2020-11-01 (Sun)✎
廃線鉄道 第37回 名鉄・瀬戸線(お壕区間)〔愛知県〕
名古屋城の外堀の外郭をr60の急カーブで曲る
通称『お壕区間』をゆく名鉄電車
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より
名鉄瀬戸線・お壕区間(せとせん・おほりくかん)は、かつて愛知県名古屋市北区清水にある名鉄・瀬戸線の清水駅から、愛知県名古屋市中区の名古屋城外堀の南西隅部、景雲橋小園(けいうんばしこぞの)の北側にあった堀川駅までを結んでいた路線である。 瀬戸線の栄町乗り入れ工事の着工に伴い、1976年の2月15日に廃止された。
瀬戸電気鉄道時代の大津町駅
※ ウィキペディア画像を拝借
もともと瀬戸線は瀬戸電気鉄道が敷設した路線で、路線創生期の瀬戸線は『お壕区間』の末端にある堀川駅が路線の起点であった。 また、通称『お壕区間』の名が示す通り、土居下駅を出てから堀川駅まで、名古屋城の外堀に沿って敷設されていた。
城のお壕をめぐっていた
名鉄・瀬戸線の『お壕区間』
※ 図書館で借りた『鉄道100年史(愛知県編)』より
なぜ、名古屋城の外堀という特殊な径路に敷設されたかというと、瀬戸線の路線敷設の目的が瀬戸の陶磁器などの貨物輸送で、瀬戸方面からの貨物を鉄道で堀川まで運び、堀川より船による水運を活用して名古屋市街への荷揚げ・出荷を目指すものだったのである。 従って、戦前の水路による水運が盛んな頃は、堀川水路に接するこの駅がターミナル駅とされたのである。
だが、戦後は陸路が整備されるに従って水路・水運は衰退の一途をたどり、この区間は名古屋市電と平行している事もあって貨客とも振るわなかったようである。 その後、瀬戸線が市内区間を地下区間として栄町駅まで乗り入れする計画が決定し、その工事が着工する半月前の1976年2月15日に先行して路線廃止となった。
名鉄・瀬戸線『お壕区間』の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
廃止区間の路線距離(営業キロ):清水~堀川 2.8km
軌間:1067mm・全区間電化路線(直流600V)・複線区間:全線複線(一部ガントレット配線あり)
駅数:5駅(瀬戸線現存区間の分岐駅を含む)堀川・本町・大津町・土居下・〔清水〕
ラッシュ時に通勤客で賑わう
『お壕区間』最大の駅・大津町駅
※ 図書館で借りた『鉄道100年史(愛知県編)』より
名鉄瀬戸線・お壕区間 年表
1911年(明治44年) 9月 土居下駅~御園御門が竣し、御園橋付近に御園駅が開業する。
1913年(大正 2年)11月 1日 複線化される。
1915年(大正 4年) 1月18日 御園御門〜堀川間が開通し全通、堀川駅が開業する。
1939年(昭和14年) 9月 1日 名古屋鉄道が瀬戸電気鉄道を合併、瀬戸線となる[18]。
1976年(昭和51年) 2月15日 栄町乗入れ工事着工に伴い廃止。
『お壕区間』で唯一
乗降客で賑わった大津町駅
※ 図書館で借りた『鉄道100年史(愛知県編)』より
名鉄は多くの鉄道会社を合併して今の路線網を形成したのであるが、瀬戸線もその一つで、合併前は瀬戸電気鉄道であり、瀬戸線自体も瀬戸電気鉄道が敷設した路線である。 その瀬戸線は、今では本線に負けない近代的な路線となったが、戦前~戦後の復興期はローカル色豊かな鉄道であった。
特に、瀬戸線の起点区間は、戦前のこの路線が敷設された目的が、瀬戸の陶磁器などの貨物を鉄道で堀川まで運び、堀川水路の水運を活用して名古屋市内の市場へ荷卸しする「名古屋市内をめぐる堀川水路の水運とのタイアップ」であったので、埋め立てられた名古屋城の外堀に沿って線路が敷設された珍しい路線であった。
だが、戦後に入って、陸路が整備されていくと水運は衰退の一途をたどり、水運との接続という利をもって開設されたこの区間は、名古屋の中心部となる歓楽街から離れ、また道路整備が進む事によってモータリゼーションの影響を受け、また「瀬戸線が市内中心部に入らない路線」として、並行して行き交う名古屋市電の路面電車にも後れを取るようになる。 それで貨客とも振るわず、一時は瀬戸線の廃止が検討されたという。
路線建設の目的は戦後に泡と消え
モータリゼーションにより
一時期全線廃止も検討された名鉄・瀬戸線だが
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より
瀬戸線の廃止が検討され始めた頃、名古屋の市街地へ向かう車が増えすぎて渋滞が激しくなり、瀬戸線の乗客が増え始めたのである。 この事により名鉄は、瀬戸線を名古屋の中心地・栄へ地下線で乗り入れる計画を策定したのである。 その工事は1976年昭和51年3月に着手したのであるが、その変わりに工事着工に先行する事半月の2月15日に、土居下~堀川間の通称『お壕区間』が廃止となったのである。
なお、瀬戸線の栄町への地下化延伸工事は、名古屋のシンボルであるテレビ塔の真横を掘るという難関もあったが無事に竣工し、昭和53年8月20日に東大手~栄町の新線区間が1500Vに昇圧の上で延伸開業となった。 この市内中心部・栄町への乗り入れで、瀬戸線は創生期の路線敷設の目的だった陶磁器などの貨物輸送から、名古屋中心部から衛星都市・瀬戸を結ぶ都市近郊路線へと様変わりしたのである。
城の廉を周る地点は
r60の路面電車並みのカーブも存在した
※ 図書館で借りた『鉄道100年史(愛知県編)』より
時の経過と共に名古屋城の外堀をのんびり走っていたという記憶も薄らいで、「お堀の電車」という愛称も過去のものとなってしまったが、その遺構は今でも見る事ができる。 かつてこの区間には、大津町・本町・堀川という駅があったが、土居下と大津町の間には半径60mという路面電車並み急カーブも存在した。 また本町通りをくぐる部分にはガントレットポイントという複雑なレール配線もあった。
本町橋の狭い支間を
ガントレットポイントで通過する
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より
また、瀬戸線の終点は堀川だった訳だが、今も昔も名古屋に堀川という地名は存在しない。
ただ堀川の駅跡地の通りを挟んだ所を流れる川が『堀川』だったというだけの話で、駅から先はその川の水運を活用するべく計画で設けられた路線と駅だったのである。
お壕の中に線路を通した事がよく判る
『お壕区間』の線路跡
※ グーグル画像を拝借
そのお堀の線路跡は、名古屋という大都市の中にもかかわらず、現在はバードウオッチングの名所としても親しまれているとの事である。
外堀を埋め立てた中にあった
土居下駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
土居下駅(どいしたえき)は、かつて愛知県名古屋市中区にあった名鉄・瀬戸線の駅である。
土居下の名は、元々沼地であったこの周辺を埋め立て、尾張藩主の名古屋城からの脱出経路として整備し、その警備にあたる同心組の屋敷地とした為、御土下または御土居下と呼んでいた事に由来する。
元々現在の瀬戸線の清水駅より先は、『お壕区間』と呼ばれる名古屋城の外堀跡を走行して堀川駅に至っていた。 その入口のところ(現在瀬戸線が地下に入るあたり)に存在したのが土居下駅で、『お壕区間』が存在した時代の末期は相対式ホーム2面2線の単純な中間駅で、構内踏切で連絡していた。
瀬戸方面から来ると、柳原の商店街を斜めに渡る踏切を越え、名古屋城の掘割に入るとすぐに駅があった。
その後、外堀区間を廃止して名古屋市の中心である栄付近(栄町駅)まで乗り入れる事となり、それに伴う工事が開始され、1976年2月15日から土居下~堀川が運転取りやめとなった。 この時土居下駅は従来の位置より北側に約300m移転し、仮のターミナル駅となった。 仮駅らしく、配線は単式ホーム1本のみという簡素なものになり、堀川~土居下の代替となる名鉄バスの停留所が隣接して設置された。
仮駅は、現在の清水~東大手間のカーブの入口付近に設置された。
土居下駅の仮設駅舎は
名鉄・名古屋本線の左京山駅に
移設されて駅舎として使われていたが
現在は撤去解体された
※ ウィキペディア画像を拝借
なお、暫定終点、かつ代替バスとの接続駅は隣の清水駅とし、土居下駅もこの時同時に廃止する案もあったものの、乗客が多い県庁・市役所方面へは距離があり、また空港線(国道41号)を跨ぐ必要がある事から、仮駅として土居下駅の移設を行う案が採用されたといわれている。
代替バスとなっても『お壕区間』の運賃は変更されなかった為、代替バスから電車区間へはバス運賃をバス降車時に支払って土居下駅で差額を支払う形で電車区間に乗車でき、逆に電車区間から代替バスへは電車乗車券を見せれば代替バスに乗る事ができた。
そして1978年8月20日に、瀬戸線が栄町駅までの延伸を果たし、同時に1944年より休止となっていた東大手駅が地下駅として復活し、土居下駅は役割を終えて廃駅となった。 なお、仮駅時代に建設された簡易駅舎は名古屋本線の左京山駅に転用されたが現在は解体されて存在しない。
仮駅跡地は、バス停「土居下」付近の県道脇に緑地帯として残っていて、この辺りの路線跡は緑道として形跡が残る。
戦時中の大津町駅舎
『お壕区間』最大の駅で立派な駅舎があった
※ ウィキペディア画像を拝借
大津町駅(おおつまちえき)は、かつて愛知県名古屋市中区にあった名鉄・瀬戸線の駅である。
1976年2月15日に栄町駅への延伸工事に伴う『お濠区間』の廃線とともに、駅も廃止となった。
大津町駅の構内配線図
:
特急を含む列車の半数が
当駅での折り返しの運用だった為
下り線から上り線への渡り線のみ設置されていた
※ ウィキペディア画像を拝借
名古屋城の外堀を利用した、掘割構造の相対式2面2線のホームであった。 駅舎は外堀の中とはいえ、売店等を備えた木造の立派なものであり、昭和40年代に増築もなされている。 また、「お濠区間」では最も乗降客が多かった事、本町駅にあったガントレットの関係で堀川駅までが1つの閉塞区間とされていた事、同駅までは市電と並行していた事などから、特急を含めた大曽根以西に運行される電車の多くが当駅発着となっていた。
その為、折り返し用としての渡り線や引き上げ線が設置してあった。 尾張瀬戸方面からの大津町行の電車は、到着後一旦堀川駅方向へ移動し、折り返して渡り線を渡って尾張瀬戸方面ホームに入線していた。
駅の名称は大津町であるが、市電電停やバス停の名称と混同されて、一般には大津橋と呼ばれ事とがよくあった。 近くには愛知県庁や名古屋市役所などの官庁街があり、また、市電・市バス大津橋停留所や名鉄バス・国鉄バス県庁前バス停などに隣接していた為、栄や名古屋駅方面への乗り換えが可能で、さらに後年には北側に名古屋市営地下鉄・名城線の市役所駅が開設されるなど、都心北部の交通の要所であった。
当駅が廃止された際に東大手駅が復活した後は、当駅に代わって東大手駅が急行停車駅となり、現在に至っている。
駅跡敷地に下る階段が残る
大津町駅の遺構
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の駅跡の遺構は、外堀を渡る大津橋の南詰西側から駅舎跡地に降りる階段や手すりが残されている。 夏には緑が草深く生い茂り、駅の跡地を覆う。 本町駅との間の外堀はホタル(ヒメボタル)の名所としても知られている。
大正時代の『お壕区間』本町駅
:
橋の手前で複線のレールを
上下交互に4本並べて
単線幅の橋下を潜る
ガントレット配線が確認できる
※ ウィキペディア画像を拝借
本町駅(ほんまちえき)は、かつて愛知県名古屋市中区にあった名鉄・瀬戸線の駅である。
1976年2月15日に栄町駅への延伸工事に伴う『お濠区間』の廃線とともに、駅も廃止となった。
鉄道施設はすべて撤去され、跡地は草木で覆われている。
本町橋下にあった本町駅跡地は
草木が茂る荒地となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
大正期には外堀沿いに遊園地が作られ、1935年には本町橋を挟んだ駅北西に、招魂社(後の愛知縣護國神社)が移転してきた。 しかし、市電と並行する区間にある上に多くの列車が東隣の大津町駅で折り返し、末期には日中40分おきにしか電車が来なかった為、利用客は少なかった。
本町駅の構内配線図
:
本町橋の支間が狭く
複線をガントレット配線で
単線幅にして橋を潜っていた
※ ウィキペディア画像を拝借
駅は、本町橋の東側の名古屋城外堀の中にあった。 駅設備は相対式ホーム2面2線を有するだけであった。 駅の西寄り(堀川駅方)では名古屋城の外堀を渡る道路橋である本町橋をくぐるが、本町橋の支間が狭くて複線分の幅員が確保できなかった為、複線の線路同士を重ねて単線の用地にはめ込む『ガントレット(単複線)』と呼ばれる方式が採用されていた。
ガントレット配線で
支間の狭い本町橋を潜り抜ける
※ ウィキペディア画像を拝借
ガントレットは本町駅構内に属するが、1943年当時の配線略図には招魂社前信号所と記されている。
ガントレットはヨーロッパなどでよく採用され、玉川電気鉄道の二子橋でも一時見られたが、その解消後は日本唯一のガントレットだった。 このような構造の為か、堀川~本町駅は1つの閉塞区間とされ、複線でありながら1列車しか入る事が出来なかった。
ガントレット配線で通していた
本町橋跡の遺構
※ グーグル画像を拝借
なお、本町橋(現在も道路橋として利用)は、線路敷設と同年の1911年7月に架橋されている。
本町橋の支間がなぜ狭かったかについては、「旧日本陸軍が本町橋の拡張しての架橋を認めない指令を出した」、「本町橋を拡張して架橋するに必要な追加資金を電鉄側が調達できなかった」など諸説ある。
開業当時ガントレットは、清水橋(大手信号所)、久屋橋(名称不明)、本町橋(招魂社前信号所)の3か所に存在したが、前2者が橋の架替や拡幅によって解消されたのに対し本町橋の支間はその後も拡張されず、当駅のガントレットは廃止時まで残った。
大正期の堀川駅
:
この駅より堀川水運を活用して
名古屋市街の市場への荷揚げ・出荷する
目的で設置された駅である
※ ウィキペディア画像を拝借
堀川駅(ほりかわえき)は、かつて愛知県名古屋市中区にあった名鉄・瀬戸線の起点であった駅である。 名古屋城外堀の南西隅部にある、景雲橋小園(けいうんばしこぞの)の北側にあった。 駅構造は相対式ホーム2面2線で、南側ホームと一体化した木造駅舎が最後まで使用されていたが、北側ホームは末期には使用されなくなって線路もはずされ、1面1線となっていた。
堀川駅の構内配線図
瀬戸線は、瀬戸の陶磁器など貨物輸送を主要な目的として建設された為、堀川の船による水運を活用し、瀬戸方面からの出荷や名古屋市街への荷揚げが可能となる堀川に接するこの位置がターミナル駅とされた。
当駅直近の御園橋東側までは1911年までに開通したものの、残る6鎖(約120m)は砲車通行路確保の為の御園御門の工事と時期が被り、またその先3鎖分の名古屋市有地の買収にも手間取っ為、同区間の開業は1915年1月18日までずれ込んだ。 この6鎖区間が開通するまでは御園橋東に設置された御園駅(堀川駅開業と共に駅廃止)が、ターミナル駅の役目を担っていたとされる。
太平洋戦争後は、水運の衰退に伴って駅は急速に寂れた。 また、市電と並行している区間でもあった為、旅客輸送も振るわなかった。 路線末期には、特急などが大津町駅で折り返していた為、40分間隔でしか電車は来なかった。
その後、名古屋市内中心部の栄町まで瀬戸線を乗り入れさせる事になり、栄町までの地下線建設工事の着工を半月後に控えた1976年2月15日に、堀川~東大手(実質は清水)が廃線となり、それに伴って堀川駅も廃駅となった。
駅施設は全て撤去され
砂利敷きの駐車場となっている堀川駅跡地
※ ウィキペディア画像を拝借
現在、鉄道施設は貨物扱い用のホームの基礎部分らしきもの以外はすべて撤去され、砂利敷きの駐車場になっている。 廃駅跡から南へ400mほどの場所には、名古屋市営地下鉄丸の内駅がある。
また、廃駅跡の南側には圓頓寺があり、門前の通り(円頓寺通)は古くから商店街(円頓寺商店街)になっているが、廃止後は一時寂れていた。
信じられないのは大阪都構想詐偽で
大阪市の金も権限も大阪府がぶん盗る
維新のヤクザ政治に騙される
犬猫にも劣るアホゥが若年層に多い事である
ネットを通じて時事に明るい若年層が
なぜにこうも簡単に騙されるのか?
その理由は恐らくパヨク政党の
ミンスや狂惨痘が『大阪与党』の維新に
敵対するだけの為に反対を口にしてるからだろうね
このヒトモドキどもが反対を口にすると
大阪市民は全ての権限を失い
特別区では『行政乞食』と化する
デタラメの大阪都構想に反対する正しき事が
胡散臭い事この上なくなるのだ
だからよく考えて欲しいといっても
投票も済んでしまって手遅れだが
原則論で考えてみて欲しい
政令指定都市としての権限を全て手放し
税収の3/4を大阪府にふんだくられ
大阪市が所有するモノは全て大阪府名義となり
議会に意志を通す事もままならない『特別区民』
:
ホントにこうなってもいいの?
ps 23:10 大阪市の存続決定!
あぁ・・アホゥが良識を
上回る事がなくて本当に良かったよ
- 関連記事
スポンサーサイト