の2006年で664人/kmだった。 貨物は最盛期で1日当たりの輸送量が268.5トンだったが、2002年に貨物輸送が廃止となっている。 主な輸送貨物は、航空自衛隊・百里基地へのジェット燃料だった。
傍系のバス会社『関鉄グリーンバス』によって
廃止代替バスの『かしてつバス』が運行されている
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廃線後の状況
傍系のバス会社『関鉄グリーンバス』は、鹿島鉄道線廃止日の2007年4月1日より、旧鉄道線にほぼ沿った形で路線バス(かしてつバス)の運行を開始し、旧鉄道利用者の代替交通を確保している。
走行できる道路の関係上、借宿前駅に限り代替バスが補完していない。 また、旧駅名と停留所名は必ずしも一致していない。
鹿島鉄道線と代替バスルート
※ ウィキペディア画像を拝借
なお代替バスには、鹿島鉄道線にされたような自治体による財政支援は今の所は行われていない。その他、2007年4月1日実施の運行ダイヤグラムでは、新鉾田駅への運行はされていなかったが、2012年10月1日より一部時間帯に限り新鉾田駅への延伸運行が開始された。 鉄道時代よりも利用客が減少している為、利用実態に合わせた路線の再編が検討されている。
鹿島鉄道代替バス1日フリー乗車券(発売額は鉄道時代と同じ)が発売されている。 普通運賃については鹿島鉄道の運賃とそれほど差がないため特別な割引運賃はないが、通学定期運賃の割引率については、上昇率を緩和する為、通常40%のところを2007年4月1日から2008年3月31日までは50%、2008年4月1日から2009年3月31日までは45%と期間を定めて割引運賃を設けている。
線路跡地(石岡駅~常陸小川)は路盤を取り払った後、茨城空港(百里飛行場)へのバス専用道路(かしてつバス専用道)となり、2010年8月30日に専用道経由のバスの運行が開始されている。
路線跡を専用道路化してバスを通す
BRT (バス高速輸送システム)が
採用されている鹿島鉄道の代替バス
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後に走っている代替バスは、元々自動車交通量の多い国道355号を走行する関係で、定時性が保てず、利用者が伸び悩んでいた。 その為、線路跡地を利用してBRT (バス高速輸送システム)として事業化したものである。 国・茨城県・および代替バス会社などからなる検討委員会による開業前の沿線住民へのアンケート結果では、利用客は鉄道時代と同じくらい見込め、維持費の安い路線バス運行により採算が取れるとしている。
日本人って呑気だね
米大統領選で最悪の結果・・
しかも米パヨクが
不正選挙の限りを尽くしての結果
即ち背後でシナ共産党が糸を引いて
アメを無力化させて
シナの覇権主義に呑み込まれる
民主主義世界の危機だというのに
トランプさんの資質がどうとかいうアホがいる
:
こんなのだから「あるある詐欺」や
チョンの背乗り・天皇によって
自分の国が貶められ続けるんだよ
バイデンが何言ってるか知ってるのだろうか?
「シナとの協調」、「日本よりシナ・チョン優先外交」
などと言ってるんだよ
そうなると詐欺徴用工の事でも
バイデンは日本に譲歩を迫ってくるよ
つまり今まで通りに謝って金を出す
『謝罪ATM国家』に戻れという事
もちろん世界経済も
米民主党政策ではズタズタに崩壊し
シナの支配経済が横行して世界恐慌になるよ
それに日本のシーレーンもシナに抑えられる
から日本は原油などが今の1.5倍は高くなるなど
日本の経済もズタズタとなるよ
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